恋愛モノ(仮)
桜の花びらがあしらわれた百均の茶碗が一つ、三つに仕切られた白い中型のプレートが一つ、コーヒーのロゴがプリントされた赤いマグカップが一つ。炊きたてのご飯、レトルトのハンバーグにレタス、インスタントのカップスープはまだ湯気を立てている。
白い樹脂の小さなテーブルの上に載せられた、原色のボーダー柄のトレイに並ぶ一人分の食事。天気予報を見ながら、だんまり口に運ぶ。
台所をちらっと見る。アイツがいつものように、対面型の小さなキッチンに立ったまま朝食を済ませていた。袖がほつれて襟首がよれた白いTシャツが、なぜかよく似合う。メニューはたまごかけごはんだけ。毎朝毎朝、よくもまあ飽きないこと。
きゅっ、と蛇口を開ける音がする。これはアイツの食事の終了をお知らせするアラームみたいなもの。このたったの五分が、丼一杯を掻き込む所要時間。最初はびっくりしたけれど、今は当たり前すぎて何も思わなくなっていた。
アイツが無言で部屋を後にする。続いて玄関の扉の開く音、閉める音。部屋全体を一回だけ揺するそれが、私の身支度を開始するチャイム。いつの間にか、そうなっていた。
乳液をはたき、ファンデを塗り、眉を描き、口紅を引く。女は化粧で武装する。
―― あのさあ、私ってあんたの何なわけ?
昨晩の会話をふと思い出す。会話じゃない。ただ、一方的にぶっきらぼうに言葉を投げただけ。たいした返事は期待してなかったけど、まさか振り向きすらしないなんて思ってなかった。
鏡の中の顔を見る。今日はなんだか化粧が濃いかも。唇も心なしか赤が強かった。
忙しいってのは密かに助かっていた。考えずに済む。考えると、余計なことが頭に浮かぶ。余計なことに、心が荒む。心が荒んで、きっと嫌な女になる。
淡々とレジを打つ。淡々と笑顔を振りまき、淡々と金額を伝える。皺だらけの千円札を受け取り、小銭を数枚渡す。これも淡々と。
いつからだろう。職場にいると落ち着くようになったのは。お客さんが作る長い列に、苦痛を感じなくなったのは。
あっ、二千円札。ちょっとだけ癒やされた。
アイツは私にああしろこうしろ、とは言わない。小言はカチンと来るけど、何も言わなれないことって突き放されているようで少し気が滅入る。
ホームセンターで買った二人掛けのアイボリーのソファーは、今やアイツのベッド。変な臭いが染み付いて、消臭剤をふんだんに使ったのに落ちない。特に左側の肘掛けは汚い色に変色してる。バスタオルか何か敷いて、と言ってもいつもそのまま。背もたれにはくすんだ水色の毛布がかけられ、横には本が何冊も積み上げられていて、天辺の一冊は開いたページが下を向いている。読んでいない本くらい本棚に入れてほしいし、それだけじゃない。テレビの前は散らかしっぱなしのゲーム機とソフト。裏返したまま乱雑に置かれたDVD。何かのドキュメントとか、ボクシングとか、アニメとか、ジャンルもとっ散らかっている。アイツらしいといえば、アイツらしい。
少しぬるくなった水筒の紅茶を一人ですすり、そんなことを考えながら鬱憤をためる。鬱憤がたまると家に帰りたくないな、なんて思う。思ったところで、帰宅の時間は刻々と迫ってくる。何もすることがない休憩時間までも、あまり居心地がいいとはいえなくなってきた。なんだかバカみたい。
小さな窓から外を見る。一雨きそうな空模様。今の私にぴったりかも。それでも不思議と定時に帰路につく。毎日毎日。寄り道も滅多にしない。なぜ? と思う。不安だから? それともマゾだから? しょうもない考えがちらっと頭の片隅から顔をのぞかせ、俯きながらクスッと笑ってしまった。
帰宅時間を狙ったかのような土砂降りに、あちゃ〜、って叫びが心の奥から聞こえた気がした。少し待ったけど、一向におさまる気配がしない。朝の天気予報は? ぜんぜん憶えてない。いかに上の空だったか、自分のことながら情けない。ビニール傘は? 全部売り切れ。こんな日に限って。いや、こんな日だからか。
カバンを頭の上に乗せて、思い切って走る。なぜか、すうっと息を大きく吸いふっと止めて。ばしゃばしゃ右左と交互に泥水を撥ねているローファーに、水が染み込んで気持ち悪いし、袖も背中もスカートも、もうぐっしょりしてる。篠突く雨っていうけど、多分こんな空模様なんだろう。服が透けてないか心配な気持ちと、どうでもいいやって開き直った気持ちが綯交ぜになっている。それよりも化粧のほうが気になるし。
駅までもう少しってところで、なぜか目が覚めた。何してたんだっけ? ああ、そうか。と、ゆっくり意識が輪郭を帯びてくる。早く駅に行かなきゃ。家に帰って、シャワー浴びて、温かいものでも飲みたいな。その前に洗濯か。乾くかな。生乾きのニオイ残らなければいいなって、あれ? 雨は? ここは? どこだろう。目の前は、常夜灯の薄い光が、布団とシーツと天井をオレンジ色にしている、カーテンに仕切られた見たこともない景色だった。そして私は、ベッドに寝てる。仰向けで、天井を向いて。
ベッドの右に目を向ける。光る機械の画面はたぶん心電図とか血圧とかのアレ。ドラマだとピコンピコンって音が鳴ってるアレ。今は静かだ。たぶん夜だから? 画面に映る波が左から右に流れて、並んだ数字が増えたり減ったり。それが何を意味してるんだかわからないし、それがやけに眩しい。
んがっ、と変な寝息。左から、聞き慣れた声音。少し落ち着いた私は、これは夢だと考えた。夢は疑うと覚めるはず。そう言えば一度、そうして夢を認識して目を覚ましたら、それも夢だったってことがあった。と、どうでもいいことを想い出した。そしてもう一つ。忘れていたちょっと前の出来事もついでに思い出してしまう。
その時見上げていた空は灰色で、どんよりしていた。シャワーみたいな雨が顔にひっきりなしにかかって煩わしいけど、なんでか私はそのまま寝ていた。
そこで何が起こったか考えようとした時、少しだけ我に返る。そうか、車に轢かれちゃったんだっけ。その時は、大変だあって他人事みたく思っていた。体は痛かったし、動かせないし、ぼーっとしてるし、声は出ないし。急ぐとロクな目に遭わないよ、って言ったのは、五年前に死んだおばあちゃんだっけ。
周りが大騒ぎだったのは分かった。怒鳴り声が聞こえたし、忙しない足音もアスファルト越しに伝わった。排気ガスの臭いで咽て、咳き込みたいけどそれもできなかった。昔、一度だけ行ったパチンコ屋にいるみたいに煩いのに、遠くの事のように感じた。皆、何言ってるかもぼやっとして聞き取れないし、見るものもマネだかモネだかの絵みたいにピンボケだった。そしてとにかく寒かった、ってか冷たいんだけど。なのに無性に眠くって、いいやこのまま眠っちゃおうって、全部投げ出したいような気分だった。
そんな思い出したくもない記憶を呼び戻してくれた変な音の発生源に、ゆっくりと顔を向ける。やっぱりアイツだ。パイプ椅子の背もたれにおっかかって、だらーっと足を拡げて、天井に開いた大口を向けて、ふがふがと下品な寝息を立てていた。Tシャツの首は相変わらずヨレヨレでいつもの裾が解れたジーンズ姿。きっと靴もいつものように踵を踏んでいるに決まっている。それに普通はさこういう時って、俯きながらコクリコクリするもんじゃないの? 全然心配そうに見えないんだけど。そして疑問が一つ。なんでここにいるんだろう。
不意にアイツの息が、ふがっと止まった。あなたはいったいお幾つなのでしょうか〜? 草臥れた中年にしか見えないんですけど〜。
寝苦しさに目をしかめ身悶えながら、涎を拭っている。ヘンなところをボリボリしてるのはマジで勘弁。目が覚めそうな姿を眺めながら、はてさてどこが良くて一緒に住んでいるんだっけ? 思い出せないのは事故のせい? なんて考えていた。
目が開いた。けど、ぼうっとしてる。焦点が合ってない感じ。そしてキョロキョロ。さっきの私と一緒。ここがどこだか分かってないに違いない。あまりのアホさ加減に、プッと吹き出してしまった。
目が合った。自分がどこにいるかやっと分かったの、このウスラトンカチ。心配そうな顔。演技なの、それとも本音? 掠れた声で名前を呼ばれた。きれいな声でもないし、低く頼りがいのある声でもない。でも久し振りに聞いた気がする声。こんなに心地よかったっけ。すこし泣けてきた。でも絶対泣かない。泣いてやらない。
その後は、まただんまり。ウルッときて昂り始めた心が、別方向にシフトした。不安と怒りで爆発寸前、いや、もう爆発していた。なんで黙るの? 心配なの? どうして来たの? 何考えてるの? 全然わからないんだけど。気がつくとまくし立てていた。
怖かった。と、輪郭が滲んで歪んだ顔からぽつりと漏れた言葉。怒られるのが怖かった。責められるのが怖かった。無視されるのが怖かった。機嫌が悪くなるのが怖かった。そして終わるのが、怖かった。だから目をそらし耳をふさぎ口を閉ざしたって。どこの東照宮だ、オマエは。最後にいろいろ面倒臭かった、って笑いかけてくれた。ってか、それが本音だろ?
その夜はそれから何もなかった。別に抱きしめてくれるでもなし、耳元で甘くささやくわけでもない。当然、額にキスなんてものもないし、そんなそぶりもない。まあ、そんなことされそうになったら、全力で拒んだけど。
検査の結果は異常なし。私は程なく退院した。そしてまた、いつもの、なんでもない、フツーの生活が戻ってきてしまった。
桜の花びらがあしらわれた百均の茶碗が一つ、三つに仕切られた白い中型のプレートが一つ、コーヒーのロゴがプリントされた赤いマグカップが一つ。炊きたてのご飯、茹でた粗挽きウインナーが三本にレタス、スープは切れたから熱々のお茶を淹れる。
白い樹脂の小さなテーブルの上に載せられた、原色のボーダー柄のトレイに並ぶ一人分の食事。天気予報を見ながら、だんまり口に運ぶ。
台所を見る。コイツがいつものように、対面型の小さなキッチンに立ったまま朝食を済ませている。袖と襟首がよれた紺のTシャツが、これまたよく似合う。メニューはたまごかけごはんだけ。毎朝毎朝、よくもまあ飽きないこと。
きゅっ、と蛇口を開ける音がする。きっちり五分。何も変わらない一日の始まる合図。本当に何も変わらない。だけど、なんだか心地いい。それが、なんだか心地いい。
玄関の扉の開く音、閉める音。行ってきます、と扉越しに低くくぐもった小さな声が割り込んだ。今はそれが、身支度を始めるチャイム。
スッピンでもいけるかも。いやいや、それはナイナイ。と、調子に乗ってる自分にツッコミを一つ入れる。
行ってきます。と、誰も居ない部屋に一声。風はまだ少し冷たい。だけど、今日はなんだかいい天気。
きっとこれが私とコイツの距離なのかもしれない。今はとりあえず、そう思うことにする。
最近優しくなった、とコイツは言う。どうして、と聞くと、顔が優しくなった、声が優しくなった、そして三日に一度おはようって挨拶するようになった、と笑う。へらへらと。
バカにしてんのか、コンニャロめ。