第152話 候補者の1人
日差しの入らないようにわざわざ造られたその部屋の中央に1人の白髪の老婆が座っている。皺のよった顔に浮かぶ穏やかな表情だけ見れば80を超えていると思われるが、そのシャンと背筋の伸びた姿は老いを感じさせず、そしてその手は一切淀むことなく滑らかに動いていた。
その部屋の壁に貼られているのは色々な言語で書かれた彼女への感謝の手紙たちだった。拙い日本語で「ありがとう」と書かれたその手紙に添えて貼り付けられているのは、満面の笑みで人形を抱いている金髪の少女の写真。その他にも様々な笑顔に囲まれながら彼女は仕事を続けていた。
ピンポーン
家のチャイムの音が鳴り響くが彼女の耳に届くことはなかった。
ピンポーン、ピンポーン、ピピピピンポーン
いつまで経っても気づかないことに焦れたようにチャイムが連打されるが、やはり彼女の耳に届くことはない。そして玄関の扉がガラッと開けられる音も、廊下をダダダダっと走って近づいてくる音も当然ながら届くことはなかった。
そして部屋の扉がパタンと開かれ、大学生かそれを卒業したてといったくらいの若い女性が中へと入って来た。焦った表情をしていたその女性は、部屋の中で縫物をする老婆を見つけてホッとしたように表情を緩め、大きく息を吐いた。
「ねえ、和おばあちゃん。いつも言ってるけど玄関の鍵くらい閉めてよ。不用心だって」
「おかえりなさい、凛ちゃん。もうすぐ一段落するから待っててくれる?」
「いや、そうじゃなくって……聞いてないし。まあいつもの事だけど」
ちらっとこちらを見て再び作業へと戻ってしまった大叔母である和子にため息を吐きながら、凛と呼ばれたその女性は時間を潰すためにいつも通り壁際に貼られた手紙をプラプラしながら読み始めるのだった。
1時間ほどして和子が作業をやめ、2人はその作業部屋を出て柔らかい日差しの入るリビングへとやってきた。
「突然呼び出して悪いわねぇ。それにお茶の用意までさせちゃって」
「いいのいいの」
勝手知ったる自分の家のように、凛が迷うことなくお茶の用意やお茶請けのある棚を開けて準備を進めていく。それを少し申し訳なさそうにしながらも柔らかい表情で見守る和子の姿は、先ほどまでの姿とはうって変わり、年相応のおばあちゃんと言う言葉が良く似合っていた。
お茶の準備を終えた凛がシルバーのトレイにそれらを載せて和子のいるテーブルへとやってくる。そしてささっと2人分の用意を終えると和子の対面の椅子へと腰を下ろした。
「「いただきます」」
2人が手と声を合わせる。香り立つ紅茶と目の前に映る光景に懐かしさを凛が覚えていると、紅茶を少しだけ口に含みそしてカップを置いた和子がニコリと微笑んだ。
「凛ちゃんの味がするわね」
「誰が淹れても変わらないって。それよりいきなりどうしたの? 和おばあちゃんから連絡があったからびっくりして飛んできたんだけど。それに仕事も忙しいみたいだし。そろそろゆっくりするって言ってたよね」
「ふふっ、お得意様が出来たのよ。それより今は凛ちゃんのこと。なんだか大変らしいわね」
柔らかな笑顔を見せながら聞いてきた和子の言葉に凛の表情が途端に曇り、そしてはぁーと疲れたように息を吐く。先ほどまでの快活な姿とは正反対の反応に和子がクスクスと小さく笑った。
「笑い事じゃないって。本当にうざいんだから。一度は認めたくせに、状況が変わったからって何度も何度もなーんども連絡してくるんだよ。本当に最悪」
「そうねぇ。せっかく凛ちゃんも名前が売れてきたところなのにね」
「そうそう。この前も雑誌の取材を受けたしね。まあ女性の革職人は珍しいからってのもあるけど。あっ、そうだ。これ、お土産。結構自信作」
そう言いながら凛が自分のバッグの中から革製のテンガロンハットやジャケット、パンツやコート、バッグなどを取り出していく。その全ては小さく、人形のサイズでありながらも、その出来は実物に勝るとも劣らないものばかりだった。
「あらあら、ずいぶん上手になったわね」
「お師匠様が厳しかったですから」
「それは良いお師匠様だったわね。感謝しないと」
「拝んでますよー。毎日ここに向けて、こう南無南無と」
目を閉じながら手を合わせる凛に「やめてちょうだい」と和子が笑いながら返す。少しだけ暗くなりかけた空気が霧散していった。
和子が改めてしげしげと凛の作成した人形用の衣装を眺める。それを少し緊張した面持ちで、しかしそのことを表に出さないようにとお茶菓子をぱくつきながら凛は待っていた。
「うん、これなら大丈夫そうね」
小さな声で和子が呟き、そして手に持っていたテンガロンハットをゆっくりと机の上に置く。
「ねぇ、凛ちゃん。あなたの今の状況をどうにかできるって言ったら、どうする?」
「和おばあちゃんが説得してくれるって事?」
「いいえ。でも少なくとも時間は稼げるはずよ。誰にも口を挟まれることもなく、ね」
「えっ、どういうこと?」
「さぁ?」
思わず身を乗り出して聞こうとした凛が、和子にはしごを外されて思わずガクッと肩を落とす。そんな姿をクスクスと笑いながら眺める和子の瞳は、まるで気まぐれな猫のようだった。
あぁ、こういうところも変わってないなぁ、と懐かしく思い出しつつ凛が顔を上げた。
「政府の偉いお役人さんから、将来有望そうな職人を推薦してほしいって連絡が来たのよ。手縫いの裁縫や革細工の出来る職人って言う指定付きでね」
「なんか怪しくない? 詐欺師とかの可能性は?」
「一度会ったことのある人だったから間違いはないわよ。とりあえず1か月、50万円で他の候補者と一緒に働いてもらって、その後に最終的な候補者の決定があるらしいわ」
「つまり少なくとも1か月は猶予があると。あっ、でも今の仕事はどうなるの?」
「候補者の希望は最大限配慮するって約束してくれたから大丈夫だと思うわよ。まあ詳しくは先方に聞いてちょうだい」
突然告げられた内容に凛が腕を組み、うーん、うーんと唸りながら頭を巡らせる。まるで苦悩する熊のように声をあげながら考え込む凛の姿を、和子はゆっくりとお茶を楽しみながら待っていた。
そして和子のカップが空になり、凛のカップに残った紅茶がすっかりと冷めてしまったころ、凛がふぅ、と息を吐いて和子を真剣な表情で見つめた。
「わかった。とりあえず1か月逃げられるだけでも儲けものだし、お願いしても良い?」
「もちろんよ」
「それでいつから、どこで仕事をすることになるの? 仕事場の整理とか道具の配送も準備しないといけないし。あぁ、やっぱり面倒かも。でもまだマシかぁ」
再び苦悩の片鱗を見せた凛に和子が微笑む。
「ふふっ、頑張って凛ちゃん。日程は近々って言っていたからその内連絡が来ると思うわよ。場所は東京の千代田区にあるそうね」
「千代田区かぁ。なら今の仕事場とも遠くないし、引っ越しも楽かも」
千代田区と聞いた凛が少しだけ表情を明るくする。凛が現在仕事場としている江戸川区の工房とは車で30分ほどの距離だ。総武線なら20分ほどで着くが、工房の場所が駅から離れているため実際は1時間ほどかかるのだが。
凛が少し安堵の表情を浮かべながら、今後の予定を頭の中で組み立て始める。そんな考えに夢中の凛は、和子の瞳が猫のようにキラリと光ったのを見逃していた。
「良かったわね。しかも警視庁の目の前にあるんですって、その仕事場のダンジョン」
「そうなんだ。警視庁の目の前なら治安もばっちりって……ダンジョン!?」
「ええ、ダンジョン」
「リアリィ?」
「相変わらず凛ちゃんは英語が下手ね」
「それは今は放っておいて」
その後、慌てた様子で質問を続ける凛と、にこやかに笑いながらそれをかわす和子という光景がしばらく続いたが、結局凛はダンジョンへと行くことを決めたのだった。
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