そばにいて ②
つながれた手は解かれることなく強く握られている。でも振り返ることなく歩き続ける健吾の後姿を見ながらひたすらついて行く。どうしていいか分からなくて、「健吾」と呼んだら振り向いて流し目のように一瞬私と視線を合わせて、また前を向いてしまった。
でも、さっきまで強く握られていた右手は、優しく包まれるように握り直してきた。そしてそのまま歩き続けて駅に着き、改札を通る。ホームに立つと同時に電車が来て乗り込んだ。
帰宅ラッシュの時間帯の為、健吾との距離が近くなる。
さっきまで後姿しか見えなかったのに、今度は向き合って密着している。目の前には健吾の胸元があって、電車が揺れる度にその胸元に顔を寄せてしまう。健吾にくっつかないように離れようと足元に力を込めても、電車の揺れと周り混雑に負けてしまう。
すると健吾が頭上からささやいた。
「大丈夫、寄りかかってて」
そう言って私の背中にそっと手を当てて支えてくれた。
今までも混雑時にこうして支えてもらったことはあったけど、今の健吾は何か違う気がする。
私が動揺しているからそう感じるのか。でも支えてくれるその手の優しさみたいなものが何か包まれているような感じで、恥ずかしくて正面すら見られない。
健吾に支えられながら戸惑いの時間を過ごし、何度目かの停車を繰り返していると、また頭上から声をかけられた。
「行こう」
健吾はそう言って私の背中を軽く押し、電車を降りるとまた私の手を握り歩き出した。
ホームを歩きながら周りを見ると、私の降りる駅だと今更ながら気がついた。そしてまた健吾に連れられるかのように歩き改札を出た。
どう考えてもうちへの帰り道。何?私送ってもらっているの?
相変わらず状況が読めず、ただ健吾について行く。
でもさっきより握られた手の力も、引っ張られる強さも違う。そして歩く早さも。
それを感じてそっと健吾に聞いてみる。
「ねえ・・どうしたの?」
私の問いにやっぱり振り向かずに答える。
「何が?」
「何がって、何で来たの?」
「楓に会いに来たんだよ。お前と話がしたくて」
「話?」
話がしたいと言われて思わず足を止めると、ゆるく握られていた手が離れた。
すると健吾が振り返り私の顔を見て、視線を合わせてきた。
「そう、話したい。電話したってメールしたって返事ないし」
「・・うん、ごめん」
それには素直に謝る。確かに健吾からの電話には出なかったし、メールも返信しなかった。まだ健吾からの連絡がある度に、気持ちに動揺があったから。離れると決めた自分の気持ちが揺るぎそうで逃げていた。
「だから顔見て話したくて、会いに来た」
さっきまでと違って真っ直ぐ私の顔を見て「会いに来た」なんて言う健吾に、違和感のような戸惑いを感じる。そんな事を言われて、どうしたらいいのかわからない。
今のこの状況をどう捉えたらいいのかわからない。
「話って何を話すの?」
そう聞き返すと、更に私のそばに寄り熱を含んだような眼差しを見せる。そんな健吾の表情なんて見たことないから、思わず身を引きそうになる。
「楓がそばにいないと寂しい」
「・・・」
今耳に聞こえて頭に届いた言葉の意味を理解することが難しい。
そして驚きのあまり目をむいて、健吾を凝視してしまう。そんな私を健吾は変わらず見続ける。
どうしてそんな瞳で見るのか全く分からない。
「やだ何?急に・・寂しいって。別に・・私一人いなくても、健吾の周りは変わらないでしょう?」
「いや、全然違う」
「何言ってるの?友達や同僚が転職なんてよくあることじゃない。私がいなくたって健吾には大切な子だっているんだし。そっちを優先に考えるべきでしょ?」
今更こんなことを言いたくない。こういうことから逃げる為に健吾から離れたのに。自分で言いながら心が痛くなって、健吾から視線を外し眉間にしわが寄ってうつむいてしまう。
「ごめん」
低くかすれた声が聞こえた瞬間、肩と背中を引き寄せられて優しい力で包まれた。
えっ?何で?あまりに突然なことに身体に力が入る。
「楓・・ごめんな」
続けて耳に届く声は、私には甘すぎて悲しくなる。
肩に置かれていた手は私をなだめるかのように頭を優しく撫でる。何でこうなるの?こうして抱きしめられることも、ささやかれることも、私がどれだけ動揺するか健吾は分かっていない。
辛い思いで健吾の胸元を押して離れ、距離を持つ。
そのまま健吾の顔が見れずに、動揺の為視線が下方を泳ぐ。
「何で謝るの?何でそばにいないと寂しいなんて言うの?違うよ!健吾が追いかけていくのは伊東さんでしょ?私じゃないよ・・」
理解ができなくて感情が乱れ、溢れそうになる涙を堪えて顔が歪む。唇を噛んで眉間に力を入れどうにか気持ちを抑えようとゆっくり呼吸する。それでもとうとう堪えた涙も止められず、零れ落ちるように瞳からポタポタ落ちていった。
「好きなのは・・・伊東さんでしょ。だったら・・」
もう言葉にするのも辛くて、言ってることも途切れ途切れになって震える。
それでも高ぶった気持ちを抑えられずに言葉をぶつけようとした時、左頬を覆われて少しだけ温かさを持った柔らかい親指で流れた涙を拭われた。驚いて見上げると、健吾は切なそうな表情を見せた。
「確かに伊東さんのこと好きだったよ。付き合っている奴がいても、それでもいいって思ってた。楓に愚痴言ったり相談したけどさ、結局あの子が彼氏を選んでも嫌じゃなかったんだよ。嫉妬とか独占欲とか、そういう感情は今考えても伊東さんに対してはなかったんだ。でもさ・・楓は違ったんだ。今あいつが楓のそばにいると思うと我慢ができなかった」
「・・あいつ?」
首を傾げて「あいつ」と言う意味を考えていると、健吾は拗ねたような機嫌の悪い顔をしてつぶやいた。
「あいつだよ。お前が昔好きだった奴」
「えっ!」
私が昔好きだったって・・英輔?何で健吾が英輔のこと知っているの?動揺しすぎて英輔のことを話したことがあるのか思い出せない。健吾から出てきた言葉に驚きすぎてパニックになる。
そんな私の様子を健吾は理解しているようで、わざと追い詰めるように視線を合わせてきた。
「あいつを見るのはこれで3回目」
私の目の前に右手の指を3本立てて見せた。
「3回?」
「そう3回。最初は結婚式に楓を迎えに行った時、2回目は会社帰りにコーヒースタンドで、そして3回目が今日。3回ともあいつがお前に触れているのを見てむかついたんだよ」
「むかついたって・・」
「嫉妬」
そんな言葉を魅惑的な表情で言われて健吾に戸惑いを感じる。
あまりに予想外のことを言うので、それが私に対して言っているのか混乱する。
「嫉妬って、意味が分からない」
私が首を振りながら否定するように言うと、健吾は苦笑して一度ため息をつき、ばつが悪い顔をした。
「あいつと一緒にいるのを見る度に嫉妬していたんだよ。楓と一緒にいるのも、楽しそうに話しているのも、楓に触れているのもむかついた。それで何よりも、転職先があいつの職場だって聞いて我慢できなかったんだ」
「えっ?聞いたって・・」
「今井さんに」
咲季先輩?そっか、咲季先輩に聞いたんだ・・。
ずっと心配してくれて応援してくれていたのに、最後逃げ出してしまった私なのに。
咲季先輩の名前を聞いて言葉が止まってしまう。
「あと・・おばちゃんにも」
「えっ?おばちゃんって・・・」
「うん、美好のおばちゃん」
「・・・」
美好のおばちゃんと聞いて、思わず瞳が開く。咲季先輩とおばちゃんに聞いたってことは・・と可能性を巡らせる。この数年間相談に乗って見守ってくれた2人だ。その2人に聞いたことって・・・。考えれば考えるほど気持ちが焦って言葉が出ない。そんな私に健吾は言葉を続けた。
「で、楓の転職先を教えてくれたのが隼人」
全てが揃って一瞬息が止まった。
間違いない、健吾は私の気持ちを知っている。
それを確信して鼓動がどんどん早くなる。体が硬くなって、あちこちが震えるように落ち着きを失う。そしてもう視線を合わせることができなくなった瞳は、動揺と同じ位まばたきを繰り返す。
もう隠せないくらい動揺している私の耳に、健吾の優しくささやくような声が聞こえた。
「楓、ごめんな」
優しく「ごめんな」と言う健吾の言葉を聞いて、胸の真ん中がギュっと苦しくなった。
絶対に聞きたくない言葉だった。健吾を想って、自分の気持ちを否定されることから逃げて来たのだから。顔を見られたくなくてうつむき、小刻みに首を振って否定する。
「違う・・違うよ」
私がこの話から逃げようとしたのが分かったのか、健吾が両肩をつかんできた。
「楓ちゃんと聞いて」
その声の真剣さに私の言葉も止まる。
「俺さ、楓のこと何でも知っているつもりでいたんだよ。この6年近く楓と一緒にいたのに、今井さんとおばちゃんから聞いて知らないことがありすぎてビックリした。ビックリしすぎてショック受けたんだ」
健吾から何を言われるのか怖い。私の気持ちを知った上で何を話すというの?
「一番そばにいたのにな・・俺はちゃんとお前のこと見てやれなかったのかな?」
その言葉が胸に染みて、うつむいていた顔を上げてしまった。想像以上に健吾の顔がそばにあって戸惑ってしまう。でも、伝えるべき答えを口にしないといけない。
「違うよ、私が隠していただけ。健吾にばれないようにずっと隠して、嘘をついてきたの」
「嘘?」
「うん、気持ちがばれて・・拒否されるのが怖くて」
「どんな嘘?」
そう聞かれて戸惑ってしまう。どこまで話していいのか分からない。
それでもこれ以上隠す必要はないと語ってくれているような健吾の瞳が、私の心を解す。
「健吾の恋を応援したり、ずっと好きな人いないって言ったり・・・」
何となく健吾への愛情をダイレクトに伝えられなくて言葉が逃げ腰になってしまったとこへ、思ってもいない言葉を健吾が口にした。
「俺の知らないとこで黒糖焼酎を飲んだり?」
「・・・何で!」
ビックリした顔の私を見つめる健吾の顔は、優しい笑みを見せている。
でもすぐにその笑みを消し、不安そうな表情に変化させ探るように聞いてきた。
「俺、何度もお前を泣かせた?一人で何度も黒糖焼酎飲んできたのか?」
「ううん」
健吾の顔を見ながら首を振って否定しても、健吾の表情は余計に心配そうに目を細めた。
「私が隠してしまったから。嘘つき始めてその嘘に自分で苦しんできただけなの。それで行き詰っちゃって、最後は健吾に八つ当たりして逃げちゃったの」
「八つ当たりじゃないだろう?でもさ・・いなくなったのには参った。俺にとって楓がそばにいるのはあたりまえの事だったからさ、そのことに甘えていたんだな。そばにいないお前の存在に落ち込んだよ。その上連絡も取れなくなって、あいつのそばにいるって知ったんだからさ」
健吾の言うあいつ・・英輔のことをどうにも勘違いさせてしまっているようだ。
「ねえ・・健吾。英輔は・・確かに昔好きだったけど、今は友達以上の何でもないよ。そばにいても他の人達と同じだよ」
「それでもどうしようもなく気になるよ。お前があいつを好きだったってことも、近い存在ってことも」
「うん・・」
何故か微かな罪悪感が押し寄せてくる。そう感じてしまう程、健吾が真面目な顔をして語っているからだ。
こんな風に話せると思わなかった。今までずっと気持ちを悟られてしまったら拒否されると思っていたから。だから段々健吾の言葉を自然に受け取れるようになってきた。
「でも結局俺のやきもちなんだよ。あいつだけじゃない。他の奴がお前に近づくのもむかつく。声かけられたり、誘われたりするのを見ればな。これってやっぱり嫉妬だろ、独占欲だよな。それって何でだと思う?」
首を傾げながら私に答えを求める。そんな健吾の言っている内容に胸がいっぱいになる。
健吾が私に嫉妬や独占欲なんて感じるなんて。
「何でって・・」
答えに困っていると、今度は質問を変えてきた。
「じゃあさ、楓は全てなしにして新しい環境でまた新しい恋をしようと思った?」
「思ってないよ」
私が即答すると、健吾は柔らかい笑顔を見せた。
その笑顔が恋しくて切なくなる。こんなに自分の気持ちをさらして健吾に向き合うことができていることで嬉しさが溢れる。その上、健吾の思っていることまで話してくれて。その言葉の1つ1つの意味を考えていると、健吾の口からハッキリとは聞いていないけどちゃんと伝わってきた。
「ってことはまだ遅くないかな?」
「・・・うん」
「でもまだちゃんと聞くことができていないんだよね。楓の・・気持ちをさ」
いたずらっ子のように笑顔を含んで私に言わせようとしている。好きという言葉を。
諦めてずっと言えなかったけど、今なら言ってもいいのかもしれない。それは目の前の健吾を見れば十分分かる。もう嘘なんていらない。
「好き。ずっと・・好きだったの」
その言葉を言った瞬間、思いっきり抱きしめられた。想像していなかった健吾の行動に、思考も顔もポカンとしてしまう。そんな私に視線を合わせてきて、満面の笑顔を見せた。
「やっと聞けた。すっげー嬉しい。楓、すっげー可愛い」
嘘みたいな反応に嬉しさと驚きで、無意識に涙が頬を伝った。
すると健吾はまた親指で拭いながら困った風な顔をした。
「ばーか、泣くな。お前が泣くと俺やばいよ」
「誰が泣かせているのよ」
「あ~、俺だな。ごめん。」
「ばか~」
言葉にしたら余計に涙か溢れてきた。そんな私に「分かった、ごめんな」と言いながらまた抱きしめてくれた。そしてそのまま顔の見えない状態で健吾がささやいた。
「今は俺の気持ちを言っても真実味がないかもしれないから言わない。楓、ごめんな。でもちゃんと楓に信じてもらえるって思った時に伝えるからさ。もう少しだけ待っててくれる?」
そんな健吾の誠実な気持ちがちゃんと伝わってきたから、健吾の心配そうな瞳を見ながら、「うん」と返事をした。そしたら健吾も笑顔を見せて、また抱きしめてくれた。
冷えていた身体は、いつのまにか温かく感じていた。
そしてまた手をつなぎながら今度は横に並んでゆっくり歩いた。
もう私のアパートのそばまで来ていることに気持ちが少し焦る。やっと気持ちが伝わってそばにいられると思ったのに、もう帰ってしまうなんて。
もう少しでいいから一緒にいたい。
そんなことを考えているうちに、アパートの前に着いてしまった。
「じゃあ、またな。帰ったら、連絡する」
そんな言葉に余計に気持ちが切なくなる。いろんな事がありすぎて、やっと整理した気持ちがまた溢れてしまう。今はまだ離れたくない。
「寄って行く?」
そっと聞いてみた。そばにいて欲しくて、「うん」の一言を待っていた。
「ううん、今日は帰るよ。また今度寄らせてもらうから」
求めていた答えが返ってこなくて、胸が苦しくなる。今までの私ならここで「分かった」と言っていたけど、今の私はそう言えなかった。
とにかく今健吾を求めている。溢れてしまった私の気持ちは、自分で抑えられなかった。
「コーヒー・・飲んで行かない?」
健吾の胸元をそっと掴んで、うつむきながら誘ってしまった。
すると健吾はため息をついた。
あっ・・いけない!と思って健吾を見ると困った顔をした後瞳を閉じ、そしてもう一度視線を合わせてきた。
それを見て「ごめん」と言いかけた時、健吾がかすれるような声で言葉を重ねた。
「お前・・無防備過ぎ。今日の状態で誘うようなこと言ったら、どうなったって知らねーぞ。お前俺のこと男だって理解してない」
拗ねたようにたしなめる健吾に、あえてもう一度言う。
「寄って行く?」
健吾の言葉を理解した上でもう一度誘った私の顔をじっと見た後、
「寄って行く」
そう答え、私の肩を抱いて一緒に歩き始めた。




