1ー3
「忘れ物?」
気配を消して、いきなり声をかけた僕に落ち度がある気がするけど、坂宮さんは驚いてバックブリッジの要領で机から落ちた。
一瞬、スカートの中身が見えそうになって目を逸らした。
「きゃっ、いったー」
机の上でブリッジをしていた坂宮さんが悪いとはいえ驚かした手前、慌てて近づいた。
「大丈夫?」
膝をさすっている坂宮さんに手を差し出した。一対一という状況と僕のせいと思い込むことで、勇気に変わっていた。
坂宮さんは、僕のパーになっている手を過ぎて手首を握ってきた。まあいいか、とそのまま引き起こす。
スカートを二、三度払いながら立ち上がった坂宮さんは、口を開きかけて閉じると笑顔を浮かべてちょこんと頭を下げた。
その仕草が可愛くて、僕の頬が熱を帯びたのがわかった。
向かい合ったはいいが、何か言うべきなのか、プリントを回収してとっとと帰るべきなのか判断がつかなかった。
じっと固まっている僕を坂宮さんは不思議そうに眺めていた。
やがて坂宮さんが口を開いた。
「桐野くん、忘れ物?」
まず僕の名前を覚えていたのにも驚いたし、固まっていたとはいえ向こうから話しかけてくれたことが嬉しかった。
ほんの数日前はただ、知ってる人程度だったのに同じクラスになって気になる人に昇格していた。
何も答えない僕に、坂宮さんの表情がどんどん泣きそうになっていくのを見て我に帰った。
「えっと、僕の名前知ってるんだ」
僕が答えにはなってないけど答えると、途端に表情が柔らかくなった。この2年ちょっとほとんど机としか見つめあったことのない僕にもわかりやすかった。
「知ってるよ。だってクラスメイトじゃん」
「……僕は、クラスメイトの名前全然覚えてない」
「えー? ほんとに? 私の名前はわかる?」
頷くと、坂宮さんは「良かったー」と安堵していた。
「何が良かったの?」
「いやーただでさえクラスメイトの名前覚えてないって人で私のこと知って欲しいって人に名前覚えてもらえてるって嬉しいじゃん」
一息に言い切った彼女の言葉を聞いて、せっかく冷めていた頬が熱を帯び出した。それに感化されたのか、ただ気付いただけなのか彼女の頬も染まっているように見えた。
「あーあー、今の聞かなかったことにしてね!」
「って言われても」
「いやほんと、よろしく頼むよ桐野くんっ。んね、なんか1つ質問答えるからさ」
どうこの取引、と得意げに胸を張った。
訊きたいことはいくつもある。その中でも、なぜありがとうを言わないのか知りたい。ただ、本当に訊いていいものなのかわからない。
「どうしたのー? ほら顔に書いてあるよ、訊きたいけど訊いていいのかどうかみたいな」
思ってた以上に坂宮さんはよくしゃべる女の子だった。
そして、その言葉は図星だ。
「いーよ、どんとこいだよ。ほんとに答えるよ?」
ここまで、友達も出来なかった僕にそんなことを訊く権利があるのかわからない。
いやそもそもそんな権利は誰にでもあるものか。
要はその人の気持ち次第なんだ。
坂宮さんの表情が寂しげに揺れたのを見て、決心した。
もしかしたら僕に知って欲しいんじゃないか、そう思うことにした。
「……じゃあ、なんで坂宮さんはありがとうを言わないの?」
僕の質問に坂宮さんは目を伏せた。もう一度目を僕に向け直す。
「すぅーはー……。信じないと思うけど……」
坂宮さんは深呼吸して、少し黙り込む。
きっと彼女は言いたいけど怖がっているのだろう。
訊きたいけど怖かった僕と同じように。あるいは僕以上に。
「私は……あと1回その言葉を言っちゃうと死んじゃうんだ。誰にもわからないんだけどね、私にはなんとなくわかるんだ」
痛みを我慢するように言い切った彼女。【あと1回ありがとうを言ってしまったら死んでしまう】そんな突拍子もない話なのに、嘘だとは思わなかった。
むしろ、しっくりきてしまっていた。
「なら、確かにありがとうって言えないね」
僕の言葉に坂宮さんはぽかーんと口を開けたあと、二、三度目をぱちくりさせた。もっと違う言葉を想定していたのかもしれない。
「そんなこと言ったの桐野くんが初めてだよ」
目尻の涙とともに笑顔を浮かべた。そして、ちょこんと頭を下げた。
「じゃあ私帰るね。桐野くんと話せてよかったよ」
坂宮さんは改めて頭を下げるとカバンを肩にかけて教室を出て行った。
「僕と話せてよかったか……」
今まで感じたことのない充実感が、湧いていた。他人と話すのが久しぶりだったからだろうか。
でも、もう坂宮さんは話しかけてこないかもしれない。秘密を知ってしまったようなものだから。
本当に、嘘だとは思わなかった。一応、家に帰ったら検索してみよう。どんな病気なのか知りたい。
初めて自分から何かを知りたいと思ったかも。
今まで感じたことのない感情に芽生えたロボットのように、僕も嬉しくなった。
机から数学のプリントを出してクリアファイルに挟む。リュックにしまって外を見る。
さっきまでまだ陽が昇っていたのにもう薄暗かった。
「坂宮さんと一緒に帰る手もあったな」
走れば間に合うとは思うけれど、まあいいか。そこまでは望んでないかもしれない。
僕も教室を出た。
家に着くと、さっきは忘れてた、実質的には意味のないらしい手洗いうがいをする。
しっかりタオルで拭ってから、二階の自室に入る。
リュックをその場に置くと、机に向かう。椅子に座ってパソコンを付けるとネットに繋いだ。
早速【ありがとう 死ぬ】と打って検索してみた。
ヒットしたのは、ありがとうと自殺の関係がほとんどだった。
一つだけ『俗称LTY(Last Thank You)と呼ばれている病について』という記事があった。
ダブルクリックして出たのは、原因不明、治療法なし、謎の病とほとんどわかってないということがわかった。
少し下にスクロールするといわゆる名医の考えとしてその要因が脳の言葉を司る言語中枢、特に言葉を発する機能を有するブローカ野に何かしらの欠陥があるのではないかと書かれていた。
わかったのは、最後のありがとうのあと全機能が停止すること最初に言葉を発せなくなるということだった。又、言語(各国の言葉)は関係ないとも書かれていた。
そして、これが載っているということは死亡例があるということだ。
その事実が一番、僕にダメージを与えた。