PAST 1:始まり
寒い夜だった。
悠々と流れる涼しい風を味わいながら、少年は高台から遠方をみおろしていた。
「訳わかんねよ……なんでこんなことが……!?」
炎に包まれ、夕映えのようなオレンジ色に輝く光景。
燃えているその場所は少年の村だった。
そこには少年の大切な家族や友人が居住している。見る限り、彼らが生きている気配はない。
少年は思わず唇を思い切り噛んだ。
悔しさと情けなさが哀れにも胸中でジリジリとこみ上げてくる。
この少年の名は『修二』。当時、まだ平和しか知らない十三歳の子供だ。
彼の平和常識を覆すように今宵、悲劇は起きた。
彼の村は元々戦線から外れた場所にあり、兵士の補給に村人が駆り出されることもなければ、武装した集団も居なかった。
「平和じゃなかったのかよ!?」
と、無念にも叫ぶ。
気付けば少年の目からは熱いものが溢れ出す。怒り、悲しみ、悔しさが折り重なり、両手の拳を潰してしまいそうなくらい強く握る。この社会に対する憤慨だけが彼の脳裏を覆い尽くした。
「絶対にこの世界を変えてやる……覚えてろ、覚えてろ!!」
と、叫喚する。
一本の木を背もたれに、いじめられっ子のように蹲ってすすり泣いた。
それはまるで鬼哭のような恐ろしく悲しいものだった。
暗闇の寂然さが周囲に沈黙を与え、すすり泣きと炎の轟音が静かに聞こえた。
あれから五年後。
現在、修二は平和の象徴の鳩すら飛ばない時代に生きている。
阿鼻叫喚、無間地獄に落ちたような諦観だけが現在の修二の中には渦巻いていた。
毎日が地獄のような感じがした。生きていても生きている気がしない。
視界は薄暗く、自分が座っている床は小刻みに震えている。
横に見える豪勢な木箱と人影。そこから推測するに、現在、輸送トラックのコンテナの中にいると悟った。
身動きを取ろうとするが腕と足に妙な圧迫感を感じる。
手足が何かで縛られている。更に口はガムテープで騒がないように固定されているらしい。そのほかの影を見渡すが誰も修二のように身体の自由を汚されていないようだった。
寂光が奥から差し込んだ。
コンテナの扉が空いたのだ。
ギィと言う古い金属が擦れ合う音と共に、修二の視界に黒い影が二体現れた。修二以外の人々は何の違和感もなく、するりとトラックから降りては木箱を運び出す。
仕事もしない二体の影は修二を見て笑っているように感る。それがあざ笑いなのか、嬉々の笑いなのか良く分からない。
即座に修二は無意識に憎悪に襲われる。睨む。修二にとってこの二体の影は殺すべき相手。
修二は鬼でも畏怖を覚えるような、凄まじい形相で睨みつけていた。しかし、そんな修二をもろともせず、ズンズンと影は近づいてくる。抵抗しようと体を芋虫のようにくねらせるが、呪縛の影響で立つことさえ出来ない。
そして、二体の影は修二の目の前に立った。しかし、言葉を発する訳でもなく、黙ったままだった。一体何をする気なのだろうか? という疑念に駆られる。
心音が上昇する。
汗が吹き出す。
「ん!」
その瞬間、腹部に激痛が走った。打撃を受けたのだ。
その後、修二の視界は真っ暗になった。
何故、自分だけがこんなことをされるのか修二には知る由もなかった。
「……」
暫時。
修二は目を開ける。
暑い。
まるで南の島に居るような酷暑。
ただ横になっていただけなのに汗をかき、滴り落ちてくる汗のしずくが目に入ってしまいそうだ。
一度軽く周囲を見渡す。沢山のテーブルに木でできた無骨な椅子だけが並んでいる。卓上にはお手拭きのようなものがある。食堂だ。
乾ききった砂の上に並べられた机と椅子はまるで修二を歓迎していないようだった。「とっとと帰ってしまえ」と罵詈雑言を吐いているようにも感じる。
(なんで、こんな場所に居るんだ……)
寂しさだけが渦巻く。ついに修二は力尽きたようにバタリと倒れ込んでしまった。
風を感じる。
とても乾いた風だった。
「時間だ」
視線を上へ。
そこには鶴嘴を持った兵士が立っていた。相手はきっと銃器を持っていると修二は無骨な格好をした兵士を見て直感する。
危機感を抱きながら鶴嘴を手に取り、醜い貧民のような姿で修二は兵士について行った。しかし不思議なことに何の葛藤も何の感情も生まれない。このあと何をされるのか分かっているのに、警備兵に付いていく自分が情けなかった。
(僕も……こんなふうになってしまったんだな)
と心で呟くと悲しくなった。労働場へ落ちた自分が情けないとしきりに思う。
五年前の悲憤はどこへ行ってしまったのだろうか? 考えると身が持たなそうだった。
「畜生……」
不満をぶつけるように持っている鶴橋に小さく呟き、強く握った。
暑い日差しが照りつける労働場、ここは『開拓地』ではなく『発掘現場』らしい。地下資源を求めてひたすら硬い地面に鶴嘴をうちつける。こんな労働を望むものなどいない。世間ではこれを『強制労働』と呼ぶ。
打ち付けるだけの単純なワンパターン作業のため疲労が貯まるのも速い。ただ一心不乱に鶴嘴の頑丈で鋭利な先端を硬い岩盤に叩きつける。
返ってくる反動も大きく、一度打つたびに手が痺れる。まるで修二に天罰を下すような惨めで悲しい痛みだった。
身勝手な休憩は許されない。
地獄だ。
「エヤッ」
もはや声も一緒に出さないと打てないくらい疲労困憊だった。土臭く、汗臭い労働場。ここは健康に良い場所ではない。
しかし、痛みに耐え続け、無心に地面に鶴嘴をぶつけると気が楽になるような気がした。この麻薬のような快楽は一体何を意味するのだろうか? と修二も違和感を覚える。
修二の表情は次第に薄れていった。「もうだめだ……希望なんてない。どうせ死ぬんだ」と。
新たな諦観は修二に快楽をもたらした。
この時、彼はすべてがどうでも良くなっていた。
太陽は真上を過ぎ去り西に傾いていた。気が付けば、「休憩なしにこんなに働いていたのか」とわれに帰ると倒れてしまいそうだった。
「キャッ!」
すると、突然、悲鳴が聞こえた。なぜかそのとき妙な希望を感じた気がした。
「ハァ、ハァ」と持久走を終えたランナーのように息を乱し、気になって悲鳴がした方を汗を拭いながら見てみる。
トロッコが独りでに動いている。
トロッコの進行方向の逆方向には、一人の女性がうつ伏せで倒れている。顔は泥まみれで年代は修二と同じくらい。長髪だった。
妙齢の彼女は作業中に転んでしまったのか痛そうに苦痛な顔を浮かべていた。
視線を再びトロッコに移す。その中身は作業中に出た瓦礫や土などの土木の山。廃棄途中だったらしい。
「待って!いかないで!!」
と、彼女が叫ぶ。しかし、当然トロッコは待ってくれない。徐々に彼女との距離を広げてゆく。
(助けてやろうかな……)
と言う気持ちが生まれた。でも誰も彼女彼女の憐憫な叫び声を聞いても見向きもしないので、仕事を続ける。
周囲を見て他人を救済することがバカバカしく思えた。これは、集団心理現象だ。
背後で轟音が鳴る。
トロッコは倒れ、中身の汚物が一帯に散乱した。ドロドロと広がる汚いヘドロ。完璧に作業ミスだ。
一気に彼女の顔が青ざめる。
運の悪いことにその汚物が警備兵の靴にかかってしまった(正式には態と掛かった)。異臭が漂う。
(やっちまったな)
自業自得と心の中で言い聞かせ、気にせず修二は作業に戻る。巻き込まれるのは御免だ。
「す、すみません!」
少女の健気な謝罪の声が響く。
聞いていてあまり良いものではない。このあと何をされるのか想像すると、ゾッとする。
「おうおうおうおう! 何してくれてんだ?」
傲慢な態度をとり、百獣の王のように堂々と少女に近寄る警備兵は手持ちの鞭を鳴らす。
「おい、こんなに綺麗な靴が台無しじゃないか?」
と、警備兵が靴をこれでもかと見せびらかして、彼女に差し迫る。
作業しながら横目で修二はその光景を見ていた。
すると、困惑する彼女と運悪く目が合ってしまった。ウルウルと小指で突いただけでも泣き出してしまいそうな瞳が救いを求めていた。
(かわいそうにな)
と内心では同情する。
そうしたことで、修二はその瞳の奥に引き込まれるように目を合わせてしまった。
妙な親近感が生まれる。
(冗談じゃない)
修二は慌てて作業に熱を入れ始める。おそらく開始当時の二倍の速度で鶴嘴を打ち付けていたに違いない。
そんなことはどうでもいい。とにかく感情を抑制しなければならない。
「どこ見てんだ?」
「す、すみま――――――キャッ!」
再度、謝る彼女に鞭が打ち付けられた。破裂音のような痛々しい音が修二の蝸牛に届く。耐えられなくなり、とっさに修二は彼女の方を見る。
「う~……痛い……いたっい……」
と、右手を抑えて嘆く少女。泣いているようにも見える。
しかし、諦観ばかりに包まれて無慈悲な修二の目には、(わざとやってるのか?)と胡散臭そうに映る。
いつしか修二の手は何かに震えていた。
(もういいだろ……許してやれよ……)
と繰り返し心の中で懇願する。作業に没頭することなど忘れていた。
(あれ? なんでこんなふうに思ってるんだ?)
聞き返す。すると、正義感が擽られた。
だが、「彼女を救うべきか否か……」。迷う。
「連れてけ」
と警備兵は言って、二人の警備兵が彼女の腕をつかんだ。戦慄する彼女。つかまれた腕が震えているのを見ると息が乱れてくる。
葛藤が起きる。
「やだ! やだ! やだあぁ!!」
と泣きじゃくり抵抗する少女。鶴嘴を握る腕が震える。
(……)
不憫に見過ごせなくなった。
……上等じゃねえか。
もう我慢の限界だった。
すると、修二の鶴嘴の持ち手が変わった。そして作業を止め、鶴嘴を持って少女を連行する警備兵に向かって歩きだした。まるでその後ろ姿は戦に行く戦士のようだった。
“運命を……変えてやる!”
鶴橋を手に、再び修二の心にその感情が生まれる。
少女がそれに気づき少し表情が穏やかになったような気がした。
「そこ! 何してる!」
警備兵の怒声が響いた。驚いた修二の足が止まる。
「あ、すみません」
懇切丁寧、「この上もなく忠誠を誓っています」と言うように、ペコペコとおじぎをして、修二は呆気なく持ち場に戻った。
少女は少し悲しそうな顔をしたのが見えた。
(しょうがねえだろ? なんでそんな顔すんだよ)
と不平を心の中で漏らす。
彼女は連れて行かれてしまった。
自分の不甲斐なさが修二の心情を締め付けていた。
今さらになって思うことは、もし、連れて行かれるのが彼女でないなら、自殺行為を行わなかっただろう。と言う遺憾だった。
しかし、修二はそんなことを少し気にしただけで、すぐに作業に没頭した。
彼女のことなんて忘れてしまおう。
と仕切り直し、感情を鶴橋に込め固い岩盤を叩いた。