想章 彼女のために…
ーー*木ノ橋翔楼*ーー
両親を失ってすぐ、母方の祖母に引き取られた。祖父は若くして病で亡くなっていて、故に祖母とは二人暮らし。
元々、他県に住んでいたということもあって、年に一、二回顔を合わせる程度だったから、祖母とはそこまで親しくはなかった。
だけど彼女にとって、僕は娘の唯一の忘れ形見。祖母は穏やかでおっちょこちょいな人だったけど、彼女なりに愛情を注ごうと必死になっていたのは感じられた。
だけど、僕の胸にぽっかりと空いた孔は、そう簡単に塞がることはなかった。
なにしろ、事故の瞬間がトラウマになっていて、ふとした拍子に鮮明に脳裏に蘇るんだ。
ー
「お父さん?」
父はピクリとも動かなかった。
シートベルトに繋がれたまま頭と腕はだらりと垂れて、鼻と口からは血が滴り落ちていた。さらに対向車と衝突した衝撃で、太ももから下が運転席ごとグチャグチャにひしゃげていた。
始めて見た大量の血と、僅かに見える肉の断面。そして充満する錆びた鉄の匂い。その全てが事故の凄まじさを物語っている。
血の気が引いた。
瞬間、内側から不快感が込み上げてくる。
「おぶっ…」
両手で口を塞ぎ、吐き気を抑え込む。
ゼェ、ゼェ…。
呼吸、呼吸、息をするんだ。
そう自分に言い聞かせて、プツリと消え入りそうな意識をガッチリと掴んだ。そしてもう一人の存在に視線を向け、生命の安否を確認した。
「母さん…」
助士席に座る母には、まだ息があった。
幸い、父のように悲惨な状態ではなかったが、瀕死な事には変わりなかった。
…急げば…急げばみんな助かる。
そんな希望に縋り、父のポケットから血まみれのスマホを取り出す。ヌルリと血で手が滑べる。逸る気持ちを落ち着かせて、数分の奮闘の末になんとか助けを呼ぶことができた。
「お母さん…お父さん…今助けが来るからね」
家族が死ぬ。そんな恐怖に囚われながら、自分が成すべき事を必死に考えた。少しでも可能性があるのなら、やらないよりはずっといい。
「しっかりして」「大丈夫だからね」
きっとみんな助かる。そう信じ、自分にも言い聞かせるように、両親に何度も呼びかけた。
少しでも希望を見いだしていないと、怖気づいて動けなかったから。
ガチャ…
ガチャガチャ…
車から出ようにも、車体が歪んで扉が開かない。
「ここだ…」
大きく罅割れた窓に気づき、シートベルトを外して脆くなった箇所に渾身の蹴りを何度も入れる。
ガンッ…ガンッ…ガンッ…
バリンッ!
「よし」
割れた窓から身を乗り出して脱出し、車外から助士席を覗き込んだ。
幸い窓は開いていて、手を伸ばして母の肩を揺さぶった。
「起きて!お母さん!」
「か…ける…?」
呼びかけに応え、母は弱々しくもおぼろげに目を開けてくれた。
「お母さん!」
意識を取り戻した母。微かに差し込んだ希望に、ホッと胸を撫で下ろした。
「うっ…」
体が痛むのか、母はぐったりしながら顔を上げると、そっと手を伸ばし、僕の頬に優しく触れた。
「よかっ…た…」
僕の無事を確認するや、母は安心したように微笑んだ。それに応えるように、僕も良かったと笑って返す。
しかし、安心したのも束の間。
「ごめん…ね…」
振り絞るような声が母の口から呟かれた。
瞬間、頬に触れていた母の手が、窓のモールにストンと落ちる。
「お母さん?」
また意識を失った、そう思い力の抜けた母の手に恐る恐る手を伸ばす。嫌な予感に全身が震え、呼吸がだんだんと荒くなる。
嫌だ…
嘘だ…
そして母の手に、僕の手を重ねた。
「あ…」
手から体温が吸い取られていくような、冷たい感覚が僕を襲う。
刹那に理解した。
母の手から温もりが冷めていくのを…
「ああぁ…お母さん、起きてよぉ…」
脳が…心がそれを理解することを拒絶し、唇をギュッと噛み締める。そんなの嘘だと、現実を否定するために母の顔を覗き込んだ。だが半開きになった瞳を見て、心臓を鷲掴みにされたような鈍い痛みに襲われる。
穏やかに笑いかけてくれた母の瞳からは、完全に命の色が失われていた。
父が死んだ。母が死んだ。
目の前で愛する家族が悲惨な死を遂げた。
その現実を受け入れられず、静寂に包まれた闇世の中を、僕の絶叫だけが木霊した。
以降、思い出す度に苦しくなって、生きているのが辛くなった。
当時の記憶は呪いのように、着実に僕の心を壊していった。
ー
祖母の家で世話になって一週間近く。小学校も徒歩で通える場所に転校した。
慣れない土地感に、溢れかえる他人の目。全員が僕を見ている、みんなが僕を哀れんでいる。そんな妄想に取り憑かれながら、気が気じゃない日々を送っていた。
そして今日も、学校から逃げるように帰宅した。
「ただいま…」
扉を開けて中を伺い、そのままソロソロと自室へ向かう。
僕が避けているという理由もあるが、祖母との間にはまだ壁がある。世話になり、負担になっているという引け目から、僕は家で空気になるよう徹している。
抜き足、差し足、忍び足。祖母に見つからぬよう気配を殺し、ゆっくりと足を進めていく。
「翔楼ちゃん?おかえりなさい…」
その努力も虚しく、開かれた居間の扉の先で、塞ぎ込んでいた祖母と目が合い、呆気なく見つかってしまうのだった。
「お婆ちゃん…ただいま」
諦めて、やむなく祖母の元へと歩み寄る。その過程でふと気づいた。祖母の目尻が、わずかに腫れている。まるで、さっきまで泣いていたみたいだった。併せて彼女が握り締めていた一枚の紙に目を引かれた。
…写真?
写真には笑顔の母と、父の元気な姿が写っていた。
二人が結婚した頃の、日常を切り取った写真だった。その他にも、机の上にはアルバムが置かれていた。両親の若かりし頃の姿や、小さな赤子の僕を抱えて、嬉しそうに寄り添う二人の姿。その中にいる父と母は、とても幸せそうだった。
…二人とも笑ってる。
両親の事を思い出そうとすると、必ず最後の瞬間…死の瞬間がフラッシュバックする。
紅蓮に染まる車内。事切れていた父の悲惨な姿。そして命の炎が消える母の間際。
まさしく僕の心を蝕む呪い。
だけど写真に映るのは、忘れてかけていた二人の笑顔。二度と見ることはないと思っていたその笑顔に、僕の中で蔓延っていた何かが、浄化されていくような気がした。
瞬間、一粒の滴が頬を伝う。
「う…」
脳裏に埋もれていた幸福な思い出が蘇り、押し殺していた痛みが、放流されたダムのように、涙となって零れ落ちた。
会いたい。
お母さんに会いたい。
お父さんに会いたい。
頭の中は叶わぬ願いで一杯になった。
「う…お、お、おかあさん…おとうさん…あう…あ…あ…うわああああん!」
自分でも驚くぐらい声を上げて、呼吸が苦しくなるくらいの嗚咽を漏らした。
そんな僕を、祖母は優しく抱きしめた。
「ずっと我慢してたんだね…。強い子だ」
そう言って彼女も泣き出した。祖母の言う通り、僕は知らず知らずのうちに我慢していたんだと思う。
家族を失い絶望とした日々。人生のレールに、突然ひとりぼっちで放り出された孤独感。
残りの生涯も、嫌でもこの思いと向き合っていかなきゃいけない。はらわたが千切れるような思いを、ずっと一人で抱えて生きなきゃならない。
そう思っていた。でも違った。僕だけじゃなかったんだ。
祖母もこの思いと戦っていたんだ。
この日からだ。
少しずつでいい。
天国にいる両親のためにも、前を向いて進もう。お婆ちゃんもついてるんだ。
そう自分の心に誓った。
ー
新しい学校では、変な子とつるむようになった。
「翔楼君。ゲームしよ」
「ダメ。まだ算数の宿題が終わってないでしょ。それにさっきゲームしたばっかじゃん」
■■は勉強がてんでダメ。だけどゲームは大好き。
飲み込みは速い方だけど、忘れるのもまた一段と速い。定期的に知識を叩き込んであげないと、またテストの前週に泣きつかれるのは目に見えていた。
「こら!ゲーム機の電源を入れるんじゃない!」
正直、彼女のことは以前まで鬱陶しいと感じていた。
心の平静を保つために、誰彼構わず見えない壁を作っていたんだ。
拒絶し、敵意を向け、果てにクラスから浮いてしまった僕を、■■だけが最後まで見放さなかった。
良く言えば面倒見が良い。悪く言えばおせっかいが過ぎる。
でもそういうところに救われたのも事実だ。
今思えば、■■に対して失礼な態度を取ったことを反省している。
こんな僕に、めげずに手を差し伸べ続けた■■には感謝を禁じ得ない。
ただ…
「ゲーム…」
たまに見せる変顔は、本当に自粛して欲しい。
◯ッフィーみたいなその表情に、不思議とやる気が削がれてしまうんだよなぁ。
「はいはい…」
ー
僕は高校生になった。
背丈は■■を見下ろせるほどに成長し、そこそこ男らしく見違えたと思う。
■■との関係はあいも変わらず、一緒にゲームをしたり、アニメを鑑賞したり、勉強を教えたりと、これと言った変化はまったくない。
それでもずっと隣りにいてくれる■■に、僕は次第に淡い恋心を抱くようになっていた。
そんなある日のこと。
「好きだ。俺と付き合え!」
同級生の中でも屈指のエース。
サッカー部の…
えっと…
名前なんだっけ?
まぁ、その男子生徒が下校時の校門で待ち伏せしていて、大胆にも、隣を歩く■■に交際を迫ってきた。
流石は他人の目すら気にしない豪胆さ。その顔は自信に満ち溢れている。
しかし…
「あははーごめんね~ばいば~い」
満面の笑みを浮かべた■■に軽くあしらわれ、男子生徒は無残にも真っ白に燃え尽きた。
少々気の毒に思う。
さらには勇気ある戦士をほったらかして、■■は僕の手を思いっきり引いた。
「翔楼~、早く帰ってゲームしようぜ~。昨日買った新作の格ゲー、NPCだとイマイチ物足りないんだよねー」
それがトドメになったのだろう。
視界の隅で、あの男子生徒から燃えカスのように消えていくのが見えた。
瞬間、全身を縛る緊張感がスッとほぐれていくのがわかった。
…良かった。
■■が告白される度に、いつか『YES』と返事をするんじゃないかと、ずっとソワソワしている。正直、僕だって友達以上の関係になりたい。だけど、今の心地良い関係が崩れてしまうことを恐れて、中々一歩を踏み出せずにいる。
その逆も然り。
告白しにくる男子は、日に日に増えていく一方。焦りを覚えながら、猶予もない気がしてならなかった。
なにしろ■■は、高校でも一位二位を争うと言われている、超のつくほどの人気者。表向きは才色兼備で人柄も良く、男子だけでなく女子からも人気が高い。上級生にまでその存在は知れ渡り、交際を申し込む者は後を絶たない。
「ゲーム!ゲーム!」
しかし■■の本当の姿は、ただのゲーム大好きオタクだ。彼女が勉強できるのも、僕が付きっきりで見ていることが大きい。そして休日はぐ~たらとアニメを見ながら怠けている。
結構だらしない子なのだ。
「とうちゃーく!」
家に着くなり、■■は一目散に部屋に駆け上がり、ゲーム機の電源をオンにした。
ブゥンと立ち上がる起動音も、今日は一段と長く感じられる。
「よーし!勝負だ翔楼!」
コントローラーを手渡され、受け取った拍子に手が触れ合う。
普段は意識しないのだが、告白の直後も相まって、少しだけ心拍数が跳ね上がった。
そんな僕の想いも露知らず、■■は隣によっこいしょと腰を下ろした。その距離はやたらと近く、ほんのりと甘い香りも漂う。思わぬ距離感にドキッと心臓が脈打つと同時、心の中に僅かな曇がかかった。
はたして僕は、異性として見られているのだろうか…。
「そいや!そやそや!」
「………」
ゲーム対戦開始。ジャンルは、下校時に言っていた格闘ゲームだ。
楽しそうに、かつ真剣に。慣れた手つきでコントローラーを操作する■■。そんな彼女を横目に、僕は負けじと応戦した。
シュッとした可愛らしい顔立ち。艷やかな長いまつ毛に、凛と輝く長い黒髪。そしてキラキラとした真っ直ぐな瞳。
女性らしくはなったが、どこか子供っぽい面影がチラチラと垣間見える。
こういうところは変わらないし、そういうところが愛おしい。
…ああ、やっぱり。
…好きだなぁ…。
「ふぇ!?」
隣から、素っ頓狂な悲鳴が漏れる。
瞬間、ディスプレイにはドドンと『K.O.』の一文字。
僕のキャラは、圧倒的戦力差で負けていた。
「ふふん。動揺を誘う作戦だったんだろうけど無駄だったね!」
…え?ひょっとして、口に出てた?
失態だ。
どうやら思っていた事が、口からダダ漏れだったらしい。
動揺しているのがバレないように、そのまま得意なポーカーフェイスを維持。しかし早まった鼓動の熱が、血管を駆け巡り、顔中の体温をグツグツと沸き立たせる。
普段の僕なら、することのない凡ミス。
頭の中は『どうやって誤魔化すか』『どうやって挽回するか』その考えで一杯だった。
奥底では、取り返しがつかない無様なあがきだとわかっているというのに。
…あれ?
顔を見合わせて、ふと気づく。
『好き』なんて言われ慣れているはずの■■が、気恥ずかしそうにキョロキョロと視線を反らした。意図せぬ不意打ちが効いたのだろう、こんな■■は見たことがない。
可愛らしい照れ顔に見惚れるも、しばらくしてフッと我に帰る。
もう…腹を括るしかない。
綺麗な瞳を真っ直ぐに見つめ、自分の本心を曝け出す。
「本気なんだけど…」
ムードの欠片もない一言をサラリと口から吐き出すと、キョトンとした表情で■■の時が止まった。
そしてしばらくすると、また時間が動き出す。
「………え?……はっ?え!?」
この時ばかりは、言葉足らずの自分にほとほと嫌気が差した。ロマンチックで気の利いた言葉を、恥ずかしげもなく言えたらどれほどよかったことか。
しかし口に出してしまったのなら、あとに引けない。帰って来る言葉をただ待つのみだ。
どんな返事が返ってきても、受け入れる覚悟で身構える。
「……ふふ…」
我に返った■■は、おもむろに小さく笑う。
「いいよ」
「え!」
驚きの返答に目を丸め、一瞬だけ思考がサヨナラする。
すると■■はコントローラーを握り締め、そのままゲーム画面に真剣な眼差しを向けた。
「ただしっ!次の対戦で私に勝つことができたらね!」
予想打にしない展開に面食らい、ただ茫然と■■の視線を追う。
「ほら!何してるの、早くキャラ選んで!」
■■はキャラの選択を終え、僕の準備が整うのを待っていた。
新作の格ゲーとは言っても、過去から続いている不朽のシリーズ物だ。以前にも過去作を■■と何度もプレイしているので、その中でももっとも得意とするキャラを選び、待機時間という僅かな合間に息を呑んで精神を研ぎ澄ました。
勝利すれば■■と恋人関係になれる。
大丈夫。僕だって格ゲーはやり慣れている。■■と勝敗は五分五分。落ち着いてやればなんとか…。
「ふふ、そう簡単には負けないよ~」
そうも考えている内に、待機時間は終了。
僕たちの運命をかけた戦いが、『FIGHT!』の合図と共に火蓋を切った。
「とりゃ!とりゃとりゃ!」
「…………」
時間はあっという間に過ぎていく。
そして両者激闘の末…とうとう敗者は倒れ、勝者だけが静かに佇む。
結果は2勝1敗。
「僕が…勝った?」
思わず疑問符が頭に乗る。しかし何度ディスプレイを確認しても、立っているのは僕のキャラ。それは紛れもない現実だった。
「あ~あ~、負けちゃった~」
■■は口を尖らせて悔しそうにしつつも、その表情はどこか嬉しそうだった。
「さぁ、私はもう翔楼の物だ!好きにするといいよ!」
そう言って大っぴらに両腕を広げると、頬を染めて目をギュと瞑った。
僕はそれを見て大きく嘆息をつく。
「いや…物とかそういうのじゃなくて、対等な男女の交際がしたいんだけど…」
「わかってる、言葉の綾ってヤツだよ!翔楼はちょっと硬すぎ!」
「そうなの?」
「そうだよ!」
僕はキョトンと首を傾げ、■■はムッと口を歪ませた。そして、しばらく視線が絡み合うと、妙な空気に耐えかねて二人してクスッと笑ってしまう。
「あはは~」
「はは……ふぅ」
いつものペースに戻ったところで、改めて真剣な視線を送る。
「改めて言うけど…好きです、僕と付き合って下さい」
「いいよー」
ノリが軽い…軽すぎる。
「本当に?」
「うん」
■■はニコッと頷く。流石に安易過ぎると僕は眉をしかめた。
彼女のことだ。言葉の意味を履き違えているんじゃなかろうか。
そう思って、多少の無理を言ってみる。
「じゃあ、抱きしめてもいい?」
「うん……ふぇ?」
これには、■■も茹でダコのように顔が真っ赤になる。言った本人すら恥ずかしい。
しかし…
「いいよ!さぁ来い!」
■■は再び両手をバッと広げ、照れ臭そうに言ってのけた。
…いいのか?
ゴクリと生唾を飲み込む。言った手前で引き返すこともできない。
瞬間、僕の心の悪魔が『抱け!』と叫び、心の天使は『抱きしめろ!』と囁く。
…ぐぬぅ…意味合いは違うが、ほぼ同意見…
誘惑に負けそうになるも、深呼吸して気持ちを落ち着かせる。
…ん?
ここでふと、ゲーム画面に目が止まった。
倒れている鎧の騎士は、この格ゲーの過去作から存在する重要なキャラだ。そして僕との対戦で■■が久しぶりに使ったキャラでもある。
漆黒の大剣による斬撃はリーチも長く攻撃力もトップクラスの威力を誇る。
しかしその分隙も大きく、移動速度も遅いため、■■は不得意として、使うことは滅多にない。
舐めプ?まさか僕に、使い慣れないキャラで勝とうとしていたというのか?
そんな考えが頭を過った。
まぁ、■■は屈指のゲームオタクだ。対戦にスリルを求める質なので、ありえない話でもない。
だが人生を左右する局面で、不慣れなキャラを選ぶだろうか。そんな疑問が生じる。
もしかして、■■は…
「じゃあ…失礼して」
ゆっくりと…恐る恐る、■■の背中に手を回す。次第に体は密着し、温もりも直に伝わってくる。ゼロ距離で香る彼女の匂いに、顔を埋めて大きく息を吸い込んだ。
「ちょっ…翔楼、やらしい…」
自分でも驚いている。自分にこんな性癖があったとは…。
「ねぇ、本当に僕でいいの?」
「しつこいな~、いいって言ってるでしょ」
その言葉に胸が高鳴る。
「分かった。じゃあもうちょっと、このままでいさせて」
「も~仕方ないな~」
嬉しくて顔を見せられない。
きっと喜びのあまり、ニヤニヤとしているに違いない。
「好き」
「うん」
「凄く好き」
「う…うん」
「いい匂い」
「なんで嗅いでるの!」
「いつか…いやらしい事も…したいです」
「そ、そのうちね!」
「将来、結婚もしたい」
「お…おう…」
「子供は二人欲しい…」
「気が早すぎない?」
もはや想いが爆発寸前。いや、もう爆発してるのかもしれない。
■■の首筋を甘噛みしたいという欲求を抑えつつ、思いの丈を口にしていく。
「絶対に幸せにする」
「うん」
この日から、僕達は交際を開始した。
■■との関係が友達から、夢にまで見た恋人へと進展。気分はウハウハ、顔はニヤニヤ、心臓はバクバク。帰宅した後は興奮しすぎて一睡も出来なかった。
翌日はいつも通り、■■と他愛ない会話をしながら登校した。ただ交際直後ということもあり、視線が合う度に赤くなって、弾けるように目を逸らした。
流石にちょっと気恥ずかしい。
しかし学校では、■■は普段通りを装っていた。
…おお、意外と演技派!
正直、すぐ顔に出ると思っていたので感心した。
しかし油断していた僕の前に、煩わしい刺客がやってくる。
「やぁ、俺と付き合わない」
同級生きってのナルシスト。
えっと…。
名前なんだっけ?。
いかんな。■■以外に興味ないから、全然名前を覚えてない。
まぁそのキザ系男子が教室に入るなり、■■に交際を迫ってきたのだ。
うちの学校、こういう大胆な生徒が多すぎではなかろうか…。
どうあれ、彼氏の座はすでに僕で埋まっている。他の男が立ち入る隙なんてない。
「あの…」
僕はバッと立ち上がり、相手を威圧しながら闖入者の前へと躍り出た。
「彼女は…」
すでに僕と交際している。そう言おうとして躊躇った。
皆の前で口にしてしまえば、■■に迷惑がかかってしまう。こんな時に備えて、恋人になったことを公表するかどうするか、■■と打ち合わせておけば良かっと後悔。
判断を改め、ここは穏便に済ませようと、何かしらの手段を思案した。
しかし考えを纏めるよりも先、柔らかい感触がシュッと左腕に巻き付いた。
「何してるの!」
「えへ~」
見ると、■■が照れ臭そうに抱きついていた。しかも公衆の面前で、なんの躊躇いもなく。
これでじゃあ…宣言したのも同然じゃないか!
「ごめんね~こういうわけだから!」
■■が悪びれもなく言ってのけた瞬間、黄色い歓声と嫉妬に満ちたブーイングが教室内を埋め尽くした。
「日野ッチおめでとー」「馬翔楼テメェー!」「落ち着くところに落ち着いたって感じ?」「チクショー!抜け駆けしやがって許さねぇ!」「男の嫉妬ウザッ」「美男美女カップルだー」「ヘンネズラー!」「いいなー、人生勝ち組か…ケッ…」
祝福の言葉が飛び交う一方で、僕への殺意が見え隠れする。
するとキザ系男子はいたたまれなくなったのか、泣きながら逃げるように教室を出て行った。
結局、僕達の関係は呆気なく学年中に知れ渡った。
■■も、告白されては断りを入れる日々に嫌気が差していたんだろう。表立って公表するつもりはなかったけれど、■■はこの瞬間を待ち望んでいたのかもしれない。
同時に、かえって良かったかなと思っている。
僕の大事な恋人が、他の男子から言い寄られるのなんて見たくない。これで言い寄ってくる男子もいなくなるだろう。
それからは予期した通り、幸せな学校生活を謳歌した。
と言っても、その日常は普段と変わらない。一緒に勉強をして、ゲームをして、アニメを観て…。
そこに恋人らしくデートをする日が増えたくらいだ。
一方で僕の心境にも変化があった。
『可愛いよ』『綺麗だ』『愛してる』
一度言ってしまえば、どうということはない。
愛の言葉を囁くと、■■は顔を真っ赤にして、照れ隠しで僕の肩を小突いたりする。もはやこの痛みすら愛おしい。恋人という特権を乱用して、普段は見せることのない表情を…僕にだけ向けてくれる素顔を心ゆくまで堪能した。
これからも■■と、幸福な人生を歩み続ける。
たとえどんな試練が立ち塞がろうと、二人なら乗り越えられる。
そう信じて疑わなかった。
その先で僕の進む道だけが、崩れていたとも知らずに…。
ー
大学生となって早数ヶ月。あっという間に暖房やカイロが必需品となる季節となった。
もちろんポケットにはカイロを常備して、寒さ対策を図っている。太もも付近はポカポカ。にも関わらず、僕の心は驚くほどに冷え切っていた。
「おいおい、笑えねぇって。なんの冗談だそりゃ」
雰囲気のある落ち着いたカフェで、友人にとある相談を持ちかけた。僕の話を聞くなり、友人はあっけらかんと、笑い飛ばすようにコーヒーを啜る。しかし僕の神妙な面持ちに、おのずと彼の空気は重くなった。
「マジなのか…?」
僕は今、大きな問題を抱えている。
それは巨大な絶壁の如く、僕の将来の障害となった。
この壁は、あまりにも堅牢で壊せない。
この壁は、あまりにも高くて乗り越えられない。
この壁は、果てまで続いており、回り道さえすることができない。
お手上げだった。
このまま行けば、僕の存在が■■の将来まで脅かしかしてしまう。■■とならなんでも乗り越えられると思っていたけど、この問題ばかりはどうしようもなかった。
幸い、これは僕だけの問題ということ。
交際を開始した時に、僕は自分の胸に誓ったのだ。絶対に■■を幸せにすると。
悩み抜き、葛藤した挙句、僕は■■の為に苦渋の決断を下した。
それは早ければ早い方が良い。
僕は■■と別れ、■■の前に二度と姿を現さない。
「すまない、茶待。後のことは頼む」
「分かった…」
友人は歯噛みしながらも、僕の秘密を守り、■■が前に進めるようアシストしてくれると言ってくれた。
半ば強引な勧誘だったが、きっと彼は、僕の大きな味方になってくれることだろう。
後は準備を整えて、■■に別れを告げるのみ。
ー
大学で二年目の生活が始まる直前…。
と言っても、僕は秘密裏に中退しており、実はもう大学生ではない。
そして今日…僕は■■に別れを告げた。
覚悟はしていたけれど、五本の指に入るくらいに最悪の一日だった。
幸せにすると決めた■■の顔を、悲しみに曇らせたんだ。後味も悪い上に、今も腹の底がキリキリと悲鳴をあげている。
でもこれで■■が新しい幸せを掴めるのなら、たとえ僕の独り善がりだったとして、行動を起こした甲斐があったというもの。
それなのに、喪失感で乾いた心がポロポロと崩れていく音が聞こえた。その隙間を埋めるように、■■との思い出を想起させた。
けれど、そんな応急処置では間に合わないほどに、心の孔が広がっていくのが早かった。崩れていった心が、涙となって零れ落ちる。
…痛い…痛い…心が…痛い…
でも、これで良かったんだ。
良かったはずなんだ。
涙を堪え、何度も自分に言い聞かせ続けた。
この選択は、間違ってない。
これで…■■は今よりもっと幸せになれるはずだと。
*ーー
■■と別れて、数ヶ月が経過した。
僕のいなくなった大学の近況を、僕の秘密を知る友人が、ちょくちょく電話で知らせてくれる。
『てなわけだ。なんか二重スパイになった気分だ…』
スマホから響く親友の声は、いつもより重く感じられた。彼も僕と■■の板挟みにされて、気苦労が多いいのだろう。親友は僕との約束を守り続けながら、■■には狼少年顔負けの平然とした態度で嘘をつき続けてもらっている。僕ならきっと、後ろめたさから顔を合わせられないだろう。そんな役を、僕は彼に押し付けたのだ。
申し訳なさから、通話越しに頭が下がる。
「悪いな、茶待。助かるよ、案外、スパイとか向いてるんじゃないか?」
『んなわけねぇだろ。まぁこんぐらい、なんてことはないけど。で?そっちの問題はどうだ。無事に片付きそうか?』
「いや。僕の方は…あまり芳しくない」
『そうか…』
彼は、僕の抱えている問題を知る数少ない友人だ。不意に落ち込んだ声のトーンも、僕を心配しての事だろう。
暗い話題はさて置いて、明るい話をしばらくしたあと、僕から先に通話を切った。
スマホをテーブルに置き、深々と椅子にもたれかかる。そして大きく息を吐いた。
「それにしても…まだ僕を探していたのか」
電話の際に聞いた■■の近況。聞けば、色々と手を尽くして、僕の捜索を続けているらしい。
はたして悪報というべきか、吉報というべきなのか。まだ立ち止まっている■■にもどかしさを感じながらも、嬉しく思っている自分がいることに気づいてしまった。
笑みを溢していた自分に呆れながら、それじゃダメだと頭を抱える。
僕が言うのもあれだけど、僕のことなんて忘れて、早々に前を向いて欲しい。でなきゃ覚悟を決めた意味がない。
「あっ」と口から声が漏れる。
もしかしたら一方的な別れ方だったせいで、別れた気になっているのは僕だけなのかもしれない。
…ありえる。
ゲームで負け星が続くと、意地になって何度でも挑んでくる■■のことだ。執念深さを侮っていた。
それに納得のいく理由を言わずに去ったのだ。■■を突き動かす理由としては、充分すぎるくらいだろう。
性急だっただろうかと、今更ながら不安になる。
普段の僕ならば、もっと上手くやれてただろうに。時間がなかったとは言え、いったい何をやってるんだろうな…僕は。
「僕…見つかったら殴られるかもしれないなぁ」
ー
季節は回り、何日も雨が続くと流石に憂鬱になってくる。
まるで僕の心を投写したような空模様。気分も晴れれば雲もおのずと晴れるだろうと、心機一転を試みる。
天気が悪いからと、溜め込んでいた服を洗濯機の中に放り込む。これ以上、空の顔色を伺っても、汚れた服が溜まる一方だ。乾くのに時間がかかるだろうが、やむを得ない。
洗濯機を回し、暫し待つ。
待っている間は暇なので、スマホのアラームをセットしてベッドに横になった。
ゆっくりと目を閉じて、浅い呼吸を繰り返す。
かと思えば、耳元でスマホが鳴り響いた。
時間が経つのは早い。気づけば時間まで熟睡していたようだ。
スマホを手に取りアラームを止める。直後、ピーッと洗濯終了の知らせが耳に届いた。
ベッドから起き上がり、洗濯物を室内に干していく。
「こりゃダメだな…」
心機一転も虚しきかな、ゴロゴロと積乱雲の唸る轟音を耳にすれば、空の顔色がまた一層ご機嫌斜めになったのは明らか。
すべきことは済まし、本でも読もうかと椅子に腰掛けたその時、屋根をボトボト叩く煩わしい雨音に紛れて、スマホが鳴り響いていたことに気づいた。
「着信?…あっ」
手に取ろうとするも間に合わず、スマホはふいに沈黙する。改めてスマホを手に取り、画面を覗くと七件もの着信履歴が残っていた。その相手は大学からの友人。
「茶待からだ。何かあったのかな?」
よく見ると、間を置かずして、数分ごとに電話がかかってきている。いつもなら、遅れて折り返しても、彼なら「遅かったな」と淡々と済ませる。しかし、今回のようなことは初めてだった。胸騒ぎがしながら、緊急を要する連絡だったかもしれないと、スマホを操作して折り返し連絡を試みようとする。すると丁度そこへ、八回目の着信が鳴り響いた。
画面をタップして通話を開始し、耳にスマホを当てる。そして「もしもし」と告げると、切羽詰まった友人の声が電話の向こうから聞こえてきた。
『よかった翔楼!やっと出た!心配したんだぞ!』
まずは落ち着け、と言いたかったが、彼の慌ただしい声音から、尋常ではない空気を察した。
「僕は大丈夫だけど。茶待…何かあったのか?」
『翔楼…落ち着いて聞いてくれ…』
そこで知らされたのは、この世で最も愛する女性の訃報。僕は耳を疑い、壊れた機械のように、震える声で何度も聞き返した。
…頼むから、悪い冗談だったと。
…これはドッキリだったと言ってくれ。
しかし、何度聞いても返答は同じ。
不慮の事故で■■が亡くなったと、聞きたくもない言葉が耳に飛び込む。
「そんな…」
精神に猛烈な負荷がかかり、脳が静かにショートを起こしたように、不意に全身の力が失せる。反動で、握っていたスマホは手の内を滑り落ちた。
深い喪失感に胸が悲鳴を上げ、呼吸ができなくなるくらいに叫んだ。
しかし、また一層強くなった横殴りの鉄砲雨が、嘆くことは許さんとばかりに僕の慟哭を掻き消していく。
…許さない。
…許さない。
…許さない。
世界中から…■■から…そう責められているような気がした。
こんなはずじゃなかった。こんな結末になるはずじゃなかったんだ。
僕が■■の前から消えたことで、■■はもっと幸せになる。
自分の中でそう信じ切っていた。
なのに僕は失念していた。長らく触れていなかったことで、感覚が麻痺していたんだ。
死という存在の恐ろしさを。
死は身近に潜んでいて、老若男女問わず、気まぐれにその鎌を振り下ろす。
誰よりも知っていたのに、目の前で思い知らされたのに…、
「どうして…」
■■の隣に僕が今も立っていたら、結末は変わっていたんじゃなかろうか。
そんな『たられば』が積もりに積もる。
全ては■■のため。
それが僕の生きる理由だった。
──そして、これから僕が、
──死ぬ理由でもあったのに。




