人魚伝説の謎
プロローグ
中天に煌々たる満月が輝いている。
四方高さ2メートル程の板垣に囲まれたテラスの上に、5人の女と1人の男がいる。
昼を欺くばかりの明るさの中、テラスの黒光りした岩棚に、女達は全裸になると身を横たえる。岩棚は海に続いている。満潮の白い波が北側の板塀にせまっている。そこは引き戸になっていて、開けると、若狭湾が一望できる。
海は凪いでいて、ひたひたと押し寄せる波の音のみが聞こえてくる。
女達は少女を真ん中にして肩を寄せ合うようにして、身を横たえている。歳の頃40代から60代。
男は板塀に寄りかかっている。苦痛に耐えきれぬように脇腹を手で押さえている。そこから血がにじみ出ている。
時は5月。日本海の夜はまだ肌寒い。男は純白のホームウエアーを着込んでいる。脇腹の赤い血が際立って見える。年の頃は40。
女たちの肌は一様に青白く輝いている。裸身を惜しげもなく月光にさらしている。少女は12歳。胸の隆起が僅かに盛り上がっている。恥部もまだ淡い。髪はおかっぱ。他の4人は歳の割には引き締まった肉体をしている。髪は肩まである。
テラスの中が徐々に光を増している。女たちの青白い肌から燐のような光がにじみ出てくる。青白い光が輝きを増して、段々と黄色から白色に変化していく。男はその光景を瞬きもせずに見詰めている。
5つの肉体が奇妙に震えている。肌の色が凄絶なほどの白さに変わっていく。雪をも欺く・・・。黒い岩肌さへも白く染まっていくとまがうほどである。
肉体が動いている・・・。 男は固唾を呑んで見守っている。
少女の体はぐんぐんと成熟を始めている。胸の隆起も盛り上がっていく。細く短い腕がしなやかに伸びていく。髪の毛が細いつる草のように伸びる。4人の女が若返っていく。髪の毛が少女と同じように伸びていく。
と思う間もなく、女達の2本の足がくっついて、1本の足となる。足から指が消えていく。足は太股のところから膨れ上がる。
男は脇腹の痛みも忘れて驚愕の光景に見入るのみだった。信じられない場面に、男の顔に恐怖の色さえ浮かぶ。
女たちの肉体はもはや人間とは言えない。下腹から股、足にかけて金粉をまぶしたような、ざらついたものが浮き出てくる。少しずつ、はっきりした形を成してくる。
――鱗――金色に輝いた鱗が下半身を覆っている。
・・・人魚・・・
男は喉の奥で叫ぶが声にはならない。
5体の人魚は上半身を挙げる。白色に輝く光は消えていく。後は月光にさらされた雪の肌の人魚の姿がある。5体とも腰までとどく髪が金色に光っている。真ん中の人魚は、他の4体と比較してやや小柄ではあるが成熟した女性の肉体である。
彼女は男を凝視する。変身する前の少女の面影は何処にもない。挑むような大きな瞳で男を見ている。白く広い額が輝いている。肉付きの良い頬に、うっすらと笑みを浮かべる。薄くしまった唇からは白い歯がこぼれる。”足”がないのに、少女の人魚は上半身を挙げたまますっと男に近づく。
・・・私達を助けてくれて、ありがとう・・・
男の脳裏にはっきりと声が響く。人魚の唇からは笑みが漏れるのみ。
人魚は男に口づけをする。男の体内に熱い気力が流れ込む。
”あっ・・・”男の口から歓喜の叫びが漏れる。脇腹の痛みが消えているのだ。傷口を抑えていた手を放してみる。傷口から血が止まっている。その傷口さえ癒えている。活力が男の体内に漲っていく。
男から離れると、人魚は軽く手を振る。板塀の引き戸が自然に開く。前方に拡がる黒い海。遠くに、かすかに黒い塊に見えるのが毛島。目の前に黒く見えるのが馬立島。
ここは福井県真鶴の内浦湾から約20キロ西上にある成生岬である。
5体の人魚はすくっと立ち上がる。”足”が地についていない。足の尾鰭を直立させている。”足”を動かすわけでもないのに、人魚の体は滑るように動いていく。
人魚達は男に軽く会釈をすると、引き戸を出ていく。満潮の海の中に身を滑らす。4体の人魚は少女の人魚を守るようにして海に入って行く。
――人魚姫誕生の瞬間である――
成生部落
男=山下丈男が眼を覚ましたのは、朝9時近くであった。寝具の側に血で汚れた白のホームウエアーが脱ぎ捨ててある。
山下は起き上がると、大きく背伸びをする。両手で顔をごしごしこする。乱れた髪をかきむしる。眉が薄く唇が厚い。鼻梁が高く、奥の深い眼差しをしている。がっしりとした体つきで、中肉中背である。肌が白く、日本人離れした風貌をしている。40歳の割には若く見える。
脇腹の肌着に血がついて、穴が開いている。短刀で刺されたはずの傷がない。
昨夜の光景が実写を伴って蘇生する。
・・・おかっぱ頭の幸子が・・・、12歳の少女が人魚に変身する。その姿は、元の人間とは似ても似つかない,清楚な美しさが漂っていた。世の中の全てを見通しているような神々しい表情が、ありありと眼に浮かぶ。他の4人も山下が知っている女性達ばかりだ。人魚に変身した姿は、僻地の漁村の主婦ではない。
金色の髪をなびかせて、すらりとした肢体の、20代の優美な女性の姿だ。
山下は寝床から出ると、下着を替えてジーパンとジーンズを着込む。彼がここにやってきたのは4日前、旅行用にと、着替えを用意している。
改めて室内を見回す。建ってから4,50年は経ているのであろう。古びた木造の平屋である。25坪ほどの広さだ。安普請のせいか、ところどころ天井に雨漏りの跡がある。
東側に畳1枚程度の玄関がある。玄関を入って右手にトイレと風呂がある。トイレは汲み取り、風呂は畳半分程の大きさのタイル風呂を置いただけの、粗末な造りだ。その西側に廊下を挟んで6帖の和室が2部屋。
玄関の左手は台所。その奥は洋室。和室と洋室は掃き出しの窓となっている。窓の外はのわずかばかりの庭がある。庭の約5メートル程の崖下は4方を板塀で囲まれたテラスとなっている。
黒光りした岩肌のテラスは、普段は魚や海藻の保管場所となっている。人間が人魚に変身する時のみ、洗い清められる。
ここは入り江になっている。南北2方は岸壁が突き出ている。北の方に若狭湾が拡がっている。毛島や馬立島、その他の2,3の小さな島々が紺碧の海の浮かんでいる。
風光明媚な地でありながら、ここ成生部落周辺だけが陸の孤島として取り残されている。成生の南4キロ程先には野原海水浴場や竜宮浜海水浴場がある。舞鶴の先端内浦湾はキスやベラなど鮒釣場として、終日の賑わいを見せている。
この家の持ち主は成生妙子、少女幸子の母であり、人魚に変身した4人の女性の1人である。
今――、その主はいない。この家は廃屋になるだろうか。
山下は家を出る。家の東側は2メートル程のなだらかな崖となっている。崖の上に若菜の花が咲き乱れている。玄関を出て南の方に5メートル歩くと登り道がある。人が歩くほどの道幅しかない。道の両脇にはタンポポの花が咲き乱れている。その向こうは切りだった崖になっている。家の北側も切りだった崖である。家は3方の崖の窪地に立っているのだ。
小道を登って崖の上に出る。道は蛇行するように東の方に続いている。周囲は畑である。1キロ程先には成生の部落がある。戸数80戸程の小さな村である。
山下は道から外れて南の方に歩く。畑の中の畦道を通って海岸の絶壁まで行く。はるか20メートル下には白い波が岸壁に打ち寄せては砕け散っている。
山下は昨夜の事件を思い出す。格闘の末、脇腹に傷を負いながらも、相手の男を崖に突き落とした。南の方に成生妙子の家の屋根が僅かに見える。
5月とは言え、北陸の海は風が冷たい。山下はズボンのポケットに手を入れる。来た道を引き返す。
成生の部落に入る。南の方、田井や小浦の町を抜けて舞鶴方面に向かって県道が走っている。成生は部落とは言うものの、歴然とした町である。コンビニエンスストアがある。郵便局や医療施設も整っている。これと言った観光名所もないのに旅館もある。村人が寄り合いの場所として利用している。役場や学校は小さいながら部落の中央に位置している。
部落の周囲は田や畑で占められているが、村人の大半は漁業で生計を立てている。
山下は成生旅館の玄関に入る。
「お帰りなさい」番頭格の老人が腰を低くして迎える。敬虔に満ちた眼差しで山下を見ている。
山下は4日前にここに宿泊したのである。無言で会釈すると、彼は2階の自分の部屋に入る。部屋の窓から成生家の屋根がかすかに見える。テーブルの前に腰を降ろす間もなく「お食事をお運びしましょうか」眼のくりくりした若い女がお茶を持って入ってくる。
「お願いします」それだけ言うと、山下はまた外を眺める。
彼の脳裡には、人魚に変身した5人の女の姿が鮮やかに焼き付いている。
・・・あの人魚達は何処へ行ったのだろうか・・・
海の中に彼らの住まいがあるのだろうか、色々な思いが走馬灯のように駆け巡る。
山下が最初にここにやってきたのが12年前の事だ。
母の故郷がここ成生だった。
故郷
12年前の平成元年3月上旬、山下が成生部落に足を止める事になったのは、ここが母の故郷と知ったからである。
彼は亡き母の回想に耽る。
山下は知多半島の常滑で生まれ育っている。彼が5歳の時に母が行方不明になっている。以来彼を育ててくれたのが父と祖母である。
彼の家は常滑でも南の端にあたる古場という海岸沿いの部落である。2百メートル西に行くと、10メートル程の崖下に海岸線が走っている。北に5百メートル行くと古場の港、東側3百メートル先の県道沿いに南稜中学校がある。南に1キロ先に、ソニーの創業者、森田家が経営する森田酒造がある。
山下丈雄は母の味を知らない。祖母が母代わりである。その祖母も山下が18歳の時に亡くなっている。以来父と2人暮らし。父は古場の漁業組合の事務の仕事をしていた。勤勉実直を絵にかいたような人物である。酒もたばこもやらない。ギャンブルや女にも手をさだない。
自宅は古いが一軒家の借家である。家賃が安いので、父の給料で安定した生活が送れる。山下は地元の高校を卒業後、名古屋の国立大学に入る。大学卒業後は地元の農協の渉外部に勤める。
農協は本業の金融や農業関係の他に事業拡大を目指していた。旅行社や不動産、通販など、アメーバ―が触手を伸ばす様に、豊富な資金力をバックに着実に新規事業の展開を画くしていた。
就職するなら名古屋の1流企業へとの気持ちもあったが、名古屋勤務となると、早朝に家を出る。夜遅くの帰宅となる。父1人、子1人の生活に支障が出ると懸念して、比較的勤務時間の自由が利く農協の渉外部にと腹を決めたのだ。昭和58年の春であった。
昭和50年代半ばから日本はバブル景気への上昇気流に乗ろうとしていた。農協も多角経営を目指していた。不動産業へはいち早く進出を決めていた。旅行、小売業と、当初は小さいながらも事業化を試みている。
山下が農協に入った時はいくつかの事業が軌道に乗り始めている。今後成長が見込める事業を捜すのが山下たちの仕事だった。
常滑市役所から約5百メートル南東に常滑市市場町がある。海岸線に2階建ての農協本店がある。一階が金融部門、2階がその他の業務の集合施設となっている。
本店の南側に、道路を挟んで2階建ての南館がある。一階が不動産部、旅行社、年金相談などが集まっている。2階が山下の勤務場所である。
山下が入社したころは有線テレビ事業部や警備保障などが設立されていた。
インターネットやホームページ、その他利用できるあらゆる情報網を活用して新規事業の開拓を試みる。
土曜、日曜、祭日は休み、朝9時から夕方5時まで、古場の自宅から車で忠勤しても5分程度の距離。渉外だから外に出る機会も多い。仕事上、あらゆる職種の人との付き合いができる。
山下は父と同様、大人しい性格である。高校、大学と一応クラブ活動で柔道をやっていた。プロになるわけではないので熱心ではない。就職後、1週間に3日ばかり、市役所から2百メートル程北にある常滑市立体育館、通称市民アリーナのサーキットトレーニング場で汗を流す。仕事が終わって1時間ばかり、自分に適した運動で体を鍛える。
5,6人の男性が同時刻にトレーニング場にやってくる。3人ばかりが市役所勤務、残りの者が市内の事務所に勤務している。2,3年もすると顔なじみとなる。年の暮れや正月明けには、居酒屋で一杯やるほどになる。
平々凡々と過ぎる毎日であるが、仕事が楽しいので、飽きることはない。山下の性格としては、与えられた仕事は忠実に果たす。責任感も強い。渉外部は山下を含めて6名。課長に係長、社員が男女それぞれ2名づつ。
――この仕事を農協でやってくれないか――という業者からの売り込みもある。
事業として成り立つ見込みのあるものは検討するが、そうでないものは業者に一任する。例えば健康器具の販売。農協で直接扱うには費用がかかりすぎる。かと言って、お払い箱にするにはもったいない。そこで考えだされたのが、業者が農協の組合員に直接訪問して販売する。あるいは農協が組合員に月一回発行している農協案内に広告を掲載する。農協の会館で健康器具の説明会を開く。
こうした販売方法も山下達が考える。製造業者を訪問して、その商品が”まとも”かどうかを調査する。万一偽物や欠陥商品と判ると、農協の信用にかかわる。
休日には、自宅の近くにある常滑マリーナでボートを借りて沖に出る。時には父と一緒の事もある。漁師とは顔なじみなので漁船に乗せてもらう事もある。
伊勢湾に出ての沖釣りは何よりの楽しみである。釣りをしなくても、海上にいるだけで、山下の心は和む。その時、行方知らずの母の事が脳裏に浮かんでくる。
母がいなくなったのは山下の5歳の時だから顔を覚えていない。父と一緒に写っている写真をみて、母の面影を偲ぶばかりだ。
成生神社
山下は窓の外の田園風景を眺めながら、若い頃の回想に耽っていた。
・・・ここに来たのは12年前、そのきっかけは父の失踪だった・・・
その時「お食事、お運びします」若い女の声と共に襖が開く。目のくりくりした女性が魚の揚げ物や煮込みうどんなどをテーブルに置く。
「お口に合いますかどうか」
歳は18。白の割烹着姿である。髪を後ろに束ねただけの化粧下のない顔である。
山下はテーブルに腰を据える。
「お母さんがいなくなって寂しいですね」
人魚に変身した4人の女の内、1人がこの旅館の女将、彼女の母である。
言われて娘は怪訝そうな顔をする。暗い表情などどこにもない。
「別に寂しくありませんが・・・」
湯飲み茶椀にお茶を注ぎながら山下を見ている。
「母が人魚になって、海に還れてうれしい事です」
彼女は言う。人間は身近な者が死ぬと悲しいと涙を見せる。それが解せない。死んで牢獄のような肉体から解放されて魂は自由を得る。むしろ喜ぶべき事ではないか。
「母は人間としての務めを果たしました。そして自由を得ました」
山下はお茶を飲みながら頷く。父や母の失踪をここに来て理解し得たのである。
「ところで・・・」娘は言葉を改める。
「今夜、成生神社で精進潔斎の神事が行われます」是非出席しろという。これは5月の満月の日の翌日の夜に行われる。
「私は人を殺した・・・」山下はポツリと言う。
「その罪穢れをおとすためにも・・・」
食後、山下は部落を散策する。
部落は県道を挟んで、円を描くように広がっている。戸数が知れているので、部落の外れまで歩くのに10分とはかからない。
成生神社は部落の南の外れにある。その北側にある、こんもりとした丘の上に鎮座している。木の鳥居をくぐると自然石を並べた石段がある。左右はうっそうたる森である。数十段ある石段を登りつめると神社の境内地に出る。3百坪はあろうか、前面の神殿は思ったよりは小さい。
――精進潔斎の神事――とは禊、つまり水を浴びるのだろうか。ここは人魚にまつわる神社として、成生部落の人達によって、密かに祀られている所なのだ。
年に1度の部落にとって大切な神事と聴いている。祭りのための準備でも行われているのかと期待して来た。誰もいない。森閑とした春の気配が漂っているのみ。
・・・まだ早いのかな・・・真昼時である。風1つない。ポカポカとした陽気が支配している。
改めて神殿を見る。普通は拝殿があり、その奥に神殿がある。この神社は簡素と言えば聞こえがいいが悪く言えば粗末である。建坪10坪ほどの瓦葺きの建物がぽつんとあるだけ。それでも山下は心を無にして柏手を打って参拝する。
石段の上に腰を降ろして前方を見る。左右の森をかき分けるようにして成生家の屋根が見える。はっとして神殿を振り返る。
神殿は南面しているものだ。だがこの神社は西面している。多分成生家とは直線状に結ばれているに違いないと思った。成生家の西線状に冠島がある。その向こうには日本海が拡がっている。
その昔、朝鮮半島から渡ってきた人々がいた。彼らは上陸地点に神社を建てた。自分達の守り神を祀ると共に後からやってくる同胞の目印になるためだ。
毎年5月には成生部落の内から何人かが行方不明となる。ここ成生だけではない。日本全国至る所で、神隠しにあったように消えてしまう。
山下の両親もそうであった。母は山下が5歳の時だったから愛別離苦の情は紙のように薄かった。だが父は、山下が28歳の2月に突然掻き消えてしまった。母に関する1通の手紙を残したまま・・・。
その時から山下の人生は一変した。それまでは平凡な日々だったが、人生に張りがあった。
成生に来てすべてが判明した。人魚にまつわる伝説の地。そこに鎮座する、何の変哲もない神社・・・。
人魚とは一体何のか・・・。ここが人魚にまつわる部落であることは判っても、人魚そのものについては、今だ謎だ。
――人魚姫――常人離れした人魚姫の口づけで、山下の傷は癒された。体力が回復しただけではない。10歳くらい若返ったような気力で満ち溢れている。
――八尾比丘尼――の伝説もある。人形の肉を食べた少女がいつまでも歳をとらない。不老不死伝説に繋がっていく。
父も母も生きている。山下は雲1つない空を見上げる。全ては父の失踪から始まった。
山下は父の面影を追う。
父の秘密
平成元年2月下旬の事。山下が28歳の時、父が失踪した。前年父は漁業組合を定年退職している。これからは好きな事をやって毎日楽しく生きていけばよい、山下は考えていた。父も好きな沖釣りでもして暮らしていきたいと語っていた。
父の失踪は唐突であった。山下から見れば青天霹靂の事件だった。ノイローゼ気味で厭世的な気持ちで行方不明になったというなら、――やっぱり――と納得するが、父はこれから自由気ままに生きると、顔をほころばせていたのだ。
朝一番に食事を摂る。山下は仕事に出かける。渉外係という仕事の関係上、業者との付き合いも多い。夕方4時頃、携帯電話で帰宅が遅くなると父に連絡する。
9時頃帰宅。家に明かりがついているので、父がテレビでも見ながら晩酌でもやっていると思って「ただいま」玄関の引き戸を威勢よく開ける。
普段なら「お帰り」父の優しい声が聞こえる。
室内は明かりがついているが、応答がない。どこか近所にでも出かけているのだろうと思う。和室に入る。コタツのテーブルの上に1通の手紙がある。コタツに足を突っ込みながら何気なく封を切る。10枚の便箋に眼を通したとき、山下の顔は青ざめる。慌てて玄関を飛び出す。県道まで駆け出す。父がよく通うコンビニに入って、父がこなかったか尋ねる。
5時頃、常滑駅行きのバスに乗った姿を見ているとの目撃証言を得る。全身の力が抜けていく。足取り重く我が家へ引き返す。
手紙には――時が来た。母さんのいる所へ行く。お前にはいつか会える――謎めいた言葉が書き連ねてあった。その他預金通帳が机の引き出しにあるとか、何か困った事が出来たら、誰々を頼って行けとか、山下から見ればどうでもいいような内容が書き連ねてあった。
――私や母さんの事を知りたければ、この住所に行くように――
父は事務の仕事をやっていたが筆まめではない。文章はあまり書かない。その父が便箋とは言え、10枚の手紙に書き残したのは、家を出るので後を頼むと、まるで2,3日後にはケロリとして帰ってくるような内容なのだ。文章から見て暗さがない。事務的というか、あっけらかんしている。
だが、残された山下にとっては夜も寝られぬ程の衝撃なのだ。小さい時から一身になって育ててくれた、誰よりの好きな父なのだ。
その夜、山下はまんじりともせずに過ごした。父の失踪の手がかりはないかと、机の引き出しを捜してみる。あるのはアルバムだけで、これと言った目ぼしいものは何もない。
夜が明けても、彼はコタツの中で悶々としていた。仕事をする気にもなれない。9時頃農協の渉外部に電話を入れる。気分がすぐれないので休むと伝える。
朝食を摂る気にもなれない。コタツに入ったまま、うとうとする。さすがに疲れで眠りに入る。
不思議な夢を見る。
山下が魚になって、ぐんぐんと海中深く潜っていく。光りの届かない世界の筈なのに、だんだんと明るくなっていく。海底にお椀を伏せたようなドームが見える。体が吸い込まれるように近ずいて行く。入り口もないのに体がドームの中に入って行く。
ドームの中に入ると、山下の体は人間の姿になる。外見から見たドームは小さかったが、中に入ってみると随分広い。歩いても歩いても壁に突き当たらない。大勢の人がいる。皆歩いたり、宙を泳いだりしている。地面が平らで、人々はそこから出たり入ったりしている。まるで地の底に潜ったり、現れたりする。
山下も地の底に潜る。一瞬、暗くなるが、すぐにも目もくらむような明るい世界になる。
そこは地上と全く同じ世界で、山下の住んでいる世界そのままである。石造りの家が無数にある。気が付くと地面に足がついている。水はなく、空気がある。
一軒の家から父と母が出てくる。にこやかに山下を迎える。
山下は、はっとして眼を覚ます。腕時計は昼を指している。空腹に耐えかねて外にでる。県道沿いのコンビニの隣の喫茶店でスパゲッティを注文する。気持ちが落ち着いてくる。
・・・母の故郷へ行ってみよう・・・山下は決心する。
3月のはじめ、4日間の休暇を取る。
成生の地に来て、父の失踪がこの地に伝わる人魚伝説と深い関りがある事を知る。山下が見た夢が単なる夢だったとしても、人魚の住む世界が海底にある事も理解する。
母の実家
平成元年3月4日、夜10時に常滑を出発する。車は白のカローラ。一の宮インターから名神高速に入る。米原から北陸自動車道路に乗る。敦賀インター手前の賤ヶ岳サービスエリアで休息する。敦賀インターを降りた時は翌5日の深夜2時であった。国道27号線を走り、敦賀市、小浜市を抜け、ただひたすらに車を飛ばしていく。高浜町にパーキングエリアがある。長距離の大型トラックが数台駐車している。エリア内に食堂がある。ここで朝食を摂る。時計を見ると早朝4時。30分ばかり休憩して、成生岬はの県道を進む。
成生旅館に着いたのが朝5時、予約してあったのですぐにも部屋に案内される。早朝に旅館に入るのは異例の事であろう。電話で問い合わせた時、快く承知してくれた。
部屋に案内してくれたのは、女将さん直々である。彼女は12年後に人魚に変身する。まだ30代の若さである。部屋には寝具が敷いてある。3月とは言え、身を切る寒さである。部屋には暖房が効いている。その心尽くしに、山下は感謝した。
「お昼までお休みください。昼食後、お母様の実家にご案内します」女将の言葉に従って横になる。
11時ごろ起床、風呂に入っている間に昼食の用意が整う。昼食後、女将に連れられて、母の実家に向かう。場所は南の外れ、成生神社の近くの一軒家である。瓦葺きの平屋で25坪ほどの大きさである。周囲は畑で集落から少し離れている。
女将は玄関の引き戸を開ける。
「こんにちは」女将の声に「はーい」すぐにも声がかかる。
玄関に入る。年の頃は50。紺のジャケットを着た小柄な女性が玄関に立っている。丸顔で眼鼻立ちが整っている。
「こちら山下さん。あなたのお姉さんの忘れ形見」
女将は山下を紹介する。山下はペコリと頭を下げる。
「さあ、上がって!」女性は玄関の左手の和室に招き入れる。石油ストーブがあって暖かい。
「それじゃ、私はこれで」女将は一礼して帰っていく。
山下は和室の座布団の上に腰を降ろす。女性はお茶を持って入ってくる。
「山下丈男さんね。姉から聴いていますよ」
「母は生きているんですね」山下の性急な質問に、女性は無言でうなずく。
母の旧姓は成生、成生旅館の女将も成生。この部落の大半の住民は成生姓である。女性の名前は時子。
山下は両親の事をほとんど知らない。成生時子に母の事を尋ねても、そのうちに判る時が来るというのみで取とめがない。
「まあ、お茶を召し上がれ」時子は眼を細めて山下を見ている。慈しむ表情だ。数少ない身内が訪ねて来てくれた。感無量の思いなのだろう。
山下はお茶を飲みながら、挨拶もそこそこに母の事を尋ねた自分を恥じた。相手が口を切るのを待つ。
成生時子、49歳。6つ年上の主人と、25歳の息子が1人。主人は今、遠洋漁業で船に乗っている。水ヶ浦港に帰ってくるには4月中旬。息子は舞鶴市の京大水産実験所で働いている。独身で身軽なのに、盆と正月しか帰ってこない。
成生時子は身内の紹介が終わると、サッシ窓を通して外の景色を見る。遠くを見る眼つきだ。過去を懐かしむ顔になる。サッシ窓からは若狭湾の青い海が見える。家の周りは田や畑ばかりだ。ところどころこんもりとした森が見える。
「姉は・・・」成生時子は言葉を続ける。
山下丈雄の母の旧姓は成生幾子。時子より2歳年上。
山下は固唾を呑んで時子を見守る。
成生幾子はこの家で生まれる。水ヶ浦中学校を卒業すると舞鶴市立の高等学校に入る。成生部落からの通学は無理なのでアパートを借りて移り住む。高校を卒業すると、舞鶴港にある日立造船所に事務員として就職する。
成生部落は漁業に従事するか、田や畑を耕すしか生計の道はない。若い者は舞鶴市や県外に職を求めて出ていく。成生時子も若い頃は大阪で働いていた。
成生幾子が山下の父静雄と出会ったのが21歳の時。成生幾子が仲間と一泊旅行で京都にやってきた。この時父は31歳。父は1人旅が好きだった。
清水寺で父と母は運命的な出会いをする。
3人のグループで来ていた母は、父に写真を撮ってもらう。3人が一緒に収まる写真が欲しかったのである。父も母に写真を撮ってもらう。女3人に父が加わった写真を撮ったりして、お互い意気投合する。父は京都には度々来ているので市内に詳しい。母達は父と連れ立って京都見物をすることになる。
この縁がきっかけで父は母と交際する。結婚にゴールインする。一年後に山下丈雄が生まれる。
「姉とあなたのお父さんの結婚式は、成生神社の神殿で執り行われました。あなたの誕生も、成生妙子さんの家のテラスで行われました」
成生時子は淡々と話している。
「あなたの両親とあなたは人魚の世界に還る運命を担っているのですから・・・」
山下は驚きの表情で成生時子の柔和な表情を見詰める。
母の秘密
「人魚・・・?」
驚愕の表情の中に、山下は戸惑いの色をあらわす。
人魚など、今の今まで思いつきもしなかった。父や母の失踪の原因は、人に語る事の出来ない暗い背景があるものと想像していたのだ。
人魚などという、空想上の生物など、どうして想像できようか。それに成生妙子の名前が出てきた時、山下の頭の中は混乱する。
「成生妙子さんってどんな方・・・?」山下の問いに成生時子は答える。
「聖母マリア様のような方・・・」
今日の夜、彼女は女の子を産む。この子こそ、将来人魚姫になる方。成生時子はどこまでも真面目に話をしている。丸顔の柔和な表情であるが冗談を言っている顔ではない。
山下の頭の中は目まぐるしく動いている。彼女の話を理解しようと必死なのだ。成生時子はそんな山下にかまわず話を続ける。
「姉はあなたが5歳の時にここにやってきました」
5月の満月の夜に、人魚に化身して人魚の国へ帰った。
――人魚はいったん人間の児として生まれる。人間の世界で生活し、結婚して子供をもうける。ある時期が来ると、人魚に変身して、生まれ故郷に還る――
「ただし、これは女の人魚だけです」成生時子はほとんど無表情に近い。感情を表に出さないというよりも、彼女にしてみればごく当たり前の事を淡々と語っているだけなのだ。
人魚に化身する女と結婚する男性も人魚の国の男性である。女性の場合、将来自分が人魚になる事を知っている。男の場合、それを知らない。結婚によって、本能的に悟ることになる。2人の出会いも偶然ではない。無意識の内に2人は出会うべくして会う事になる。
「では、父も人魚?」
山下の問いは性急である。成生時子は目鼻立ちの整った丸顔に微笑を浮かべる。
「男は人魚に変身しません」
人間の姿のまま人魚の国に入る。そこで数百年生きながらえる。人魚の世界にも死はある。それは肉体の崩壊で、魂は不死である。
人魚は男女共に死ぬと、肉体は海水と同化していく。魂は人間の子供として誕生する。1組の夫婦に1人の子供が生まれる事もあれば、4,5人の魂が誕生する事もある。
男女とも未婚のまま人魚の国に入る者もいれば、子供を成して、人魚の国へ帰る者もいる。
山下は自分が人魚と言われても実感できなかった。頭の中が混乱したまま、成生時子の話に聞き入るばかりだ。
「丈雄さん・・・」成生時子は山下の不安な心を読んでいる。慈しむような眼差しで語り掛ける。
「いつか判る時がやってくるでしょう。心を白紙にして、私の話を聴いて下さい」
山下は尤もだと頷く。あれこれ詮索しても仕方がない。
・・・詮索と言えば・・・山下は疑問をぶつける。
「1つお尋ねします。人魚とは一体何ですか。人間とどう違うんですか」
人魚がこの世に存在するにしても、それが人間とどう関りがあるのか。
「その答えは、丈雄さんの生まれ故郷で知ることになでしょう」
成生時子は微笑するだけである。
その後、山下は成生時子に成生部落を案内してもらう。成生神社から眺める若狭湾、風島、奈島などの大小の島々、雄大な景色に我を忘れて見惚れてしまう。
次に3方を絶壁に囲まれた成生妙子の家に連れて行ってもらう。成生時子は黙って歩いている。山下は首に縄でもつけられたように後に従う。
成生妙子の玄関の引き戸を開ける。
「妙子さん、お連れしたわよ」
「どうぞ上がって」奥から声がする。成生時子は山下にも上がるように促すと、奥の和室に入って行く。そこには臨月の女が寝ていた。面長の、眉の薄い、色白の女だった。山下を見ると、大儀そうに身を起こす。
「あなたが幾子さんの子供さんね」
山下はぺこりと頭を下げる。
「今日の夜、お願いね」妙子は軽く会釈する。
「はあ?」山下は要領を得ない。今日この部落に来て間がないのだ。覚束のない返事しかできない。
と同時に、心の片隅で、ここに来た事は自分の意志のように思えても、実は何かの力は働いているのではないかと思う様になっている。
「判りました」自然に頭が下がる。何が判ったののか、理解できていないが、その時になれば判る事なのだと安心立命のような気持になる。
成生幸子の誕生
成生妙子の家を出ると、成生時子はもう1人会わせたい人がいるという。山下は奥の深い眼差しで若狭湾の海を眺めながら頷く。
部落の中ほどには役所や学校の分校がある。役所と言っても民家を1廻り大きくした程度だ。分校も、小学1年生から6年生まで全員で15名しかいない。校舎も粗末でグランドも4百坪程しかない。
成生時子は役所と学校との間の道を南に歩いていく。この部落で車が通れるのは水ヶ浦から県道のみ。それも成生部落の入り口までだ。山下も車を、入り口の広場に放置している。部落の中は道路幅が2メートルしかない。軽四の車が精一杯通行できる程度であるが、誰一人として、部落の中で車を運転する人はいない。
部落の東の外れに、海抜2百メートルの成生山が聳えている。山というより丘に近い。その南の裾野に成生神社がある。
分校の裏手に5軒ばかり瓦葺きの民家がある。その一軒目の産婦人科と書かれた看板のある家に向かう。
玄関のガラス戸を開ける。
「菊子さん、いる?」成生時子は無遠慮な声で呼びかける。
「上がるわよ」返事を待たずに玄関に上がり込む。
「さあ、上がって」山下を促す。
産婦人科とあるから診療所みたいな所と思ったが、玄関の上がり框の右手は台所兼応接室を改良して、ベッドのような長机が置いてあるだけ。左手は待合室となっているが、普通の和室である。
成生時子は和室に腰を降ろすと、一諸に座った山下に「産婆さんね」1人苦笑する。
「待たせてごめんね」台所の勝手口から、年の頃50ほどの女性が現れる。髪を後ろに束ねた割烹着姿である。すでに用意してあったと見えて、慌ただしくお茶を持って入ってくる。
山下は不思議な気持ちでその様子を見ている。山下が今日成生部落に来ることは成生旅館に連絡してあるので判っている事だ。ただ問題なのは、今後の山下の行動が全て予定されている事だ。山下はベルトコンベアに乗せられて動いているだけだ。
成生菊子はお茶を畳の上に置く。
「丈雄さんね。お母さん似ね。色白ね・・・」山下を嘗め回す様に見る。
「今日はよろしくね」
同じことを言われて、山下は機械的に頷くのみ。
成生菊子の家に1時間ばかり時間を潰して、成生旅館に帰ったのが午後4時頃。
夜7時に夕食。9時に成生時子と菊子がやって来る。女将と一緒に山下の部屋に勢揃いする。3人とも白の和服姿だ。山下の前に正座すると深々と頭を下げる。
成生時子は丸顔の柔和な表情を崩さない。産婆の菊子は朝黒い瓜実顔で眼が細い。唇が薄く厳しい表情をしている。女将の名は吉野。目鼻立ちが美しく、さっぱりした表情をしている。
「今夜、妙子さんに赤ちゃんが生まれます」成生吉野が神妙な顔で言う。誕生の立ち合いをよろしくというのだ。
山下は黙って頷くものの、要領を得ない。
成生時子が山下を見据えて言う。
「生まれる赤ちゃんは、将来人魚の国の女王になるお方」
山下は正座を崩さない。部屋の中は明るい。壁は朱塗り、建物の造りは古いがしっかりしている。暖房も程よく効いている。舟底天井の檜も黒光りしていて艶がある。
7・3に分けた山下の髪が揺れる。分厚い唇が少し歪む。柄はGジャケットから純白のホームウエアーに着替えている。常滑からやってきた時そのままの服装だ。母の事を知りたくてやってきたのに、自分の思惑を通り越して、将棋の駒のように動かされている。それが不満ではない。どうして自分が立ち会わねばならぬのか。赤ん坊の父親ではないのに・・・。
「あなたは将来、女王と一緒になられるお方・・・」
成生菊子が重大な秘密を打ち明ける様に言う。山下は驚愕の余り声も出ない。
「丈雄さん、自分の意志でここに来たと思っているかもしれないけど・・・」
成生時子は小柄な体を大きく見せる。柔和な顔が消える。
「丈雄さんが今ここに居るのは、私達の意志なの」
山下は瞑目する。理解不能な事実が目の前にある。彼はその立場を受け入れようとしている。何が起ころうとも、自分に与えられた運命なのだ。
「こちらこそ、よろしく」山下は淡々と頭を下げる。
夜9時半、山下と3人の女性は成生旅館の玄関を出る。
玄関先には番頭格の男や賄の女性たちが見送る。旅館の前は道路である。北に百メートル程行くと水ヶ浦に向かう県道に出る。道路の前方、西の方は田や畑が拡がっている。
南に50メートルの行くと成生部落に入る。部落の中央、分校の所から十字路になっている。西に行くと成生妙子の家の方へ出る。
夜空には星が輝いている。満月が中天にさしかかろうとしている。山下達4人が十字路にさしかかった時、四方の家から提灯を手にした村人がぞろぞろと出てくる。明るい月光の中、人々の表情さえ読み取れる。
山下達を先頭にして、提灯の列が続く。成生妙子の家に近ずくに従って、岸壁に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。潮の匂いが全身を包んでくる。
山下達は成生妙子の家に消える。成生部落から、延々と続く提灯の列は、あたかも夜景に浮かび上がる一匹の竜のように見える。提灯行列が止まる。人々はその場に腰を降ろす。
家の中に入った山下達は、和室で横になっている妙子を起こす。彼女はけだるそうに起き上がったが、和室の掃き出し窓を開けて、三方を塀で囲まれた岩のテラスまでは、しっかりとした足取りで歩いていく。
煌々たる月の光があるものの、薄暗い事には変わりがない。石段を降りる。テラスの岩の棚は黒光りしている。その場で成生妙子は白衣に着替えさせられる。
女三人と妊婦の妙子、それに山下の4人は海岸に面した板塀の扉を開ける。満潮だ。波打ち際の岩の上に成生妙子は横臥する。
「丈雄さん、こちらへ」成生時子が妊婦の側に座らせる。
3人の女は妙子の白衣を脱がせる。山下は女性の裸体を見て、見てはならぬものを見たように眼をそむける。大きくせり出したお腹が波打っている。
成生時子と吉野が妊婦の両脇に陣取る。産婆の菊子は妊婦の足元に座る。山下は時子と菊子の間に腰を据える。
妊婦のお腹がひときわ大きく波打つ。時子と吉野が彼女の手を握り締めている。菊子は妊婦の股間を見詰めている。山下は呆然と座っている。
岩の棚に打ち寄せる波の音が高くなる。満月は頭上で煌々と輝いている。突如妊婦が張り裂けるような叫び声を上げる。
白い妊婦の肉体に黒いものがこびりつくように浮き出してくる。それはやがて1つの形になる。全身が魚になっていく。というより魚の殻が全身を覆い尽くしているのだっだ。
山下は眼を見張る。全身が凍り付いたように動かない。
――豊玉姫――
山下の脳裡に記紀神話に出てくる、海神、豊玉彦神の娘で彦火火出見尊の妃、豊玉姫の話が浮かぶ。その生まれた子がウガヤフキアエズ尊で後の神武天皇の父としている。
山下の脳裡に浮かんだのはその異様な出産である。
豊玉姫は、産屋の屋根を葺き終わらないうちに産気づく。夫の彦火火出見尊が産屋をのぞくと、豊玉姫は八尋鰐の姿になっていた。夫神にのぞきみられ、豊玉姫は恥じて怒って海に去ったと伝えられる。
八尋は大きい事の意。鰐は鮫の古名と言われる。豊玉姫は出産のとき、大きなサメの姿になっていたのだ。
――人魚――
山下は人魚伝説が現実である事を悟る。その場に、今、自分が立ち会っているのだ。
「山下さん!」
成生菊子の切迫した声がする。山下はハッとする。
「ほら、赤ちゃんが生まれるわ。手伝って!」
山下は思わず菊子の側に寄る。見ると下半身の魚の殻のような真っ黒な”もの”の中から赤ちゃんの頭がのぞいている。山下はオロオロするばかり。菊子は額に汗をにじませて眼を吊り上げる。きっと歯を食いしばる。両手で赤ちゃんの頭を挟み込んで引っ張り出そうとしている。
妊婦は金きり声を上げる。2人の女性がその両腕をしっかりと掴んでいる。
「頭が出たわよ。さあ、力んで!」
菊子の叫びに、妊婦は腹の中から絞り出すような声で力む。
その黒い光景はさながら鮫が大きな口を開けて、断末魔の叫びのように見えた。と思う間もなく、黒い股間から赤ちゃんの全身が、ぬるりと這い出す。
菊子は手際よく、持ってきた小刀で赤ちゃんのへその緒を切り、糸で縛る。
「さあ、抱いて!」
山下に預ける形で赤ちゃんを託す。
3人の女は妊婦の黒い魚の形を抱き上げる。
「ついてきて!」
妊婦を抱えたまま岩棚から、乱暴に海に飛び込む。山下は物に憑かれたように赤ちゃんを抱いたまま海に入る。
人魚伝説の海
山下は真っ暗な海に入る。赤ちゃんの体と共に、ぐんぐんと海底に沈んでいく。目の前に3人の女に抱きかかえられた成生妙子の裸体がある。黒い魚の形の”もの”は掻き消えている。鼻や口では息が出来ない。肉体のどこかで空気を取り入れているのだろうか。息苦しくはない。海水の冷たさも感じない。
両手両足をぐっと縮めた赤ちゃんは真っ白な肌をしている。
・・・自分は将来、この児と結婚する?・・・
山下は奇妙な気持ちで赤ちゃんを見ている。不思議な事に、赤ちゃんの白い肌が燐のように光ってくる。その光は段々と大きく強くなっていく。山下を包み込み、3人の女性と成生妙子さえも包み込むほどに大きくなる。
周囲が明るくなる。海底は20メートル程の深さなのだ。周りは黒い岩肌である。
山下は周りを見て眼を見張る。山下の周囲には無数の人魚が泳いでいる。その夥しい数に圧倒される。人魚達はすべて女の姿である。人魚達は赤ちゃんこと、成生幸子の誕生を祝福しているのである。後の人魚姫の誕生を喜び合っている。
「もうそろそろ上がりますよ」声が響く。誰も喋ってはいない。にも拘らず山下の頭の中で声として聞こえてくる。声の主は成生時子。
促されて山下達が海面に上昇する。赤ん坊の燐のような光も消える。岩棚に上がる。母親の妙子は赤ん坊を腕の中に抱きしめる。
成生妙子と赤ん坊、それに菊子が家の中に残る。成生吉野と時子、山下丈雄の3人は成生部落に還る。長い提灯の行列はすでに消えていた。
裏切り者
山下は12年前の思い出から我に還る。腕時計を見ると午後の4時を過ぎている。成生神社の石段に腰を降ろして、長い物思いにふけっていたのだ。12年前の衝撃的な赤ちゃんの誕生が今でも鮮明に思い出される。
――あの日――
赤ちゃんの誕生の翌日は成生部落は平穏だった。人々も何事もなかったように生計に勤しんでいた。
山下は成生妙子の家に行く。赤ちゃんに乳を飲ませている妙子の姿は、どこにでもいる”普通”の母親だった。何処の漁村にでも見られるありきたりの風景の一コマに過ぎなかった。
ちなみに成生妙子の夫はすでに人魚の国に還っている。
それから2,3日後山下は成生部落を後にしている。
山下は石段の下の鳥居を見る。辺りは森閑としている。今夜は神社で精進潔斎の神事が行われるという。神事というからには、部落総出のお祭りに違いない。もうそろそろお祭りの準備に入ってもいい頃だ。村の有志が三々五々集まって、神殿の前にテントを張ったり、神殿の掃除をしたりする。その奉仕をする人達が集まってきても良い筈なのだ。
誰も来ないところを見ると、準備はしないのだろうか。
5月とは言え、北陸地方の夕方は肌寒い。
山下は成生旅館に還る。部屋の中は適度の暖房が効いている。夕食の時間まで風呂でも浴びてこようと立ち上がる。その時、山下の携帯電話が鳴る。
「もしもし?山下さん、堀田です。今、成生ですか?」堀田の甲高い声が響く。
堀田は山下と同年。山下と同様、常滑体育館のサーキットトレーニング場の常連だ。山下は筋肉質だが、彼はやせ形である。18の時から体育館に通っている。生来、彼は病弱で季節の変わり目には必ず風邪を引いて高熱にうなされていた。薬に頼るよりも運動が一番とサーキットトレーニングを始めている。
彼は細面の顔に唇が薄い。度の強い眼鏡をかけている。性格は大人しく、決して人と争わない。家は裕福で、父親は陶管製造に従事していた。堀田が20歳の時、陶管は売れなくなり、彼の父は広大な工場跡地を利用してアパート経営に乗り出した。知人の不動産屋から勧められたのがきっかけである。
彼が30歳の時、両親が相次いで亡くなる。遺産は彼一人が受け継ぐ。アパートの管理は不動産屋任せ。以来、家賃収入で生活している。
堀田は無類の読書好きである。1週間に2冊読む。18の時から色々な分野の書物に親しんでいる。
山下は堀田とは馬が合う。心を開いて相談できる間柄となっている。
「堀田さん・・・」山下は絶句する。
「山下さん、テレビのニュース観て」堀田のキンキン声が忙しく響く。
「NHK・・・」
山下はテレビのスイッチを入れる。石田豊吉、38歳が水ヶ浦港に漂着して救助されたとのニュースが流れている。山下は眼を皿にしてテレビのニュースに釘付けとなる。彼を崖から突き落としたのは山下なのだ。
石田はサーキットトレーニングの仲間である。堀田と同様、気の知れた話し相手でもある。常滑で不動産屋を営んでいる。1人で仕事をしている。気軽な身分だ。
山下は父が失踪して、しばらくの間は気が動転していた。12年前の平成元年に成生部落にやってきた。それ以来”人魚伝説”に興味を抱いていた。成生部落に再度行ってみようという気持ちがあったが、何故がその夢を果たすことが出来ずに今日にいたっている。
人魚にまつわる伝説の資料や情報を収集しよとした。だがその情報が極めて少ないのに驚いた。あったとしても一般に膾炙している、ごくありふれた情報しかなかった。
山下は困惑して堀田に相談する。彼の膨大な収集能力に期待したのだ。果せるかな、彼は期待を裏切らなかった。
昨年平成11年の秋、堀田は成生部落、人魚伝説の事を石田に話したのだ。
――俺は石田ともみ合った。腹を刺されて、彼を崖から突き落とした――
20メートルはある絶壁である。昨夜は波は穏やかだったが、海底に沈んだなら、9分9厘助からないと思っていた。石田は泳げないからだ。
ニュースは伝える。石田豊吉は奇蹟的に助かった。病院で手当てを受けているものの、意識はしっかりしているという。
人を殺したという自責の念にかられていた山下は安堵する。同時に1つの不安が頭をもたげる。石田は成生部落の秘密を知っているのだ。彼は人魚伝説に異常な関心を持っていた。堀田同様山下の良き相談相手だったのだ。堀田は側面から山下を助けてくれた。石田は成生部落以外に、人魚伝説にまつわる地域を捜し出して、資金面やその他、人的な面で応援してくれた。
その石田が裏切ったのだ。
――人魚の肉は不老不死の妙薬だ――石田は秦の始皇帝と同じ夢を追っていた。
テレビのニュースは山下の喜ぶことを伝えていた。
石田は自分がどうしてここに居るのか判らないという。何故海から助け出されたのか、何も覚えていない。
「堀田さん、テレビみてます?」
「ごめん、私が石田に人魚伝説の事を話したからだ」堀田の声。
山下が言葉を失くしたが、堀田には罪はない。
――人魚の肉は永遠の生命を得る妙薬だ――
堀田は八尾比丘尼の話などから、そう結論付けた。それを石田に話している。
山下は携帯電話を切る。同時に成生吉野の娘、あやが部屋に入ってくる。テレビのニュースに眼をやる。
「助かってよかったですね」大きな眼をクリクリさせて爽やかに笑う。お茶を入れて、諭す様に言う。
「私達は決して人間に害を加えません」
山下はハッとする。もしかしたら、人魚が石田を助けた。そして――、
人魚には不可思議な能力が備わっている。人の記憶を消すのもその1つなのだろう。
精進潔斎の神事
一風呂浴びて夕食にありつく。時計を見ると7時。お茶を飲みながらテレビを見る。
「失礼します」
成生あやが襖を開けて入ってくる。小柄で少女のような体をしているが、今日からは成生旅館の女将である。手に白衣を持っている。畳の上に置くと、
「8時にここを出ます。これを着て待っていてください」
「精進潔斎の神事ってどんなお祭り?」山下は尋ねる。
4時まで神社にいたが誰も来ない。どんな祭りなのか興味がある。
「それは、行けばわかります」あやは眼をクリクリさせながら笑う。
8時になる。白衣に着替えた山下は1階に降りる。番頭格の老人が白衣姿で山下を待っていた。
「あやさんは?」山下は彼女も神社に行くのと思っていた。
「おかみさんは・・・」老人は口ごもる。ひょろりとして背が高い。柔和な表情をしている。白髪で頬がこけている。
「まだその時期ではありませんから」くぼんだ眼を伏せて答える。
「はあ・・・」山下には理解不能だが、それ以上は追求しない。
「私が案内します」老人の名前は成生龍夫、生涯独身という。玄関の引き戸を開けて外に出る。十六夜の月が明るい。
成生神社への道路には人気がない。所どころ外灯がついている。神社の境内に入り鳥居をくくる。数十段ある石段を登る。空気はヒンヤリとして冷たい。
神殿の前に出る。人一人っ子いない。寂寞たる気配が辺りを支配している。。山下は拍子抜けする。成生老人は山下の心の内を察してか、あるいは知らずしてか、神殿の前までどんどん歩く。
神殿は地面より3段ばかり高い。成生老人はそこで履物を脱いで懐に入れる。山下もそれに見倣う。階段を上る。神殿の観音開きの扉を開ける。閂が外されていた。神殿の中は闇だ。成生老人は扉を閉める。扉はきしむような音を立てる。
「ただいま到着しました」老人が張りのある声を上げる。
「全員そろったようですね」暗闇の中から若い男の声が響く。
「それでは顔見世と行きますか」声と同時に、ローソクの灯りが付けられる。
神殿の中は10帖程の広さである。板の間の他何もない。神殿だから当然神様が祀られていると思っていた。がらんどうである。
そこには白衣を着た女性4名と男性1名が着座している。声はその男の者であろう。まだ20代の若さと見た。女は白髪の腰の曲がった老婆と、中年の女性2人、それの高校生ぐらいの女が1人。山下は成生老人に促されて着座する。山下を入れて総勢6名。
成生老人が正座をしたまま、全員を見回す。
「今年も私が先導を勤める事になりました」一礼して言葉を継ぐ。
「今より精進潔斎の神事を執り行います」老人の声が続く。
精進潔斎の神事、これは明治時代になってから造られた言葉だ。明治政府による神仏分離政策や、神社の格式を理由とした全国の神社への露骨な介入が行われた。
ここ成生神社も例外ではない。村社としての存続を図るために、古代から続いていた神事はすべて闇の中に秘した。表向きのお祭りとして、1年に1回精進潔斎の神事を行っている。
――シギの祭礼、ノンモの復活――
これが成生神社で古代より連綿と行われてきた神事である。
日本が”ワ”と呼ばれていた、それよりもはるか昔から行われていた神事、それがシギの祭礼である。そこで行われるのはノンモの復活である。
ノンモの復活は後にキリストの復活祭に影響を与えている。ここに集う6名は、来年の5月の満月の夜に人魚に化身、つまり復活するのである。今夜の神事はそのための準備なのだ。
山下は興奮した面持ちで聴いている。シギ、ノンモ、これらの言葉は以前に堀田から聴いている。その時は一笑して聞き流していた。
・・・堀田さんの言う事は正しかった・・・
人形伝説の根源がノンモという言葉にある。想像をたくましくするならば、ノンモ=ノアの語源にもなる。聖書に出てくるノアの箱舟、洪水伝説はすべてノンモの伝承とそっくりである。ノンモにも箱舟や洪水伝説がついて回る。
成生老人の説明は緩慢である。山下以下5名は来年5月に人魚に変身する。つまりノンモの復活である。それをかみ砕くように老人は話しているのだ。
成生神社の精進潔斎の神事、それは人魚への化身の準備なのだ。
成生老人は各自が1本ずつローソクを持つ様に指示する。神殿の壁は幅3寸の板が縦張りとなっている。
老人は北側の中程の板を手で押す。板が外れる。中が空洞となっている。その中に縄がある。それを引っ張ると神殿の床の真ん中が、ぽっかりと口を開く。床下3尺4方の板が観音開きのように2つに割れたのだ。
ローソクの炎で照らすと、地下に下るための石段がある。成生老人は無言のまま石段を降りる。山下達も後に続く。数段下った所に縄がある。それを引っ張ると床下の板が音を立てて閉まる。
シギの祭礼
石段はなだらかな下りとなる。円を描くようにして、北の方角に向かっている。ローソクの灯で辺りを照らして進む。岩肌は黒い。数十段下ると、平坦な”道”となる。洞窟の中を歩く。数百メートルいくと大きな空洞に出る。ドームのような感じである。地面から十メートル程は岩肌のようだ。今いる所から数メートル先が岩棚である。
成生老人がそこで止まる。柏手を4拍打つ。
「おー!」今度は6名の男女が驚きのこえを挙げる。
突然ドーム状の洞窟がまばゆい程に明るくなる。光源は定かではない。太陽の光が出現したかと思うような明るさだ。驚きはそれだけではない。壁や天井は岩だとばかりに思っていた。それが白銀の様な金属に変わったのだ。
「ここは、我らノンモ族の船です。聖書にはノアの箱舟と言っている」
地面を見ると、満々たる水がたたえられている。山下達のいる岩棚すれすれまで水かさがあった。
「それではシギの祭礼を執り行う」
シギの祭礼とは、太古よりドゴン族が、60年に1度世界の再生を目的として執り行っている。人類創生の時から始まっていると言い伝えられている。
ドゴン族の村、ゴ・ドゴル村の中央にあるユゴの岩の裂け目が、祭礼を行う前年に赤く輝くとされている。
この祭礼はシリウス星との深い関係が指摘されている。ドゴン族はこの星を”シギ、トロ”つまりシギの星あるいは”ヤシギ・トロ”ヤシギの星と呼んでいる。
この事実はシリウスと60年ごとに行われる世界の再生の儀式と関連している。
シリウス星は極めて重要な星である。天空に輝く他のどの星系とも違っている。ドゴン族の1つ、オノ族は、その属性を帯びている金星をオリオンの帯を支配する星とみなしている。
成生老人はいう。どの民族、どの移住民にとっても、故郷の風習や習慣は忘れる事はない。新しい土地に定住しても、故郷の風習は受け継がれる。神を祀る儀式も同じである。
シギ=シリウスから移動した我が先祖もまた、シリウス星での生活、習慣を地球にもたらした。
60年ごとの世界の再生とは、宇宙の気運が60年ごとに一巡して、新しく生まれ変わる事を意味する。 「シギの祭礼を通じて、我々先祖の神、ノンモの魂に還る」
成生老人の頬が紅潮している。自分の声に酔ったように、声が大きくなる。
山下達は白い光に包まれて気持ちが高ぶっている。
――やがて、人魚に化身してノンモの元に還るのだ――
至福の気持ちが全身を貫いていく。
「おー!」全員が歓喜の叫びを上げる。
成生老人の言葉が続く。
「私に続け!」白衣のまま、老人は岩棚を降りて水の中に入って行く。6名の者も後に続く。ローソクの灯のみが白光にかき消されまいとして、赤々と輝いている。
・・・水?・・・
これは水なのか。水の中に入ってもローソクの灯は消えない。普通に息もできる。白衣も濡れない。
「この水は・・・」
成生老人の声が響いてくる。山下の耳朶にはっきりと伝わってくる。
「我らが故郷、シギ、つまりシリウス星の空気であり、時としては地球の水に変化するものだ」
”水”の中は意外に深い。ドーム状とみたこの空洞は、実は卵型をしているのだ。
”地”の底に到着する。この中にも白い光が充満している。
――シリウスからやってきたのは我々ノンモ族だけではない。数多くの動物も連れてきたのだ。聖書のノアの箱舟の動物を載せた話は、この時の有様を記述したものである。
成生老人の声が響く。
底も白銀色の金属で出来ている。老人が手を触れる。ぽっかりと丸い穴が開く。老人と6名の男女が中に吸い込まれる。同時に穴が閉じる。
暗闇の中にローソクの灯が赤々と輝く。
そこには黒い壁に星座が描かれていた。それら1つ1つの星が光り輝いていた。別の壁には肩まで垂らした長い髪の男の姿が描かれていた。豊かな顎髭をたくわえ、厳しい表情をしている。下半身が魚である。
「我らが先祖神ノンモ・・・」
成生老人は膝を崩す。山下達も見倣う。その時、ノンモの絵姿が壁から抜け出したのだ。山下はあまりの事に身震いする。恐怖で体が動かない。
ノンモは山下達1人1人の頭に手をおく。急にローソクの炎が激しく燃え上がり、巨大な炎となる。山下は頭天から焼けただれた鉄の棒を差し込まれたような衝撃を受ける。
山下は声ならぬ声を上げる。
――今後の成すべき事を悟ったのだ――
急に意識が遠のいていく。そに直後である。
・・・ノンモの復活・・・成生老人の声ではない。他の5名の声でもない。
・・・ノンモが語り掛けている・・・
ドゴンの伝説
山下はどのようにして成生神社の神殿の中から帰ってきたのか判らない。何かの夢でも見ているような気持だった。夢遊病者のような感覚だった。
気がついたら神殿の中で正座していた。
・・・夢でも見ていたのだろうか・・・ 淡い記憶の実感しか湧いてこない。
「それでは皆さん、お帰り下さい」
成生老人がにこやかに話しかける。各々無言のまま立ち上がる。神殿の扉を開ける。東の空がうっすらと明るい。鳥居の前の境内地まで来ると、それぞれ無言で挨拶して別れる。誰がどこに住んでいるのか、何をしているのか、何もわからない。重要な事は、1年後に人魚の国=ノンモの元に還るという事だ。各自がノンモの意識と1つであるという連帯感を共有し合っている。
その日の朝、山下は成生の地を離れる。常滑に還る。
12年前、成生幸子誕生後、堀田から聴かされたドゴンの伝説が鮮明に蘇る。
アフリカにドゴンという部族がいる。
彼等は地球から8,7後年彼方にあるシリウス星系(おおいぬ座)の天文学知識を継承している。しかもこの星系の肉眼では見えない2つの伴星に対しても正確な知識を持っている。
ドゴンの伝承によると、シリウス星にシリウスA(犬狼星)、シリウスB,さらにシリウスCが存在するという。
1976年、シリウスミステリーが出版される。ドゴンの伝説が紹介される。
1995年、フランスの天文学者ベネストとデュヴォンは、シリウス星系の原因不明の摂動からシリウスと名付ける赤色矮星の存在を推定する。
俄然、シリウス星系から知的生命体が地球にやってきたとするドゴンの伝説が注目される。
ドゴンの伝説によると、シリウスの周囲を回るディジタリア(シリウスB星)の星と呼ばれる星が創造の出発点というのだ。
その伝承によると、この星はすべての星の中で最も小さいが最も重い星であり、全ての種子を内包している。シリウスの周囲を自転しながら回る動きは、宇宙の全ての創造を支えている。その星の軌道が暦を決定している。
このシリウスB星は肉眼ではほとんど見えないのではない。全く見えないのだ。1970年になって、米国海軍天文台のアーヴィング・リンデンブラットが、シリウスBの写真撮影に成功している。
ドゴン族は現在のマリ共和国に移住している。彼らはディジタリア(シリウスB)をポ・トロと呼んでいる。これは小さな星という意味である。事実この星は白色矮星でごく小さな天体である。だがその質量はとてつもなく大きい。人間がこの星にいると押しつぶされてしまう。
ドゴン族はシリウスBの軌道を楕円形としている。この天体の動きはケプラーの法則”太陽は楕円形の焦点の1つである”に当てはまる。
ここでドゴンのシリウス星の知識の一端を述べる。
――公転軌道は2倍、すなわち百年に勘算される。なぜなら、シギは「双子座」の原理を表理する為に、「双子」を2人一組で召喚する(シギの秘儀)――
シリウスBは自転している。
――ディジタリアは、宇宙を移動すると同時に、1年かけて自らを回転させる――
――天空で最も小さい星が、最も重い星である。ディジタリアは最も小さく、最も重い星だ。この星は‷サガラ”という金属で構成されていて、輝きは鉄よりも明るく、地球の生物が力を合わせても持ち上がらない程重い。重さは地球の全ての鉄の重さに匹敵する――
ドゴンの伝説は語る。
シリウス星系には第3の星「エンメ・ヤ」が存在する。
――エンメ・ヤは女性の太陽、あるいは小さな太陽である。エンメ・ヤが伴っている惑星は女性の星、あるいは山羊飼い、あるいはエンメ・ヤの導き手と呼ばれる――
ドゴン族は、恒星や惑星の集合体である星系を表現する時は”胎盤”という。
例えば太陽系はオゴの胎盤、シリウス星系はノンモの胎盤と呼ぶ。ノンモとは文明と社会を構築する為に地球を訪れたシリウス星系人の事である。
ノンモは水陸両棲の生物であり、上半身は人間、下半身が魚の姿をしている。シュメールやバビロニアの伝説にあるオアンネスそのものである。
ドゴン族がシリウス星系の正確な天文学の知識をどうして知り得たのか。ドゴンの伝説によると、シリウス星系からの訪問者ノンモに導かれたという。
――ノンモの玉座は水底にある。彼らは水陸両棲であるものの、基本的には水の中でしか生活できない――
――ノンモの一団を地球に派遣したのは、宇宙の最高神アンマである――
――ノンモは箱舟で天界より来臨し、箱舟を旋回させながら着陸した――
ノンモという名称は、シリウス星系から来た水陸両棲体の個々人を示す場合に用いられる。
地球に来訪したノンモは3つのグループに分類される。
第一のグループはノンモ・ティティヤイネと呼ばれる。彼らはノンモの、デイゴ(シリウス星系に残ったノンモ)の使者で、地球の文明を創造する。
第2のグループはオー・ノンモ(池のノンモ)で世界の浄化と両棲の為に犠牲となる。人間となって蘇る。子孫を増やし、元の姿に戻り水底より地を支配する。
第3のグループはオゴあるいはノンモ・アナゴンと呼ばれる。彼らは世界の浄化と両棲が完成間近になった時、世界に混乱をもたらす、手に負えない厄介者である。
――ノンモは自らの身体を切り分けて、人間に食べ物として与えた。宇宙がノンモの身体を飲んだように、ノンモは人間に飲ませた。ノンモは人間に自らの生命原理を与えたのだ――
これによって人間は永遠の生命、不老不死の力を得たのであるが、ノンモ・アナゴンの策略によって、その実現は困難を極める様になる。
現代天文学の知識によって、シリウス星系を想像してみる。
シリウスAの光度は太陽の35、5倍ある。相当に熱い恒星である。シリウスAの半径は太陽の1,5倍程度である。よってシリウスを太陽とするノンモの故郷の惑星から眺めるシリウスは、我々の太陽よりもはるかに小さい。
ノンモが水陸両棲体である事で、その故郷の気候は高温多湿であると想像できる。こういった惑星は知的生命体は水陸両棲体として進化する。彼らは哺乳類であり、魚のようなエラは持たない。水と陸の狭間で生活する。
ノンモはいるかのような姿をしていたという。おそらく水中でも長時間にわたって息を保つことが出来たと思われる。ドゴン族の伝承では”ノンモは鎖骨で呼吸をしていた”という。水分無しで過ごせるのは2,3時間。水中で暮らす限り、衣服は必要ない。裸が常態であった。
シリウス星系には高度な文明を誇るシリウス人がいた。
今から7千年以上前に地球を訪問し、地球文明の基礎を創造した。しかしその奇態な姿の為に人類の前から姿を消した。
石田豊吉
平成13年も6月となる。成生部落から帰ってきて約2週間、山下の生活に変化はない。朝、農協に出勤する。夕方、常滑体育館のサーッキトトレーニング場で汗を流す。帰宅して夕食を摂る。
少々様子が変わった事と言えば、石田豊吉が体育館に顔を出さなくなった事だ。彼は山下が成生部落から帰って4日目に帰ってきた。水ヶ浦港で救助され病院で手当てを受けている事はテレビの報道で知っている。その石田がわずが4日後にはぴんぴんした体で常滑に帰って来ていた事だ。
石田は不動産業を営んでいる。場所は常滑市榎戸町。名鉄線榎戸駅近くだ。彼は15年前の23歳の時に常滑にやってきた。半田市の某不動産屋で働いていて、2年後に独立している。
山下は不動産屋としての石田の経歴は知らない。しかし押しの強さと粘りで業績を伸ばしているとの評判は耳にしている。
石田を知ったのは堀田と同じくサーキットトレーニング場である。平成7年頃から顔を見せる様になっている。サーッキトトレーニング場の利用者の半数は市の職員が半数を占めるものの、後の半数は市内在住者である。職業は多様だ。そこは体力トレーニング場という本来の目的以外にも社交の場としての機能も果たしている。約1時間のトレーニングの間に、趣味とか、酒、女、仕事の事などで会話の花が咲く。
2,3ヵ月に一回は一杯やる会が開かれるほど、個々に親密な仲になる。
石田は不動産屋ながら、古代の神秘思想や超能力、宗教、古代連君術、UFOなどと言った、山下から見れば”げてもの”に興味を持っている。
山下は13年前に成生部落で不思議な体験をしている。以来、石田の趣味をげてものと蔑む事はしない。堀田同様、心の内を分かち合える仲として付き合ってきた。
石田は小太りで精悍な顔立ちをしている。人当たりも良い。彼の家は一階が不動産の店舗。2階が住まいである。
6月の第一日曜日、堀田から電話が入る。会えないかという。体育館内の喫茶店で落ち合う。
「私ね、この前石田さんの店に行きました」
堀田の薄い唇が蛭のように動く。分厚い眼鏡をたくし上げて、山下を直視する。彼は年中トレーニングウエアーを着ている。というか、その姿しかお目にかかった事がない。付き合って長くなるが、言葉遣いは丁寧だ。
その点石田は、知り合った当初から砕けた口調である。その石田がここ3週間ばかり体育館に来ないので、尋ねていったのである。
「随分穏やかになりましてねえ、まるで別人でした」
石田の人当たりの良さは商売用の顔なのだろう。一杯入り、話に熱がこもると、彼の眼つきがぎらついてくる。精悍な顔立にすごみが出てくる。
――穏やか――と称する堀田の口調は以下のように伝える。
生気を抜かれた人間みたいで、アクの強さを全く感じさせない。言葉遣いも優しい。
――気の抜けたビールみたい――堀田の評である。
その石田がいうには、どうして自分が水ヶ浦で救われたのか全く分からない。何故あんな所に行ったのか、その記憶すらない。
「山下丈雄さんを覚えているか」堀田の問いに、
「知ってますよ。体育館で一緒にトレーニングしてましたから」
石田の記憶の中には、成生部落の出来事だけが、すっぽりと抜け落ちている。
「トレーニングはもうやらないのですか」と堀田。
「うーん」とうなってから、「何か、こう、やる気力がなくなってしまってねえ」石田の答え。
「どうもう一度石田さんと会う?」堀田は眼鏡越しに山下の顔色を窺う。
「もう会っても仕方がないでしょう」険悪な印象が山下の脳裡を花火のように砕け散る。唇をへの字に結ぶ。嫌悪感で肌がざらつく気持ちだ。
堀田は無言で頷くと、コーヒーをぐっと一飲みする。
「ところで人形伝説の事ですが・・・」堀田は身を乗り出す。声を細めて話しかける。
喫茶店内は日曜日でありながら山下と堀田以外にお客はいない。体育館で催し物があると店内はお客であふれる。体育館の2階のバスケット場は老人クラブの書道や絵の展覧会会場になったり、文化祭や市民の写真展、焼き物、華道の展覧会会場に利用される。
人魚伝説の謎
山下は堀田を見詰める。彼の薄い唇が良く動く。多弁というほどではないが熱が籠ると饒舌になる。度の強い眼鏡をたくし上げながら話す。性格は几帳面だ。派手さはない。コツコツと積み上げていくタイプだ。決して人を裏切らない。知識欲は旺盛である。一冊の本を求める為に東京の神田街の古書店まで出かける。
12年前に、山下は人魚の事について知りたいと話している。
「人魚?」初めの内、堀田は戸惑った表情を見せていた。
「調べてみましょう」とにかく引き受けてくれた。そして、期待にたがわず、情報を流してくれた。
人魚について、まず日本では”和名抄”に人魚、人面の者なり”と記されている。
”扶桑略記””古今著聞集””北条五代記”などにその出現や捕獲の事が記されている。
”和漢三才図”にはオランダ人が持ってきた人魚の骨が解毒剤となると記入されている。
中国では”山海経”という書物に人魚は鯷魚に似て4足あり、その音、嬰児の如しと記されている。
”本草網目”には人魚を見た人物の実見談が引用されているが、いずれも女性である。
一方西洋では、バビロニア神話の水神エア(知恵と文明の神で半人半漁)、ギリシャ神話のトリトン(人魚魚尾の海神)、旧約聖書に出てくるペリシテ人の神ダゴン(半人半漁)の神など。
堀田が調べ上げた資料は、初めの内は漠然として役に立つものではなかった。
堀田は嘆息しながら訴えたものだ。
――直截的に、人魚という項目に的を絞ってもラチがあかない――というものだった。
そして堀田は神話や伝説のめぼしい古書に当たりをつけ始めた。
たとえば平安初期に成立した”古語拾遺”にホホデミが海神の娘、トヨタマヒメとの間にヒコナギサを産んだ。この児は後のウガヤフキアワセズの尊という。
この神話は記紀神話の海幸彦、山幸彦そのままなのだ。
そして――堀田はシュメールやバビロニアの神話は実は人魚伝説に彩られている事を確信する。
ついに――エジプト神話の神々が人魚伝説を起源とすることを知った。ギリシャ神話も同じように・・・。
旧約聖書のノアの箱舟伝説もノンモ伝説の書き写しではないかと感じる様になった。
ノアの洪水は実際にあった。この洪水伝説の源はシュメール伝説にあり、世界各地の神話や伝説の中に存在している事も判ってきた。
日本では伊勢神宮系の大祓の祝詞の原型となった最も古い祝詞の中に、大地が洪水で流され、泥芥で埋め尽くされる場面が登場する。
――顕界過去の時庶民元神の大き恩を忘れて、蔑に人道を棄て悪業至らざる無く、罪か垢重なり累りて天に睲聞せり。時に日光青色に変じ黒雲須臾にして空天を掩ひ、日体全く其影を没す。暴風俄に起り轟轟として響海嘯の如く猛雨凄然として、之に伴ひ恰も海を倒にせるが如く。顕界はすべて泥海と変じ人畜悉く溺没し其惨言うべからず。この時神勅を蒙り災を免れたる男女僅かに2人有。伊邪那岐伊邪那美の二尊即ち是なり。恭しく神璽をを奉じて端座し一心に敬拝して願趣を奉誦す。斯くて五十余日黒雲全く散じて日光昭然として放射しここに始めて蘇生の思いを作せり――
数年前の事、堀田はアフリカの原始民族ドゴン族が最も忠実な形で人魚伝説を保持している事を知る。
――アンマという神が、ドゴン族の神々の長であり、宇宙の創造主である――
――宇宙の創造の時、多くのものがアンマの内部で発酵した。アンマは回転し、踊りながら渦巻く星の世界を創造した。アンマにより宇宙は徐々に実体化し、星や渦巻く世界が次々に形成されていった――
堀田は細面の顔を輝かせて喋る。
”アンマ”日本ではアマ。神々は天照大神を最高神としている。宇宙の創造神として天御中主神。
日本を統一したのが大和朝廷。彼らは天の朝廷と称している。上記という古書によるとトヨタマヒメの出産を助けた神の名を天のオシシトの命。
以上の事を聴いたとき、山下は強引な解釈と苦笑したが、バッサリと切り捨てる程の気持ちはなかった。
「人形伝説の事だが・・・」と身を乗り出す堀田を、山下は身じろぎせずに見詰める。
・・・また何か新しい発見でも・・・と期待したのだ。
堀田には成生部落で体験した事はすべて包み隠さずに話している。人間が人魚に変身する。その凍りつくような体験も、今は妙に懐かしい。
「人間の血の中に、人魚の遺伝子が組み込まれているのではないかと・・・」
「えっ!」さすがの山下も眼を剥く。
堀田はどこまでも真面目な顔である。
「ノアの洪水伝説、ご存知ですよね」山下は頷く。
「ノアの洪水伝説はシュメールの伝説から借用しています」
借用と言う言葉に、山下は思わず笑う。堀田もつられて笑う。すぐにも真顔になる。世界各地の古い民族の伝承神話にも洪水伝説がついてまわる。
「実は・・・」
堀田は身を乗り出して重大ごとでも漏らす様に声を潜める。エジプトのスインクスの石像に洪水によって浸食された跡があるとして話題になっている。
――地球規模の大洪水が大昔に起こった。起こったというよりも、人魚の力によって生じさせられた――
山下は固唾を飲んで堀田を見ている。2人の間には沈黙が漂う。
「何のために人魚が洪水を起こす?」
「人類滅亡の為・・・」
堀田は一息つく。「旧約聖書のノアの洪水、ノアの一族以外の人間は1人残らず滅んだと言っています」
それまでの人間を全て抹殺して、自分達の遺伝子を組み込んだ人間を大地に送りこんだ。
「という事は・・・」山下は呻く。
「あなたも私も、人魚の血を持っているという事です」
その中から、選ばれた者、あるいは純血の者だけが最終的に人魚の国に行く事が出来る。
堀田の推理は飛躍するが、山下は舌を巻く。堀田の話には根拠がないが、妙な説得力がある。
・・・多くの種を蒔いて、良い実だけを刈り取る・・・
奇蹟
山下は常滑に帰ってきてからも、普段と変わらぬ生活をしている。一時期は父の失踪で心が乱れた。今は平常心を保っている。
山下は平成13年の今年で40歳になる。
成生部落で人魚の化身の場面に遭遇してから体力も気力も若返ったと実感している。
サーッキトトレーニングで日々体を鍛えているとはいえ、体力は年齢と共に落ちていく。動作が緩慢になる。無理が効かなくなる。眼が疲れやすくなる。老化現象が進行してもおかしくない年齢である。
今――山下の体力は20代である。トレーニングの激しいメニューをこなしても息切れもしない。
仕事でも、農協の渉外部は業者との付き合いが多くなる。飲み屋をはしごする機会も多い。飲みすぎると、2日酔いで翌朝は頭が痛いし、けだるい。
今――それが全くない。どんなに飲もうと、酔ったなと思う程度で、翌朝は普段と変わらぬ爽快さで眼が覚める。朝食も美味い。
「山下さんって、若くなったみたい」渉外部の女子事務員に羨ましがられる。
――来年の5月の満月の夜に人魚の国に還る――
山下ははっきりと意識している。それまでの間、人生の全てにおいて、その準備をしなければならぬ事も・・・
5月の満月の夜――1年の内で最も波動の高い日である事を悟ったのは、成生神社の地下でノンモの気力に触れたからだった。
ウエサクの祭
インドの北境にあるヒマラヤの山中で行われる祭。毎年5月の満月の日になると、その月が上る30分前に、山の中腹にある大理石の大きな四角の台の上に大仙人が出現する。その周囲には何万という数の仙人が姿を現す。それを見る為にこの満月の日の6時を目指して、遠い国々から巡礼して集まった人々で麓まで埋まる。仙人達の朗唱する頌詩に声を合わせる。
いよいよ月が出る時になって、その大仙人が右手に持つ3尺ほどの黄金の棒を振る。その棒の両端には大きなダイヤモンドがついていて闇夜に輝く。すると大理石の台の4隅に大きな花束が花火のように現れる。その真ん中に立つ大仙人がもう一度棒を振る。
今度は東の空に釈迦が出現する。左の手にお椀を持っている。そこから水がぽたりぽたりと落ちている。それと同時に、そこに集まった何十万という巡礼が懐から瓶を取り出して蓋を取って天に向ける。そのお椀からこぼれる水が何十万もの瓶の中に自然に入って行く。
巡礼は現界の人間。釈迦と仙人は異次元界の存在。
月が上る。頌詩の合唱はますます高潮に達する。やがた釈迦の姿が消える。一同は北天に向かって感謝の祈りをささげる。祭は終わる。
今まで不明だったことが自然に判るようになってきている。来年の5月の満月の日まで、自分はどのように行動するのか、自覚できるようになってきている。
山下の心に迷いはない。毎日が平々凡々ではあるが、着実に一歩一歩階段を登り詰めている。
平成13年7月中旬、うだるような暑さだが、山下は心身共に爽快である。仕事を終えて体育館に直行する。脱衣室でトレーニングウエアに着替える。
トレーニング室は体育館の一階の北側にある。北側は全面ガラス張り。トレーニング室は一階の高さより1メートル程低い。40年以上前に建てられたせいか設備が古い。冷暖房がない。そのため、夏はサウナ風呂に入っているように蒸し暑い。冬は冷蔵庫に入っているような寒さだ。
すでに堀田がトレーニングに励んでいる。彼以外誰もいない。彼は紺のバギーパンツをはいている。体の線が細い。堀田は1日の大半を家の中で過ごしている。日なが活字とにらめっこしている。トレーニングは鈍った体に活を入れるためだという。ボデイビルのような体力造りを目指しているのではない。彼がこなすトレーニングのメニューは中学生並である。
「やあ、やってますね」山下は声をかけるとトレーニング室の階段を降りる。
山下は白い肌をしている。日本人離れした逆三角形の筋肉質の体だ。彼はいくつかのメニューをこなすが、重点的なトレーニングは重量挙げである。普段は50キロのバーベルを20回持ち上げる。
山下は心身の変化が、ここ1,2ヵ月で顕著になってきているのを実感している。どんなに暑くてもバテない。激しいトレーニングをしても息が切れない。
「堀田さん、私、80キロのバーベルに挑戦してみますわ」
山下は何回持ち上がるか試したかった。慎重に数を数えながら持ち上げる。50キロから一気に80キロにアップする。5,6回持ち上がればオンの字と思っている。10回、11回と数を数えていく。ついに20回を超える。筋肉の疲れもない。何回でもできそうだ。
「山下さん、すごい。まるでスーパーマンだ」
堀田が度の強い眼鏡をたくし上げながら感嘆する。山下は50回目でバーベルを降ろす。息も切れない。自分の腕が機械になったようだ。重さによる痛みもない。
「山下さん、人間技じゃないよ。奇蹟だよ」
堀田は真剣な表情だ。
「もしかして、切られても死なないじゃない?」
「まさか!」山下は否定はするものの、心の内はまんざらでもない思いにあふれている。
「山下さん、よかったら、うちに来ませんか」
堀田は古代エジプト神話は神々の不死性に彩られていると話す。
堀田の家は常滑港の東の高台にある。現在、常滑港の沖合で飛行場建設のための埋め立て工事が進行している。堀田の家は80坪の広さがある。半分の西側は建て替えられて15年目。東側の部分は築40年。
彼は1人暮らしなので自炊生活をしているが、夕食のおかずは給食センターが配達してくれる。車で5分も走ればラーメン店や寿司屋、一杯飲み屋がある。食生活には不自由しない。
彼の家に帰る途中、ビールやつまみ、寿司などを購入する。
よかったら泊まって行けと言う。山下はその好意に甘える。
――続く――
お願い・・・この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人、団体、組織 等とは一切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情 景ではありません。