第27話 警視庁ダンジョン対策班
ゴリゴリという豆を挽く音が響き、しばらくしてかぐわしい匂いを漂わせながらポットへとコーヒーがドリップされていく。目の前で雫が落ちていくのを見終えた若い男が、2つのインサートカップをセットした黒の容器へとコーヒーを注いでいった。
「神谷班長、どうぞ」
「あぁ、すまんな。ありがとう。丁度飲みたいと思っていたところだ」
デスクに座りパソコンへと厳しい視線を送っていたメガネの男が差し出されたカップを受け取りながら少し表情を和らげる。
警視庁本部庁舎の1室、元は軽い打ち合わせなどに使う小さな会議室だったものに机やらホワイトボードやらが運び込まれて整えられたその部屋には2人だけしかおらず、5つの机は空席だった。現在の時刻が午前5時であることを考えれば当たり前ではあるのだが。
パソコンへと視線を向けていたメガネの男は急きょ作られたこのダンジョン対策班の班長を任されている神谷警視正だ。そして彼にコーヒーを淹れた若い男は神谷とともにダンジョンを探索した磯崎だった。
もちろん2人は正式に辞令を受けた訳では無いので身分としては元の所属のままではある。そもそもこの対策班の存在自体あまり大っぴらに出来ないものであるので仕方のないことではあるのだが。
「先ほどから何を見ているんですか?」
「あぁ、自衛隊から経過報告だ。順調に進んでいるようだな」
「計画では1日強で2,000人でしたか。事前にこちらの情報を提供したとはいえ、すごい速さですよね」
感心したような磯崎の言葉を聞きながら神谷は再び眉間にしわを寄せていた。自衛隊を警視庁本庁舎前のダンジョンへと向かわせる決定に不服がある訳では無い。
あくまで神谷たち警察官の仕事は治安を維持することであってダンジョンの対応を自衛隊のみで行う事が出来るのであればそれに越したことはないのだから。しかし派遣された数が神谷には納得がいかなかった。
2,000という数は一見して少なくない数に思える。しかし日本の自衛官の人数は25万人弱。幹部や任期制の自衛官を除いたとしても15万以上の人数がいるのだ。つまり現在派遣されている数というのはその2%以下ということだ。
確かに他のダンジョンが出来るかもしれないと言う不確定な今の状況で、自衛隊を動かすという決定をしたことは賞賛すべきことなのかもしれないが、それでも神谷の心のうちの不安を拭う事は出来ていなかった。
そもそもダンジョンの出現に伴いレベルや魔法といった今までの常識を覆すような現象が確認されているのだ。予想もつかない未来に不安が消えるはずもない。なまじダンジョンというものの片鱗を見てしまったのだからなおさらだ。
神谷のため息が淹れたてのコーヒーの湯気を揺らす。そしてそれに少しだけ口をつけ、嗅ぎなれた香りに心を落ち着くのを感じながら、神谷は目の前の机に座り同じようにコーヒーを飲んでいる磯崎へと視線をやった。
「磯崎、なぜダンジョンは現れたんだと思う?」
「なぜ、ですか?」
「そうだ」
「そうですね……」
磯崎が手に持っていたカップを置き、若干首を上げて天井を見つめる。節電のために何本かおきに抜かれた蛍光灯の光を見つめながら磯崎がぽつりと呟く。
「私にはわかりません。神のいたずらだって加藤さんは言っていましたけど。まあ確かに神様とか仏様でもなければこんなことは出来ないかなとは思いますね」
「確かにな。しかし、いたずらか」
「まあそれでこっちが振り回されるってことを考えればあながち間違ってないかもしれませんね」
「まあ、そうだな」
神谷が苦笑を浮かべる。警視庁に戻ってくる前、地方都市で警察署長をしていた神谷は幾度となくいたずらに振り回される警官たちを見てきたのだ。確かに今の状況は規模こそ違うがそれらととても良く似ていた。
「あいつは偶に鋭いからな」
「ははっ、本当に極たまーにですけれどね。定年まであとわずかじゃったのに心臓が止まってしまうわ、ってこの前首相官邸に連れていかれたあとブツブツ愚痴ってましたよ」
「言わせておけ。どうせもうすぐそんなことを言っている暇もなくなる」
ふっと遠くを見ながらそう言った神谷の横顔を磯崎が見つめる。ここからでは見えないがその視線の方向には初心者ダンジョンがあるはずだった。
「子供の頃ヒーローに憧れて警察官の道を選んだんだがこの歳になって本当に怪物を相手にするようになるとはな」
「あっ、神谷班長もそうだったんですね。俺もです。就職して現場を体験してやっぱ現実は違うんだなって思っていたんですけど、こうして現実に直面すると普通が1番だったんだなって感じてます」
「ははっ、そうだな」
2人は見つめ合い小さく笑みを浮かべた。そしてコーヒーを飲み干すとそれぞれ中断していたダンジョン情報の整理と分析を続けるのだった。
午前8時、自衛隊から初心者ダンジョンでの任務の終了報告を受け取った神谷は出勤してきた桃山と加藤を伴ってダンジョンへと向かっていた。入口を警備する制服姿の警官の敬礼に見送られながらダンジョンを歩いていく。
自衛官たちによって300回以上攻略されたのにも関わらずダンジョンの様子は相変わらずで、パペットや小さな人形が何事もなかったかのように存在していた。さすがに数度目となっている加藤も見た目は怯えることなく堂々とした足取りで歩いていた。
そして最後のダンジョンコアの部屋へとやってきた3人はそれに気づいた。今まではなかった奥へと向かう矢印が設置されていることに。そしてそちらへと足を向けようとしたところで、背後から近づいてくる駆け足の音にその動きを止める。息を切らせながらやってきたのは先ほど部屋で別れたばかりの磯崎だった。
「はぁ、はぁ。神谷班長」
「どうした? ……まさか!?」
「はい、ダンジョンらしきものが発見されたと連絡がありました。熊谷です!」
その知らせは警視庁を構成する9つの部に新たに加わることになるダンジョン対策部の本格的な始動を告げるものになったのだった。
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