第9話 萌えと悶え
デスクの上に投げ出されたクロノスの拳は、よく見ると何かに堪えるようにワナワナと震えている。
上を向いてしまっているが為に、その表情はよく見えない。
先触れも無しに仕事場に乗り込んだ私の行動を有り得ないと嘆いているのか。
きっと手の震えは、怒りを抑えているに違いない。
優しいから口では歓迎するような事を言っていたけれど、くだらない用事で彼の仕事の邪魔をしてしまった私に憤っているのだ。
「あの……、私やっぱり……」
「ニンブス!」
「はい、何でございましょう?」
帰ると言おうとした瞬間、クロノスは腹心の名前を鋭く呼んだ。
同時に正面を向いたその眉間には噂の縦皺がくっきりと刻まれている。
怒ってる……?
やっぱり怒っている?
その場から消えてしまいたいと願いつつも、動けないでいると、渦中の人物が再び口を開いた。
「聞いたか、ニンブス? ……いや、お前は聞くな、勿体無い。彼女が……セラフィが俺の身体を案じてわざわざ上着を届けに訪ねてきてくれたそうだ。どうだ、羨ましいだろう?」
「おめでとうございます。これで晴れて公認の仲でございますね」
「え!?」
我が耳を疑う、もしくは予想の斜め上をいくとはこの事だろうか?
怒っているかと思っていたクロノスは実はそんな事は一切なく、これ以上ないくらいにご機嫌だった。
震える拳も、難しい表情も喜びを噛み締めているが故だったみたいだ。
判りにくいよっ!
「お、怒っているんじゃなかったの? 私を追い返したいんじゃなかったの?」
「俺を心配して来てくれた君をどうして、追い返したりしなくちゃならないんだ? むしろ返したくないくらいだ」
「だ、だって……。アエリアさんが、クロノスは他人に触れられるのが嫌いだって。それに衛兵さんが、仕事中はすごく不機嫌になるって。それから……」
「それから?」
私に続きを促して椅子から立ち上がったクロノスは、ゆっくりと私に歩み寄ってきた。
逃げなくちゃ。
そう思うのに、私の両足はまるで床に貼り付いたかのようにビクともしない。
「その眉間の皺が……」
「ああ、これか? これは君をこんなふうに襲いそうになる衝動を必死で抑えていただけだ」
眉間に刻まれた三本線に触れようと伸ばした指先は、クロノスの長い指に絡め取られ、気付いた時にはすでに彼の腕の中だった。
「ク、クロノス!?」
「もう、我慢するのはやめようと思う。だって、どうせ我慢しきれなくなるのだから」
「あ、諦めないで?」
我慢する気がなくなった。
そう語るクロノスの目と目の間からは、確かに皺が消え失せている。
堪え忍ぶ事をしなくなった、つまり己の欲望に忠実であろうと決めたクロノスに私は囚われている。
早いか遅いかなんて大した問題じゃない。
そう語る彼の言葉に、賛同しかねるのは当然の事だった。
だって、何をされるか判らない。
私の身の安全と心の平穏の為に、クロノスには是非とももっと頑張って衝動に堪えてほしい。
「俺はね、もう長い事、君のいない日々に耐えてきたんだ。君にもう一度会う為に俺は魔王になったんだ」
「……どういう事?」
急に意味深な事を言われ、聞き返す。
私に会う為に魔王になった?
そんなまさか。
「今はわからなくていい。だけど、覚えていて。俺がいつだって君を想っているという事を」
自分から言い出したというのに、クロノスはまるで明確な話を避けているようだった。
早い話が、また今度と言いつつもさらに意味深なメッセージを重ねて私の頭の天辺、それから額に唇を押し当てる。
「だからどんな時も、そんな状況下でも俺は君を邪魔に思ったりはしない。他の誰かにとっては恐ろしい魔王でも、君の前では俺はただの男だ」
「アエリアさんたちの話は本当なの?」
「彼らにとってはまさしくそれが真実だろうね」
まただ。
また、クロノスははぐらかすみたいな答え方をする。
怖いけれど、怖くない人。
そんなの、矛盾している。
「どうして貴方はあんなにも恐れられているの? ……ううん、どうしてあんなにも恐れられるような事をしているの?」
クロノスは無言だった。
それが私の質問に対する答えだ。
腕に抱き込まれているからこそ判る。
クロノスの鼓動がほんの数秒間だけ早くなった。
彼には何か心当たりがあるのだ。
他者に恐怖を植え付けるとわかっていて、敢えてそれをしている。
答えないのは、答えにくいか、答えたくないからだ。
それでも嘘で誤魔化そうとしないのは、私に対して誠実であろうとしてくれているという事でもある。
何か理由があるのはわかるけれど、私だってこのまま黙っているわけにはいかない。
「いいわ。貴方がこのまま黙秘を貫くつもりなら、私は先日の求婚はお断りさせてもらうわ。秘密主義の旦那様なんて御免だもの」
「なっ……!」
今度ははっきりとクロノスが狼狽える様を捉える事が出来た。
狡いと言われようが何だろうが、使えるものは使ってやる。
もともと、身ひとつで連れ込まれた私には交渉に使えるものなどほとんど何もなく、味方もおらず、状況は圧倒的に不利なのだ。
「ふっ……。なんて頼もしい花嫁候補なんでしょう……」
「候補じゃない、花嫁だ」
横で聞いていて噴き出したニンブスさんのお褒めのお言葉は十中八九嫌味だろうけれど、クロノスが反応したのは別の部分だった。
「花嫁候補」と「花嫁」では確かに大きくその意味合い・立場の重要性が異なるだろう。
だけど、勝手に話を進めてもらっては困る。
「勝手な事を言わないで。さっきの質問に答えてくれないなら私、貴方のこと嫌いになるわ」
「セラフィ……。それは冗談でも悲しい」
我ながら幼稚な手だと思った。
そもそも、クロノスが私の事を好いていてくれなければこんな主張は何の意味も成さない。
自惚れが過ぎると笑われてしまうだけだ。
しかし、実際は効果てきめん。
クロノスは捨てられた子犬のように項垂れた。
背中を丸めて俯いていても私より頭の位置が高いので、うるうるとしたインディゴの瞳はばっちり見える。
ううっ、罪悪感が……。
鴉の濡れ羽のような艶のある漆黒の中に、一対の垂れ耳を幻視して内心で激しく身悶える。
「……きちんと答えたら、さっきの嫌いという言葉は取り下げてくれるか?」
「仮定の話よ」
「わかっている。だが、そうとわかっていても、好きな人のその言葉は胸を抉る」
よほど苦痛だったのか、私をひたと見つめるクロノスの顔には悲壮感が漂っている。
きゅーんと鳴く子犬の声が頭の中で鳴り響いた。
「わ、わかったわ。答えてくれたら、嫌いになるのをやめる。これでいい?」
「正直に答えても、幻滅しないでいてくれるか?」
「ええ、約束は守るわ」
「答えたら、俺の妻になってくれるか?」
「え……考えておくわ」
気乗りしないせいなのか何なのかわからないけれど、しつこいくらいに確認してくるクロノスの言葉にうんうんと頷いていたら、最後の最後で危うくとんでもない約束をさせられるところだった。
やっぱり、滅多な事は言うものじゃない。
まさか狙ってやったんじゃないよね?
「クククッ……さすがですね。ご結婚される前から、ご自分の思い通りに夫を操縦なさるとは」
「まだするとは言ってません! それに操縦だなんて人聞きの悪い……!」
終始クスクスと笑いながら、人をまるで悪女のように言うニンブスさんはきっとこれが素なのだろう。
アエリアさんも衛兵さんも、絶対騙されている。
この人の本性は性悪だ。
こんな勇者なんて、私なら御免こうむる。
「私も貴女に惚れてしまいそうです」
「ニンブス! セラフィは俺のものだからな。セラフィは確かに魅力的だが、お前が懸想する事は許さない」
明らかにただの嫌がらせのひと言に、真面目に牽制をかけるクロノスが可笑しかった。




