真姫 2
夏の新月の夜は蛙の声がよく響く、と真姫は思う。最も、ここ数日と比べての話なのだけれども。
今夜は菜実の強い要望により、寿司屋へ食べに行っていた。街の回転寿司チェーン店などとは違って、気難しげに口を真一文字に結んだ板前が、カウンターの中で握ってくれる。
酢飯はまだ温かく、捌きたてのネタの表面は照明の光でキラキラと輝いている。
握った寿司は木目の見える渋い木造りのカウンターへ直接置かれ、客はそれを手で食べる。手づかみという食べ方が行儀悪いと言われるこの時代、それのなんて嬉しいことだろう。
真姫は、古き良き日本を垣間見た気がした。
今はその帰り道、蛍を観ようということになっていた。
夏の神坂の田んぼや水辺には、多くの蛍がやって来る。それでもやはり、昔よりは減っていると玉恵が嘆くようにぼやいた。
「おばあが小さい頃なんてなぁ、夏の夜道はそこらじゅう蛍だらけだったんよぉ。あんまり多いものだから、あん中にはご先祖様の霊が混じっとる、なんて言われてたんよぉ。今から思えば、なんておかしなことだろうと思うけどねぇ、それだけ昔の人は信心深くて謙虚だったんねぇ。」
真姫は菜実たちから少し離れて前を歩き出す。真姫の視界には、夜の帳と淡い緑の光だけが広がった。
付いては消え、付いては消えを繰り返す無数の蛍たち。星空をそのまま写し取ったような景色に真姫は圧倒された。
新月の今日は蛍の灯り以外、隣の遠い街灯しか明るく光るものはない。ちょうどその街灯と街灯の中間に立っている真姫は、蛍の灯りだけが世界の全てのようだった。
よく見れば、蛍は田んぼの若い穂先にとまっている。とまられた稲はそれ全体がぼうと柔らかな光を、内側から発しているようにも見えた。これがもし竹であれば、かぐや姫でも産まれそうな妖艶な光だと真姫は思った。
魅せられたように真姫はすい、と田んぼへと近づく。その足音に驚いたのか、淵で鳴いていた蛙たちが一斉に鳴くのをやめて水の中へ飛び込んだ。ポチャンポチャンと音がして、やがてそれが静まると、真姫の周りは静寂に包まれた。少し遠くに聞こえる菜実たちの話し声や離れた所の蛙の鳴き声とは、透明な何かによって世界一つ隔絶されたように感じる。
「真姫ちゃん早いってさ。母さんたちが待ってって」
その静寂を破ったのは緋美だった。
「だって、私こんな所から蛍を見るの初めてなの!」
去年までは庭先から遠くに見える蛍を眺めることしか許されなかった。今年ここまで来れたのは、緋美が高校へ上がったことと、真姫が中学を受験するために夜暗くなるまで塾へ通うようになったことが理由だろう。
「でもさ真姫ちゃん、東京のイルミネーションのほうが凄いでしょう?蛍ってキレイだけど、よくよく考えたら虫なのよね…」
緋美がちょっと眉間にシワを寄せる。
「全然違うよ、緋美ちゃん!そりゃあね、イルミネーションはキレイだけど、チカチカしちゃって…なんていうかずっと見てると飽きちゃうの。でも蛍は、全然そんな感じしないのよ。いつまでも見ていたいなぁ」
うっとりと真姫は言った。真姫は神坂が大好きで、その自然が大好きで…来る度帰りたくないと思うのだ。
そんなことを話していると、今度は菜実がこちらへ駆けて来た。
「あのね、今そこで赤い蛍見たんだあたし!!」
蛍のくだりは次のお話に続きます。句切れが悪くてすみませんm(_ _)m