第4話 宰相ニンブス
「……ラフィ? セラフィ?」
「ん……」
「目覚めのキスが必要かな?」
「……っ!!」
低い声が私を呼ぶ。
だけど、もう少し微睡んでいたくてくぐもった声を出すととんでもない発言が聞こえてくる。
全身のバネを使って跳ね起きた私が目にした光景は、既視感を覚えるものだった。
「おはよう、セラフィ」
そう言って微笑むのはクロノスだ。
顔が近い。
朝から刺激過多だ。
「……おはようございます」
「よく眠れたみたいで良かったよ。口づけしそびれたのはとても残念だけれど」
「なっ……」
せっかく深く考えないようにしていたのに、クロノスが一言余計な事を口走ったせいで、嫌でも意識してしまう。
この状況で思い出すのは勿論、昨日のアレだ。
都合二度は既に奪われている。
「じょ、女性の寝室に断りもなく上がり込むだなんて、紳士のする事じゃないわ」
「すまない。だけどもうお昼になろうというのに君がなかなか起きてこないものだから、心配になったんだ」
言われてみれば確かに窓からは高く昇った太陽の光が射し込んでいる。
しかし、そんなに長い時間眠っていたのかと驚いている暇は無かった。
寝惚けた頭がきちんと覚醒すればするほど気恥ずかしさが増していく。
サリエル様とだって、こんなに触れ合った事はなかった。
「落ち込むのは解るけれど、どうしてちょっと嬉しそうなの?」
「すまない。自分でも不謹慎だとわかっているから自制していたつもりなんだが、君がここにいて俺を叱ってくれる事が嬉しくてつい……」
「なっ……」
何て事を言うのだろうと思った。
叱られるのが嬉しいなんて、どれだけ繋がりに飢えていたのだろう?
「誰でもいいわけじゃない。君だから嬉しいんだ」
そう言いながら彼は事実、真面目な顔をしようとして失敗し、頬が弛んでしまっている。
「だっ、だいたいどうして魔王様自ら私を起こしに来るのよ? 高貴な身分なんだから、そういう雑用は他の人がしてくれるものじゃないの?」
「普通はそうだけどたとえ侍女とはいえ、君の可愛い寝顔を見せるわけにはいかないだろう?」
ああいえばこう言う。
さらっと独占欲の強さを示しながら同意を求められても困る。
こういう、いわゆる睦言には全く慣れていないのだ。
耳の先まで真っ赤になっている自信がある。
何と返答をして良いのやら困ってまごついている私の顔をクロノスの視線が長いこと真っ直ぐ射抜いていた。
居心地が悪い。
しかしそんな状況も唐突に終わりを告げた。
クロノスがふいにピクリと眉を動かしたかと思うと、身体と視線を部屋の扉へと向けたのだ。
「……?」
クロノスの視線を追って閉まっている扉を見て、何もないと彼に視線を戻し、首を傾げる。
その間も彼は扉を見つめたままだ。
いや、見つめているというよりも、いっそ忌々しげに睨み付けていると行った方が正しいのかもしれない。
私に見えないものでも見えているのだろうかと口を開こうとした瞬間、クロノスが扉を振り返ってから数秒遅れでようやく私はある異変に気付いた。
「陛下~! 陛下~?」
扉の向こう、廊下の方から誰かの声がする。
気付いた時にはそれでもかなり遠くに聞こえた声は、だんだんと大きくなり、こちらに近付いているようだ。
ここ、魔界で陛下といえばそれはすなわち魔王陛下の事で、それは当代でいえばクロノスの事だ。
つまり、大声で触れて回るように誰かに呼ばれているのはクロノスという事になる。
「失礼致します! 陛下! 陛下~! ああ、やはりこちらでございましたか! 捜しましたよ。ささ、政務が残っておりますので早急にお戻りを!」
「ニンブス。誰が勝手に彼女の部屋に入っていいと言った? 未婚の女性の部屋に許可も得ずにズカズカと上がり込むのはマナー違反も甚だしいぞ?」
ニンブスと呼ばれた彼は、部屋に駆け込むなり一直線にクロノスへと向かって行った。
それを見た魔王様は露骨に顔をしかめる。
取り繕う気は一切無しだ。
そんなクロノスは、仕事に戻れとせっつく臣下の言葉をまるっと無視して、お作法について説いている。
「私、クロノスにも入室を許可した覚えは無いのだけれど……」
「ほら、陛下も同罪だそうですよ?」
「俺はいいんだ。セラフィが俺を拒む筈がないからな」
マナーがなっていないと叱るクロノスの言葉に思うところがあってぼそっと呟けば、それを聞き咎めたニンブスさんは隙あらば主を引っ張っていこうと待ち構えている。
クロノスはクロノスで、自信たっぷりに自分だけは無罪だと言い張りながら自分の腕に伸ばされたニンブスの手を払いのけた。
「チッ……。ん? 貴女は……?」
捕獲を失敗したニンブスさんの口から舌打ちが洩れる。
クロノスの態度はともかく、ニンブスさんはこれで咎められたりしないのだろうか?
主の前で舌打ちをする臣下など天界では見た事が無くて、ぽかんと口を開けていると、ニンブスさんは漸く見慣れないの存在に気付いたとでもいうように私を振り返った。
「彼女はセラフィ。俺の最愛の者だ」
「ああ。彼女が昨日、陛下が妙に上機嫌で出掛けたかと思うと、どこからか連れ帰ったという女性ですね。普段、女性に全く興味を示されず、一部では陛下に関しておかしな噂が立っているくらいでしたのに、陛下が急に女性を連れ込まれて昨夜から魔界中が大パニックですよ。……とまあ、それはさておき。大変申し遅れました。私はここ魔界にて陛下の宰相を務めております、ニンブスと申します」
「セラといいます」
「此度はとんだ御無礼を致しました。深くお詫び申し上げます」
「いえ、そんな……! 何もありませんでしたので」
まさか元天使だと言うわけにもいかず、非常に短く簡素な自己紹介を終えた私に対して、跪いて仰々しいくらいの礼を取りながら謝罪をしてくるニンブスさんを慌てて立たせる。
「貴女が寛大な方で良かった」
「いえ、むしろ貴方には感謝したいくらいです……」
「と、仰いますと?」
わりとすんなり立ってくれた事に安堵して、思わず本音を溢せばニンブスさんはがっつりと食い付いてきた。
ガーネットのように真っ赤な瞳が好奇心に彩られている。
「ええと、ちょっと気まずい雰囲気だったというか……」
「ダメじゃないですか、陛下。いくら好みのタイプの子ドンピシャだからと言って、がっつき過ぎると嫌われてしまいますよ?」
「好みのタイプとかじゃない。俺は彼女にしか興味が無い。お前はセラフィに近づき過ぎだ。もう少し離れろ!」
おずおずと遠回しに言えば、ニンブスさんは何かピンとくるものがあったようでニヤニヤと笑いながらクロノスに軽口を叩く。
何度も言うようだけれど、臣下の振る舞いではない。
随分と気易い仲のようだ。
それを聞いたクロノスは、ムスッとしかめ面をしながら私を背中に庇うようにしてニンブスさんから遠ざけた。
「いいじゃないですか、減るわけでもあるまいし。魔宮で見かける女性は皆ケバ……いえ、厚塗り塗装の香水臭い方ばかりなのでセラ様みたいな方は珍しいんです。たまには目の保養くらいさせて下さいよ」
「いいや、減る。お前がいると、彼女が俺に向けてくれる関心が減るだろう! 目の保養なら他を当たれ。それと彼女はセラフィだ」
「どんだけ独占欲が強いんですか! ……ったく。まあ、陛下が朴念仁でなくて良かったです。意中の女性が現れた途端に、こんなに束縛するようになられるとはさすがに予想外でしたが」
「意中も何も、俺の心の住人は昔も今も、そして未来も彼女だけだ」
「愛が重過ぎます。彼女も戸惑っていらっしゃいますよ」
ニンブスさんの言葉にコクコクと頷く。
「他の者に何と言われようと気にならないが、君に言われるとさすがに傷付く……。今はそうでも、いずれはこのくらいでちょうどいいと思うようになる筈だ」
「さ、というわけで。執務室に戻りましょう」
「何がというわけ、だ。全く前後が繋がっていないぞ」
「そんなのはどうだっていいんですよ」
「私にはこれから、彼女と昼食を共にするという大事な用事があるんだ」
「奇遇ですね。私にも、陛下を執務室に連れ戻すという重大な、事と次第によっては魔界全土を揺るがす程の任務がございまして。目を通していただきたい書類が山のようにございます。そちらのご用向きはまたの機会にという事で、是非とも戻って頂きたく存じます」
「お前は酷い男だな、ニンブス。慣れない土地で、さぞや心細いだろうに、彼女にたった一人で食事をさせるのか?」
「では、お相手は私が務めさせていただきます」
「駄目だ。書類の方を印章でも何でも押して、お前が適当に処理しておけ」
「私に偽造しろと仰るんですか! 無茶を仰らないで下さい。陛下でないとダメだからこうしてお迎えに上がったんですよ!?」
二人の会話を耳にして理解出来たのは、クロノスが仕事を放り出してここに潜伏おり、それを引き摺り戻す為にやってきたのがニンブスさんという事だった。
「まるで保護者と子供みたいだわ……」
「だそうですよ、陛下」
「なっ、セラフィ……!」
ぽつりと呟いた感想は独り言のつもりだった。
過熱した舌戦を繰り広げる二人の耳には届くまいと思っていたのに、予想に反してしっかりと聞こえていたらしく、ニンブスさんは整った面差しをニヤリと歪めて主君に視線を送る。
実に愉しそうだ。
その先には大袈裟なくらいショックを受けた様子の魔王様がいた。
「あ、あの、ごめんなさい。つい……。でも、クロノスが駄々を捏ねる子供のように見えてしまって……」
「ああ、それはトドメです」
「こ、子供……。俺が子供……」
「あの冷徹にして冷酷、地も涙も、情けも容赦も無く袖にした美女は数知れず。魔界一の冷血漢と名高い陛下が貴女にかかれば駄々っ子ですか。なかなかに愉快な光景ですね」
放心状態の主を放置してクックッとお腹を抱えて笑っているニンブスさんはかなりの曲者だと思う。
涼しげな目許や、薄い唇が大人っぽいと思っていたけれど、笑うとグッと見た目年齢が下がったような気がする。
厄介な人物という意味ではもしかしたら魔王並みの資質持ちかもしれない。
それにしても、やっぱりクロノスって魔界の女性に人気なのね……。
「どうなさいますか、陛下。このまま彼女にへばりついていたら、さらに印象が悪くなる一方ですよ? ここはささっと仕事を終わらせて、陛下のデキる魔王ぶりをアピールなさった方が宜しいのでは……?」
「……! ニンブス、俺が書類の処理をしている間、少しだけセラフィの相手をしていろ。セラフィ、すまないがほんの少しの間だけコレが相手で我慢してくれ。そろそろ腹がすいている頃だろう? 先に食べているといい」
宰相さんのやり口は非常に巧妙だった。
ひとしきり思う存分笑った後で、未だ魂の抜けたような顔をしているクロノスの耳元で優しく囁く。
まんまと口車に乗せられた魔王様は、名残惜しそうにシーツへと落ちる私の長い髪をひと撫でし、一房掬い取って唇を寄せると立ち上がり、部屋を出ていった。