第1話
「うわーーーーー!」
叫び声をあげ、起き上がる真。顔からは汗が滴っており、凄絶な息遣いだった。
目の焦点はあっておらず、呆然としている。
しばらくして、息が苦しくなるほどの動悸が治まってくるにつれ、辺りを観察する余裕も生まれてきたので、辺りを見回す。先程いた場所とは違い、生活の息吹が感じられる部屋のようだ。しかし、慣れ親しんでいた部屋ではなく、見たこともない部屋だ。窓からはまばゆい夏の太陽の光が注がれており、それを見た真は、手を目の上にかざす。
ベットに寝ていたようだが、窓の反対側はカーテンに遮られその先は見えない。その向こうからは人の声が、微かに聞こえるが何を言っているかはわからない。体には見たこともない服が着せられている。
深く息を吐き、体験した記憶を思い出す。こんこんと怒りが湧き起こる。
こみあげる怒りを何とか押さえつけ、更に思い出す。夢のような断片的な記憶ではなく、すべてがはっきりと思い出せる。
(夢じゃない……のか?)
体を見ても身体には変化は見られず、頭の中では色々な考えがチラチラと飛び交い、心の中で自問自答する。
現実なのか夢なのか判断に悩んでいると、不意にノックのする音が聞こえた。
「失礼します」
扉の開く音のあと、カーテンが開かれる。現れたのは女性の二十代前半ぐらいであろう看護師だった。そしてベットの傍まで歩み寄ってきた。
真は青ざめた顔で、体を抱え、激しく震わせる。
「ちょ、ちょっ、ちょっと……すい……ません。あまり……近づかないで……くれますか……」
真の様子をみて慌てて近づいてくる看護師を、手で静止し訴える。
「大丈夫ですか?」
立ち止まり、真の様子を心配そうに見つめる看護師。
「女性は……ちょっと……苦手なん……で。少し……離れていただけ……ますか?」
「そうなんですね? わかりました」
そう言うと、ベットから距離をとる。
離れたのを確認できたところで、震えが少しづつ収まっていく。
しばらくして、落ち着いた真は、看護師を見つめ
「ありがとうございます。……すいませんが、ここがどこだか教えてくれませんか?」
しかし、看護師は疑問には答えず、立ち尽くしたまま真を驚いたような瞳で見つめていた。その瞳は徐々に恍惚したような目つきになり、頬も紅潮させており、息遣いも荒くなっていった。そして夢遊病者のようなふらふらとした足取りで真に近づいてくる。
嫌な予感を覚えたた真は後ずさるが、ベット上なのですぐに背中が行き止まりに突き当たってしまう。体を震わし恐怖の表情を浮かべ
「近づくなーーーー! こないでくれーーーー!」
ガタガタ震える真などお構い無しにゆっくりと近づいてくる。近づくにつれ瞳には熱をどんどん帯びていっている。ベットの横に達すると、腰掛、上がってくる。体の距離を近づけ、真の顔に手を這わしてきた。
「触るなーーーーーーー!?」
触られたことにパニックを起こし、暴れながらも手を押しのける。そんなの事などものともせず、今度は身体を寄り添ってくる。手は真の服を脱がそうとしているのか身体を弄ってくる。
真の顔は青ざめた顔から、土気色になっていく。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああっ!?」
叫びあげる真。その瞬間、意識はブラックアウトしたのであった。
◆
目を開けると、白い照明の明るさに目を細めた。
身体には疲労感が漂っており、動かすのも億劫になる。
夢見心地でボーっとしていると、次第に意識が覚醒していく。徐々に記憶を思い出すにつれ、背筋に冷たいものを感じ、顔が青ざめる。
視線を彷徨わせ、周りに危険がないことを確認する。何もないことを確認がとれ人心地をつく。窓のほうをみると、外は暗くなっていた。
更に古い記憶をほじくりだす。浮かんでいるのは、水着の女性、フレイヤの事だ。
(マジな話しだったんだな……)
そんなことをしみじみ思いながら、哀愁のただよう瞳で天井を見つめる。
一息ついたところで、フレイヤの言葉を思い出す。それに併せ看護師との一幕も思い出す。寒気を覚えるがそこは根性で耐える。
看護師に起こった出来事は、普通なら説明はできないが、フレイヤの話しを重ね合わせて考えると説明はできることに、心が次第に暗く沈んでいくのを感じる。
不意にノックの音が聞こえ、脳裏に嫌な記憶がブワッと広がる。
「失礼します」
しかし、聞こえてきた声は、男の声に聞こえた。
はいって来たのは白衣を着た壮年の男性だった。
「お加減は大丈夫ですか? うちの看護師がご迷惑かけたみたいで……」
申し訳なさそうな顔をした男性は、何度も頭を下げてきた。
首からはネームホルダーをかけており、そこには、外科医、木村医師と書かれていた。
「気だるさはありますが、たいした事ありませんから」
あまりにも頭を下げる木村医師に気後れしてしまう。
「そう言って頂けると幸いです。わたくしは外科医の木村と申します」
「あっ、どうも。……木村先生。聞きたいことがあるんですけど、よろしいですか?」
「はい。なんですか?」
「あなたが医者というならここは病院だと思うのですが……。なんで自分はここにいるんでしょうか?」
「それは――」
教えてくれた内容は、フレイヤの話しにもあった通りだった。事故に遭遇し、この病院に搬送されてきたとの事。事故自体は大したものではなかったのだが、頭を打ってしまい、真は気を失ってしまったらしい。気を失ってる間に、検査は全部終っており脳や身体には、これといって大きな外傷はなかったとの事。あとは経過観察の為に一日入院して、問題がなければ退院していいと告げれた。因みにこの病院の名前は、双葉大学付属病院。真が通っている大学の付属病院だった。
双葉大学、通称フタガクは北海道にある超が付くマンモス大学で、緩やかな山の裾野と平野地に広がるキャンパスの広さは東京ドーム二十個分相当する敷地面積を誇っており、医学はもとより農業、畜産、工業、経済、文学など幅広い学部がある総合大学なのだ。真は経済学部に通っている学生だ。
付属病院にいることを理解したが、そこまでの過程の記憶がすっぽりと抜け落ちている真。事故にあった事など何も覚えてはいなかったので、そのことを告げると、「逆行性健忘」ではないかと教えられた。
健忘症はなんとなく理解はしていたが、なぜフレイヤの事は忘れずにはっきり覚えているのか木村医師に問いただしたくなったが、先に質問をされてしまった。
「神代君は、うちの大学の学生さんですよね?」
木村医師に怪訝な表情で真に訊ねてきた。
真は一瞬、何を聞くのだろうと疑問に思ったが、すぐに答えが浮かび、素直にうなずく。
「実は、上田……看護師の事と、お身体についてお聞きしたいことがありまして……。よろしいですか?」
やっぱり、と思いながら苦笑いを浮かべてしまう。あんな出来事があったのだ聞きたくもなろう。フレイヤの事を話してもどうせ信じられないだろうと思い、どうやって応じようか頭を悩ませいると、扉をノックする音が聞こえた。
「失礼しまーす」
聞き覚えのある男の声に、居心地の悪さと、嬉しさが同居する感情が湧き上がった。
姿を現したのは真の幼馴染兼、親友で、同じ大学の歯科部に通っている、
大山慧だった。慧は、すらっと背が高く、やたらと顔のいいイケメン、それに几帳面できれい好き、おまけに料理上手。二十才の大学二年生だ。
姿を確認した真は、片手を額に当て、一つ溜息をついた。
「何してんの、真?」
「おまえこそ、なんでこんなとこに来てるんだよ?」
「俺は呼び出されたんだよ! 夏休みに入ってはじめてのコンパだってのによ……」
ぶつくさぼやいている慧。
「それは、わるい事をしたね、大山君」
声のした方を見た慧は固まった。ちょうどカーテンに隠れていて見えていなかった。
「神代君の家族に連絡が取れなくてね。どうしようか困っていたところ、私の研究グループに、神代君を知っている子がいてね、話を聞いたら大山君と仲がいいという話を聞いたので呼んでもらったんだが……。迷惑だったら断っても良かったのだよ?」
「い、いえ。たいした用事でもないので、大丈夫です」
慧は明らかに狼狽しており、声色は固い。
「そうか、ならいいのだが。では、今日の予定がなくなった大山君も交えて、色々と話しを聞かせてもらおうかな」
人が悪い笑みを湛える木村医師。慧は悔しそうな表情で諦めの色を浮かべる。やり取りを見ていた真は、苦笑いをうかべるしかなかった。
――木村医師は今日の出来事を、何もわかっていない慧に説明していた。内容としては、事故からの看護師が起こした騒動。あとは看護師から事情聴取した内容だ。看護師の話したことは真も知らなかったことなどで真剣に耳を傾けている。
話しを聞いていた慧は真の事情を知っていたため、肩を震わせ、笑うのを必死に耐えていた。木村医師の話が終ると、慧は人目も憚らず盛大に笑い出す。
「災難だったなー、真。……木村教授。実は、こいつ女性恐怖症なんですよ。原因は俺の口からは言えないですけど。こいつ女性に接触すると気を失っちゃうですよねー。いやー、その現場にいたかったわ」
「そうだったのか。神代君には本当に申し訳ないことをしてしまったようだね」
木村医師は再度深々と頭を下げてきた。
「そんな……。伝えることができなかったので仕方がないことですから、気にしないで下さい」
「病気がなかったら羨ましいことこの上ないな」
「おまえは黙ってろ、慧!」
ひどく軽蔑的な目つきをぶつけ、慧を黙らせる。
「恐怖症なのはわかりましたが……。上田が……うちの看護師ですが、当人から話しを聞けば聞くほどおかしな行動をとったのがまったくわからないのですが。あの後もなぜか神代くんのところへ来ようとしてましたので今日は帰宅させましたが、普段はそんなことをする娘じゃないんですよ。なにか心当たりとかありませんかね?」
「俺もそこには気になってたんだよな。普段だったら近づけるようなことなんてしないもんな。それにお前、昔からモテる事なんてなかったもん」
木村医師に同意しつつも、さらっと本音を言う慧。事実は事実なのだが、慧に言われると無性に腹が立ち、睨みつける。
それに、そのことについては心当たりはあるのだが、あまりにも荒唐無稽すぎて話すのも憚かってしまう。
「心当たりはないですね。あんまり思い出したくないんで……」
右手の指せわしなく動かし関節の音を鳴らし、苦虫を噛み潰したような顔の真。
「そうですか。無理にとは言いませんが、なにか思い出したら教えてください」
「……わかりました」
「では、私はこれで失礼します」
病室から木村医師は去っていった。残っているのは慧だけだ。
「何したんだおまえ? 魔法の粉でも開発したのか? 俺に分けてくれよ」
「んなもん作るわけないだろ! それにおまえには必要ないだろ」
「冗談だって。けど、本当にどうしたんだ、真?」
「……」
話していいか躊躇してしまい、口をつぐんでしまう。
「その様子だと心当たりはあるわけか……」
長年の付き合いの賜物だろう。真のちょっとした変化を見逃さない。
「……」
「言いたくないんだったら言わなくてもいいけど……。詩織さんとかに知られたらどうなるだろうな?」
「さすがにそれを教えたらおまえでも殴るぞ!!」
顔には青筋がうかび、手に拳を作り、今日一番の鋭い目つきで睨みつける真。
「すまん! ちょっとした冗談だって。なっ? なっ?」
後ずさり、強い緊張と焦りをうかべている。
なぜ、こんなに慧があせっているのには訳がある。真は総合格闘技とボクシングを習っており、実力も折り紙つきなのだ。ボクシングは高校のときにインターハイで三位の成績を残しており、総合格闘技にいたっては、アマチュアの大会ながらも優勝経験をもつ実力者なのだ。慧も運動神経がないわけではないが、さすがにそんな真に殴られようものなら洒落になったもんではない。因みに、二回程頭に拳骨をおとされたことがある。
「二度とくだらないことを言うなよ! 姉さん達に教えたらどうなるか……」
「わかってるって! 言わないから、絶対!」
悟は、何度もうなづいている。
「で、話しはもどすけど、俺もどういう風に言えばいいか纏まってないから、明日の夜にでも俺の家にでも来てくれ。明日には退院してるんだし、その時にでも話すわ。
「わかった。……けどよ、親父さんと真琴さんには事故の事ぐらいは言っておいたほうがいいんじゃないか?」
「……」
原因の一端を担っている事をフレイヤから教えてもらったことを思い出し、黙り込んでしまう真。
因みに真琴というのは真の母親の名前で、ややこしいことに綴りは違うが同じ名前なのだ。そしてなぜか慧には名前で呼ぶことを昔からしつこく強要しており、今でも慧は名前で呼んでいる。
「さすがに何も言わないのはまずいんじゃないか?」
「そうだな……。明日にでも連絡するさ」
不意に慧の携帯が鳴る。
「やべっ!? みんなもう集まってるみたいだから、俺、そろそろ行くわ」
「今日はどこのサークルとなんだよ?」
「弓道サークルの人達だな」
「まっ、頑張ったこいや」
「おう! じゃ、また明日な」
「ああ」
満面の笑みをうかべ、慧は慌てて出て行った。
溜息を吐き、見送る真。
今の時間が何時かわからないことに今更ながら気がついた真。ベットから立ち上がり携帯を探す。テレビがおいてある台の下の引き出しから、財布と携帯を発見。携帯を見て時間を確認すると20時を少しすぎた時間だった事に驚きつつも、ベットに戻り、明日以降の事を考え、余暇を過ごすことにする。
それから三十分ほどたったぐらいに警察が来て事故の説明に一時間ほど費やすのであった。
◆
コンパの会場に考え事をしながら歩みを進めていた慧は、真の事件の顛末を聞いて好奇心で一杯だった。顔はしっかりニヤついている。
(真が、気を失ったって聞いたの何年ぶりだろうな。それも迫られるとか……)
今までの長い付き合いでこんな状況になったのは初めてなのだ。昔よりは女性に対して拒絶の色合いは薄くなっていたが、それでも近づけることには意識的にしっかりと距離をとるように心がけていたはずだ。会話も距離をあければ普通にできる。意思を示せば大抵の人は近づいてこないし、真も簡単にはそんなことはさせないと言い切れる。
確かに、今回の件に関しては真のおかれていた状況や場所は仕方ないとしても、初対面の人間が熱に浮かされるなんて事は普通はありえないだろう。ましてや真の容姿は普通よりかは少々劣る容姿だ。一目ぼれなどは、まずないだろう。
原因として考えられるのは、事故に遭い何かしらがあったことしか考えつかない。それに、真はわかっている節がある。木村教授には明らかに嘘をついていたので間違いないだろう。真が嘘をつく時の癖がはっきりみてとれていた。
(もしかして、真琴さんにお願いされていたことなんとかなるんじゃねえか)
同じ大学に行くことが決まり、真には内緒で頼まれごとがあった。真が変わらない限り無理だろうと思っていたこともあり、あんまり気乗りはしなかったがお世話になっていた手前、無下には断ることもできず引き受けてしまったのだ。しかし、希望の光が差し込むのをひしひしと感じている。今はまだ雲の隙間からうっすら差し込む程度の希望だが、慧はなぜか確信に近い思いがあった。
(やべーな。コンパよりも楽しくなってきたかも)
そんな事を考えながらコンパ会場に歩いていく慧。本日のコンパは珍しく散々な結果に終るのであった。
◆
カーテンの隙間から零れ落ちる朝光を浴び、まぶたをひらく真。
枕の横にある携帯で時刻を確認すれば、午前七時を少し回ったところ。
窓にはラクダ色したカーテンは朝日を浴び、ぬくもりを感じる橙色に染まっていた。
「朝か……」
薄い布団をのけ、身体をおこし首をコキコキとほぐす。
横になって考えていたらいつの間にか寝てしまっていたようだ。
ベットからおり、洗顔と歯磨きを済ませ、カーテンを開け朝日を浴びる。しかし、やることもないので再びベットに戻り布団に入りなおす。因みに、真の部屋は個室で、洗面台とトイレが完備されている。
のんびりとした時間をすごしていると、ノックの音が聞こえ男の人がお盆を持って立入り、「朝ごはんです」と言って、オーバーテーブルの上にお盆を置いていった。
お盆の上には、ご飯に味噌汁、バナナ一本、カリフラワー二房、ミニオムレツ、オレンジのパックジュースだった。
量としては物足りなく、十分程で完食してしまった。ベットの上で携帯をいじっていると、先程の人がお盆を回収していった。
のどかにダラダラと時が流れていき、一時間程たった頃。木村医師と男の看護師が部屋にはいってきた。
「身体の調子はどうだい? 痛みの感じるところはないかね?」
木村医師とは別に看護師は真の血圧を測ろうとしていた。
「特に痛いところはないですね」
真は、右腕の服をまくり血圧を測ってもらう。計り終え、木村医師に数値をつたえ、
「血圧も特に問題なさそうだね。昨日言ったとおり今日退院して問題ないよ。一応、経過観察の為に来週にでも来てもらうことになるけど大丈夫かな?」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ、来週に来てください。お大事に」
木村医師は部屋から出て行ったが看護師だけはその場に留まっていた。怪訝な表情で看護師を見ていたが、そんな大したことではなかった。今回の入院に関しての事務的な説明と、来週の通院する時間の打ち合わせだった。
入院費等に関しては来週までに待ってもらえることになっている。気絶している間に事故の加害者の保険屋が来ていたそうで、名詞を渡され、書いてある番号に連絡をしてくれとのことだ。
看護師が出て行ったところで、病院服から事故当日着ていた服に着替え、真は退院するのであった。
「なんか、久しぶりな感じがするな」
念のため病院からタクシーで住んでいるマンションの前に下りてすぐに真は感慨ぶかげにつぶやいていた。夏の日差しは真上からギラギラに照りつけている。
真の住んでいるマンションは、九階建てでオートロック付ワンルーム。そこの七〇三号室に住んでいる。
扉を開けようとドワノブ鍵を差込回したが錠の外れる音が聞こえなかったので、不思議に思い扉のドワノブを回してみると錠はかかっていなかった。
「やべっ!?」
不審に思いドワを音を立てないようにひっそりと開けた。玄関には見覚えのある靴、女物の靴が二足あり、部屋に入る扉の向こう側からは掃除機のような機械音が響いていた。
不可思議な状況に困惑したが、覚悟を決めて扉を開けた。
真っ先に視界に飛び込んできたのは大きな窓と掃除機をかけているエプロン姿の母親だった。
真の顔を見るなり掃除機を止め、
「おかえり。真」
「た、ただいま……」
母親は掃除機を止め、真を見つめ微笑んでいる。眼の事を思い出した真は母親から顔を背けた。向いた台所には洗物をしている姉がいた。
「あーっ! ようやく帰ってきた」
真の顔を見るなり、洗物をしている手を止め近づいてくる姉。バッチリと目が合ってしまった!
まずい、と思い身構える真。だが……、
「もう、事故にあったって聞いてすごく心配したんだからね」
そこには普段どおりのめんどくさい姉がいた。
「ちょっ、ちょっと咲奈姉。近づきすぎだ」
抱きついてくるような勢いで迫ってくる姉を真は押し止める。
「少し落ち着きなさい、咲奈」
「だってー」
「咲奈」
しぶしぶ真から距離をとる咲奈。相変わらずだなと思い、呆れる真だったが、少しは落ち着けたな、と思い直す。
訝しむ思いに考えを巡らせ、記憶の蓋を取り、思い出す。そういえば『血の繋がりが濃い者』には効果が無いって言っていたのを思い出す真。解決した安心感の後に次なる疑問が湧き上がった。
「なんで母さんと咲奈姉が部屋にいるんだ? それに事故の事も知ってるみたいだし……」
「昨日の夜、慧君が色々と教えてくれたのよ。あんたはなんで連絡の一つもよこさないの?」
「そーだよー」
呆れた様子で真を見ている母親。咲奈も同意して頷いている。
舌打ちつきそうになったが、知られてしまったものは仕方ないと思い、心のなかで深い溜息をつく。
「……今日、連絡しようと思っていたんだって。そんな大した事もなかったし……」
「嘘だ!真は絶対言わなかったと思うなー」
「本当だって! 支払いの事とかあるのに言わないわけないだろ。何言ってだよ咲奈姉は?」
ちゃんと言うつもりだった。父親と母親だけには。
「真は嘘くさいんだよねー。特に私達には!!」
「真も咲奈も落ち着きなさい。とりあえず、あとでじっくり話しを聞かせてね、真」
なぜか母親はこんな時でも微笑みを崩さない。というか、母親が怒っているところを真は見たことがない。姉達が物を壊すような大喧嘩や、父親が酔っ払って朝帰りしたときも微笑を湛えていたのだ。ただし、全員正座で謝っていたような気がするのだが……。
「か、母さんがそう言うんだったら仕方ないかな……」
納得してない咲奈だが、母親の微笑をみて何かを感じ取ったのだろう。挙動不審だ。
「とりあえず真、お昼はどうしたの?」
「食べてないよ」
「私はお腹すいたよー」
咲奈も可愛くお腹を鳴らし、空腹を訴える。
「じゃあ、どこかに食べに行きましょう? 真。近くにどこかあれば案内して」
「あいよ」
「そうだ! 慧君も一緒に来れないか聞いてみて? 教えてくれたお礼もちゃんと言ってないし」
「あいつ呼ぶの? いいよ呼ばなくて!」
「駄目よ、真。聞くだけ聞いてちょだい」
「聞けばいいんだろ……」
携帯を取り出しL〇NEで連絡を取る。
――慧 今、大丈夫か?
――どうした?
――おまえのせいで今、家に母さんと沙希姉がいて、おまえにお礼したいからご飯一緒に食べに行かないか? だって
――もう来てるんだ真琴さん。それに沙希さんまでいるのか(笑)。すまん。これから補講で、大学行かないといけないんだわ。夕方以降なら大丈夫だぞ
――わかった。またあとで連絡するわ
――了解
「慧、これから補講なんだって。無理だってさ」
「そうなんだ。じゃあ仕方ないわね。とりあえず、行きましょうか?」
三人揃って車で近くの定食屋に行き、少し遅めの昼ごはんを食べるのであった。
マンションに帰ってきてすぐに真は、シャワーを浴び、着替える。
その間に母親と咲奈は部屋の掃除をしてくれていた。
真はベットに寝転がって携帯をいじりながら自由気ままに過ごしていた。
窓の外に燃える夕日が消える直前、不意に携帯が鳴り、見てみると慧からだ。
――補講が終ったから、一八時ぐらいには行くわ
――了解。来る時に何か適当に酒買ってきてくれ。もちろんおまえの奢りでな!
――なんで俺が奢らなきゃならないのよ?
――母さんと咲奈姉がなんでここにいるんだろうね…… 不思議なことがあるもんだな!
――わかったよ。適当に買っていけばいいんだろ?
――待ってるわ
携帯をベットの上に放り投げる。
「そういえば、母さんと咲奈姉はいつ帰るの?」
「私は心配だから今日はここに泊まっていくわよ。咲奈は仕事があるから帰るけど」
「休みが今日じゃなくて明日だったら泊まったんだけどなー」
「帰るのはいいけど……、どうやって帰るの? 咲奈姉、母さんの車できたんだよな?」
「言わなかった? 後で詩織姉さんと彩子がこっちに来るから、それに乗って帰るけど」
「はあ!?」
「さっき連絡があって、そろそろこっちに着くって言ってたわよ」
「何で詩織姉と彩姉までくるんだよ!!」
姉が一人だけでも大変なのに、三人揃うとか嫌な記憶しか甦ってこない。動揺がモロに顔に出てしまっていた。
「ごめんね、真。私が二人に話したらすぐに行くって聞かなくて……。」
本当に申し訳なさそうな顔で真に謝る母親。
「マジかよ……」
人生の終わりのような絶望を感じ、天井を仰ぎ見る真であった。