vol1
健太はいつものように、ごく自然に目を覚ました。
だが、今はまだ夜中のようで、カーテンの隙間からは光を感じない。
ああ、こんな時間に目を覚ますなんて。一度目が覚めたらなかなか寝付けないというのに。
健太は小さく息を吐きながら、何となく体を起こし時計を確認した。そして、目を疑った。
時計の長針は「十二」を、短針は「七」を指している。
「――七時?」
慌てて、カーテンを開ける。――暗い。
もう一度、時計を確認する。――七時。
目の前の二つの現象の矛盾に、混乱する。
そっ、そうだ。時計が間違っているのかも。テレビの時計なら間違っていないはずだし。
一階に下りて、テレビをつけると、朝の情報番組がやっていた。
その番組は、明けない今日の夜の不思議について報道している。
「なぜ、夜が明けないのでしょうか。気象庁からの発表や見解はいまだ無く、世界は混乱しております」
アナウンサーが慌てたように原稿を読み、
「えー、この現象により、動植物や人間に、深刻な影響が懸念されますね。えー、植物は、光合成が出来なくなりますし、動物と人間は、えー、生活のリズム、サイクルが狂います。えー、はっきり言って、地球上の生物が全て滅亡する可能性が、えー、あるわけです」
『えー』の多い専門家らしき人が小学校高学年になればわかりそうなことを鬼の首を取ったように話す。
健太は、押し黙った。
その沈黙の由来は、明けない夜に対する驚きというより、
――あの子が言ったこと、本当になってしまった。
という驚きからだった。
******
その日は、休校になった。
暇と混乱を持て余し、ソファーにだらしなく座りながら、着替えもせずスマホをいじる。無論、情報収集だ。
しかし、何の情報も得られない。学会やら気象庁やら、そういった組織はなんの発表もしない。そのせいか素人が、考察をSNSに載せている。――とどのつまり、情報らしい情報はない。
健太は早々に情報収集を諦めて、スマホゲームをやることにした。だが、身が入らない。パズルゲームなのだが、何度もタッチする場所を間違えて、高得点が取れない。早々にスマホを放り出す。
と、放り出したその瞬間、スマホが着信音を発した。
溜息をつき、画面を見ると『向坂優子』の文字。健太の母親だ。
「もしもし、母さん」
「もしもし健太、おはよう。なんだか大変なことになっているようだけど、大丈夫?」
「大丈夫。学校休みになったけど。通知メールが届いてた」
「そう。母さんの方は今日、仕事休みにならなかったからいつもの時間に帰るね」
「分かった」
通話を終えて、またスマホを放り出す。今度は、スマホは鳴らなかった。すこし安堵し、ソファーの上で仰向けになる。
そして、先程起きるまで見ていた夢の事を思った。
それは遠い日の記憶。
――明けない夜が来ると言ったあの子の事だ。
******
その場所は、健太のお気に入りの場所だった。
子供たちがよく遊びに行く森が近所にあった。その森は『森公園』と呼ばれ(子供は誰も本当の名前を知らなかった)、全域が自然公園になっていて、散歩道などが整備されていたり、原っぱがあったり、遊具があったりと、近くに住む子供たちや親子連れにとってはポピュラーな遊び場だった。
小学校一年生の時に見つけた、散歩道から反れて暫く歩いたところにある、幾本かの太い木の枝が健太の背より少し高い位の場所にまで及んだ、少し開けた場所。健太は何となくこの場所が『特別』だと感じて、よく訪れ、木登りなどをしに来ていた。
小学二年生の春の日。
その日、健太は木登りをして遊んでいた。とそこに、女の子がやってきた。小学校五年生位だろうか。
「きみ、サンショーの子?」
健太は木の上から尋ねた。因みに‘サンショー’とは、健太の通う小学校『山藤小学校』の略称である。
女の子は、一度後ろを振り返り、キョロキョロと辺りを見回した。声の主が何処にいるのか探している様子だ。
「アハハ、上だよ上。木の上!」
そう言いながら健太は飛び降りる。
女の子は驚いた様子で、言った。
「ああ、そんなところにいたのね! 気がつかなかったわ。……ええ、そうよ。わたしは山藤小学校に通っているの」
「何年生?」
「五年生よ。あなたは?」
「二年生。名前は、杜川健太。きみの名前はなんてゆーの?」
「えっと……。あんまり、言いたくないんだけど。……自分の名前、キライだから」
「え? ヘンなの。じゃあ、なんてよばれたいの?」
「そうね……じゃ、ナズナ」
女の子は、足下に生えていたぺんぺん草を見ながら言った。
「あれ、これってぺんぺん草って言うんだよ?」
「知っているわ。でもね、ナズナ、とも言うのよ」
「へえ~、そうなんだ。知らなかった」
健太は目を丸くしながらも、感心した。そんな様子を見たナズナが、微笑んで健太に聞いた。その笑みは、後から考えてみれば小学五年生にしては大人びていた。
「ねえ健太くん、またここに来ても良いかしら?」
「健太でいいよ。べつに、ぼくの家ってわけでもないから、来てもいいよ。でもさ、ほかのみんなには内緒にしていてくれない? あんま人が来ると、特別じゃなくなっちゃいそうだから……」
「ええ、分かった。じゃあ、健太。わたしからもお願いがあるんだけど、良い?」
今度は、微笑みを消した、真剣な顔で問われた。
「うん。何?」
「学校で、わたしに会ったって言わないこと。学校でわたしを見かけても知らないふりをすること」
健太は、何故そんな事を言うのか不思議だった。知っている人がいたら話しかけたくなるし、会えたときにどんどん話してもっと仲良くなりたいからだ。けれど、その少し怖い真剣な顔を見る限り、何か深いわけがありそうで何も聞けなかった。その代わり、
「良いよ! じゃ、約束ね」
と、笑顔で小指を差し出した。
「ゆーびきーりげんまん、うそついたらはりせんぼんのーます、ゆびきった!」
ナズナも楽しそうに、微笑みを甦らせ、声を合わせた。
瞬間、穏やかな春の風が頬を撫でて行った。その感触を、健太は何故か鮮明に覚えていた。
******
そう、ここで目を覚ましたんだ。
時々学校でナズナを目にしたのだが、約束した通りに声は掛けなかった。その代わり森公園で会ったときに『今日見かけたよ』と報告した。
明けない夜が来ると言ってたのは、最後に会った日だったな。あれは確か……四年の時。ナズナが中学生になって、最近来ないな、と思っていた時だった。
ナズナとはいつものように遊んだのだが、帰り際健太がいつものように『また遊ぼうね』といった事を言ったら、『もうここに来ることは出来ない』と言ったのだ。
無論健太は何故か聞いたのだが、はぐらかされた。けれども『夜が明けない日が来たのなら、また会える』と言ったのだった。
ナズナとは、それ以来会っていない。だが、もしかすると……。
夜が、明けない。
この現象は、僕と幼馴染を再会に導いてくれるのだろうか……。
彼女は確か『夜が明けない日は来ない方が良い』とも言っていた。だから健太も『明けない夜は望まない』と言った。これを健太は約束と見做した。だが、また会いたいのも事実だった。だから、ナズナの事を忘れようとした。結果としては忘れることはなかったのだが、今日まで、記憶の隅の隅の隅に、追いやっていたのだ。
それを何故か、今日思い出した。というより夢に甦ってきた。
健太は、この後自分の身の上に降りかかってきた、大きな出来事を体験するうちに思った。
――――ああ、あれは予知夢とも言うべき夢だったな。
と……。