第75話 住み込み暮らしのダンマス
「たっだいまー」
「おかえりアスナ。マスターは買い出し中だよ。ダンジョンはどうだった?」
「うーん。とりあえずパペットってモンスターと戦って10DPは得られたよ。後は罠の講習ばっかりでつまんなかった」
「まあ最初だから仕方ないんじゃない」
Bar 橘の2階、住居スペースになっているそこに居候しているアスナが黒猫のラックに向かって喜々としてダンジョンの報告をする。ラックはクシクシと手で顔を洗う仕草をしながら床に寝そべっていた。完全にリラックスモードだ。
それを見たアスナの目がキラーンと光る。
「うりっ、うりうり。ここか。ここがええのんか?」
「うひゃ! やめて、やめてよアスナ」
ラックが必死に逃げようとするが寝転んだ体勢だったため反応が遅れたのが致命的だった。一度掴まれてしまえばアスナの手から逃れられるほどの力はラックにはない。そして……
「あ、あっ、うー」
「ははっ、最初から素直になっていれば良いものを」
絶妙な力加減でラックの弱いところを狙ってくるアスナの思いのままに体をまさぐられるのだった。
「初心者ダンジョンねぇ?」
骨抜きにされたラックが正気を取り戻すのにしばらく時間がかかったが、マスターが戻ってくる様子はなかったのでそのままアスナたちはダンジョンについての話を進めていた。
懐疑的な声をあげるラックをよそに、冷凍庫から持ってきたバニラアイスをスプーンですくい、ぱくりと口にくわえながら幸せそうな顔でアスナが「んん~」と声を上げる。そしてジトッとした視線で見てくるラックへと「いる?」っとスプーンですくったバニラアイスを差し出したがラックは呆れた顔で首を横に振った。
「でも確かにチュートリアルっぽかったよ。例のダンジョンみたいに意地でもこっちを殺そうって感じもしなかったし」
「うーん、でもそんなダンジョンがあるのかなぁ。ダンジョンの目的を考えるならありえないと思うんだけど」
「でもまあ何事にも例外ってあるし」
「自分のダンジョンをほっぽり出して放浪してるアスナが言うと説得力があるよね」
ラックの皮肉にもアスナはにこっと笑うだけで反論さえしなかった。そんな様子にあからさまにラックがため息をつき肩を落とす。既にこのやりとりはこの1年の間何度も繰り返してきたのだ。結果はいつも同じでラックの希望が叶うことはない。
そして幸せそうな顔でアイスを食べ終えたアスナがスプーンを咥えたままそれを上下に動かす。
「とりあえずしばらくはDPの補給かな。チュートリアルでもモンスターを倒せばしっかりDPは入るし」
「アスナ、行儀悪い」
「ラックは硬いなぁ。体は柔らかいのに」
指をわしゃわしゃと動かしてラックを触ろうとしたアスナの手をラックが前足の猫パンチで、ていっと払いのける。「ああん」とわざとらしい悲鳴をあげながらアスナが崩れ落ちていく。そんな姿を見ながら、はぁーとラックは深い溜息を吐いた。
「でも前みたいにDPを勝手に使わないでよ」
「えー、そんなことしないよ」
「したじゃん。クラスのレベルあげて、猫じゃらしとか意味のないもの買って挙句の果てに行き倒れたのは誰なのさ!」
「猫じゃらしは意味のないものではありません」
「そういうこと言ってるんじゃないの!」
だんだんと前足を地面に叩きつけながらラックが怒っているが、当のアスナは今日もラックは可愛いなあとしか思っていない。実際他人から見ても黒猫のラックがそんなことをしても迫力どころか愛らしさしか感じられないだろうから仕方のないことなのかもしれないが。
「マスターにお礼だって出来てないのに……」
「あっ、それはそうだね。マスターが好きそうなもの、好きそうなもの……グラス?」
「あれは仕事だから。好きでずっと磨いているわけじゃないからね!」
「そっかー。じゃあ今度マスターに何が好きか聞いてみるよ」
アスナがニパッと笑ってラックを抱き上げる。そしてそのままごろんと床に転がると自分の胸の上にラックを乗せた。行儀よく座るラックに微笑みを向け、そして表情を真剣なものにして天井へ向けて手を伸ばす。
「やっとだよ。やっと探索者になれるんだ。ラック、生きてるって感じる? 私は久しぶりに感じてるよ」
「それは良かったね。そんなアスナの目はあのダンジョンを攻略したとき以来だよ」
「予定では2,3はいけると思ったんだけどな。日本の警察は動きが早すぎるよ。せっかく見つかりにくそうな場所を覚えておいたのに」
アスナがぷくっと頬を膨らませて不満をあらわにする。しかしそれは少しの間のことですぐに元の表情へと戻し、掲げた右手をギュッと握り締めて拳をつくった。
「でもいいんだ。これからは正面からダンジョンに入れるようになるし。初心者ダンジョンにも強そうなモンスターはいたし、4階層には誰も倒したことのないボスがいるって話だし。胸が躍るよね」
「アスナ、無茶はしないでよ」
「ラックのお願いでもそれは聞けないかな。もちろん死んじゃったら戦えなくなっちゃうから線引きはするつもりだけど、生きてるって感じるには自分の限界を超えたギリギリのところじゃないとダメだし」
ラックが心配そうな瞳でアスナを見つめる。それに気づいたアスナはその両頬をむにっと掴んで笑った。
「ラックは優しいよね」
「アスナは変わり者だよ」
「うん。でもこれが私の生きる道だからね! っと」
チリンという音が微かに届き、アスナが体をむくっと起き上がらせる。マスターが買い出しから戻ってきたのだ。
「じゃ、仕事してくる」
「うん。頑張って」
アスナが店の制服へとパッと着替えを済ませ、そして全身鏡で変なところがないかチェックする。ラックもうなずいて問題ないことを伝えた。そして部屋の扉へと向かい、ドアノブに手をかける直前でアスナは振り返った。
「あっ、そうだ。初心者ダンジョンって死んでも生き返るらしいけど私もそうなのかな?」
「やめておいた方がいいと思う」
「だよねー。ちぇっ、もしそうなら心置きなく戦えたのに」
残念そうに肩を落としながら扉を開けて出て行ったアスナの姿に、ラックはため息を吐いて諦めたかのような顔をしたまま首を左右に数度振った。
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