時が止まる瞬間
ここ何日か健吾が変だ・・・
2・3日前?もっと前?何か・・あったのかな?どうしても視線が向いてしまう。
朝声かけても少し笑顔で「おはよう」って言うだけ。でもその笑顔はいつもの健吾の笑顔じゃない。口だけ笑ってるだけ。
その笑顔に気付いたのは確か・・3日位前。
「健吾、おはよう!」
朝、駅の改札で少し前を歩く健吾を見つけたので、走り寄って少し後ろから声をかけた。
いつもなら振り向いて気心知れた笑顔で「おはよ」って返してくるのに、少しだけ振り向いていつもより低いトーンで「おはよう」と言ってまた前向いて歩き始めたんだ。その後いくら話を振ってもほとんど乗ってこなかった。
あの時は、あれ?機嫌悪い?って思っただけだったけど、それからずっと同じ感じ。
「何かあったの?」って聞いても「いや・・別に」って言うだけ。
見てると仕事もちゃんとしてるし、みんなと会話もしている。でも淡々としている感じで、いつもの健吾と違うって思う。
何があったのかこれといって浮かばない。あとは・・伊東さんと何かあったのかな?
月曜日は伊東さんと仲良く休憩スペースで話していたんだ。私は英輔と会うために先に帰ったからその後のことはわからない。
その次の朝、健吾があんな感じになっていて・・・今日はもう金曜日、そんな健吾が気になりながらもやらなきゃいけない仕事はたくさんある。
定時を過ぎて会社に戻ると休憩スペースにいた咲季先輩に呼び止められた。
「お疲れ楓!ねえ、ちょっとこっち来て」
「あ、は~い」
私が休憩スペースに行くとコーヒーを買って手渡してくれた。
外は寒かったので、手渡されたコーヒーがじんわり両手を温めてくれた。
そばにあるテーブルに向かい合うように座って、咲季先輩が手にしていたコーヒーを飲んだ。私もコーヒーの香りに誘われる。
「いただきます」
一口飲むと甘いコーヒーが口の中に広がった。
仕事の後はやっぱり甘いものだな~って思っていると、咲季先輩が少し身を乗り出してきた.
「あのさ、楓。私、楓に謝っておかないといけないことがあるんだ」
「え?何ですか?」
突然咲季先輩が私に謝ることがあるなんて言ってくるから、私もつい前のめりになってしまう。
「この前ね、う~ん月曜日楓が帰った後、山中くんに楓が結婚式で会った男友達が届け物持って楓に会いにきたこと言っちゃったの。余計なことだけど山中くんの気持ち揺さぶってやりたくてさ、勝手なことしてごめんね。とりあえずこれだけは謝っておかなきゃいけないと思って。山中くんの様子がおかしいのも、楓が男と会っているって知ったからかな。まあ、私はそうゆう反応を期待して話したんだけどね」
「ん~それはないと思います。結婚式の日、健吾車で迎えにきてくれたんですけど・・」
「え!!山中くん迎えに行ったの?」
私が話している途中で咲季先輩が驚いた顔して言葉をかぶせてきた。
「はい、遠いからいいって言ったのに、わざわざ来てくれて」
「そうなの?」
「それで、その時英輔の姿見たらしくて昔仲良かった友達って話したんです」
「昔好きだったってことも?」
咲季先輩がそのへんも鋭く聞いてくる。
「はい、好きだったけど振られたってことも話しましたよ」
「そっか・・・それで、あいつ?って・・・」
咲季先輩が聞こえない位小さな声で言ったのでよく聞き取れない。
「何ですか?」
「ううん、何でもない。とりあえず今回のことはごめんね。でもさ私は、山中くんは楓が感じるより楓に愛情持っていると思うな」
突然咲季先輩にそんなこと言われて戸惑う。そんなことあるわけないのに。健吾が私に感じるのは愛情ではなくて友情で、きっと兄弟的なものなのかもしれない。その上でいろいろ心配してくれたりしているのかなってこの頃思う。
「またそういうこと言って。それはないですよ・・愛情は全て伊東さんに向いていますから」
「楓、あんたが感じていないものがきっとあるから、諦めないでちゃんと山中くんと話してみなよ」
咲季先輩が言っていることはすごく大切なのかもしれないけど、それが私にはできない。伊東さんを想う健吾の嬉しい顔も、落ち込んでいる顔も見てきてしまったから・・それって時間が経ち過ぎたからかな?
「はい」とも「いいえ」とも言えず、曖昧に笑ってしまう私に困った顔して咲季先輩は微笑んだ。
そして営業部のフロアに戻り私はためてしまった書類を仕上げる為に残業して帰った。
終わる頃には22時を過ぎてしまい、遅いとは思ったけど明日は休みなので美好でご飯を食べて行くことにした。
「こんばんは~」
のれんをくぐり、ドアを開けるとおばちゃんが笑顔で迎えてくれた。あ~いつも通りほっとする。
「楓ちゃんいらっしゃい。寒かったでしょう~。健吾くんとっくに来てもう潰れっちゃっているわよ」
「え?」
奥の席を見ると健吾がテーブルに両腕を乗せ、その上に顔を伏せるように寝ている姿が見えた。
健吾今日は美好に行くって言っていなかったけどな・・そう思いながら健吾のいる席まで行って向かいの席に座る。
「健吾、健吾」
呼んでみても、揺すってみても起きない。
まあ、いいかってとりあえず寝かせたままにして、おばちゃんに黒糖焼酎のお湯割りと、もう遅い時間の夕食なので五目雑炊だけ頼んだ。
「はい、お待たせ」
おばちゃんが運んでくれたので、まず黒糖焼酎を1口飲む。
「おばちゃん、健吾飲みすぎて寝ちゃった?」
「そうだね、今日は飲んでいたね。あんまり食べずにボーっとしながら飲んでいたよ。何かあったのかい?」
おばちゃんは寝ている健吾を見ながらふんわり笑う。
「う~ん、よくわからないんだ」
「そっか、困ったね。何か携帯は何度も見ていたみたいだけどね」
「そっか・・・」
やっぱり伊東さんと何かあったのかな・・・いつもなら愚痴や悩み聞いて欲しくて飲みに誘ってくるのにな、一人で飲むほど悩んでいるのかな。
今まで伊東さんのことで悩んだりしても、あんなに無口になるようなことなかったのに。
おばちゃんが五目雑炊を運んでくれて健吾の寝顔をボーと見ながら雑炊を食べる。空いた黒糖焼酎のグラスをテーブルの端に置いた時、後ろの席のテーブルの上を片付けていたおばちゃんが声をかけてきた。
「もう1杯作るかい?」
おばちゃんがにこにこしながら空のグラスを持った。
「ううん、健吾送って行かなきゃいけないし、今日はもうやめとく」
「そう、じゃあ奥で洗い物しているから何かあったら呼んでね」
そう言うと奥の調理場へ入って行った。
雑炊も食べ終わったのでそろそろ健吾を起こそうとカウンターに行き、コップにお水を注いで寝ている健吾の横に立ちテーブルにコップを置く。
「健吾起きて、お水持ってきたからそれ飲んだら帰ろう」
健吾の肩を揺する。でも動かない。
「健吾、ねえ起きてよ」
もう一度肩を揺すって顔を覗き込むと、両腕に顔を伏せて寝ていたはずの健吾の前髪の隙間からこっちを見ている瞳が見えた。
「あれ?起きてる?」
聞いても何も答えない。無感情に瞳を開いたままジッとこっちを見たまま動かない。
視線が重なったまま起き上がらない健吾を見て、寝ぼけているのかと思ってもう一度声をかける。
「ねえ、起きてるの?もう遅いから帰ろう。タクシー呼んでもらう?」
また肩を揺すりながら起きているのか確認しようと瞳を覗き込んだ時、健吾の顔を乗せていた右手が動いて私の左肩を掴んだ。そして強い力で引き寄せられて唇がぶつかった・・・健吾の唇と。
驚いて動けず瞳も開いたままでいると、今ぶつかった唇が少し離れて言葉を放った。
「行くなよ・・・」
かすれた声でそう呟くと、肩を掴んでいた手が後頭部に触れて引き寄せられ、また唇を合わせてきた。今度は優しく触れるように。
さっきのぶつかるような衝突感はなく、唇の柔らかさ・温かさが伝わってくる。
何が起こったのか分からない、頭の中が整理できない。瞳が開いているのに何も見えなくて呼吸が止まったままになる。
そして唇が優しく離れた瞬間、我に返って健吾の肩を突き飛ばして顔も見ず向かいの席にあるコートとバッグを掴んでその場から逃げた。
とてもじゃないけど健吾の顔なんて見られない。お店から出る時おばちゃんに声をかけることもできなかった、一刻も早くこの場から逃げたくて。
震える手でドアを開けて外に出た。息が切れるくらい早足で歩いて、震える左手でこめかみを押さえて気持ちを落ち着かせ一生懸命考える。
何だったの・・・今のは・・何で?・・・どうしたの健吾・・・キスしたの?健吾が・・私と?
寝ていたから寝ぼけていたの?それとも酔っていて私だって分からなかった?間違えたってこと?・・・伊東さんと・・・
うん・・健吾が私にキスするなんてありえない・・・そっか・・伊東さんと間違えたのか・・・
あんなに早足だったのに考えが辿り着いたら歩く速度も落ちてトボトボ歩きになった。
ひどいよ・・・健吾、伊東さんと間違えるなんて・・・「行くなよ」って寝ぼけて言うほど伊東さんを彼氏のとこに行かせたくないってこと?
「バカだよ・・健吾」
つい声に出てしまう。
悩んで酔っ払って間違って私にキスするなんて・・・ひどいよ健吾。
私だと思っていないのだから、なかったことにしないといけないよね・・・。
大好きな人とのキスを忘れなきゃいけないと思ったら涙が溢れて頬を伝った。
「あれはキスじゃない・・・バカ健吾」
涙をぬぐって目の前に見えた駅に向かって歩いた。
また月曜日になれば健吾の前で笑わなければいけない、寝ぼけていて健吾は何も知らないのだから。キスした相手が私だったってこと知らないんだから。
唇を噛み締めながら自分を納得させようと、小さくうんうんと頷いて落ちる涙と一緒に心に落した。




