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ギルロード帝国騎士団〈青い龍〉の団長であるマルクス・ハン・ランシェントは、手元の資料を見て頭を悩ませた。
「怪奇事件、ねぇ……」
魔法が存在するこの世界に怪奇なんてものがあるか! と突っ込みを入れたいところだが、内容は深刻だ。
東の支国にある大学で、このところ毎月行方不明者が出ている。
どの学生も家に帰った訳では無いし、駆け落ちにしては計画性が感じられない。
ルームメイトが寝ている間に拐われたのか、それとも自ら消えたのか。
支国の警備隊では手掛かりが掴めず、本部である帝国騎士団にまで話が上って来たのだ。
支国の事件を無下にはできないが、こうして簡単に頼られるのも困ったものである。
本部とて、魔物の相手や帝国や他の支国でおこる事件に駆り出されて忙しい。
出来るだけ自国の警備隊で事件を解決してもらいたいものだ。
「仕方ないな」
マルクスは書類を持ったまま、ある場所を目指す。
帝国騎士団の本部である〈四色の塔〉はその名に反して五つつの棟から成っている。東西南北と、その中央にも塔があるのだ。
〈青い龍〉の騎士たちは東棟が仕事場だ。
騎士寮が城のすぐ近くにあるというのに、5階の臨時下宿部屋に住みついている男にマルクスは用があった。
「ジーク。入るぞ」
返事も聞かずに中に入ると、そこにはソファに座ってマグカップを片手に新聞を読むジークフリート・ルド・ロマロニルスの姿があった。
後からコーヒーの香りがマルクスを出迎える。
その部屋をすっかり我が物顔で部屋を占領しているジークフリートは、家具も自分の使いやすいように置いている。
ここにはベッドやクローゼットに始まり、シャワーも完備で、隣の部屋には何でも揃った給湯室がある。間違いなく、寮よりもプライベートな空間が確保されていると言っていい。
マルクスが部屋に入って来たのに気が付き、碧い瞳がそちらを向いた。
「おはよう。ちゃんと制服に着替えてて偉いぞ」
「おはようございます。……団長。俺はもう子どもじゃないですよ」
「ああ。わかってるさ」
不満そうな顔も相変わらず人目を引く美形だなとマルクスは笑いながら、机に並んだ大陸中の朝刊たちに視線を移す。
ジークフリートがこの大陸中の主要な新聞を読むのは、ずっと誰か分からなかった「カトレア」の情報を少しでも得るためだった。
完全とは言えないが、だいたいの記憶を取り戻しつつある今の彼は、それが誰だか把握している。もう新聞を集めなくても良いはずだったが、すっかり習慣になっているため、朝はこうして必ず朝刊に目を通しているのだ。
そのうちの一つに、見覚えのある記事を見つけてマルクスはそれを手を伸ばした。
「で。団長。あなたが来るということは」
ジークフリートはローテーブルにマグカップを置く。
この団長がこうやって返事も聞かずに部屋に入ってくる時は、言われることが決まっている。
「お察しの通り」
マルクスは記事が見えるよう、ジークフリートの目の前にそれを突き出した。
「出張だ。ジーク」
ジークフリートは新聞を手に取る。
「レージェスのアバロス大学生行方不明事件……」
大きな見出しに書かれた文字を彼は読んだ。
それは既に目を通したものだった。
珍しくはないような事件だが、アバロス大学という帝国きっての名門大学で起こっている騒動。学生の安全を守る為に警備が万全であるはずの場所で起こったそれに、ジークフリートも違和感を覚えていたところである。
「警備隊には手に負えず、“怪奇事件” だなんて言われる始末だ」
マルクスは愚痴を溢す。
「学生たちが大学を抜け出した、で済むような事件では無い訳ですか」
「残念ながらそれすら分かっていない。彼らを無能とは言わないが、国家読書資格を持たない警備隊には難しい事件らしい。お前、暇だろ? ちょっと行って来てくれ」
彼が言った「国家読書資格」とは、魔導書を読むのに必要な資格を指す。
魔導書の内容は解読後、レベルIからVまでに分類されてそれぞれの新書に編纂される。
一般人が読めるのがレベルI。
「地方読書資格」を与えられる支国の地方警備隊が読めるのがレベルIIまで。
帝国騎士団に入団すると試験に突破されたと見做されて、自動的に「国家読書資格」を取得することができる。あとは状況に応じて必要と判断されれば、上司からIIIからVの魔導新書の閲覧が許可されるのだ。
語弊があるかもしれないが、国家読書資格を持てるのは騎士団だけではない。2年に一回行われる試験に合格すれば、騎士でなくとも資格を取得できる。
だが、大抵の場合、合格者は多額の報酬と引き換えに、帝国ギルロードに何かしらの形で引き抜かれるのが現状だ。
支国の警備隊に「国家読書資格」をもつ隊員は滅多にいないだろう。
マルクスは持ってきた書類もテーブルに置く。
「拒否権は」
「あると思うか?」
「何言ってるんだ。わかってるくせに」と笑われて、ジークフリートは小さく溜息を吐いた。
この上司は面倒な事件をすぐこうやって自分に振ってくる。
いいように重宝されているのは、マルクスが自分を信頼しているからだとは分からなくもないが、暇人だと言われるのは心外だ。
今の自分には、解読士エレン・ウォーカーの護衛と詠唱調査の仕事がある。
「俺にもやらなくてはいけない仕事があるのですが?」
いつも雑用ばかり押し付けてくる上司には、たまには反抗しておかなければ、ずっといいように使われてしまう。
ジークフリートはその美麗な容姿に不機嫌さをにじませた。
だが、それを見たマルクスはわざとらしく残念そうな顔をする。
「そうか……。じゃあ、他の奴に頼むしかないな。この捜査には魔法のプロフェッショナルであるエレンを向かわせようと思っていたんだが」
ちらりと顔を覗かれて、ジークフリートは眉根を寄せた。
——謀ったな……。
それなら俺が行きます、と言いたいところだが、上司にもてあそばれてジークフリートは沈黙する。
「…………彼女の護衛は俺の仕事の範疇です」
文句を言いたいが、それではあまりにも子供じみているため、彼はそう言葉を絞り出した。
マルクスはそんなジークフリートの様子を見て満足したのか、ふっと笑みを溢す。
「じゃ、頼んだぞ」
マルクスは資料だけを残して部屋を去っていく。
ジークフリートはひとつ息を吐くと、机の上に並んだ朝刊たちに視線を落とした。
彼は無意識に服の下に隠れたペンダントに手を伸ばす。
エレンには母親の形見を返すと言ったのだが、それはセオに持っていて欲しいとお願いされて、まだ彼が持っている。
一時は、大事な人の大切なものなので、保管しておこうと箱にしまっておいたのだが、今はこうして首にかかっていた。
滅多にそのペンダントを首から外すことをしなかったためか、付けていないと落ち着かなかったのである。
◇
ジークフリートは時間になると部屋を出る。
向かった先は中央棟に新しく設けられた、本だらけのとある一室。
彼が扉をノックすると、中からワンテンポ遅れて「はい、どうぞ」と返ってくる。
中に入ると、研究者らしく白衣をまとった女性が、これまたたくさんの書籍が積み上がった大きなテーブルで作業をしている。
彼女こそ、この帝国の魔法研究の先駆者である「魔導書解読士」エレン・ウォーカーだ。
「おはようございます」
エレンは机の上を整理する手を止めてジークフリートに挨拶する。
彼女とジークフリートはいわゆる幼なじみ。
反対側の大陸で一緒に暮らしていた仲だ。
つい先日まで、綺麗さっぱりエレンの記憶を失っていたジークフリートであったが、今はちゃんと彼女が大切な存在だと認識している。
彼もすみれ色の目と合わせて「おはよう」と返事をすると、今日もエレンが変わりなく元気であることを確認した。
宮廷治療師であるセリーナ・ハーバーに、彼女は無理をしやすいから気をつけてやって欲しいと言われているのだ。
それにしても。とジークフリートはしみじみ考える。
あれから13年も経ったのだ。
エレンも自分もすっかり、大人になっている。
幼いころから考えがしっかりしていたエレンは、きっと反対側の大陸でも上手くやってきたのだろう。
真面目に仕事をする彼女の姿を見て、ジークフリートはそう思う。
「ジークさん。ついさっき、マルクスさんから捜査の依頼が来たのですが」
敬語を使い、自分のことを「ジークさん」とエレンは呼ぶ。
それをどこか寂しいと思っている自分がいることにジークフリートは気がついていたが、それを口にすることはできなかった。
——13年。13年が経ったのだ。
彼女が大切な、大切にすべき存在だということには変わりがないのだが、思い出したからと言って、彼は彼女とどう接していいのか考えあぐねていた。
相手が男性であったなら、もう少し打ち解けてもいいとジークフリートも思えただろう。
だがしかし、エレンは女の子……いや、女性だ。
冷静になって考えてみると、女性不信も相まって、エレンとどんな距離にいれば良いのかジークフリートには分からなかった。
連絡を取り合っていたのならともかく、自分が彼女を忘れて音信不通だったのだ。
認めたくなかったが、エレンが敬語で話し、「ジークさん」と呼ぶこと自体に違和感はない。
正直に言えば、「セオ」と呼ばれてすぐに反応できる自信は無かった。
それが13年という時間が与えた彼らの距離だったのだ。
「ジークさん?」
エレンに呼ばれてジークフリートはハッと我に返る。
「アバロスのことだよな。事件が起こっている満月の日が近いから、明日にでも出発したいと思ってる。大丈夫そうか?」
「わかりました。今日は早く切り上げます。準備をしないと」
「ああ」
ジークフリートが頷くのを見てから、エレンは再び作業を開始する。
最近、支国から遺跡や国宝にみられる解読不可能だった文字たちが、トレースされて彼女に送られてくるせいで、やる事は溜まっていく一方なのだ。
十中八九、皇帝の誕生祭に披露した秘宝のせいだろう。
あまり手を休めてはいられない。
彼女は机の上に置きっぱなしだった必要なくなった書物を重ねて、両手でよいしょと持ち上げる。
一冊一冊が大きく、かつ分厚く、想像以上に重かった。
そこに不意に手が伸びてきて、本の重みがエレンの腕から消える。
「どこに置く?」
彼女から本を取ったジークフリートが尋ねた。
「あそこの空いてる棚にお願いします」
彼は言われた棚に本を置く。
「ありがとう」
その背中にさりげなく砕けた言葉がかかった。
些細な事にも礼を言ってくれるエレン。
彼女の言動には誠実さが溢れていて、女性不信のジークフリートも安心して側にいられる。
それが過去、一緒に暮らしていたエレンだからなのか。それとも、単純に今の目の前にいる彼女という存在が自分に心地よいものだからなのか。どちらなのかは分からない。
彼は思った。
最近、ふとした時には彼女のことを考えている気がする、と。それも、どれも答えがでないことばかりだ。
「……どういたしまして」
ジークフリートは少し遅れて返事をして、ちらりとエレンを見た。
彼女は昔と変わらぬ微笑みを浮かべていた。
それを見たジークフリートの心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
どうしてこんな風に脈打つのか、彼には分からない。
ふい、と顔を逸らしてジークフリートは本を棚に並べることを続けた。
彼女といると、考え事は増えていく一方。
だが、それでもジークフリートは彼女から離れようとだけは微塵も考えなかった。
なぜなら、それほど考えてしまうことは、彼がエレンを傷つけたくない、そして嫌われたくないと思っているからだ。
ジークフリートは、自分がエレンと一緒にいるために思考に更けていることに、まだ気がついていなかった。
「よし。今日中にこれだけは終わらせよう」
エレンはジークフリートに言った通り、明日の出発に備えてさっそく解読に取り掛かる。
仕事の相棒であるモノクルをその目にかけて、本日のお相手(魔法陣)と向かい合った。
その間、ジークフリートは何をしているのかと言うと、彼も彼女の斜め前に置かれた机でペンを走らせる。
最初は護衛としてじっとエレンを見守っているだけだったのだが、片やたったひとりで大役といえるこの仕事をしているのに、自分だけ何もしないのは気が引けていた。
護衛役とは万が一というものに備えて控えておくことが仕事だ。彼もオーロラ姫や、他の要人の警護をしたことがあり、無事に何も起こらず出番がなかったことなどザラにある。
騎士として役立てることがないのは不服ではあるが、何も起こらないことが一番望ましいことは明白。
手持ち無沙汰に護衛をしていても、それが仕事なのだと割り切ってやっていた。
しかし、今回は違った。
一緒にいるついでにと、詠唱の調査をジークフリートに任されることになったのだが、それをやるにもエレンが必要で、彼女はずっと仕事をしなくてはならない。
しばらく護衛をしてみて、ジークフリートはエレンがひとりで抱えているものの大きさを知った。
彼女はひとりしかいないのだ。
それぞれが鍛えればなることができる騎士と違って、根本を解明していく頭脳と知識を持つ人間はエレンしかいない。
ひっそりと魔法の研究をしていたチームは、彼女の解読を頼りに研究を進めているところなのだ。
誰もエレンと同じことはできない。
彼女は孤立していた。
それがどうにも、ジークフリートには放って置けなかった。
魔導師長レイスに掛け合って、彼はエレンの負担を軽くできないか考えた。
そして今、ジークフリートは彼女の隣で、解読された文字たちを、単語に分けて辞書を作成している。
エレンはまず、陣をトレースすると、丸く並んだ文字たちを抜き出す。
それが詠唱に必要になる呪文と言われる文だ。
そして書き出した文字たちを、スラッシュをいれて単語に区切っていく。
次に、それら「魔導語」たちの意味を、現代語でその下の行に書く。
円形分陣だと、それで意味を繋げるとどんな魔法が発動できるのか解るので、解読は終了。
これが魔法陣になると、トレース後にどの文字をどの順番に並べるかを見極める必要があるため、書き出しに時間がかかる。
これにはエレンも、他の魔導書を参考にしながら読み方を漁っていた。
ジークフリートは作業を終わらせたエレンが使わなくなった、それら「解読式」を頼りに辞典を作っているのである。
トレースを終えたエレンが、立ち上がって壁にずらりと敷き詰められた本を物色する。
今回も魔法陣を相手にしているので、しばらく時間がかかりそうだ。
ジークフリートは、そっと視線を上げて彼女を見る。
本と向き合うエレン。
耳にかけていた髪がはらりと落ちて顔を隠してしまうが、彼女はそれをかき上げた。
そこから見えたすみれ色の眼差しはどこか儚い。
彼はそんなエレンのことを、額に入れた絵を眺めるような目で、ぼうっと見つめたのだった。
(一歩進んで、二歩下がる……)




