序章
少年はその背に薪を山ほど積んで山道を下っていた。
青年と呼ぶには、顔立ちにややあどけなさが残る。
人当たりのよさそうな柔和な笑みを浮かべているのもその一因だろう。
季節は秋も終わり、冬の気配が濃厚になる頃だというのに、その額には大粒の汗が滴っている。
しかし、少年は笑みを浮かべていた。
別段この作業を楽しんでいる訳ではない。
それは癖のようなものだった。
この辺りには珍しい黒髪−光の加減によって深緑にも見える−は流浪の民の血を引く証。
別名、仮面の民とも呼ばれる彼らは、常に笑みを浮かべている事で知られている。
少年の足取りが緩くなる。
山道を抜け、家が見えたのだ。
「リュート遅いっ! 薪拾いにどれだけかかってるの!」
少年、リュートを出迎えたのは少女の怒声だった。
リュートと同じ年頃の可愛らしい少女だ。
瞳は晴れた空のような青。
陽光に輝く稲穂のような金の髪は、一つに結って背中に流している。
体つきは発達の余地を残すものの、それが逆に清楚な雰囲気を出している。
これでいつも怒っていなけりゃな、とリュートは思いながら曖昧な笑みで少女に応える。
「ただいま、ミズナ。今朝、冬越しの薪が足りないかもって聞いたから」
「だからといって、こんなに遅くなる言い訳にはならないでしょ」
時刻は夕暮れ時。
焼けた空には欠けた紅の月と、緑の満月が姿を現しつつある。
緑の月は不吉の兆し、とはこの辺りの古い言い伝えだ。
それでなくても森の夜は暗い。
明かりを持った熟練の狩人でさえ迷うこともある。
ごめんね、とリュートは素直に謝る。
少女、ミズナは言葉を詰まらせ、ため息をつく。
ミズナはこの幼馴染の少年の事が好きだった。
兄弟同然に育てられたせいか、リュートのこの辺りでは珍しい黒髪も気にならない。
むしろ艶と光沢がうらやましくも思う。
気に入らないのは、少年のつける微笑みの仮面だ。
その張り付いた笑みを見るたびに、心の中にもやもやしたものが浮かんでくる。
少年のつける仮面は、身を守る鎧であり、他人との境界という事を無意識に理解しているからだろう。
リュートはこの村では微妙な立場にある。
ミズナの祖父である村長が後見人だが、所詮は流浪の民の孤児。
流浪の民は奴隷として扱われていた過去もあり、いまだに偏見の目で見られることも多い。
そんな彼らが生き残るために身に着けたのが、微笑みの仮面だ。
悲しいときも、苦しいときも、怒れる時も、微笑を浮かべて耐える。
それは彼らが奴隷時代に許された、唯一の反抗だった。
その笑みは、周囲に恐怖をもたらす。
理解出来ない故の恐怖だ。
悲しい時に笑い、苦しいときに笑い、怒れる時に笑う。
異常を常とし、恐怖を武器に、流浪の民は今まで生き延びてきたのだ。
ミズナは最後にリュートが笑み以外を浮かべたのがいつだったか、おぼろげな記憶しかない。
張り付いた笑みで距離をとり、壁を作るリュートの本音が、本性が、本当の顔が見たい。
しかし、そう懇願できるほどミズナは強くなかった。
だから無理難題を押し付ける。
今日もリュートが早く帰ってきたのなら、薪の量が少ないと文句を言うつもりだった。
困らせ、怒らせ、すこしでも仮面の奥が見えたのならば、少年との距離が縮まると信じて。
今のところ、その企みは成功したことはないのだが。
「ミズナ」
少年の声で、少女は思考が飛んでいたことに気がつく。
「日が暮れるまでに薪を少し割っておくから」
相変わらずの笑みだ。
ミズナは再びため息をつく。
リュートは自分のことを使用人か、悪ければ奴隷のような存在だと思っている節がある。
「それは明日でいいから入って。せっかくの食事が冷めちゃうでしょ。お爺様も待ってるんだから!」
リュートは少女の心遣いに気づき、笑みを−本心を−顔に浮かべた。
いろいろと言ってくる少女だが、それでも帰るべき場所であり、大切な家族だからだ。
今も少年が帰るまで、食事を待っていてくれた。
それがありがたくもあり、心苦しかった。
リュートは両親の記憶がわずかだ。
物心つき、笑みを教わった頃に両親は死んだ。
それ以来この村の村長であるミズナの祖父に養われているが、ほかの村人は少年の事を受け入れているとは言えない。
流浪の民で孤児、さらには村での孤立。
それゆえに村長やミズナに目を掛けられるのが、余計に悪い印象を与えていた。
だから、少年は笑みを浮かべた。
仮面をつけて、距離を置くことで、悪意が敵意に変わることを防ぐ。
流浪の民が身に着けた、生き残るための技術だ。
それに加えて、使用人のような下働きを自らすれば、家族にまで悪意が及ぶ心配はなくなる。
村長の家の使用人、それはかつての流浪の民の地位を思い出させる。
それがリュートの見出した、村人との妥協点だった。
それでも、と少年は思う。
ここには家族がいて、帰る場所があると。
それでも、と少女は思う。
悪意と恐怖の先にある、信頼がほしいと。
静かな夕餉。
他愛のない会話。
穏やかな日常を、緑の満月が不吉な明かりで照らしていた。




