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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

バレンタインには真白な百合を

作者: 樹 真一

 市販のチョコと最近手に入りづらくなった無塩バターを湯煎で溶かしておいてボウルに卵黄2個と砂糖を混ぜて泡立て器で白っぽくなるまですり混ぜて、そこに溶かしておいたチョコとバターを流し込んで生クリームを入れて混ぜ、別のボウルで卵白と砂糖を混ぜてふんわりとしたメレンゲを作り、それを元のボウルに入れてさっくり混ぜ合わせてから型に流し込んで160℃に余熱していたオーブンに入れて35分間焼き上げて型ごと冷まして、最後に粉糖を振りかけてできあがったそれ――ガトーショコラを、森永真帆は満足げに見下ろしていた。

 スマホでレシピサイトを見ながら作ったにしては、結構なものだと自画自賛し、カメラアプリでパシャパシャと写真を撮った。

「うふふ……これで、これで……!」

 真帆は幸福な顔を浮かべて、顔を上気させる。瞳はうるうる、口元はゆるゆる。口の端からよだれまで垂れている。

「ふふ、へへ……」

 完全に妄想モードに入っている真帆。その脳内のバラ色というかピンク色というか、ともあれ乙女の秘密である花園では、このガトーショコラを渡す相手――明治白子とのいちゃいちゃうっふんな光景と、それから白子との出会いのシーンがリフレインされていた。

 ――思い返せば、それは水連公園のモニュメントから始まった。

 白子で出会ったのは、高校に入学した日だった。入学式を終えて、母親は真帆の兄の入学式にも行かなければならないと言って、記念撮影だけをすませてさっさと行ってしまった。父親は、仕事で出席できなかった。

 それ自体は構わない。父が忙しくしているおかげで生活できるのだし、兄は難関と言われる大学に見事合格したのだ。どちらを選ぶかとなって、式典自体は真帆を融通してくれた家族に感謝こそすれ、恨むのはまったくお門違いだろう。

 だけれども。

 真帆とて、同じ中学から進学者がほとんどいないこの高校へやってきたのだ。ましてや、座っているだけの入学式、よそよそしい新品の制服に辟易しながら、そのことをぼやく相手も、もちろんいない。ぐったりと疲れてしまって、家に帰るのすら億劫な具合だった。もっとも、母親には「疲れたから帰る」と言って、兄の入学式に行かなかったのだけれど。

「はぁ……」

 ため息一つ、とぼとぼと歩き始める。学校から家までは、歩いておおよそ15分。やはり車で、兄の入学式に行くべきだったか? いや、しかし、すでに自分の入学式でへとへとなのだ、ここは15分をなんとか耐えて、部屋着に着替えてベッドに倒れ込んだ方がよかろう。

 そう思って歩いていると。

 家から高校へ向かう時には気が付かなかった公園が目に入った。気が付かなかったというより、今朝は車だったし、受験の時は英語の単語帳と睨み合っていたのだからなのだが。

 ちょっと休憩がてら、公園に入る。公園入口には、「水連公園」と刻まれた大理石が設置されている。入ってみると、アスレチックやトラックが設営された、運動公園であることが分かった。水連、というのは三つ並んだ池に沿うように公園が設置されているからだろう。

 公園の中心には、不思議な形状をしたモニュメントがある。Ingressだったら余裕でポータルに申請できそうなそれは、しかしなんとも文章では説明しがたい形状だった。それが人物であるのか静物であるのか、あるいは何らかの抽象的なモチーフがあるのか単なるでたらめな形なのか、それすら分からない。モニュメントの足下には、「モニュメント #1056」という作品名?と、これをデザインしたデザイナーの名前が刻まれている。こんなのが少なくともあと1055個もあるのかと思うと、僕は鉛を舐めたような気分になった。

 と、そのモニュメントの向こう側。細い7本の枝(見る人によっては燃え上がる炎や、あるいは流れ落ちる滝、苦悶のうめきをあげる市民か、もしくはできそこないのフランスパンに見えたことだろう)越しに、同じ高校の制服を着た女の子がいることに気が付いた。髪はさらりと長く、自然と背中まで届いている。真帆と同じくらいか、あるいは少し小さいくらいの背格好だった。

(あ、あの子も1年生だ)

 リボンタイの色は、同じ緑色だった。ということは、彼女も入学式を終えて、その帰りなのだろう。何組の子だろう、と思って何気なく見ていると、不意にその女の子は、がくりとモニュメントの土台の向こうに、しゃがみ込んでしまった。

(えっ!?)

 貧血だろうか。儚げな印象だったし、具合が悪くてここで休んでいたのかもしれない。できることがあるとは思えないが、放っておくのは気分が悪い。真帆は持ち前の正義感から、ぱたぱたとモニュメントの裏に回り込んだ。

「大丈夫!?」

「ばった」

 女の子は、バッタを指で摘んで、掲げてきた。緑色の可愛いショウリョウバッタとかじゃなく、仮面ライダーのモデルになったどでかい複眼を持つトノサマバッタだった。

「ぎゃあ!!」

 真帆は、女の子である。

 そりゃ、三つ離れた兄の遊び相手に、草原を駆け回ってトンボをとったりしたこともある。が、それはまだまだ子供の頃の話。いい年頃になれば、やはり虫が苦手になってくるし、ましてや至近距離にトノサマバッタは、大の男でも悲鳴をあげるだろう。

 思わず2、3歩後ずさってしまった真帆。虫に対する嫌悪感はそこまでないが、さすがに目の前にバッタを掲げられれば、驚いてしまうものである。

「はぁ、はぁ……!」

 荒く息を吐きながら、そして、ふと気が付いた。ぱちくりと瞬きして、バッタを摘んでこちらを見上げてくる女の子をまじまじと観察した。

(か、可愛い……!)

 可愛いのだった。

 清楚な印象の黒髪ストレートヘアと、少し幼さの残る顔立ち。珍しそうに真帆を見上げて小首を傾げる姿など、もう、どうにかしてしまいたいほど可愛い。

「う~ん」

 女の子は少し考える様子を見せた後、しゃがみ込んだ時と同じ勢いでずばっと立ち上がった。ぽい、とバッタを放り投げる。トノサマバッタはキチキチキチと羽音を残して慌てて逃げていく。

 そして女の子は、バッタを摘んでいた指を、スカートでぐしぐしと拭う。その動きに併せて、ミニスカートがゆらゆらして、白い太股とその細い足を包む黒いニーハイが眩しく見えた。

「めいじ、しろこ」

 よろしく、と言いたげに、右手を差し出してくる。真帆は口の中で「めいじしろこ」と、図書館のリファレンス係のように繰り返した。

「?」

 しろこ――白子が、不思議そうに首を傾げる。その可愛い仕草を見て、はっとする真帆だ。慌てて、自分の右手も白子がしたようにスカートでぐしぐしして、震える手で白子の手を握った。握手。

(や、柔らかい!!)

 マシュマロのような、そして干した後の布団のように、温かい。ぷにぷにしたその手を、真帆は、むしゃぶりつきたい衝動に駆られる。

「も、森永、真帆……よろしく」

 顔が赤くなっているのを自覚する。100メートル走を全力で駆け抜けた後のように心臓がばくばくと騒ぐ。まともに白子の顔を見られないのに、その顔をずっと見ていたくて仕方なくなる。

 それは、紛れもなく、一目惚れだった。



 そんなわけで、時間軸は現在へ――2月13日の、午後9時過ぎへと戻ってくるのである。

 2月13日。

 2月13日である。

 ブダペスト包囲線が終結した日と言えば、誰もがうなずく2月13日であるが、同時に大きなイベントの日でもある。

 バレンタインデーの、前日だ。年間、最もチョコレートを食べられる日であるという説もある、バレンタインデーの前日である。

 そんな日に、自宅の台所を戦場のような有様にして、ガトーショコラを作る真帆。渡すお相手は、もちろん明治白子だ。

 入学式の日に出会って、はや10ヶ月。その間にお互いの家に遊びに行くような関係になり、連休ではお泊まりもして、冬休みには一緒にディズニーランドと千駄ヶ谷のラーメン屋に行った。ちょっとおっとり不思議系な白子は、一人ではどうにも危なっかしい。だから、仲良しの私が助けてあげるのだ、という体で真帆はいるのだが、その内心は変な虫(男女問わず)を近付けないためにある。もっとも、興味のあるところへ勝手に走っていくような具合で、なかなか手綱を握れずにいるのが本当のところなのだが、ともあれ、そうやって周囲に対して興味津々なところもまた可愛いのであって。

 そんなこんなで、真帆はキャッキャウフフな妄想の反面、明日14日にちゃんとセッティング通りの場所で渡せるだろうかという不安もまた、頭の中でぐるぐるとしているのである。

(よし、もう一度、リハーサル!)

 まず、放課後。一緒にあの水連公園まで歩く。そして、思い出深いモニュメントの足下へ。そこで少し話をしてから、ふとモニュメントの裏側へ。ちょうど、出会った時と逆の立ち位置だ。そして、ふとしゃがみ込むのである。白子は、きっと駆け寄ってくるだろう。そして、あの日の真帆のように、心配そうにのぞき込むはず。そこへすかさず、ガトーショコラを渡す。ぱっと嬉しそうな顔になる白子。そんな彼女を、素早く壁ドンしてしまう。白子は真帆より少し背が低いから、見上げるような格好になるだろう。そして、囁く。「好きだよ」それから、おもむろに唇を

「きゃああああああ!!」

 今すぐやりたい、すぐやりたい。真帆の脳内はもう停まらない。白子をベッド(どこのベッドかは分からない、白いシーツが眩しかった)にそっと寝かせて、そのリボンタイをしゅるりと、チョコのリボンを解くように――

「あ、いっけない!」

 現実へ帰ってくる真帆。可愛いラッピング用の包装紙は買ったものの、うっかり、そこを飾るリボンを買いそびれていたのを思い出したのだ。包装紙と隣り合わせて陳列されているはずなのに、どうして買いそびれたのかは不明。

 真帆は、ガトーショコラを冷蔵庫にしまい、それから兄のカーキ色のブルゾンを拝借して家を出る。歩いて5分ほどの24時間営業のスーパーへ向かうべく、バスケットシューズを履いて家を出る。

「リボンリボン♪」

 ご機嫌で、少女マンガ雑誌のCMの調子で歌いつつ、月の出ていない冬空を見上げながら歩く。街灯にも負けないほど輝く星々を見上げながら、ぽくぽくと歩いてスーパーに辿り着いた。夜も更けてきて、疲れた空気の漂う店内に足を踏み入れると、一等地にどどんとバレンタインコーナーが作られている。大抵が義理チョコ需要の既製品だが、手作り用の材料やラッピング用のアイテムも並んでいる。真帆はその中から、柄にもなくピンクの、レースにも似た可愛いリボンを選んだ。白子は、レースが好きなようなのだ(お泊まりの時にこっそり見た洋服ダンスの中には、レースの下着がいくつもあった)。

「よし、これにしよ」

 値段を確認して、ブルゾンのポケットから財布を取り出しながら、何気なく見上げた先――ちょうど、レジを通過したあたりに、なんと、白子がいた。

(きゃー! 白子! 運命!? 運命再編!?)

 即座に駆け寄ろうとして、はたと足が止まった。白子の様子をよくよく伺うと、なんだかいつもと様子が違っていたのだ。

 格好は、まあいたって普通である。ホットパンツにニーソで、白いパーカーという、気取らないいつもの格好なのだけれど、しかしその表情は、いつものぽやーっとしたそれとはかけ離れていた。

 何かを想ってうっとりしているような、そう、言うならば、恋する乙女の顔。そしてなんと、その胸にはスーパーのビニール袋を持っている。白いビニール越し、うっすらと色が透けて見える色は、ピンク色。まさしく、このイベント台で売られているチョコ達と同じ色だった。

 それだけなら、ああ、義理チョコかと思うのだが、そう思わせない表情が、真帆の足をその場に繋ぎとめてしまっていた。

(だ、だだだ、誰に……!? 誰に渡そうというの、そんな、既製品の、チョコを……うっとりした、可愛い顔で……なんで……!?)

 そんな真帆の内心を知る由もなく、ついでに、同じ店内にいることすら知らず、白子はうっとりした表情のまま、とことことお店を出てしまった。

「あ、ああ……なんてこと……」

 愕然としながら、まるで葬列の一員のような足取りでレジへ向かい、義務的に会計をすませる。お釣りを受け取り、しかし一歩歩くごとに硬貨を1枚ずつちゃりんちゃりんと落としながら、真帆は帰路に就くのであった。



 2月14日。

 朝の教室だ。室内は、早速友チョコの交換や義理チョコの配布が行われており、朝からにぎやかな空気に包まれていた。もちろんその中には、タイミングを見計らって本命を渡そうという女の子達も大勢潜んでいるはずで、それらすべてに物語があるはずだった。無論、我々の視点は、それらすべての物語――すなわち世界を観測することなど適わないのだが、さりとて、数多くの視点を通して、世界の断片を組み合わ「はぁ……」

 真帆はため息を漏らしながら、教室に辿り着いた。白子はまだ、学校に来ていないようだった。いつも結構ギリギリの時間になるのは、白子が朝は弱いためだった。

「はぁ……」

 ため息、再度IN。昨晩、死にそうな気持ちになりながら、それでも渡さないのは納得行かないと、何度も失敗しながら、手作りガトーショコラをなんとかラッピングした。それは今、通学鞄にしているリュックの底に納められているが、しかし、胃に響くタイプのドキドキは一向に収まらない。果たして本当に渡すことができるのか、という不安と、それにも増して、昨晩、スーパーで見てしまったあの表情が、真帆の胸を締め付けていた。

 白子には、好きな人がいるのだろうか。

 なんだか子供のようで、恋愛なんかには疎い様子だし、恋バナなんかにも参加せずにいる白子が、実は誰かに対して恋心を抱いている、なんてことがあるだろうか?

 ある、と真帆は思った。

 白子だって年頃の女の子なのだし、それに、あのタンスに入っていたレースの下着なんかが、どうにも引っかかる。子供っぽいのは外見やポーズだけで、白子の心は、実はもっと成熟しているのではないだろうか? 懐いてくれてると思っていた白子が、実際は懐かせてくれてるだけなのではないだろうか?

「はぁ……」

 考えてもしょうがない、人の心の中は覗けない……そうは思うのだが、だからといって、自分が好きだからそれでいいと達観できるほど、真帆もまだまだ大人ではなかった。

「おはよー」

 と、思い悩む真帆を後目に、当の白子が教室に姿を現した。未だに眠そうな顔で、クラスメイト達におはよーと挨拶している。

 痛みすら感じるほど、鼓動がいっそう高まった。真帆は半ばうずくまるようにして、白子のことを目で追いかけた。

 白子はまっすぐ、教室の窓側で談笑している男子グループへと歩いていく。その中のムードメーカーにして、クラスで一番イケメンかつお調子者と言われる、川島の元へとまっすぐに歩いていく白子だ。

「お、明治か。おはよー」

 爽やかに挨拶する、イケメン川島。彼に挨拶を返しながら、白子は通学鞄から、オレンジ色のビニール袋に包まれた何かを差し出した。

「はい、これ」

 周囲の男たちがうおー!と色めき立つ。それは真帆も同じだが、もちろんその主成分は驚きと憤りだった。

(そんな、まさか、川島!? すぐ調子に乗って先生に怒られる川島!? ウケ狙ってクラスのオタクが持ってきてたフィギュアを食べた、川島!?)川島そんなことしてたのかひでーな!

「え、なになに、バレンタイン?」

 川島は気取らない風で、冗談っぽくそのビニール袋を受け取る。それは一辺が10センチくらいの大きさで四角く、そして適度に厚さがあった。いかにも、バレンタインのチョコっぽい大きさだったが……?

「あ、なんだ、貸してたEXILEか」

 CDだった。ほぅ……と細長いため息を吐く真帆だった。

「どうだった? どれか気に入った系?」

「けっこうすき。お経と同じくらいすきかも」

 お経と同じくらい好きというコメントで、グループは爆笑の渦に包まれた。もっとも、笑いを取りにいった訳ではない白子は、きょとんとした様子で爆笑を眺めて、それからどうでもよくなったようにてくてくと自分の席に向かって歩き出した。

「おはよー」

 すれ違いながら真帆に挨拶をする。真帆も挨拶を返しながら、その表情をじっと観察してみた。

「? どしたの?」

「あ、ううん、なんでも!」

 見たところ、変わった様子はない。鞄の中には、昨日買ったチョコが入っているのだろうか? 未だ、よくわからずきょとんとしている白子に愛想笑いしつつ、真帆は内心でぐぬぬと歯噛みしていた。



 そして、休み時間。数学、英語という真帆のあまり得意ではない教科が連続した後でやれやれと思っていると、白子が不意に席を立ち、教室を出て行った。

(もしや!?)

 不安に襲われて、真帆はばたばたと廊下へ飛び出した。校舎の棟を繋ぐ連絡廊下に、一人の男子生徒とそれを追いかけて小走りする白子の姿があった。

「牧島くん」

 白子が呼び止め、男子生徒が振り返る。

(ま、槙島!?)

 隣の3組の生徒で、小柄ですばしっこく、そしてサッカー一直線なところが、一部の女子に人気らしい。

(槙島!? あの、親友の狡噛と、なんかアヤシイ雰囲気って聞いたことがある、槙島!? 女もイケるのかよ!?)たぶんそれ言ってるの腐女子だけだと思うから。

「ん? あー、明治かー。なにー?」

 子供っぽい、間延びした声の槙島だが、これでサッカーのこととなると歯切れよく立て板に水の勢いでしゃべるのだから、そのギャップに萌えている女子も多いのだろう。ともあれ。

「槙島くん、これ」

 白子は、再びビニール袋に入れた何かを差し出した。片方の辺が長い、ゆるやかな長方形だ。

(ああ、チョコっぽい! あれ、チョコっぽい!!)

「ん、なにこれー?」

 槙島は、子供のように嬉々として袋の中を取り出そうとする。

(ま、待って! まだ、心の準備が!!)

 そんな、真帆の心の叫びは届くことなく。あえなく、袋の中身は白日の下に晒されてしまった。

「ん? ああー、貸してた本かー」

(なんだ、本か……)

 ほっとする真帆。ちらちらと本のタイトルを伺うと、そこには「分かりやすいサッカー入門」なるタイトルが書かれていた。

「ルール、分かったー?」

「オフサイドだけわかった」

「そこだけ分かるの、逆にすごいよー」

 それにしても、なぜ突然サッカーのルールを? もしや、槙島に興味があって、話題作りのために、サッカーのルール本を借りたの!?

 と、真帆が思っている間に、白子はくるっと振り向いて、ぱたぱたと教室に戻ってしまった。槙島は、「相変わらずなに考えてるか分からないなー」と苦笑しながら、本を持って自分の教室へ歩いていく。

(う、う~ん、いつも通りと言えば、いつも通りなんだけど……)

 白子の行動の意図が読めず、真帆は顔をしかめる。



 チャイムがなって、昼休み。

 食堂には、多くの生徒で賑わっていた。その一角に、真帆と白子もいて、真帆は日替わり定食(今日はチキン南蛮とオニオンサラダ)を、白子は卵と大根おろしの乗った月見おろしうどんを食べていた。

「…………」

「ふーふー、つるつる……」

 いつにも増して、静かな食事だ。いつもなら、真帆が話しかけて、白子がそれにずれた返答をして、という具合に楽しく食べる昼御飯なのだが……真帆は、どうしても白子の様子をじっと伺ってしまう。

 一方白子は、話しかけられないなら話しかけられないで、うどんに集中してつるつると啜っている。その表情は真剣そのもので、ほかのことに意識を奪われることはない。

(食べるの好きだもんなー、白子)

 何に対しても浅く広く興味を持つ白子であるが、食べ物に対しては一等強い興味を示す。だから、彼女が食堂で注文するメニューは、毎日違う、文字通りの日替わりランチを楽しんでいるのだ。

「つるつる、あ」

 と、その白子が、何かを見付けたように動きをとめた。十代の瑞々しい唇から、うどんがつるんと滑り落ちる。

「どうしたの?」

 タルタルソースをご飯に乗せて食べようとしていた真帆は、急に動きを停めた白子をびっくりしながら見上げた。白子はしかし、「ちょっとごめん」と言って席を立つ。

「んん?」

 タルタルご飯を口に入れながら、ぐるりと振り返って白子を視線で追いかける。すると白子は、壁際の席に座った男子生徒の元へと歩いていった。いつの間にか、手には紙袋に入った何かを持っている。

(マジで!? ここで!?)

 タルタルソースを吹き出す勢いで驚いた真帆は、その男子生徒の正体を知って、二度目の驚きに打ちひしがれる。

 その壁際の席に座って昼食(ホットケーキにコカコーラをかけた下手物)を食べながら本を読んでいるその男子生徒は、同じクラスのネクラオタクである、樹真一だった。平凡で描写に困る顔を難しげにゆがめながら読んでいる本は、初音ミクっぽいイラストがどーんとあしらわれた「天体の回転について」というタイトルの本で、表紙からするに、気持ち悪いライトノベルだろうなと真帆は思った。

「樹くん」

 と、白子が声をかけると、

「ヒィッ!?」

 とひきつったような声を出す樹だ。返事のつもりなのだろうか。

「ど、どど、どうしたノ?」

 裏返った声でどもりながら本に栞を挟んで脇に置く。そこへ白子が、先ほどの紙袋を差し出した。真帆はその、これまた短い長方形をしたそれが、スーパーに売ってあったチョコに見えて仕方がない。知らぬ間に、チキン南蛮に箸を突き立ててしまっていた。

「え、ええ! お、俺に!?」

 と、ちょっとヒくくらい嬉しそうな声を上げる樹。今まで接触した男子とは露骨に異なる反応に、真帆は改めて動揺させられてしまった。

(そ、そんな……だって、そいつ、オタクだよ? いや、アニメくらい、今は普通に見る人いるけど、樹はムリっしょ!? だってそいつ、自分の自転車に《アーバレスト》とか名前付けてるよ!?)なにそれ、ヒくわ。

 震える手で、樹は恭しくその紙袋を受け取る。さながら彼の脳内では、女神からの天恵か、あるいは修復の天使のCIP誘発かという、神々しい心象風景が具現化していたことだろう。脳内だけど。

「あ、あ、あ、」あじゃねーよ。「あけても、いい?」

「?」

 白子は、不思議そうに首を傾げる。「いいよ?」

 樹は深呼吸を一つ、そして、まるで爆弾を解体するかのように、そっとそ~っと、紙袋を開けて、中身をゆっくり取り出した。

「~~~~~ッ!?」

 真帆の突き立てた箸は皿を貫き、テーブルに今日の日の記念を刻み込んでいた。

 果たして、紙袋から取り出されたのは――「刃牙道」の4巻だった。

(マンガかい!!)

 真帆は内心で思い切りつっこみ、溜まっていた息をぜはー!と吐き出した。

 その真帆のため息にかき消されるくらいの小さなため息を、樹もまた、漏らしていた。

「そ、そっか、貸してたネ……」

 露骨にがっかりするが、そこは相手が白子である。なぜがっかりするのか分からない、確かこの本を借りてたはずだけど?みたいな目で見ている。樹は噛みしめるようにうんうんとうなずいてから、気を取り直すように、

「お、どうだった? 面白かった?」

 と聞いた。ここで白子が刃牙に興味を持ってくれたら、本部が守護キャラであるという渾身のネタから、距離を縮められると、そう踏んだのだろう。が。

「ひどい」

 ……現実はかくも厳しい。物語は、この世界に存在しないのか。白子は無情にも、たった一言で、「刃牙道」の4巻を表現してみせた。

 さらに、追撃するように「うどんのびちゃうから」と、もはや刃牙にも樹にも興味がないことを言外に宣言して、ぱたぱたと自分の座っていた席へと戻ってしまった。

「ごめん、もどってきた」

 それだけ言って、白子は箸を取り、再びうどんを啜り始める。

「つるつる……つるつる……つるつる……どうしたの?」

 不思議そうに、白子が真帆を見る。真帆は、再び深くため息を吐いた後、エクスカリバーを引き抜くように箸を引き抜いて、答えた。

「いや、別に……」



 そして、放課後の公園である。

 件の「モニュメント #1056」の足下に、真帆は座り込んでしまっていた。傍らの通学鞄にしているリュックには、結局ガトーショコラが入ったままだ。

「はぁ……」

 がっかりしながら、もう何度目か分からないため息を漏らす。

(完全に、空回りしちゃってたな……)

 やきもきしすぎた自分を、情けなく思う。今日がバレンタインだからと言って、白子はそんなことはまるで興味がなかったのかも知れない。少なくとも、今こうして、夕日を見ながら落ち込んでいると、学校での白子は、いつもの白子だったような気がしてくるのだ。

(だけど、それなら……)

 それなら、あのチョコは一体何だったんだろう? いや、今日の勘違いと慮るに、あれがチョコだったということすら、勘違いだったのではないだろうか?

(いや、チョコ、なのは間違いないんだけど……)

 なにせ、仮に買ったのが台所用洗剤だったとして、あんなうっとりした乙女表情を浮かべているキャラクタがいたら、作者の頭がどうかしてしまっていると考えるのが普通だろう。少なくとも、白子は不思議系ではあるが、電波系ではないのだ。

(私、友達としか思われてないんだろうなぁ……)

 なんだか、自分が恥ずかしくなってくる。人は、一方通行な気持ちを自覚させられた時ほど、惨めな気持ちになるものなのである。

 リュックを見やる。その中に入っているガトーショコラが、早く出せとせっついているようにも思えてきた。いっそ、ゴミ箱に捨ててしまおうかな、と思って、再びため息を吐いたところへ。

 ぱったぱったと、聞き慣れたローファーの足音が聞こえてきた。とくん、と心臓が跳ね上がる。すでに聞き慣れた足音だ。

「はぁ、はぁ……まほ?」

 走ってきたのか、白子が息を上げて立っていた。真帆はその姿を見て、やはり嬉しくなってしまうのだ。

「まほ、いた……先かえっちゃうから、あわてた」

「うん……ごめん……」

 白子はその場で深呼吸して、息を整える。そして、同じくモニュメントの足下、真帆の隣に座り込んだ。

 白子は、鞄をあけて中をごそごそと探っている。そして、白いビニール袋に入れられた、何かを取り出した。

「まほ、はい」

「……何か、貸してたっけ?」

 苦笑しながら言った。もう勘違いはこりごりだった。

「え?」と白子が意外そうに答えるので、「なんでもない」と答える真帆である。

 ビニール袋を受け取る。そこには、昨晩行ったスーパーのロゴが印刷されており、うっすらとピンク色の中身が透けて見えていた。

(ふふ、なんだ……)

 もう一度、内心で苦笑しながら、ビニール袋の中身を取り出した。

 それは、昨日売られていたチョコだ。

「白子……」

「わたし、料理できないから、お店のだけど……いつも、ありがとう」

 にぱっと、白子が笑った。少し照れたような、愛らしい笑顔。思わず、真帆は白子のことを抱き締めてしまっていた。

「白子~!!」

「え、まほ、どしたの?」

「白子、可愛すぎる~! 大好き~!!」

 白子も、驚きながらも真帆のことを抱き締め返してくる。

「う、うん、わたしも、まほのこと好きだよ」

 きっと、真帆と白子の「好き」は、それぞれ意味合いが違うのだろう。だけれど、それでも大丈夫だと、真帆は思った。時間はまだ、たっぷりある。白子と過ごす時間は、まだまだある。それを大事に過ごしながら、いつか、自分の想いが伝わればいい。今日のように、やきもきすることももちろんあるだろうけれど、そこは、悪い虫が付かないように!私がしっかりしてればいいのよ、と真帆は思った。

「……あけていい?」

 もらったチョコを掲げる。白子が頷くので、さっそく、破らないように――せっかく白子にもらったのだから、包装紙ですら破れてほしくなかった――丁寧に封を解いた。

 そこには、バレンタインチョコのお約束のハート型のチョコで、その上にはホワイトチョコで、「ユウジョウ!」と大書されている。カタカナの意味は分からないけれど、友情、すなわち友チョコを選んでくるあたり、やはり白子だなぁ、と思う。

 けれど、このチョコを選び、会計の後胸に抱いてうっとりしていたのは、自分のことを想ってくれていたのだと考えれば、真帆はなんだか、報われたような気持ちになった。

「ユウジョウ!」

 白子が、書いてあることが気に入ったのか。少し片言っぽくそれを読み上げる。真帆も笑って、「うん、友情」と答えた。

「ユウジョウ!」

「はいはい、友情」

「違う、ユウジョウ!」

「ゆ、ユウジョウ……?」

「ユウジョウ!」

「ゆ、ユウジョウ!」

 なんだかよく分からないが、白子の調子に合わせないとスゴイ・シツレイな気がしてそれっぽく返す真帆であった。

「えへへ、食べよ?」

 白子が、もう待ちきれないとばかりにチョコを取り出した。ぽり、とチョコを割ってから、その一片を、真帆に差し出してくる。

「はい、あーん」

 白子の柔らかそうな指が、チョコを摘んでいる。真帆は、心臓の鼓動が一層速くなるのを感じた。熱でもあるように、頭がぼーっとしてくる。

 そして真帆は、無意識に、チョコごと白子の指を、口に含んでいた。甘い味わいと、指の柔らかな感触、そして、もぞもぞと口の中で動く指そのものを、ずっとこうして味わっていたいと思った。

「わわ、まほ、赤ちゃんみたいだよ」

 と言いながらも、白子は嫌がる様子はない。そのまま、チョコが全部溶けてしまうまで、真帆にくわえられたままにしていた。

 やがて、名残惜しそうに、真帆の唇が白子の指から離れる。真帆の心臓は、痛いくらいにキュンキュンと高鳴っていた。

「ッ!!」

 と、唐突に自分がやったことを恥ずかしく思う真帆だ。顔が真っ赤になるのを隠すべく、あたふたと自分のリュックを開けて、底に詰め込んでいた、ラッピングされた小箱を取り出す。

「は、はい、これ……」

 恥ずかしさで俯いたまま、真帆はその小箱――手作りガトーショコラを差し出す。

「え、これ、わたしに?」

「そ、そう……自分で作ったから、おいしいか、分かんないけど……」

 白子はそんなこと気にならないのか、箱を受け取った。待ちきれないとばかりにリボンを解き、包装紙を解いて、白い箱の蓋を開ける。

「わあ、ガトーショコラ? さすがまほ! すごいすごい!」

 白子が、大はしゃぎする。学校では決して見せない様子で、ガトーショコラをつまみ上げる。一口サイズに切ってあるそれをまじまじと見て、それから真帆に向き直って、

「いただきます♪」

 あんぐりと、一口でガトーショコラを頬張った。指についた粉糖を、ぺろりと舐める。図らずも、それは先ほど真帆にチョコを差し出した指だった。

「おいしい! おいしいよ、まほ! まほも食べて! あーん!」

「あ、あーん」

 口の中に、ガトーショコラが入ってくる。甘いチョコをたっぷり使ったはずのそれは、なんだかほろ苦い味がした。

「おいしいね!」と白子。

「うん、上出来上出来」と真帆。

 白子はさらにぱくぱくと、ガトーショコラを食べる、食べる、食べる。その食べっぷりが子供っぽくて、保護欲をかき立てられて、なにより、可愛くてたまらない。真帆は知らぬ間に、白子の頭を撫でていた。さらさらの髪が、指先にくすぐったい。

「もぐもぐ……ふぅ、ごちそうさま。まほ、お料理上手だね」

「そ、そうかな、レシピ見ながら作っただけだよ」

「まほには、ぜひわたしのお嫁さんになってもらいたい」

 白子が言った。

 きっと、冗談のつもりだったのだろう。

 けれど、それは真帆にはあまりに刺激が強すぎたようで、顔を真っ赤にして、俯いてしまった。

「え、まほ、どうしたの?」

「あ、ええ、えっと、その……」

 自分でも熱く感じるくらいに、顔が赤い。白子が心配して正面にしゃがみ込んでいるのも分かる。ああ、駄目だ、心配させちゃ駄目だ。

 顔を上げなければ。恥ずかしくて死んじゃいそうだが、それでも、顔を上げないといけない。ここで顔を上げなかったら、もうずっと白子の顔を見られないだろう。

 ここに、バッタはいない。言い訳はできない。自分の意志で、顔を上げるしかないのだ。そう、自分の意志で、今、顔を上げる!

 そして、真帆は白子を見上げて、

 白子は、どうしてか泣いてる真帆を見て、

 どちらからとなく、しがみつくように抱き締めあった。真帆が、ぐすぐすと泣き出してしまう。白子は、目を白黒させながら、それでも真帆の背中を優しく撫でる。

 そうして、真帆が落ち着いて泣きやむまで、暫時、二人は抱き合っていた。


おわり

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