第160話 革職人としての道
ダンジョンからドロップしたという藍色の皮を前に凛は眉根を寄せていた。その手に持つ一見大きなヘラのように見えなくもない革包丁をふらふらとさまよわせながら。
「うーん、皮と言うより本当に革よね。なめしも終わって成形されているし、いかにもさあ作ってくださいって感じ」
ぶつぶつと呟きながら凛が目の前のきっちりと1メートル四方にカッティングされた皮、凛の言葉からすると革の観察を続ける。
毛などの処理もしっかりとされ、厚さにもほとんどばらつきはない。塩分や汚れなども残っておらず適度に滑らかで柔らかなその革は、色こそ違うものの普通の牛革と一見似ている。
凛の手が動き、その革へと革包丁が下ろされる。そしてそれをいつも通りに引こうとしたが、その手に感じたのはまるで革包丁が固定されてしまったかのような抵抗感だった。凛が息をゆっくりと吐きながら根気強く革包丁を引くと、ゆっくりとではあるが革包丁が動き出してその革へと切れ目を入れていった。
力を入れているため凛の顔はほんの少し赤く染まる。その様子をちらっと眺める他の職人の視線に凛が気づくことはない。その真剣なまなざしは革へのみ注がれているからだ。
そしてしばらくして革包丁の動きが止まり、そしてそれが革から離れた。切れた長さは10センチ程度。その結果に凛は天を仰ぎながら大きく息を吐く。
「理不尽だなぁ」
そんな凛の心の底からの呟きは、ここにいる生産者たち全ての気持ちを代弁しているかのようだった。
凛は中学を卒業した15歳の時に革細工の職人になると決め、家を出て和子に弟子入りした。ほとんどの友人たちが進む高校にも行ってみたいという気持ちがないわけではなかったが、それよりも家を出たいという気持ちが勝ったのだ。別に家族内が不仲と言う訳ではなかったのだが。
革細工の職人を選んだのはなんとなくだった。あえて言うならば優しい大叔母である和子が人形用の小物として革のカバンなどを造っているのを見たことがあり、その出来の良さに感動したということがきっかけと言えばきっかけなのかもしれない。
そして凛は家を出てすぐに大叔母である和子を頼ったのだ。
突然の訪問にも関わらず、凛をいつも通りの柔らかな笑顔で迎え入れた和子だったが、凛から革細工について教えて欲しいと聞かされるとその表情が一変した。いつでも変わらなかった優し気な笑みは消え、心の奥まで覗き込むような視線が凛を貫いたのだ。
その突然の変貌に驚きながらも凛は目を逸らさなかった。それをしたら断わられる、そのことがはっきりと感じられたのだ。
「ねぇ、凛ちゃん。あなたは本当に革職人になりたいの?」
優しいいつもの声と変わらないはずなのに、その言葉には凛の心臓を鷲掴みにするような圧迫感があった。早く返事をしなくてはいけない、と思いつつも凛は口を開くことが出来なかった。ただじっと黙って見つめ返すことが精いっぱいだったのだ。
重苦しい空気の中、2人はじっとお互いを見つめ続けていた。そして凛が限界と根をあげてしまうほんの少し前に、和子がふぅ、と息を吐き目を閉じる。それを見て凛も倒れてしまいそうな体を支えながら荒い息を吐いた。
「中途半端な気持ちなのに、そこまで頑固なのは家系かしらね。とりあえず1年間私の手伝いをしてちょうだい。1年後にまた同じことを聞くから、その時はちゃんと答えられるようにすること。わかったわね」
「うん」
こうして凛は革職人としての道を一歩踏み出したのだった。
凛がなんとなくで選んだ革職人の道は、想像以上に困難なものだった。なにせ和子が最初に教えたのは地元の猟師が捕まえたイノシシの解体と皮はぎだったからだ。ごわごわのその毛並みの先の皮へとナイフを当てた時に感じた、その押し返すような感触を凛は忘れることはない。そして解体途中に我慢しきれずに盛大に吐いたことも。
その後の、剥いだ皮を使ったなめしの作業も簡単ではなかった。内すきや脱脂、洗浄では何度も何度もやり直しを要求され、なめし液の作成ではその鼻の曲がりそうな匂いがいつまでも鼻の奥に残ってしまい、生まれて初めて鼻うがいをした。
それ以降の工程においてもさんざん苦労したにも関わらず、出来上がったのは色むらのあるごわごわの革とも呼べない失敗作だった。その出来に凛は涙した。悔しいだけでも虚しいだけでもない、様々な感情がごちゃ混ぜになった涙だった。
そしてその後の修行でも凛は幾度となく涙を流すことになった。しかし凛が革職人の修業をやめることはなかった。逆にその魅力に、奥深さにのめり込んでいったのだ。
そしてある程度の腕になった時に、ふと今までの経験を振り返ってみて気づいたのだ。和子の教えが非常に合理的なものだったことに。
普通の革職人として修行するのであれば別に解体を経験する必要はない。なめしにしても専門の職人がいるし、極端な話、革として加工された物を扱えれば問題は無いのだ。実際凛と同じような経験を積んだ職人は少数だろう。たまに行う程度の腕ではそれらを日常的に、そして専門に行う者たちに及ぶべくもないのだから。
しかしそれは決して無駄ではない。そのおかげで凛は革職人の根本となるものを得たのだから。
自らが加工する革が生き物の皮であったという強烈な認識を。
それはごく当たり前のことだ。だが当たり前すぎて時に忘れがちになることでもある。だが強烈な経験を積んだ凛は自然にそれを認識する。それはほんのわずかな違いに過ぎないが、その違いが少しずつ積み重なり作品として完成したときに明確な差として現れるのだ。
革を見る時、凛は生前の姿を想像する。どのような場所で、どのような生き方をしていたのかを。するとその革に秘められた声が凛へと届くのだ。
そのことを凛が認識したのは修業を開始して3年経過した18になった頃である。そしてそれを認識できたことで和子から独り立ちを許されたのだった。
天を仰ぎながらもう一度大きく息を吐いた凛が、目の前の少しだけ切れ目の入った藍色の革へと視線を戻す。素材を渡されたときに凛が聞いた話ではこの革はダンジョンのモンスターである狼がドロップしたものであるとのことだった。
狼革というものは革細工を専門にしている凛にとっても初めて加工する革だった。実際に狼革を使ったカバンなどが外国にはあるということは知識としては知っているが、ほとんど日本では流通することはないからだ。
経験したことのない狼革という素材を理解するためには狼を知る必要がある。だからこそ凛は動画や資料などを漁って知識をつけることに腐心し、そのおかげで完全とはいかないまでも素材の声が聞こえるようになっていた。似た種の革を取り扱ったことがあるという経験のおかげでもあったが。
正方形に成形された姿はまるでフェイクレザーのようにも思えるが、微妙な革の伸び、厚みの違い、わずかな色合いの違いから聞こえる、生き抜いたその狼の声が凛には聞こえていたのだ。
その声に従えば加工できないはずがない。そのはずなのに全く思うように進まない。それはここ最近、順調に革職人としての道を歩んできた凛にとって突然現れた不可思議で大きな壁だった。
「でも、それもまた面白いんだけどね」
凛が手に持った革包丁をくるりと回し、そして軽く腕を振って疲れを流すと再びその刃を革へと向ける。もうここにはいない狼の遠吠えを夢想しつつ、その動かない刃を少しずつ動かしていく。その額には汗がじんわりと浮かび、紅潮した頬から口へとその一滴がツっと走って行った。ペロリと舌でそれを舐めた凛の表情は、真剣でありながらもどこか楽し気なものだった。
「ふぅ」
午前中をかけてなんとか革の裁断を終えた凛が大きく息を吐く。時計を見ると既に12時を回っており、部屋の中にいるのは凛だけであった。
「そういえば、今日のお昼は出前だっけ。自衛隊の人の話では大丈夫だって話だけど」
こきこきと首を鳴らしながら立ち上がった凛が出口へと向かって歩いていく。今日の朝に来た時にダンジョン産の食事を出前として注文できることを日向に知らされ、うーん、うーんと悩んでいた凛を見かねて、護衛についていた自衛官が「安全性は確認されていますし、味も悪くないですよ」とアドバイスをしたのだ。
そんな勧めもあり、まあ一度試してみるのもいいかなとその時は考えて注文してしまったのだが、改めて考えてみると本当に大丈夫なのかと言う疑問が凛の頭に浮かんでしまっていた。とは言え今更取り消すわけにもいかず、凛は部屋から出ると通路の奥の日向の元へと向かって歩いていった。
「あら、お昼かしら。たしかあなたは生姜焼き定食だったわね」
「はい。そうですね」
にこりと笑う日向の姿に、凛がほんの少しだけ眉を上げて応える。最初こそ人形が話すという非日常的な光景に驚いた凛だったが、人形に慣れていたこともあり今ではほとんど平然と対応することが出来るようになっていた。
「そこのテーブルにでも座って、ちょっと待っていてくれるかしら」
日向が指さした先には、簡易ながらテーブルと椅子が用意されていた。そこには既に数人の生産者たちが座り食事をとっており、その表情は皆満足そうだった。そのことに少し安堵しつつ凛は空いたテーブルへと腰かける。
昨日までこの机や椅子なんてなかったはずだから自衛隊の人とかが持ってきたのかなぁなどと適当なことを考えながら待っていること10分ほど。たったったという軽快な足音が近づいてくることに気付いた凛が通路へと視線を向けた。
「ニシシシシ。生姜焼き定食一丁お待ちだニャ」
おかしくて仕方ないとでも言わんばかりの笑みを浮かべた猫耳を付けた人形を見て、思わず凛はその動きを止めたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
地道にコツコツ更新していきますのでお付き合い下さい。
ブクマ、評価応援、感想などしていただけるとやる気アップしますのでお気軽にお願いいたします。
既にしていただいた方、ありがとうございます。励みになっています。