日常
紙の上を鉛筆が走る軽やかな音が好きだ。それは真っ白な紙の上に、僕だけの想像の国を創り出す魔法の音。
今日も天気は快晴。たっぷりと陽の光が溢れるサンルーム。僕の定位置となりつつあるカウチに座り、膝の上に置いたスケッチブックに鉛筆を走らせる。
僕に用意された二階の東側の部屋。白と焦茶で統一され、シンプルなアイアン製のベッドとアンティークのライティングデスク、その名の通り歩き回れる程広いウォーキングクローゼット。収納された僕の荷物は、十分の一も埋めていない。
僕には贅沢過ぎる作りと広さで、一人で部屋に居ても、正直寂しさを感じてしまう。
こうしてサンルームのカウチに座っていると、仕事中のクリスやアンさんの姿を見掛ける。屋敷の中に感じる人の気配に、僕は安心して目を閉じる。もし二人がいなかったとしても、多くの植物に取り囲まれるだけでも、寂しさは薄れ、彼らの密やかなざわめきが聞こえて来る。
今も目の前ではクリスが、所狭しと置かれた観葉植物たちの世話の真っ最中だ。柔らかい布で旅人の木の葉を丁寧に拭いている。
作業の邪魔らしく、いつものジャケットは脱ぎ、捲り上げた袖から伸びる腕は、力強い男性のそれで、動かすたびに筋肉と腱が盛り上がる。思わず見比べた自分の腕の貧弱さに、そっと小さくため息を吐く。窓から差し込む陽の光に、彼の髪が金色に輝いている。
僕はスケッチブックにクリスの姿を描いている。もちろん本人は内緒だ。後で見せて驚かそうとか、そういうサプライズは考えていない。ただただ描きたいから描いている。うーんとアレだ。綺麗なものを見ると描かずにはいられない。きっと絵描きの性だ。
高く通った鼻梁に淡い影を付ける。薄めの唇は緩やかにカーブを描き優しい笑みが浮かぶ。僕のスケッチブックの中のクリスはいつも穏やかな笑みをたたえている。
多分これは僕の願望だ。いつかクリスの自然な笑顔を見たいっていう。
「クラスはどうだった?」
「うわっ」
夢中になり過ぎていて、いきなり飛んできた呼びかけに、文字通り鉛筆を取り落としそうになった。
そんな僕の様子に、クリスは首を傾げる。早く返事をしないと、また「具合が悪いのか?」と心配されてしまう。
「う、うん。楽しくやっているよ。って、僕が楽しんでちゃダメなのかな」
「大変結構。レイが楽しいのなら、子どもたちも楽しいだろうからね」
クリスが言う『クラス』とは、ゴールドエリアにある私立のお金持ち学校で行っている絵画教室のことだ。我が子の隠れた才能を見つけたい、と望む親が子どもを入れる放課後の時間帯だ。習い事、と言うべきなのだろうが、それよりも上級と言う意味を込めて『クラス』と呼ばれている。
僕はシュタイン家の推薦で、小学校の入学前後、要はちびっ子たちに絵を教えている。これが屋敷のレンタルとセットの仕事の紹介だった。きっとあの橋の上の紳士は、僕が美術の先生になりたいと言ったのを、ちゃんと伝えてくれていたのだろう。
絵を教える、なんて大層なことを言ったが、本当はもっと気軽な感じでお絵描きに付き合う、という方が適切だ。僕自身もそっちの方がリラックスして臨める。
「子どもたちと絵を描くのが好きなんだ。元々ホームでもチビたちとお絵描きしてたしね。みんなとっても可愛いよ」
「そうか。良かった」
「今日はみんなにねだられて、おとぎ話の王子様とお姫様の絵を描いたんだ。大きな画用紙なんだけど、僕なんて使ったことのない高価な紙だったよ」
たかが、と言ってはいけないのかもしれないが、子どものお絵描きにこんな上等な紙を使う。もちろん当の本人たちはそんなことは分からないから、ちょっと使ってはまだまだ余白があっても、直ぐに次の紙を引っ張りす。眩暈がしそうな光景だ。
「子どもの頃から良いものを使えば、価値を知る大人になると、口では言っているが、単なる親たちの金持ちアピールなだけだ」
クリスは時々こんな風に、辛辣な言い回しをすることがある。ちょっと人間臭くて、僕は好きだ。これもAIが学習を重ねるごとに、オブラートに包む、を覚えて消えてしまうかもしれないのは、少し寂しい。
「何を描いているのかな」
会話をしながらもクリスの手は動き続け、旅人の木から柱に吊り下げられたブーゲンビリアの枯れた花にハサミを入れている。
「文芸クラスの先生が作ったお話に、絵をつけているんだ。呪いでいばらのお城で長い間眠りについたお姫様を目覚めさせるために、旅の騎士がダンジョンの奥深くに納められた魔法の剣を探しに行くお話。途中でダンジョンの中の魔物と戦ったり、美味しい食事を作ったりするんだ」
「昔からありそうな話の集合体だな」
「子どもには、王道の方が分かりやすくて良いんだよ」
そんなものなのか、とクリスは平らな声で呟くと、再びハサミを使い出す。作業に没頭し出したのか、二人の会話は切れた。
スケッチブックをパラパラとめくりながら、各場面のスケッチを見て、小さくため息を吐いた。
「困ったな。どうしよう」
柱に立てかけた梯子を登るクリスは、いばらを伝わって城壁を登ろうとする騎士の姿。ブーゲンビリアの花にそっと触れるクリスは、呪いで眠る姫に指先を伸ばす騎士の姿。そして目覚めた姫を抱きしめる騎士の姿は…マグノリアの樹の下で僕を労わってくれたクリス。鼻の先をタイムが香った気がした。
プラチナブロンドの髪が輝き、美しい翠色の目の持ち主の騎士はすらっとした立ち姿のクリスそのもので、生き生きと躍動している。反してお姫様は…
「うー上手く描けない。せっかく騎士が助けに来てくれたのに、全く嬉しくなさそう。これじゃあ、ショーウィンドウに飾られたお人形を、通りから眺めていのと変わらないよ」
気を取り直して何回も書き直して見たが、どうも上手くいかない。
「全く駄目だ。呪いに打ち勝って幸せになれる気がしない」
ぶつぶつ言いながら力を入れた消しゴムで、紙に皺が寄ってしまった。慌てて両手で擦るように伸ばして、鉛筆の黒さが広がってしまった。
「何が『どうしよう。困った』なのかい?」
頭の上から声が降ってきた。
あっ!と慌ててスケッチブックを閉じたが、時すでに遅し。クリスは僕が描いている絵なんて興味がなさそうだから、まさか覗き込んで来るとは思ってなくて、油断していた。
「おや?その騎士は…」
まるでわたしでは?と聞こえた気がしたが、いや、慌てた僕の勝手な空耳だったのかも。
「ああ、僕、アンさんの所に行ってくるよ。料理のシーンを描くんだ」
クリスが次に何か言う前に、聞かれてもいない言い訳を並べてサンルームを飛び出した。
ドキドキと心臓を高鳴らせながらも、どうして自分があんなにも慌てたのか分からなかった。騎士がクリスに似てしまったのは、すぐ側にあれだけ完璧な外見を持つ人がいたら、誰でもモデルにするはず。おかしい事は何一つない。それなのに…どうして僕の頬はこんなにも熱いのだろう。
ーそして二人は幸せになりました。
サンルームから足早に去る僕の背中に聞こえた台詞は、ずっと後になってクリスが呟いたものだと知った。
調理場に近づくにつれ、甘い良い香りが濃くなった。
入り口からそっと中を覗くと、小柄な女性が忙しそうに立ち働いている。アンさんだ。僕がこのお屋敷に来た翌日、朝食で食べたカリカリチーズトーストがあまりにも美味しく、お礼を言いたくて調理場に顔を出した。
ーまあ、あなたが新しくわたしの料理を食べてくれる人ね。よろしく!
振り返ったのは、甘いお菓子みたいにふっくらとした可愛らしいおばちゃんだった。部屋には彼女しかいないし、元より料理番は一人だと聞いていたので、カリカリチーズトーストを焼いてくれたのは、彼女だろう。
ーあ、あの。さっき食べたカリカリのチーズトースト。すごくおいしかったです。ありがとうございました。
ーわざわざお礼を言いに来てくれたのね!嬉しいわ。
赤いギンガムチェックのエプロンと揃いの帽子姿の彼女の身長は、僕の胸のあたりぐらい。まるで絵本に出てくるキッチンの妖精のような雰囲気だ。僕を見上げる笑顔は、片方だけえくぼができた。
ークリスから聞いていると思いますが、大瀬嶺です。レイと呼んでください。えっと…お名前…
ーああ、まだ言ってなかったわね。ごめんなさい。わたしはアマンダ。アンと呼んでちょうだい。このお屋敷全部の料理を任せられているわ。
ーじゃあ、昨日のローストポークもあの金色のケーキも。
ーカトルカールね。もちろんよ。全部わたしのお得意料理よ。若い人が来てくれて、こっちも腕の振るい甲斐っていうのがあるわ。美味しいものいっぱい作るから、いっぱい食べてね。
ー実は僕、そんなに食べる方じゃなくて…
ーええ!若い子はガッとグッと食べるものだと相場が決まっているわ。
ガッとかグッとか、感覚だけの言葉だが、言いたいことは分かる。
ーこの屋敷に来て、わたしが料理をする以上、常にお腹いっぱいにしてあげるからね。
本当にありがたい言葉なんだけど、浮かべた不敵な笑いは、それまでのお菓子のようにふんわりした雰囲気が見事に裏返しになった笑いで、僕は自分の胃の危険を感じてちょっと後ずさった。
あの時の言葉通り、今もアンさんはせっせと何かを作っている。その甘い香りは。
「カトルカール!」
僕の声にアンさんが振り返った。
「ご名答!」
部屋いっぱいに広がった芳醇なバターと砂糖の素敵な甘い香り!逃さず全て吸い込もうと大きく深呼吸をして、アンさんに笑われた。
全てが少し低めに設計された調理場は、コンロもオーブンも冷蔵庫もみんな最新式で、中央の大きなステンレス製の調理台に焼きたてのケーキが三本、ケーキクーラーの上で待機中だ。
バターと砂糖、卵と小麦粉。全てが当分で作られる『四分の一が四つ』という名前のケーキは、アンさん曰く『完璧』出そうだ。
「全部が同じ分量で、何かだけが主張しすぎず、でもみんなが自分の役割を完璧に果たして調和しているの。世の中もこんな風なら素敵なのに」
「なんだか、おとぎ話のお菓子の家みたい」
「じゃあわたしは、そこで手ぐすね引いている魔女ってこと?まあ、美味しいお料理を作る魔女っていうのも、悪くはないわね」
そして魔女の料理でお腹いっぱいの僕は、今日も幸せだ。
こんな立派な調理場でも、ここら辺の屋敷の設備に比べると慎ましいものらしい。
「ちっちゃなわたしに合うように、シュタイン様が作ってくれたのよ。焼き上がったばかりの、温かいのも食べてみたいでしょ?端っこ切るから、座って」
アンさんに促され、僕は調理台の横に椅子を運び腰をおろした。
「今日はミントとレモンバームのお茶にしてみたの。でも男性はハーブティーは苦手かしら?」
「大丈夫です。育ったホームでは、神父様と幼馴染が癒し手ですので、薬草やハーブはいつも飲んでいました」
「あら、そうなの。癒し手の人たちは、珍しいハーブの使い方なんて詳しそうね。今度教えてもらえないかしら」
「芳亜って言います。幼馴染でまだ見習いですが、勉強熱心なやつなので、色々知っていると思います。また遊びに来たいと言ってたんで、その時に良ければ、アンさんに会ってもらいたいです。芳亜、このケーキを食べて『何これ、旨ーい!』って叫んでいました」
ちょっとだけ芳亜の口調を真似して言ってみると、アンさんは可笑しそうに笑ってくれた。もちろん、次に続く言葉は決まっている。
「その子はいっぱい食べるのかしら?腕が鳴るわね。ねえ、その子の好きな物って何かしら?他にもよく食べる友達はいるかしら?」
まだ温かいケーキはふんわりと柔らかく、バターの香りが鼻に抜ける。
「このケーキ、クリスも好きなんだと思います」
「あら、どうして?」
「気がついたんです。クリスがこのケーキを食べる時、ほんのちょっと口元が笑っているように見えるんです」
本当は気のせいで、単なる僕の願望の投影なのかもしれない。アンドロイドのクリスは、食べる機能は装備されていても、味わう機能はない。
こんなにも美味しいものを、いつかクリスも分かるようになって、二人で「美味しいね」と言いながら楽しい時間を過ごせたら、どんなに楽しいだろう。
「あら、クリスさんもあなたと一緒にお茶を楽しんでいるのね」
その驚きように、どうやらアンさんは食事のテーブルも二人で囲んでいることを知らなかったようだ。
「そうなのね。クリスさんからお料理を増やして欲しいって言われた時は、とうとうあなたがとんでもない食いしん坊になったって喜んでいたのに。ただ単に二人分になっただけなのね」
残念がるかと思いきや、アンさんは何故か拳をギュッと強く握った。
「だとしたら、やっぱり少なすぎるわ。成人男性二人、なんだから。さらにもう何品か増やさないと」
「大丈夫!今で十分過ぎる量です。それにクリスは僕のお願いに付き合ってくれてるだけですから。本当は食べる必要はないって聞きました」
「アンドロイドだからって、本当に嘆かわしいわ。食べることは喜びなのに」
アンさんは本当に悲しそうに首を振る。
「シュタインさんがお屋敷に居るときは、クリスは食事は…」
「シュテイン様は、いつもお一人で食べていたわ。だからわたしも十二分には腕を振りきれないのよねぇ」
「あの、シュテインさんってどんな方なんですか」
「あの方の小さな頃から、わたしがお食事を作っているけれど、好き嫌いはないっていうか、食べ物自体への興味が薄いっていうか。出された物は何も言わずに食べ、その代わりに要望も希望もないのよね。もしかしたら毎日同じものを作っても気がつかないのかもって、心配しちゃうわ」
もちろん、そんな手抜きはしないけれどね。とアンさんは付け加えた。
「食事のこと以外に、もっとどんな人なのか知りたいんですが。年とか外見とか」
「どうしてそんなこと、聞きたがるの?」
ふっくらとした頬が少し強張ったように見えたのは、気のせいだろうか。ここでもこの屋敷の主人の話は避けるべきものなのか。
「いえ、こんなにもお世話になっているのに、シュタインさんの事を何一つ知らないなんて、失礼かと思ったら心苦しくて」
しおらしい表情を浮かべて見せる。ちょっと卑怯かな、とは思ったが、いつかちゃんと会ってお礼を言いたいと思っているのは、本当だし、もちろんクリスにも聞いたが、何も教えてはくれなかった。
「確かに、シュタイン様はメディアはお嫌いだし、お友達は少ないし、一年のほとんどはお仕事でどちらかへ行ってしまっていて…」
「何を話しているのですか」
調理室の入り口にクリスが立っていた。サンルームの植物の世話が終わったらしく、いつものようにチャコールグレーのジャケット姿に戻っている。話に夢中になっていて、クリスの足音に気がつかなかった。
「主人の話を請われるままに口にするなど、使用人として如何なものかと思いますが」
ゾッとするほど、平らな声だった。抑揚のない声は酷く冷たい。
「ごめんなさい」
俯いたアンさんの頬に、いつものエクボは消えている。
「僕がアンさんにお願いしただけなんだ」
「レイ、君はここには、絵の相談に来たはず。契約書以上のことは、知る必要性はない」
こちらに向けられた目は、疑いの色がはっきりと滲んでいた。初めて僕がこの屋敷の庭に迷い込んだ時に向けられた、まるで知らない人間に向けられる物だった。
「人には決められた範囲がある。仕事は忠実にお願いします」
それだけ言うと、クリスはこちらを見ることなく、去って行った。
「あの、レイ、ごめんなさい」
呆然とする僕に気遣うように、アンさんが名前を呼んだ。
「クリスさんは悪気はないの。ただお仕事に忠実なだけなの」
その先は聞かなくても分かる。『そうプログラミングされている』から。
今までぬくぬくと幸福感を感じながら包まっていた毛布を強引に剥ぎ取られ、外に摘み出されたような気分だった。
(大丈夫、大丈夫。僕は大丈夫)
久しぶりに唱えた呪文は全く効かなくて、僕は手のひらに食い込む爪の痛みを感じながら、拳を強く握り締めた。
【続く】




