宿題は難しい
ヤンデレものです。
お兄ちゃんが帰ってくる。4年と185日ぶりに、お兄ちゃんが帰ってくる。
お兄ちゃんは、コーヒーがよく似合う。湯飲みでほろ苦いブラックコーヒーを前に勉学に励む姿を見るたびに胸がいっぱいになったものだ。今ではブラックコーヒーを飲むことが、わたしの日課。お兄ちゃんの真似をして、湯飲みを使うのだけれども、薄手の陶磁器は熱すぎて私には持てない。
お兄ちゃんが帰ってくる。お兄ちゃんは、とっても心優しい。私が男の子にケンカを売られた時も、腹の底に響く一喝で追い払ってくれた。バットを振ることでできてしまったゴツゴツの手のひらで頭を撫でられると、髪の毛がボサボサになってしまうけど、代わりにお兄ちゃんのポカポカが離れないで、と止められた途端に恋しくなる。このためだったら、再び同じ苦しみを味わってもいいと本気で思える。
そんなお兄ちゃんが、家に帰ってくるのだ。あの野太くも勇壮な声、穏和で少しの茶目っ気をブレンドしたお兄ちゃんが、この家に近づいている。
出迎えは、やはりコーヒーかふさわしいだろうか。それともこっそり練習したラテアート?あるいは部屋中に芳しいコーヒーの香りをさせておいた方がいいだろうか?
ふと湯飲みを持つ左手が小刻みに震える。
お兄ちゃんは、4年と158日前に家を出た。4年と287日前のおぞましい一言が発端だった。
「なあ。二人に紹介したい人がいるんだ」
食卓には、お兄ちゃんの好物ばかりが並ぶ。サツマイモがごろごろ入った肉じゃが。大根だけのおでん。豆腐とサツマイモと玉ねぎが入ったお味噌汁。わたしは大根を落としてしまった。
「おいおい。びっくりし過ぎだろ!ほら、テーブルにこぼれちまったじゃねぇか」
ひときわまぬけな顔をしていたと思う。温厚篤実なお兄ちゃんの語尾に、珍しく感嘆符がついていたから。あまつさえ、膨れっ面で、テーブルを拭いてくれた。申し訳なくて辛かったけど、お兄ちゃんがわたしのために動いてくれたことに関しては、少し浮かれてしまった。
「あら、ついにあんたにも春が来たんだねぇ」
どうして。どうして、お母さん。どうしてそんなに喜色満面としているの。ここは血相を変えて、お兄ちゃんに詰めよって相手の正体を吐かせるか、絶望したと嘆いて、号泣する場面でしょう?落ち着いて、茶など啜っている場合じゃないよね?
「まあな。今度二人にも紹介するよ」
この右ストレート一発。ダウン寸前のこの日から二週間後。よく晴れて雲ひとつ無い、所謂快晴の昼。その人は我が領土に侵略してきた。戦々恐々とするわたしとは対称的に、母は気を抜くと今にもステップを踏み始めんばかり。それがまたかちんときた。
「はじめまして。お兄さんとお付き合いさせていただいております。愛と申します。どうぞ、よろしくお願いします」
その人は、遺憾ながら淑女だった。いくら粗捜しをしても、穴など見つからなくてあっという間にお兄ちゃんが家を出る日となった。その日、案の定泣き腫らしてしまい、真っ赤なった瞳じゃお兄ちゃんを遅れない、と部屋に引きこもっていた。
「お兄ちゃん……」
表紙が擦りきれたアルバム帳はわたしの宝物。そしてカチカチというカッターナイフのスライド音はわたしにとってのセラピー音楽。大丈夫。お兄ちゃんはいなくなったりしないよ。ここにいるから。だってここにいるもん。ここに……。
「なぁ。俺、もう行くからな。……そうだ。宿題を1つ出してやるよ。俺が今度帰ってくるときには、笑顔で話せるようにしておくこと。いいな。約束だぜ」
「……」
「いいな」
「……わかった」
お兄ちゃんが帰ってくる。わたしはこの宿題を果たさなければならない。あの人と笑うお兄ちゃんと笑顔で対面しなければならないのだ。
「あっ……コーヒーの準備?ありがとう。あ、あんたお兄ちゃんから連絡があったんだけど」
「なんて?」
「なんでも。仕事で遅れるから、先に愛さんだけが来るって」
「はーい」
敬慕するお兄ちゃんではなく、いまいましいあの女が、しかも一人でやって来るなんて。汚らわしい。あのけばけばした化粧が疎ましいあの女と顔を合わせなきゃいけないとは……。部屋の温度が一度から二度下がったようだ。
どのような面を晒せばよいのだろうか。いかなる努力を重ねても、軽蔑の情から移動できそうにない。お兄ちゃんとの宿題を完遂できるビジョンが見えてこない。
「あっ」
湯飲みをこかしてしまった。食卓とカーペットに黒い染みが己の領土を広げんとばかりに侵食する。ほろ苦い臭いがをにつく。早く拭き取らないと。母の憤激は避けられない。
「ねぇ」
「な、なに?お母さん」
急げ急げ。手も声も震えて、思うように動けない。なおも母の声は玄関から聞こえてくる。
「ちょっと母さんのカバン取ってきてくれない?」
「あ、わかった」
慌てて母のショルダーバッグを手渡す。母はちょっとおやつを買ってくるわと言伝てて、出ていった。……チャンスだ。千載一遇の好機だ。これはきっと執行猶予なのだ。もしもこの状態で母……いや愛さんが帰って来て鉢合わせになったとすれば、わたしは間違いなく愚か者の烙印を捺されるだろう。間違いなく。それだけは避けたい。
本当に、あの女のせいだ。あの女さえいなければ、こんなことを悩まなくてもよいし、何よりもお兄ちゃんがいなくなる必要もなかった。あの女のせいだ。あの女さえ。あの女さえいなければ、 いなくなってしまったら、全てが本当に全てが上手くいくのだ。上手くいくはずだったのだ。
「あーごめんくださーい」
「あ、ただいま、ま……」
「ああ、久しぶりー愛ちゃん」
お兄ちゃんの結婚相手の愛さんだ。一見すれば気さくで、社交的な淑女。わたしに言わせれば、お兄ちゃんの好意につけこむ厚かましいアバズレ。何よりも嫌悪するべきなのは、わたしと名前が同じだということである。
「あら愛ちゃん。床に這いつくばってどうしたの?……あらお間抜けさん。コーヒーこぼしちゃったのね?」
まるで幼子をあやす口ぶり。腸が煮えくり返るやら、顔が震えるやら。焦点が合わなくなっていく。手がわなわなと振動し、口が渇いてパサパサになる。奥歯がカタカタと音を立てて、体の中の何かが、まるでポリ袋を無理矢理引きちぎるときのようにブチッブチッと破れていく。
「あれ?愛ちゃん、どこ行くの?」
わたしは、知っている。わたしは知っているんだ。父と離婚した母が、護身用と称して通信販売でスタンガンを購入したことを。そしてそれをここ最近夜な夜なバチバチと鳴らしては至福の笑みを浮かべていることを。そのスタンガンをベッドの左の引き出しの奥。腹巻きの下に忍ばせていることを。わたしは知っている。わたしはよくよく知っているんだ。
わたしの足は、脳よりも優秀であるらしい。思考はまとまらないし、ぼーっとして不明瞭なのに、足取りは軽く迷いがない。あたかもこれからすべきことを全て熟知しているみたいに、勝手に進んでいく。自動運転技術とはこのような体験をすることだろうか。
「あった」
母が留守にしているときに、しょっちゅう話し相手になってくれた相棒。いつもバチバチと返事をしてくれた、大切な大切な家族。黒いグリップがいつも通りしっとりと肌に馴染んだ。
「さてと」
どうやら脳よりも身体の方が利口であるようだ。立ち上がった感じが軽い。誰かに背中を押してもらったかのように、宙に浮くような感覚。これはきっと、お兄ちゃんだ。お兄ちゃん。やっぱりあの女が嫌いだったんだね。そうだよね。大丈夫だよ、お兄ちゃん。わたしが救ってあげる。そして、宿題を果たせるように準備をするよ。
「あーやっと、戻ってきた」
リビングに戻ると、愛さんが床に這っていた。いや違う。コーヒーの染みを拭き取ろうとしているらしい。これは好都合だ。
「愛ちゃんも早く手伝ってよ……ああー!!」
身体は正直だった。この女が振り向く前に、真っ先に家族を押し付けた。
幾ばくの時が流れたかはわからない。それは数秒のことかもしれないし、逆に数分のできごとだったかもしれない。女の身体は、力を失いコーヒーの染みに突っ伏した。なるほど。母が護身用にと所持していた理由も頷ける。
相棒を食卓に置いて、ピクリとも動かないそれを見た。奇妙なオブジェだった。頭は、床に擦り付けているのに尻は高く、まるで何かに躓いて顔面からダイブしてしまったようだ。
お兄ちゃんが帰ってくる。お兄ちゃんがもうすぐ帰ってくる。さっきから、あれのスマホがひっきりなしに通知音を出している。黒のスマホが、ゴキブリに見えてきたから、容赦なく踏みつけてやった。画面が割れて、絨毯に入り込む。わたしにはそれを頬っぺたで拭き取る趣味はないから毛頭問題ない。勿論お兄ちゃんにもそのような趣味はないから、大丈夫。この光景を見てくれたら、きっと小躍りしてくれるに違いない。
そう。もうすぐ、あと少しでお兄ちゃんが帰ってくるんだ。また、頭を撫でてくれるだろうか。あのたくましい両腕で抱き締めてくれるだろうか。これではやはり、不十分かな?もっと血みどろにして、はっきりと一目でわかるようにした方がいいかな?
キッチンの流し台の下。スペアリブが好きな骨を裁つために使う包丁がある。母が使うたびに手入れをしていて、今にも血を吸わんとはがりに鈍く光る。大丈夫だよ、お前にも今活きの良いご飯をご馳走してあげるから。不味いのだけは我慢してね。
「うっ」
あれ?背骨かなぁ。刃が全く進まない。生暖かい液体がドバドバとダムが決壊したときのように、どんどんと流れが強まっていく。コーヒーが不快な液体で塗り固められていく。
「はーあ、あ。全くお前は一人では何にもできねえんだな。仕方ねぇなぁ」
「お、お兄ちゃん!?いつ帰ってきたの?」
お兄ちゃんだ。記憶のまんまだ。優しくて頼りがいのあるお兄ちゃん。わたしの、わたしだけのお兄ちゃん。
「ええ?何かおかしいとこあるか?……ほら、貸してみろよ。……うーぉらっ!抜けたぜ。もう一回、殺るんだろ?」
「う、うんっ。いくよ?」
包丁の刃は思った以上に脆弱だ。数回刺しただけなのに、もう欠けてしまっている。
「まだ台所に新品のやつがあるぜ?取ってこいよ」
「うんっ!」
台所に向かった。流し台の下には、あと二本同じ包丁が掛かっているはずだ。
ピーンポーン。
誰だろう。今忙しいんだけどなぁ。お兄ちゃんとの共同作業を邪魔する輩は。そんなの要らないよね。ねぇお兄ちゃん。これも宿題だよね。
「お、あ?鍵かかってねぇじゃん。入るぞ……っぅわぁぁあ!」
あれ?どうして?包丁を握る手が力を失う。だって、目の前でわたしに腹を刺されているのは、最愛のお兄ちゃんだったから。
「お、お前なにをしやがる……」
「あああああぁぁあぁああ!!し、しゅくだい、しゅくだいを」
わたしは悪くない。わたしはただ宿題を済ませようとしただけだそうだわたしはしゅくだいを終わらせただけなんだお兄ちゃんとえがおであうためにひつようなことをしただけなんだそうなんだあのおんながわるいんだからそうでしょお兄ちゃんねぇお兄ちゃんお兄ちゃんわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはわたしはなかったそんなお兄ちゃんをするつもりなんたなかった本当なかった悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない悪くない。
「お、おまえ、もしかして愛のことを」
え?あい?お兄ちゃん……やっぱりあの女に呪われてしまったんだね。わかったよ。だってそうでしょ?そうでもなきゃお兄ちゃんの口からあのゴミの名前がでるはず無いもん。そっか。だから、わたしはお兄ちゃんを刺したんだ。お兄ちゃんの中に巣食った悪魔を祓うために、仕方なく刺したんだ。苦しいよね。だって魔物が浄化されていくんだもん。大丈夫。大丈夫。わたしが魔物から、浄めてあげる。大丈夫。お兄ちゃんを救ってあげる。
「お、おい、あい……」
まだ、掃除ができていないみたいだね。口角が上がるのが止まらないよ。ねえ、お兄ちゃん。もうすぐ宿題が果たせるからね。




