第266話 本格潜入の前に
とあるダンジョンの最深部。ダンジョンコアの前に1人の少女と1匹の猫がおり、そしてそれを真っ白な毛をしたミミズクがヤドリギから見下ろしていた。ミミズクが目を細め、その羽を広げる。
「シルジェーチュナ ブラガーダリュ バス」
「あー、なに言ってるのかはわからないけど……感謝は伝わったから。それじゃあ壊すわよ。じゃあね」
ミミズクの言葉の意味は少女には全く理解できなかったが、攻撃的な意思がのっていなかったことや、今も邪魔をしてこないところからきっと感謝の言葉でも掛けられたんだろうと気楽に考えていた。
そして少女が拳を突き出し、それがダンジョンコアを粉砕する。それを見届けたミミズクはその両翼を大きく広げまるで天に向かって飛び立つような仕草でその姿を消した。
そしてそれと同時に少女の体もダンジョンの外へと放り出された。その周囲には今までそこにあったはずのダンジョンを探索していた者たちがひしめきあっており、突然ダンジョン外に飛ばされたことに皆が混乱の極致にあった。
「さて、さっさと帰ろう」
そんな中、その少女はするりとそこを抜け出し、監視の目にかかることもなく姿を消したのだった。
街の中心街から少し外れた古びたアパートの3階の角部屋。狭いながらも2LDKと部屋数だけはそれなりにあるそこへ、少女はやってきていた。特に周囲などを警戒する様子もなく玄関へと近づき、取り出した鍵を差し込んでカチャリとその錠を開ける。
「おかえリ、アスナ」
「ただいまー。イワン、今日のご飯なに?」
「ラグマンだ。量は多めに作ってアル」
「さっすがイワン。良いお嫁さんになれるよー」
その言葉に猫のイラストとたくさんの足跡が描かれたエプロンをつけてアスナを出迎えたイワンが苦笑する。
生まれてからこのかた勉強や訓練漬けの日々を送り、そして軍人となってからは任務にまい進してきたイワンに、良いお嫁さんになれるなどと言う言葉を掛けてきたものはアスナだけだったからだ。
そしてリビングへと向かうアスナのリュックから顔を出したラックがひょいっと飛び降り、イワンの足元へと向かうと申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「すみません。イワンさん」
「気にすルナ。現状で私は役に立っていないのは確かだからナ。ラックも食べルカ?」
「ええっと、はい。いただ……」
「ラックー、イワンー。ご飯が冷めちゃうよー!」
言葉を途中で中断させられたラックとイワンは顔を見合わせ、そして小さくため息をついてお互いに笑ったのだった。
ラグマンというのはロシア料理というよりはシルクロードの中継地で広がった料理であり平打ちの手延べ麺にトマトスープベースの汁をかけた料理だ。トマト風味であるしパスタに近いともいえるのだが、どちらかと言えば混ぜ麺の方が近いかもしれない。
だからアスナがラーメンを食べるかのように箸を使ってずるずると食べているのも、決して不作法とも言えなくはないのだ、きっと。
「とりあえず今日で5つめのダンジョン攻略は完了ね」
「フム。目標よりかなり早いナ」
「9階層しかなかったからね。それにアスナは自分の強化に余念がないから並みの相手じゃ対抗すら出来ないし当然かもね」
3人が食事を進めながら話を続けていく。しかしその内容は食事のついでで話されるような瑣末な事ではなかった。
アスナたちが話しているのは、アスナが攻略したロシア国内のダンジョンについてだ。
ロシアの高官に化けたドッペルゲンガーを倒してすぐに目的のダンジョンへと向かう予定であったのだが、その場所がイワンの知る以前とは比べ物にならないほどに厳戒態勢となっていたためその計画は変更されていた。
その変更した計画の一部が他のダンジョンの攻略である。当初の目的はアスナのストレス発散とDP稼ぎ、またそのDPを使用して500DPの変身薬を手に入れることだったのだが……
「ほーひえば、ははいはよ」
「アスナ、ちゃんと食べてからしゃべってよ。お行儀悪い」
口に食事を含みながらしゃべったアスナへと、じとっとした目を向けながらラックが注意する。そのことにニヤリと悪い笑みを浮かべながらも、アスナはラックの言葉の通りに黙って咀嚼を開始した。
「んぐんぐ。もー、ラックは相変わらず固いなぁ。体はこんなに柔らかいのに……うりうり」
「やめてよ」
ラックを抱き上げ、そしてその体をもみ始めたアスナの様子にイワンが苦笑する。敏感な部分を的確にタッチされて悶えるラックがイワンに助けの目を時折送ってくるのだが、その救援が不可能な任務である事を重々承知しているイワンは、死地へと向かう戦友を見送るような視線を返すだけだった。
ラックが殉教死する使徒のような表情になっていくのを見ながら、イワンは黙々と食事を続けていった。
しばらくしてラックが息も絶え絶えになり、アスナも十分に満足したようで満面の笑みを浮かべていることを確認したイワンが話を切り出す。
「先ほどの話に戻るが、またいた、と言う事で良いのか?」
「んっ? あっ、そうそう。そういえば、またいたよ。ダンジョンの傾向と違う、なんか細かい粒が集まって人型になって攻撃してくるモンスター」
「ボス部屋の前で休憩していたら急に襲撃してきたね。初めてのときはびっくりしちゃったけど、5回も続くとさすがに慣れちゃうよね」
ラックに構うのをやめてそう答えたアスナに続き、少し息を落ち着けたラックが補足するように言葉を続ける。その言葉を聞いてイワンは眉根を寄せて考え始める。
「そのモンスターのせいで攻略が進まなかったと見るベキダナ」
「うん、たぶんね。普通の人が不意打ちされたら、訳もわからない内に怪我するし、下手したら殺されると思う。私にとってはDPが多く入るボーナスモンスターなんだけどね」
そう言ってアスナがニコリと笑う。実際そのモンスターから1回につき20万DPをアスナは得ていた。既に5回遭遇しているので合計すれば100万DPである。
日本にいたときであれば考えられないような高効率のモンスターに満足しているからこそ、アスナは目的のダンジョンに行く事を我慢できているのだ。
楽しげに話すアスナとは裏腹に、イワンの顔はいっそう険しくなっていく。しばらくしてラックが心配そうに見つめている事に気づいたイワンが、ふっ、と表情を緩めた。
「すまなイ。わが国の状況が想像以上に深刻だと改めて考えていたンダ。かのダンジョンによる侵食がどの程度の範囲にまで及んでいるのカ。下手をすれば世界中のダンジョンに及んでいる可能性も……」
「あー、それはないよね」
「うん。ないと思う」
「なぜだ?」
予想を即座に否定した2人に、イワンが首を傾げながら聞き返す。どう答えるかとアスナとラックが顔を見合わせる。
2人の脳裏には、せんべいの着ぐるみ姿の初心者ダンジョンのマスターと、小さな軍人少女の人形の使い魔の姿が浮かんでいた。
あの2人が自らのダンジョンに入ってきたモンスターを見逃すはずがないし、もし何らかの被害があればアスナの時のように深刻な事態になっていたはずだがそんな様子がなかったことを知っているからだ。
とは言え、それを口に出す事は出来ないのだが。
「むしろ、あっちが他のダンジョンを侵略してそうだよね」
「うん。でもあの人たちならわざわざ襲い掛かって自らの存在を明かすなんてしないと思う」
「あー、確かに倒されても自分たちのダンジョンに影響がないからって、あの使い魔なら切り捨てそうだよね。次に生まれるダンジョンにまた入れば良いやって感じで」
「そうそう」
こそこそと会話を交わす2人をじっとイワンが見つめていることに気づき、アスナとラックはあいまいな笑みを浮かべて質問をスルーした。
その事に小さくため息を吐いたイワンだったが、それ以上は質問することはなかった。
食事の片づけを終え、アスナが買ってきた猫模様のエプロンを外したイワンが食器棚の奥から何かを取り出し、それを机の上に置く。食後の歓談していたアスナとラックの視線が、そちらへと向かった。
それは20代前半であろう若い青年の写真の入ったロシア軍所属である事の身分証と、軍服など一式だった。
「やっと交渉がまとまっタ。国外逃亡の手助けや偽のパスポートの用意などで隠しておいた資金のほとんどが消えてしまったガナ」
「そっか。じゃあこれでイワンも疑われる事なく入る事が出来そうだね」
その身分証を手に入れるために、候補者の選定から始まり、それ以降もかなり苦労したのに、そっか、の一言で流されたイワンが肩を落とし、ふぅー、と息を吐く。
同情するような視線を投げかけてくれるラックに、感謝の視線を送ったイワンは気を取り直して言葉を続けた。
「ああ。一刻も早く元凶を取り除かねバ。そのためにも不要な騒動は避けねばならないからナ」
「そう考えると私の『偽装』スキルってお買い得だったんだね」
「アスナみたいな使い方は想定していなかったと思うけどね」
「そう?」
少しだけ首を傾げながらもとても楽しそうなアスナを見て、ラックとイワンは顔を見合わせ今日何度目になるかわからない苦笑を浮かべたのだった。
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