第219話 アスナの旅立ち
「それで?」
アスナの唐突な結婚報告にも関わらず、セナはまるで動揺した様子も無く質問を返している。いや、そこはちょっと突っ込もうぜ。
あのアスナが結婚するとは本当に驚きだ。今までそんな素振りなんて全く……まぁ、考えてみれば会う回数自体はそこまで多いって訳でもねえしな。ダンジョンマスターとは言え見た目は普通の人間だ。外で普通に暮らしていればそういうこともあるか。
しかし相手はどんな奴なんだろうな。あの戦闘狂を満足させるのは普通の奴にはちょっと無理そうだし、逆に大人しい感じで包容力とかがあるタイプかもしれん。
「だからしばらくダンジョンには来れなくなると思うけど、良いよね?」
「しばらくとはどのくらいだ?」
「うーん、たぶん1年はかかるんじゃないかな。思いっきり楽しむつもりだしね。遠慮する必要もないし」
「遠慮、ね」
アスナが楽しげに笑いながらセナの質問に答えていく。なんかどっちかと言うと幸せオーラではなく遠足前のワクワクみたいな表情をしてるな。確かにハネムーンも旅行と言えば旅行なんだが。
しかし、1年か。長くね? 新聞とかセナが必要な情報収集用の物はマットの隠し部屋の依頼で入ってくるが、俺の人形系の雑誌とか材料とかがピンチだ。あとセナの新作せんべいとか。DPとかダンジョン素材である程度はカバーできるが、新しい刺激を受けると新しい発想が生まれるんだよな。
うーん、でもせっかくのハネムーンだし、今は造りたい人形もあることだし、ここは笑って送り出してやっても良いだろ。記念なんだし、そこに水をさすのもな。
画面に映るセナがちらっとこちらへと視線を向ける。あちらからは見えていないはずだが、いつもどの辺りからタブレットで見ているかは知っているので確認の意図があるのは明確だ。何かあれば連絡しろってことだろうが、俺としてはどっちでも良い。セナにお任せって奴だ。俺が別に良いと思っても、セナに何か考えがあって無理と言う可能性もあるからな。
しばらく考えるように腕組みしたまま動きを止めていたセナが、俺からの連絡が来ないことを確信したのかゆっくりと顔を上げてアスナを見返す。
「良いだろう。これから1年間、お前はこのダンジョンに来なくてもいい」
「どーも。じゃあ特別サービスで必要なものをまとめ買いしてこようか? そっちのマスターも欲しいものあるでしょ」
「気が利くな」
「まあね。最初はどうなることかと思ったけど、無茶なこともあまり言われなかったしね。それに、そのおかげで今度はDPを使うことなく、自由に行動できるから」
「そういうことか。ある意味お前らしいな」
2人が不敵な感じに見つめあっているが、喧嘩に発展しそうもないし放置で良い。それよりもアスナがまとめ買いしてくれるってせっかく言ってくれてるんだ。とりあえず必要そうなものを片っ端からリストアップしねえと。
資料になりそうな本とかも欲しいし、人形造りの素材系はマストだ。経年劣化しやすい素材が無い訳ではないが、封を開けて放置とかしなけりゃ1年程度は大丈夫な物がほとんどだ。しばらくは入荷出来なくなっちまうんだからある程度の在庫は欲しい。
新作の人形とかもあれば、とは思うがこればっかりは仕方ねえな。未来に出る人形たちが買える訳がねえし。生産者の階層で毎日人形が捧げられてはいるが、それは職人が作製した人形たちなんだよな。
確かに職人独特の味のある人形たちではあるんだが、市販されているフィギュアとかの造形美とかも捨てがたいんだよな。いっそのことフィギュアとかを捧げる祭壇でも造っちまうか? 後でセナに相談だな。
おっ、そうそうセナのためにせんべいも書いておいてやろう。あいつなら自分で言い出しそうではあるんだが、まあ書いておけば忘れられる心配も減るだろうし。
10数分後、俺が書き上げたリストを、コアルームで暇そうにしていたせんべい丸に持たせてアスナへと渡しに行ってもらった。
それを受け取ったアスナは、それにざっと目をやるとそのまませんべい丸の顔面にパンチを叩き込みやがった。せんべい丸が見事に吹き飛び、床を転がっていく。
「まとめ買いって言っても限度があるでしょ!」
だんだんといら立たしげに床を踏み、ぷりぷりと怒りながらアスナは部屋から外へと出て行く。俺が書いたA4用紙5枚分のリストをちゃんと持ったまま。うん、ちょっと多すぎかなとも思ったんだが、まさか殴るとは思わなかった。
一応俺が中に入ってないか事前に確認していたから俺を殴るつもりじゃなくて、ストレス解消だったんだろう。せんべい丸には悪いことをしたな。絶対へそを曲げてるだろうし、後でねぎらっておくか。
アスナは散々文句を言いつつもおよそ1週間かけてリストに書かれた全ての物を持ってきた。俺自身、積み上げられた本やら素材やらを見ると頼みすぎだったかもしれんと思うほどの量だ。
まあセナがポーションとかスクロールを渡していたし、金銭的には問題はねえはずだ。労力は……まあ1年分前借りって事で勘弁してもらおう。これから楽しいハネムーンなんだし、気分もきっとすぐに変わるはずだしな。
ボス部屋奥の隠し部屋から出て行くアスナへと「楽しんでこいよ」と画面越しに告げ、俺は運ばれてきた本や素材の整理にさっそく取り掛かった。
初心者ダンジョンの入り口すぐにある大きな部屋に40がらみ渋みのあるの白人の男が佇んでいた。その目の前には決して上手とは言えない出来の5体の小さな粘土の人形がおり、その男をじっと見つめていた。
『ニコライ、ムラト、アルチョム、ルスラン、イゴール。お前たちとも今日でお別れだ。私は悪魔へと心を売った。祖国のためにはそうするしかないと考えた結果だ。正解かどうかは私にもわからない。だが少なくとも今のロシアは間違っている、おかしいと言う方が正しいかもしれないがな』
ロシア語でそう呟き、口を引き締め厳しい表情をするのは、かつてロシアの英雄とも呼ばれた男、イワン・トロヤノフスキーだった。何も無い部屋の片隅で佇むイワンに、通りがけの探索者たちが遠くからちらりと興味本位の視線を投げかけたりはするが、イワンがそれを気にした様子は無い。
誰かが近づいてくればすぐに気づくし、何よりロシア語を理解する者は少ないとイワンは知っているからだ。
『このままではロシアは破滅への道を進むだけだ。それだけは絶対に防がなければならない。お前たちがそうしたように、例えこの身に代えたとしても』
まるで何かに祈るかのようにイワンは目を閉じ、ゆっくりと息を吐き出した。そして開かれたその目には確固たる決意が宿っていた。その視線を受けた5体の人形が、イワンに向けて敬礼を行う。まるで、健闘を祈るとでも言わんばかりに。
その様子に少しだけ表情を和らげたイワンへと小さな人影が近づいていく。ただ歩いているだけに見えて一寸の狂いさえないそんな足音に気づいたイワンがそちらへと振り返る。そこには背の低い童顔の、イワンからすれば少女にも見えてしまう女、アスナがいた。
「お別れは済んだ?」
「ああ」
「じゃあ行きましょうか。楽しいハネムーンになると良いわね。リュビームィ、だっけ?」
「日本語でイイ。聞き取りは問題ナイ」
「そう? まあどっちでも良いけど。じゃあラックを迎えに行ったらさっそくハネムーンに行きましょ。お楽しみを後まで取っておくのって性に合わないしね」
アスナがわざとらしく差し出した手をイワンが握る。2人の左手の薬指には同じデザインのシンプルなプラチナの指輪がはめられていた。
そうして手を繋ぎながら初心者ダンジョンを去っていく2人を、その場に残された人形たちは敬礼したままいつまでも見送るのだった。
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