vol2
午後一時。
昼食を食べ終わった健太は、外に出てみることにした。
取り敢えず、庭に出る。
……暗いな。
当たり前のように、前からずっと暗かったように、今まで明るかった事なんて無かったかのように。
暗かった。
空を仰ぐ。
星も月も見えない。
なのに完全な暗闇でないのは、どこの家庭も電気をつけているからだ。
更に目を凝らし、天空を睨みつける。
そこで気がついた。
――雲だ。
雲の、フワフワとした実態のないような形が、うっすら、本当にうっすらとだが、見える。
健太は少し安心した。
少なくとも、その原因が何かは分かった。しかも、日常的に目にしている自然現象だ。
問題は、『誰が』『何故』『どうやって』である。ああ、それともう一つ、『これからどうするか、どうなるか』だ。
考える。
――無理だ。
想像ならいくらでもできる。だが、それは事実に基づいたものではないから、実際にそうなのかどうかは分からない。
『考える』こと、『推測』すること、『推理』すること。
事実を測ることなど、できやしない。
ただ一つ言えることは。
――僕じゃ、何にも出来ないってことだ。
自嘲も含めた苦笑いを一つ、誰に見せるでもなくしてみせた。
******
暫くぼんやりと空を見上げていた健太は、一度家へ戻り、自転車である場所に来ていた。
そこは、そう。
森公園。
ナズナを思い出して、行ってみようと思ったのだ。何か得られるかもしれない。ナズナに会えるかもしれない。そんな期待を風船のように膨らませて。
駐輪場に自転車を止め、歩いて散歩道へ。
散歩道に、明かりは無い。持ってきていた懐中電灯を点けて足を踏み入れる。途中から道の脇に設置された柵を跨いで、道を反れる。
やがて、そこに着いた。
懐かしい、名前もつけていない、『あの場所』に。
健太は人影を探すが――。
いない。やはり。
期待の風船は、ゆっくりとしぼんだ。
ついでに気も抜けた。
ま、期待した方が悪かったか。仕方がない。
肩を竦める。
来たついでに、久しぶりに木登りでもしてみるか。
木の枝は、前より低い位置にあった――もとい、健太の目線が変わって前よりずっと低い位置にあるかのように錯覚した。
子供のころは、自分の身長位。今は、自分の胸の高さ位。
健太は、枝をつかんで体を持ち上げ、枝の上に立つ。少し上の方に伸びる一本の枝を掴んで体を支える。
そのまま、どんどん上に登っていく。
久しぶりにした木登り。体の使い方を忘れていたのと、手で支えなくてはいけない体重が増えたのもあり、昔ほど早くは登れなくなっていた。
けれど、夢中で登った。
何かを得たかったのに、出来なかった。そのやり場のない気持ちをぶつける様に、忘れようとするかのように。
やがて、自分の体重を支えることが難しそうなほどに細い枝ばかりになってしまった。
もうここより高いところには行けないのか。前ならもう少し行けたんだろうけど。
小さい頃は、自分の自由が少ないと感じていた。大人に、いや少しだけでも大きくなれば、もっと自由になれるかと思っていた。
だが、違った。
これが自由になったと思えば、あれが制限された。
そんなことばかり。
だってほら、背が高くなれば、木登りで高くまで行けない。
今の世の中じゃあ、完全に自由になることは出来ないんだ。
気付けば、大人になることに対する憧れはすっかり失われ、かわりに不安がちらつき始めていた。
それから何を期待するでもなく、健太は暫く木の上で、ぼぅっと佇んでいた。
けれど、いや、やはりと言った方が正しいか、何も得られなかった。
ナズナどころか人も来ない。まだ夜だと思っているのか、虫や動物のいる気配も感じない。
静かな、空間。
健太は結局、家に帰ることにした。
ここにいてもどうにもならないし。だったら心許ない木の上で佇むより家のソファーでごろ寝していた方が良い。
慎重に木を下って行き、適当なところで飛び降りる。
足は着いたがバランスを崩して尻もちをついてしまった。
着地失敗。
溜息をつきながら立ち上がる。
どうも最近、溜息が多いんだよな。
気付いてまた溜息をつき、首を振って歩きだした。
******
家に帰り、時計を見たら午後二時を少し回ったところだった。
健太はテレビをつけて、何か情報が無いかとチャンネルを探す。
だが、まだ目ぼしい情報は無い。雲が覆っている事には気がついているし、気象庁やらなんやらも見解を発表したようだが、
「正体不明の雲がなんちゃらら」
「原因と解決方法を探っていく」
と、子供でも言えそうな事ばかり。
諦めて、漫画を読むことにした。
午後五時半。
図書館でパートをしていた健太の母親、優子が帰宅した。
その後は、比較的普段と同じような、日常だった。だが、普段から無口な優子の口数は少し多くなっていて、健太は普通はそれに気が付かないのに、気付いていた。
つまりこれは、日常ではなく『日常に似た非日常』だった。
******
次の日。
目覚ましは七時半にかけているのだが、七時に起きる癖がついているので、健太はその時間に起きた。
昨日と同じように。
そしてその朝は、昨日と同じく、暗い朝だった。
一日経っても状況は変わらなかった。
スマホを手に取る。
学校は今日から再開するという趣旨のメールが届いていた。
……このままずっと休みでも良かったのにな。
少し苦笑いする。
だがそうなるとぐずぐずしていられないので、階下に降りて着替え始める。外は暗いというのに、一日を始めているということに違和感を感じる。
こういうとき、こんな風に日常を続けていたら、いつかガタが来る気がすんだよな……。
溜息をつく。
ああ、まただ。
うだうだ悩みながらふと我に返れば、いつの間にか学校にいて、教科書を机に入れた所だった。
……無意識って、すげー。変に感心したわ。
とそこへ、
「はよー」
『おはよう』の『お』を発音せずに、健太の友人、川上翔生が話しかけてきた。
「ああ、おはよ」
「おはようだなんて、こんな暗い中じゃ場違いな気もすっけどな」
「確かに。何があったんだか」
「ホントなー。これじゃ眠たくて仕方ねーよ」
「そっちかよ!」
翔生のボケにツッコミをする健太。
一年生の時から同じクラスで、よく話すうちに次第に仲良くなっていき、今では親友と呼べる仲だ。
「あーなんだか、いつもの会話するとなんか落ち着くわー」
翔生が言う。
「なんだそれ。全然落ち着きがないように見えるけどな、僕の目には」
「いやさ、これでも大変だったんだよ。うちの母親さ、涙脆いんだよ。だからびっくりした拍子に泣き始めてよ。家事もままなんねーし、仕方なく俺と理沙が家事やったんだけどさ、理沙が俺に駄目出しばっかしてやがんの」
理沙とは、翔生の中学三年生の妹である。
「そりゃー大変だなー」
「棒読みすんな! ウゼーよ!」
いつもと同じように展開する会話。
思わずほっとする健太。
翔生の言った言葉の意味が分かった気がする。
その後も、会話を続けた。
昨日何をしていたか、雲は何処から来たのか、これからどうしていけば良いのか、等……。
話は堂々巡りだったが楽しかった。
因みに、森公園に言った事は黙っていた。
いやだってさ、幼馴染に会いに行きたくなったとか、なんかハズいじゃんか。
思春期特有の『なんかハズい』発動である。
ま、どうせ明けない夜を予知していた幼馴染の事なんか誰も信じちゃくれないだろうし。
とそう、内心肩を竦めるのだった。
暫くして予鈴が鳴り、翔生は自分の席に戻った。
ホームルームが始まり、担任教師が話し始める。
色々あったが今後とも普通に学校に通うように。
健太はこの言葉を聞いた瞬間、適当に聞き流すことにした。
こんな中で今までの‘普通’が通用するはずあるかっての。
そう鼻で嗤って。
だが健太は気付いていない。教師だってその事は分かっているのだ。だが社会は問題解決のために停止を選んだりせず、問題と共存しながら動く事を選んだのだ。学校も然り。だから‘普通’にしているしかないのだ。
それは暗に、社会がこの問題に対して諦めている事も意味していた。
――『仕方がないんだ』と。
健太は高校生だ。
まだ物事について深く考えることに至らないのだ。だから、そこまで考えが及ばない。
そして正に‘普通’の、‘学校での一日’が始まった。
否――‘普通を装った’一日だ。
昨日も、日常っぽい非日常だったな。
健太はそう思い返した。
放課後。
健太は森公園に寄り道した。
だが何もなかったので、すぐに踵を返した。
そして侘しい家路を辿った。