第3話 林檎タルトと天使の羽根
「ま、まままま魔王!!」
「人や天使は俺の事をそう呼ぶね。君にはクロノスと名前で呼んで欲しいけれど」
あっさりと認める彼、もとい魔王クロノスの言葉に私は狼狽えた。
半分くらい答えが見えていても動揺した。
そこは是非とも違うと言って欲しかった。
ううん、彼が魔王の方がここから摘まみ出されずに済むのだから、都合がいいのかしら?
「だから誰がなんと言おうと、君がここを立ち去る必要は無いよ。いつまで居てくれたって構わない。さっきも言ったけれど、俺は君を歓迎するつもりだ」
「そんな……」
「信用出来ない?」
つい昨日まで敵対する存在だと思っていた魔族の長から、親切にされる。
暗く青い瞳が懇願するように私を見つめている。
いったい何を……?
訳が判らなかった。
「貴方は天使をどう思っているの?」
「憎いという言葉では足りないかな」
「私、天使だったのよ」
クロノスの質問には答えず、逆に質問をしてみる。
憎いと答える彼にどこかホッとしながらも、気付けば自分の素性をカミングアウトしていた。
嫌われたい訳ではない。
だけど好かれてはいけないから、嫌われるように仕向ける。
これで彼も人違いに気付くだろう。
天使を愛する魔族なんて有り得ないのだから。
しかし、私の予想は裏切られる事となった。
「知っているよ」
「なっ……。知っているって……!?」
「君が昨日まで天使だった事を俺は知っている」
「知っていて、私に近付いたの?」
「ああ」
ぽつりと、何かを取り繕うでもなくただ淡々と返ってきた言葉に、ぎゅっと拳を握り締める。
最初からわかっていた事だ。
魔族と天使は相容れない。
いくら押し隠していても、いくら親切なふりをしていても彼は残忍で冷酷な魔王だ。
優しいふりなんてしないで、最初から酷く食い荒らしてくれれば良かったのに、そうしないのが魔族というものなのか。
弄んでから殺すつもりなのだろうか?
嗜虐趣味が過ぎると思う。
「何が狙いなの?」
そう訊ねたのは、気紛れだ。
聞いたところで、素直に本当の事を教えてくれるとは思えない。
本当の狙いを聞き出せたところで、天使ですらない私に魔王である彼を止める事は出来ない。
「セラフィ、君は俺に天使が憎いかと聞いたね? それで俺は憎いと答えた。その憎い天使の中でも、俺が最も嫌っているのは邪眼のサリエルだ。あいつは、俺の目の前で俺の全てを奪い取った」
昨日まで恋人だった。
婚約もしていた者の名前を聞いて、僅かに決意が揺らぐ。
「おあいにく様。サリエル様に何か恨みがあるみたいだけど、私を手にかけたところであの方はなんとも思わないわ」
「……そうか。誤解しているな。俺が君に近付いたのは君を利用してサリエルに復讐する為ではない。君を取り戻す為だ」
「誤解……いいえ、勘違いをしているのは貴方の方だわ。それか、私を騙そうとしている」
「今は信じてもらえなくてもいい。突然の事に君も戸惑っているだろうからね。これからゆっくり君を説得して、何度でも俺の気持ちを伝えて、わかってもらうんだ」
私を見つめるクロノスの目は怖いくらいに真剣だった。
穴が開くほど見つめられて、居心地が悪い。
「おやすみなさい」
「デザートがまだ残っているよ?」
目の前の彼を押し退けて部屋を出ようとしたところを呼び止められる。
振り返ってテーブルに視線を向ければ、いつのまにか林檎タルトの皿が置かれていた。
そうすると現金なもので、途端に林檎とシナモンの甘い香りや、タルト生地のサクサクと芳ばしそうな匂いに心を揺さぶられる。
シナモンは多めに掛かっている方が好き。
タルト生地はしっとりよりも、強めに焼いて少し焦げる手前くらいのサクサクが好き。
そんなピンポイントな要望も全て満たされているのが見てとれる。
いらないと言おうとしていたのに、恐ろしいほどまでに目が釘付けになった。
天使だった頃は、食事は娯楽の一種でお腹がすいたなどと思った事はなかった。
だからこそ、先程空腹を感じた時も何とも言えない気分になったのだけれど、今度の欲望はもっと強いものだった。
ぎゅっと、お腹の中身が寄ったような気がするのだ。
食欲の衝動は思っていたよりもずっと凄まじい。
「君が食べないなら、俺が食べておくよ。君の為に作らせたものを他の誰かに食べさせたくはないからね」
「待って……!」
色んな思いが重なって動けずにいる私の横をクロノスはあっさりと抜き去って、テーブルに着こうとする。
そんな彼の服の袖に手を伸ばし、掴んだのは殆んど無意識だった。
「一人で食べるとどうしても味気無いから、一緒に食べてくれると嬉しいんだけどな」
「じゃあ、ひと口だけ……」
「ありがとう。やっぱりセラフィは優しいな」
まだ彼を信用したわけではないけれど、ふわりと優しく微笑み掛けられれば悪い気はしない。
さり気無く椅子を引いてくれる気遣いだとか、笑顔だとかを見ていると、とても悪い魔王には見えなかった。
少なくとも、私に対しては紳士そのものの振る舞いだ。
少し意地悪でおかしなところはあると思うけれど。
*****
「君の部屋まで送ろう」
「ありがとう」
結局クロノスは自分の林檎タルトまで私に食べさせる事に成功し、ひどくご満悦の様子だった。
餌付けされているペットはちょうどこんな感じなのだろうか?
「ここが君の部屋だ。好きに使ってくれて構わないよ」
「ううっ……。今は何もお返しする事が出来ないから、その好意に甘えるしかないのね……」
「お返しなら、君がここにいてくれるだけで十分だよ」
これまた豪奢な部屋の前で交わされるのは、恋人同士か新婚夫婦と見紛うような会話だった。
さらりと口説き文句を口にするクロノスに、私は全くついていけない。
「お、おやすみなさい」
「……ああ、そうだ。忘れるところだった」
つっかえながら、やっとの事で就寝の挨拶をしたというのに彼は自分の袖の中をゴソゴソと探って、私の手を取る。
「気を失っている君の傍らに一枚だけ落ちていたんだ。これは君のだろう?」
掌にくすぐったいような感覚が走り、ふわりと軽くて柔らかい何かを手渡される。
重ねられたクロノスの大きな手が名残惜しげに退けられた後、視界に飛び込んできたそれに私はわっと急激な感情の高まりを覚えた。
「私の……羽根」
そう、地上に降りる間に抜け落ちて散り散りになってしまった天使の象徴ともいえる翼の一部、白い羽根が掌に乗っていたのだ。
「とても綺麗な羽根だからね。それ一枚しか見つけてあげる事が出来なくてすまない」
「ううん。全部失くしてしまったと思っていたから。だから、一枚だけでも見つけてくれてすごく嬉しい。ありがとう」
そっと、折れ曲がったり形が崩れたりしてしまわないように両手で大事に包み込み。
情けない事に涙ぐみながら今日初めて心からの満面の笑みを浮かべれば、クロノスも同じように笑い返してくれた。
「さぞ疲れた事だろう。今夜はゆっくり休むといい」
「おやすみなさい」
三度目の挨拶を口にし、今度こそクロノスは通路の先の闇にとけて姿を消した。
クロノスが用意してくれた豪華過ぎる部屋の寝室に入ると、天蓋付きベッドに横になる。
そうすると忘れていたはずの疲れがどっと襲ってきて、身体が一気に重くなったかのように錯覚した。
そんな気だるさを抱えたまま、月明かりの下で手中の羽根を見つめる。
静寂の中で、とくとくと胸だけがひたすら高鳴っていた。