第7話 寝起きドッキリ
「んっ……」
く、くるし……。
気持ちよく眠っていた私は急に息苦しさに襲われ、目を覚ました。
ぱちりと目を開ければ、熱の籠ったインディゴの双眸とぶつかる。
「やっ……」
「おはよう、セラフィ」
チュッなんて軽いリップノイズをさせながら、顔を上げるのは魔王様。
もはや目を開けずとも、その声を聞かずとも私の上に影を落とす人物がクロノスだと判る。
それはこれが望むと望まざるとにかかわらず、ここ最近の朝一の日課と化しているからだ。
いや、クロノスの方は毎朝望んでやっているのかもしれないけれど。
魔族といえばなんとなく、夜更かし上等、明け方に眠って日が高く昇ってから活動を始めるというイメージがあるけれど、最近のクロノスはそのイメージを見事に打ち崩してくれている。
はい、朝からキラキラと笑顔が眩しいです……。
毎朝、他の誰よりも早く投げ掛けられる爽やかな挨拶を聞いていると、本当にこの人は魔族なのだろうかと疑ってしまう。
禍々しさだとか、猟奇的もしくは怠惰なこれぞ魔族というオーラはいずこへ……?
それはともかく、一週間も寝起きドッキリが続けば私とてなにも対策を講じてこなかったわけではない。
クロノスに襲われるから内緒で別室に移動させてもらえないかニンブスさんにお願いしたところ、取りつく島もなく却下されたのはノーカウントとしても、うつ伏せで眠ったり、シーツを引き被って眠ったりと考えうる手段は試してみた。
しかし、結果は云わずもがな。
連敗も連敗、全敗の惨敗である。
自身の寝相が悪いのだろうかと考えてもみたけれど、自分の眠っている時の動きなど自分で知りようがなく、意識をして改善出来るものでもないので、どうしようもない。
「……その起こし方はやめてって何度も言っているのに!」
「すまない。だけど我慢出来なかった」
頬を熱くして苦情を申し立てれば、クロノスはいつもしゅんとうなだれる。
それを見ると、身長は高いのにまるで子犬のようだと錯覚してしまい、それ以上怒れなくなってしまう。
私がついつい許してしまうのを解っていて、わざとそうしているのなら、クロノスは随分な策士だ。
「セラフィは俺に触れられるのが嫌なのか……?」
「嫌とかじゃなくて、ものには順序というものがあるでしょう?」
嫌かどうかと言われれば、嫌なわけじゃない。
だけど、慣れなくて苦しくて、それ以上に恥ずかしいから戸惑ってしまうのだ。
天界ではそういった事は正式に結婚するまではせいぜいが手を繋ぐ程度で、清いお付き合いを貫くのがよしとされている。
当然のごとく、サリエル様とも手繋ぎデートまでだった。
そんな様々な段階をすっ飛ばして、いきなりキスだなんて不埒だと思うのに、それでもいまいちクロノスを突き放せないのはどういうわけだろう?
「順序……? 求婚はしただろう?」
「されました! だけど……!」
「だけど?」
いったい何の問題があるのかとキョトンと目を丸め、心底不思議そうにしているクロノスは確かに嘘は言っていない。
まごうかたなきプロポーズを私は先日の食事の席でされた。
結婚を前提にではなく、妻になってほしいとこれ以上ないくらいストレートに言われた。
だけど……。
「私はまだお返事をしていないわ」
お分かりいただけるだろうか。
婚姻関係とは、双方が本意であれ不本意であれ、一応の合意のもとに結ばれるものだ。
私が何の返事もしていない時点で、クロノスの主張は一方的なものでしかない。
「君は昔からそうだけれど古い形式拘るね。じゃあ、今ここで返事を聞かせてくれればいい。それで、晴れて公認の仲だろう? 大丈夫、式はその辺りで適当に済ましてしまえばいい。来賓なんて煩わしいものを呼ばなくても君と俺の二人がいれば十分だ」
「いえ、あの……」
「さあ、君の答えを聞かせてくれ」
ずずい~っと上から覆い被さるようにして迫るクロノスに何故か身の危険を感じて、ベッドの上で手足をバタつかせながら後退りする。
だけど悲しいかな、かなり立派で大きめのベッドだけれどすぐに端まで行き着いてしまう。
これ以上後退すれば、落ちてしまうだろう。
彼は期待感の籠ったまなざしをこちらに向けている。
彼の言葉と表情から察するに、私が「はい」と答える事を微塵も疑っていないようだ。
いったい、その自信はどこから来るのだろう?
そう簡単に答えられるものなら、私とて無意味に返事を引き延ばしたりしない。
答えられるものなら、その場で答えていた。
だけど、そうしないのは何と返事をして良いのか決めかねているからだ。
普通なら何の縁も所縁も無く、よく知らない相手から突然求婚されても真面目に耳を傾けないだろう。
結婚に対する考え方や価値観は個々にあるけれど、一般的には将来を誓い合う前に相手の事をよく知ろうとする筈だ。
彼をよく知らないというだけでも、断る理由にはなる。
だけど、お断り出来ないのは、彼があまりに真剣過ぎるからだ。
ちょっと気に入っただけの女性を拾って自分のプライベート空間に招き入れ、衣食住の面倒を無償で見て、甲斐甲斐しく食事の世話までする。
おまけにこうして毎朝足繁く通っては寝起きを襲い、毎晩欠かさずおやすみを言いに来る。
そんなの有り得ない。
真摯な気持ちなら、こちらも真摯に向き合うべき。
知らないからというだけで突っぱねるのは気が引けて、だからといってプロポーズを受けるわけにもいかずにずるずると逃げてしまっている。
きちんと話をせねば。
そう思うのに、彼が畳み掛けるように迫るものだから、まとまる考えもまとまらない。
現に今も……。
「俺の妻になってくれるか? それとも俺と……」
「陛下」
彼と何なのか?
その先は知ることが出来なかった。
扉の向こうから声が掛かったのだ。
「……チッ」
いつかみたいにクロノスは舌打ちをする。
多分だけれど、彼は私よりもずっと耳がいいから、かなり前からこの部屋に近寄ってくる気配に気付いていた事だろう。
「陛下、そこにいらっしゃるのはわかっています。無視しないで下さい」
「取り込み中だ」
私から視線を外したクロノスはいかにも煩わしげに扉を睨んだ。
いや、正確には扉の向こうをだ。
「セラフィ様、お邪魔しても宜しいでしょうか?」
「え……ちょっ……」
「ダメだ」
「ちょっと待ってください!」
私に代わって返事をするクロノスの腕をすり抜け、ペタペタと裸足で歩いて、急いで羽織るものを探す。
結局何も見つからず、焦っているとクロノスが自分の上着を脱いで、渡してきた。
「失礼します」
そう言ってニンブスさんが踏み込んできたのと、私がクロノスの服を羽織ったのが同時だったと思う。
「陛下」
短く呼ぶと、ニンブスさんは私などには目もくれずズンズンと一直線にクロノスに近づいてくる。
「さ、お仕事の時間ですよ」
「ニンブス、許可もなくセラフィの部屋に入るなといつも言っているだろう?」
「彼女の許可は貰いましたよ」
「そんな許可出してません! 私はちょっと待ってほしいと言ったのに」
「ですから、30カウントほど待って突入しました」
あらぬ疑いの目をクロノスに向けられて違うと叫べば、ニンブスさんはいけしゃあしゃあと答えた。
30秒なんてかくれんぼでもあるまいし、随分とせっかちな性格をしているみたいだ。
「そういう場合は上がり込む前に、もう一度声を描けるべきだ。いや、むしろお前は彼女の部屋に入ってくるな。たとえ彼女が許しても、この俺が許さない」
「陛下が政務を放り出して彼女の部屋に入り浸るから私がこうしてお迎えにあがらなければならないんですよ! だいたい、無許可で上がり込んだ挙げ句に眠っている彼女に手を出しているのは陛下ではございませんか! どの口がおっしゃいますか!」
聞いていると、次第に頭が痛くなってくるのは、どうしたことか。
次にクロノスの口から手に取るようにわかる。
だって、このやりとりも含めて朝の恒例行事化しているのだから。
「俺はいいんだよ」
「良くない! 毎朝毎朝、私の気持ちも考えて! 子供みたいな真似をして部下を困らせないの! 判ったら仕事行く!」
「わかった、昼時には間に合うように済ませてくる」
ピシャリと叱り飛ばせば、クロノスはキリッと表情を引き締めて踵を返す。
ある朝はキスしてくれないと行かないだとか言ってごねたかと思えば、今日のようにあっさり言うことを聞いたりする。
いったい、何なのだろう?
「お見事です」
「そんな……。私は称賛されるような事なんて何もしていないわ。自分の為だもの」
部屋を出ていくクロノスの背中を眺めながら手を叩いて私を褒め称えてくるニンブスさんに首を振る。
誰のためでもない。
彼を追い出さなければ、今ごろ何をされていたのか分からない。
「どんな理由だろうと構いませんよ。貴女は自分の身の安全を確保でき、私は陛下を仕事に連れ戻す事が出来たのですから」
口にしていない私の考えを読んでニンブスさんは微笑む。
一番怖いのはこの人かもしれない。
「それでは、私も仕事に戻ります。セラフィ様はごゆるりとお過ごし下さい」
「あ……」
クロノスもだけれど、ニンブスさんも忙しい人だ。
自分だけ納得をして、さっさと目の前からいなくなってしまう。
嵐が去って一人部屋に佇んでいると静けさからか、急に寂しさを覚えた。
「とりあえず着替えなくちゃ。……あっ!」
薄くて軽く、肌触りのよい部屋着は着心地が良いけれど、このままでいるわけにはいかない。
まずは着替えなくてはと自分の格好を見下ろしたところで気付いた。
クロノスの上着を借りたままだ。
「返さなくちゃ……よね」
お昼に会った時に返せばいいかとも考えたけれど、上着無しではクロノスが風邪を引いてしまうかもしれない。
魔界の現在の気候は比較的安定している方らしいが、一日の気温の変化が激しく、特に今朝は冷え込んでいる。
やっぱりすぐに返そうと決意した私は、私のお世話をしてくれている侍女のアエリアさんを呼ぶ為に、ベルに手を伸ばす。
「お呼びでしょうか?」
「着替えを出してほしいの」
幸い、ベルが鳴るとすぐに彼女は来てくれた。
ホッとしてベッドの上にクロノスの上着を置こうと一歩足を踏み出したところで、身体の異変に気付く。
少し身体が重い?
それに頭痛がするような……?
ほんの一瞬だけれど、眩暈がした。
「如何なさいました?」
「あ……いえ。何でもないの」
怪訝な顔をするアエリアさんに首を振った。
朝から叫んで、急に動いたものだから身体が驚いてしまったのかもしれない。
きっとそうだ。
「こちらの黒のお召し物と青のお召し物、どちらになさいますか? どちらも陛下がセラフィ様の為にオーダーされたものだそうですよ」
「ええと、もう少し控えめなデザインのものは……?」
身体の線がくっきりと出る服と、裾に深い切れ込みが入った服の二択で迫られた私は、身体に感じた小さな違和感などすぐに忘れて、服の事で頭を悩ませていた。