第71話 Bar 橘での一幕
都内某所、路地と路地の間を繋ぐ、人2人が横並びに歩けばいっぱいになってしまうような細い通路の途中に1つの看板がポツンと立っていた。緑地の看板に白文字で書かれているのは『Bar 橘』という味も素っ気もないもので、場所と言い、商売する気があるのかどうか疑うようなものだった。
夕暮れの中、そんなBar 橘へと続く、磨き上げられて汚れ1つ無い扉をひとりの男が開き中へと入っていく。身長180センチを超えるその鍛え上げられた体と短く切られた髪、そしてその鋭い瞳からその男が普通の会社員ではないことは誰の目にも明らかだった。
チリン、という涼やかなベルの音を響かせながら中へと入ったその男は、黙々とグラスを磨いている60過ぎと思われる白髪のマスターに頭を下げ、そして奥に座っている目的の人物の元へと向かって歩いていった。
男がやってきたことに気づいたその人物がグラスに残っていた琥珀色の液体を一気に飲み干し男へと向き直る。
「すまんな、牧。先にやってるぞ」
「いや、別に良いけどよ。それにしてもお前が飲みに誘ってくるなんて初めてじゃないか?」
空になったグラスを上げ、そのやって来た男、牧一等陸曹にどこか思いつめたような顔のまま笑みを浮かべようとして失敗していたのは杉浦准陸尉だった。今まで見たことのない杉浦の様子に牧は心の内で嫌な予感が増していくのを感じていた。
そもそも今日、牧がここへとやってきたのは杉浦から相談したいことがあるから飲みに行かないかと誘われたからだった。その表情があまりにも深刻だったことと、最近の杉浦の様子の変化に違和感を覚えていた牧は即座にそれに応じた。これを断れば取り返しのつかないことになるという直感が働いたからだ。
このBar 橘のマスターは退役した自衛官であるためこちらの事情を色々とよく知っている。聞くべきでないことを聞かないという耳を持っているため、この近隣の自衛官たちにはよく知られている店でもあった。わざわざその店を指定するということも牧のその嫌な予感を助長していた。
(まさか、やめるなんて言うんじゃねえだろうな)
それが牧が最も危惧していることだった。自衛官になり30歳を過ぎた今まで勤め上げてきて、途中でやめていったものは何人も見てきた。肉体的にも精神的にもタフな仕事だ。無理もない。
更に言ってしまえば今はダンジョンの攻略なんていう本当に命懸けの任務の最中だ。経験を重ねた今でさえいつ死ぬかわからない恐怖というのは重くのしかかってくる。実際にそのせいで精神を病み、この任務を外れた者も少なくないのだから。
杉浦の隣のカウンターに設置された椅子へと牧が腰を下ろすと、2人の目の前にウイスキーの注がれたグラスが置かれた。牧と杉浦が頭を下げるとマスターは柔らかく微笑みながら元の場所へと戻っていく。
「「亡き戦友たちへ」」
チンっとグラスを鳴らし、そして2人がウイスキーへと口をつける。嫌な予感を振り払うように一気に飲み干した牧がグラスを置き横目で杉浦を確認すると、少しだけ減ったグラスを物憂げな表情で眺めている姿が見えた。
再び首をもたげてきた予感に封をするようにことさら明るく牧が話しかける。
「で、なんなんだよ。相談って?」
「ああ、それなんだが……人生の先輩であるお前に相談したいことがあってな……」
「いや、人生の先輩って言っても1つ上なだけだろ。まぁいい。じゃあ先輩に何でも相談してみろ」
言いよどむ杉浦に牧がちゃかすようにして続きを促す。牧の気遣いに気づいた杉浦がうっすらと微笑み、そしてそのかすかな微笑みさえ消して真剣な表情で見つめた。その真っ直ぐな瞳に牧がゴクリと唾を飲み込む。
そして杉浦の口がゆっくりと開かれた。
「結婚を申し込む時はどうするべきだろうか?」
「…………はぁ!?」
「やはりホテルでディナーの最中が良いのだろうか。しかしそれではその後のことを思い起こさせてしまわないか? 自分としては正式に婚儀を結ぶまではそういった事は……」
「いやいやいや、それ以前に堅物で難攻不落として知られたお前に恋人がいたって事自体が俺には驚きなんだが」
想定していたような深刻な事態ではないことに内心でほっと胸をなでおろし牧が表情を和らげる。そして相談の内容に別の意味で驚いた。
杉浦は整った顔立ち、そして体操選手のような細身のしなやかな体をしており、更に言えば同期の中でも飛び抜けて頭が良く、異例の出世で准尉になっていた。
性格もやや堅物な面はあるものの面倒見は良く、しっかりとその人自身を見て思いやれるということもあり隊の中でも杉浦を狙っている女性は多かったのだが浮いた話一つなかったのだ。
ふってわいた杉浦の色恋の話に牧が思わず身を乗り出す。
「いや、今からプロポーズするのだから恋人がいるはずないだろう」
至極当然の事のように言った杉浦の言葉に、牧が思わず頭を抱える。杉浦に浮ついた話がなかった原因に気づいてしまったからだ。しかし相談を断るという選択は牧にはなかった。親友の真剣な悩みを無視できる男ではないからだ。
「とりあえずお前は誰にプロポーズするつもりなんだ?」
「警視庁の桃山嬢だ。美しく、そして人々を守るために自らの死を厭わずにダンジョンに挑み続けるその姿はまさに慈愛の女神。牧も見たことがあるだろう」
「いや、確かにあるけどよ……」
闘者の遊技場の攻略が主任務となっている現在、警視庁の攻略チームと顔を合わせたり情報共有する機会も増えたため、確かに桃山という女性について牧は知っていた。見た目は少しぽやっとした感じの美人だと牧も思っている。だが……
(あれは慈愛の女神ってより戦乙女じゃねえか?)
陶酔したような顔で桃山の素晴らしさを伝えてくる杉浦の手前、その言葉は発されることはなかったがそれが牧の本音だった。
「会議で見せるあの物憂げな瞳はきっと人々の苦難を憂いて……」
「あー、かもなぁ」
徐々に返事が投げやりになりながらも根気よく牧は杉浦の相談に付き合っていた。既に2時間は経過しているのだが杉浦の想いは止まる様子さえなかった。
どうすっかな、と牧がグラスを空ける。するとそこに思わぬ声が掛かった。
「そこまで想っているならまずはデートの誘いからですかね」
「んっ、なんだ君は?」
「この店の従業員ですけど」
惚気モードから一瞬にして元の冷静な姿の戻った杉浦が声をかけてきた従業員という少女からマスターへと視線を変える。磨いていたグラスをマスターが置き、そしてうなずいた。
「先日そこの路地で腹を空かせて倒れているのを拾った」
「拾ったって、猫じゃないんですから」
「あっ、猫もいますよ。ほらっ」
少女が床を歩いていた黒猫をすばやく捕まえ、そして2人に掲げてみせる。黒猫はその体をだらーんとさせながら何故か哀愁の漂う瞳で「ミィー」と鳴いた。
「それは理解したがこれはごく個人的な相談なんだ。悪いが……」
「絶対にその桃山って人と結婚したいんですよね。だったら女の私の意見も聞いた方が良いと思いますよ」
「牧……」
図星をつかれ困った顔で杉浦が牧に判断を委ねる。牧もどうせなら道連れは多いほうが良いかと首を縦にふった。
「これも何かの縁だしな。俺は牧、こいつは杉浦だ。とりあえず頼もしい助っ人の嬢ちゃん。名前を教えてくれ」
牧のその言葉に少女はニパッとした笑顔で答えた。
「私はアスナ。こっちは黒猫のラック。学生時代ラブクラッシャーの異名を欲しいままにした私にドーンと任せてください!」
「うわっ、完全に人選誤ったわ」
胸をドンと叩きながら自信満々の顔でそんな事を言い放ったアスナの姿に牧は再び頭を抱えるのだった。
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