ゴールを目指して
ーー*ヒマワリ*ーー
私は現在、茶待君の抱えるリュックの中に身を潜めている。というのも、茶待君に連れられてやってきたのは、ここ最近で私とミミちゃんが足繁く通っていた、記憶に新しい施設…。雫ちゃんと初めて出会った、あの病院だったのだから。
しかし今回は、ホスピタルパークよりもさらに最奥、病院内部へと深く入り込んでいる。
病院内は人の目が多いこともあって、猫である私は堂々と門を潜ることができない。
だからこうして忍者のように、私は身を隠しているのだ。
「雫ちゃん、いるかな?」
「シッー!日野ッチ!シッー!」
「茶待キョドりすぎ…。逆に怪しいよ」
「仕方ないだろ、俺たちはタブーを犯してるわけなんだから!」
ワッサワッサとリュックが揺れて、茶待君が焦っているのが伝わってくる。
正直、酔いそう…。
そう思っていると、ガラガラバタンと引き戸の開け閉めする音が聞こえて、びっくりするくらい揺れは収まった。
そして次に聞こえたのは、鼓膜を撫でるような、優しく穏やかな女性の声。
「あら?茶待君…?と、あなたは初めましてね」
その声は、どこか聞き覚えがあった。
私は声の正体を確かめるべく、見つからないようチャックの隙間から外界を覗く。
しかし、視界に飛び込んできたのは一面の壁…。
すべてを見通すことはできなかったが、死闘の末に声の主の正体を掴むことができた。
やはり、その人は私の知る女性だった。
彼女は小中高と、私にもよく親切にしてくれた翔楼の祖母だった。
「積もる話もあるでしょうし、私は席を外すわね」
私たちに気を使ってか、彼女は部屋を出ていった。
バタンと、また扉が閉まる音がする。
そして、茶待君たちは私たち以外に誰もいないことを見計らうと、私はリュックともども柔らかな弾力性のある、クッションのような物の上に下ろされた。
「日野ッチ、もう出てきても大丈夫だ」
チャックが開き、リュックの中に光が差し込む。
辺りをキョロキョロと確認すると、私はベッドの上にいることがわかった。
そしてなにやら、ミミちゃんが今にも泣き出しそうな顔をしていた事に気づく。
どうしたのだろうと私はリュックの外に飛び出し、彼女の視線の先を見やった。
瞬間、私の心臓が大きく鼓動した。
そこには私が探し求めてやまない、念願の彼が居た。
「翔楼…?」
目に優しい淡い色をした病室の中央、ひとつしかないベッドの上で彼は瞳を閉じたまま、ただ呼吸を繰り返している。
スタンドに吊るされた点滴のチューブが彼の腕につながり、さらに指先のグリップが生命活動をモニターに反映していた。
極めつけは、口元を覆う呼吸器が、彼の命を繋ぎ止めているように見えた。
数ヶ月前とは、まるで別人のように痩せた翔楼に、私の魂は静かに悲鳴を上げた。
「起きて…翔楼」
翔楼に寄り添い、彼の頬を小さな額で小突く。
きっと私が一声かければ、喜んで飛び起きるに違いない。だけどそんな期待は、僅かな沈黙によって無残にも打ち砕かれてしまう。
うんともすんとも言わない翔楼。そんな彼を見下ろす私に、茶待君は重く静かに告げる。
「肺がんなんだ。翔楼はずっと病気だったんだよ」
瞳に映る衝撃の事実に、私は翔楼の顔を覗き込みながら、ただ疑問を口にした。
「もう…目覚めないの?」
「ああ…。癌が脳にまで転移したせいでな、目覚める可能性はかなり低い」
「………」
ようやく会えたと思ったのに、肝心の翔楼は口を利くことすらできない。
ずっと楽しみにしていたんだ。
ヒマワリとしてじゃなくて、本当の私として翔楼の前に立ち、今度こそ面と向かって話をすることを…。
話したいことは山のように積もっている。
無名さんと出会って世界を知り、猫になった私の冒険譚を自慢してやりたかった。
ミミちゃんとも話せるようになって一緒に翔楼を探す道すがら、いろんな場所を観光気分で巡ったことや、雫ちゃんっていう小さな女の子と友達になって、楽しい遊びをたくさんしたことも、まだまだいっぱい話したいことがあったんだ。
それなのに、
……こんなの、あんまりだよ。
瞳から鼻先へと、大きな水玉が伝って落ちる。
本当は病院を前にしたときから、嫌な予感に胸がざわついていた。
だから、悪いことは考えないようにして、なるべく良いことを思い浮かべるようにした。
ここには、楽しい思い出もたくさんある。
最近顔を合わせられなかった雫ちゃんにも、もしかしたら会えるかもしれない。
そんなことを考えて、見たくないものから目を背けようとした。
だけど結局、悪い予感は当たってしまった。
無名さんの推測した通り、翔楼は病気だった。
「やっぱり翔楼は、私のためにいなくなったんだね」
「ああ、病気で余命が幾許もないことを知った翔楼は、自身が日野ッチの人生の重荷になることを恐れたんだ。あれは翔楼なりに、日野ッチを想っての行動だったんだ」
翔楼のことは、私が一番よく知っている。
こんな真実を目の当たりにすれば、嫌でもその答えに辿り着く。
私のため?
私に気を使う必要なんてなかったんだ。
病気だからこそ、その短い時間を自分のために大事に使ってほしかった。
本当のことを話してくれていたら、私は最後の瞬間まで翔楼の傍に寄り添っていた。
辛い時も、苦しい時も、どんな時だって翔楼の手を握って、その心が挫けないように励まし続けた。
それなのに、なんで一人で背負い込んじゃうような真似をしちゃったのさ。
一番痛い思いをしてるのは翔楼だったんじゃないか。
辛いのも、苦しいのも、怖い思いをしているのも全部、翔楼だったんじゃないか。
なのになんで……なんで…なんで、なんで!
「なんで言わなかったんだよ、馬鹿野郎ぉ」
胸が張り裂けそうな感覚に、私の涙腺は決壊した。
「死んじゃダメだよ、翔楼。やっと会えたのに、まだちゃんと話せてないのに、こんな終わり方…私はイヤだよぉ」
泣き縋る私に掛ける言葉が見つからず、茶待君とミミちゃんはベッドの横で顔を俯せていた。
そんな中、私と視界を共有していた無名さんが、怪訝な声を上げる。
「?…待ッテクダサイ、彼ノ魂──」
しかしその声は、茶待君とミミちゃん、ましてや私でもない幼い声の持ち主によって、不意に遮られてしまう。
「ヒマちゃん…泣いてるの?」
その場に居る全員が、声がした方へと視線を向ける。
そして少女の姿を目の当たりにした途端、ミミちゃんは目を見開いて驚いた。
「雫ちゃん!」
ニカッと屈託のない笑みを浮かべる少女。
雫ちゃんの登場に、私の重く沈みきっていた精神状態は小さく浮上した。
だけど、雫ちゃんが次に発した意味深な言葉に、私たちは困惑を強いられる。
「わー、やっぱり!二人なら、ちゃんと私のことが見えるって思ってたんだ!」
「え?それって、どういう…」
意味?と続けて口にしようとしたけれど、ガタリと音を立てて後ずさった茶待君によって、私はそれを断念した。
さらには尻込みしながら、茶待君は妙なことを口にする。
「なぁこの子、どこから入ってきた?」
そんなの、扉から以外にどこがあるというのだろう。
そう思いながら、私とミミちゃんは翔楼の祖母が出ていって以来、開いた覚えのない扉を恐る恐る見やった。
そんな私たちをよそに、雫ちゃんは驚いた様子で、またも不可解な言動をとる。
「え!?お兄さんも私のことが見えるの!すごーい!」
まるで自分がそこに存在していないかのような口ぶりに、誰もが怪訝な表情を浮かべる。
虫の知らせにも似た直感が、私の中でサイレンの如く鳴り響いた。
「雫…。貴方ハモウ、生キテハイナイノデスネ…」
「え?」
無名さんの言葉が、容赦なく私の胸に突き刺さる。
すでに目の前のことでいっぱいいっぱい。
それなのに、雫ちゃんが死んでいるなんて事実は、今の私には到底受け入れ難かった。
「そんなの、嘘!だって雫ちゃんは…!」
「……………」
「ひょっとして無名さんとお喋りしてるの?残念…今の私なら無名さんとお話できると思ったのになぁ」
私たちとは真逆の温かい温度感を放ちながら、雫ちゃんは可愛らしく唇を尖らせた。
出会った当初、雫ちゃんは不思議と私の言葉を理解することができた。けれど、無名さんの声はまったく聞くことができなかった。
でも、今の口ぶりは違う。
まるで今の自分なら、無名さんの声を聞くことができる。そんな風に期待をしていたようだった。
「私ね、皆に『ありがとう』と『さよなら』を言いに来たんだ」
おもむろにそう言った雫ちゃん。
それに対して、ミミちゃんは嬉々とした表情を浮かべる。
「雫ちゃん、もしかして退院できるの!」
ミミちゃんと同じく、私も彼女が退院するんだと期待した。
しかし、雫ちゃんはふるふると首を横に振る。
そうして容赦のない現実が、私たちに突きつけられた。
「…この間ね、私の体調が急に悪くなったの。その時にね、私…死んじゃったんだ…」
瞬間、雫ちゃんの輪郭が蜃気楼のように揺らめいた。
「…………え…?」
ミミちゃんも私も、思考が止まり、言葉を失う。
「だから、これは『さよなら』で『お別れ』なの」
そう言って、しょんぼりと肩を竦めた雫ちゃん。
その事実を耳にした途端、私の胸は悲しみの許容量を大きく超えてしまった。
「なんで…なんで…」
翔楼の病気に立て続き、雫ちゃんの死。
親しい者たちの不幸が、私の心を深い水底へと突き落とす。
もう…これ以上、耐えられそうにない…。
「なんで私の大好きな人たちが、こんな目に遭わなきゃいけないの…?ここまで辿り着いて、ようやく真実を前にしたと思ったら、翔楼は目を覚まさないし、雫ちゃんも死んじゃって、こんな結末…私はイヤだよ。なんでみんな私の前からいなくなっちゃうの?私、なにか悪いことしたかな?」
ああ、そうだ。
きっと、ぜんぶ私のせい。
私の行く先々で、大好きな人が不幸に見舞われる。
そうだ──
「私が皆の前に現れたことが、そもそもの間違いだったんだ。きっと私がみんなにとっての、厄病神だったんだ」
一度そう思うと、そんな暗い考えに飲み込まれてしまう。
「それは違うよ!」
だけど、目の前の小さな女の子は、悲観的になった私の心に煌々とした言葉を差し込んでくれた。
「ヒマちゃんは、厄病神なんかじゃないよ。だって私が死ぬことは、きっとずっと前から決まってたことなんだもん。だから、ヒマちゃんと出会わなくても、きっと私は死んじゃってたよ。でもね!ヒマちゃんと出会って、私は勇気をもらえたんだ!死ぬのは凄く寂しかったけど、私…これっぽっちも怖くなかったよ!」
眩しい、そう思えた。
夢ややりたいことも山程あっただろうに、雫ちゃんは来世に期待して、己の運命に立ち向かった。
死ぬのが怖くなかったというのも、きっと強がりなんかじゃない。
なにせ彼女は前向きで、あらゆる逆境を跳ね除ける明るい性格の持ち主だってことを、私たちはちゃんと知っているから。
「だから、誰かが不幸になったからって、そのぜんぶを自分のせいにしちゃダメ!」
「そうだよヒノノン!翔楼君が病気になったのだって、ヒノノンのせいじゃない!誰のせいでもないんだよ」
「雫ちゃん、ミミちゃん…」
雫ちゃんに続いて、目頭を腫らしたミミちゃんまでもが、私を優しく気遣ってくれる。
二人の思いやりによって、罪悪感に苛まれていた心が温かく澄んでいくようだった。
「だから、そんな悲しいこと言わないで。ヒマちゃんがいなかったら、きっと私、死んじゃったときに凄く怖い思いをしたと思うの。でもヒマちゃんのお陰で希望を持てたんだ。だからヒマちゃんは厄病神なんかじゃないよ。ヒマちゃんはね、幸福を運ぶ猫ちゃんなんだから!」
無垢な少女の言葉に、私は不覚にもまた泣いてしまった。幸福を運ぶ猫、そう言ってもらえたのが凄く嬉しかったのだ。
改めて、深呼吸をして冷静な自分を取り戻す。
少々、自分でもネガティブ思考に陥っていたように思う。
立て続けに重なった親しい人の悲劇に、正気を保っていられなかったんだ。
覚悟を決めて来たつもりなのに、本当に私はダメダメだなぁ。
でも大丈夫、もう落ち着いた。
「ありがとう、二人とも」
涙を拭い、二人に感謝すると、二人は安堵したように頬を緩めた。
本当に、ご心配をおかけしました。
しかし──
「あの…じゃあ俺って幽霊まで見えるようになったの?」
これまで空気と化していた、なんとも頼りない唯一の男性は、空気も読まずに私たちの間に割って入る。
その顔は冷水に漬かった後のように青白く、情けなさよりも心配の方が先に立つ。
そんなへっぴり腰の茶待君を見て、雫ちゃんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「オバケだぞー!」
「わー!やだー!乗っ取られるー!」
面白いおもちゃを見つけた。そう言わんばかりに、雫ちゃんは楽しそうに茶待君ににじり寄った。
右往左往と追い込まれ、たじたじになった茶待君。
もしかしたら、彼はこういうオカルト系が苦手なのかもしれない。
ファンタジーは好きなのに変なの…。
あれ?でも茶待君って、廃病院とかにも足を運んでたよね?
嫌よ嫌よも好きの内って言うし、本当は好きなのかな?
「くっ…こうなったら!」
逃げるのを諦め、腹を括った茶待君は攻勢に回った。
その結果、
「あれっ?…なんか掴めた」
雫ちゃんを難なく抱き上げて、その動きを完封して見せた。
「なんで触れるのーー!」
手足をパタパタと慌ただしくさせた雫ちゃん。
死者に触れられる生者を前に、彼女の可愛らしい瞳はまんまるになった。
これには私もミミちゃんも、驚きで口があんぐり。
「オヤ?気ヅイテイナカッタノデスカ?私ノ祝福ハ、魂ヲ高次ノ存在ヘト引キ上ゲル力。死者ガ干渉デキルトイウコトハ、逆ニ干渉スルコトダッテデキルノデスヨ」
「はぇ~、無名さんの力って凄いんだねー」
その恩恵の凄さに一同は感銘を受けていると、雫ちゃんはキョトンと首を傾げた。
「お兄さんも無名さんとお話できるの?」
「ん?ああ、まぁな」
「えー!?すごーい!」
話の最中に、そっと床に下ろされた雫ちゃんは、目を輝かせながらピョンピョンと飛び跳ねた。
そのリアクションに、何故か得意気な茶待君。
貴方はついさっき、対話できるようになったばかりでしょうが。
なに鼻を高くさせとんねん。
と、そんなやりとりにワハハと満面の笑みを見せてくれた雫ちゃんは、唐突にシュンと肩を落とした。
「じゃあ、『お別れ』をするね」
物寂しげな瞳の奥に、覚悟の決まった彼女の強い意志を感じる。
同時に、言いようもないはかなさが、私の胸に深く沁みてきた。
彼女が現世に残っていられるのは、光輝な魂故に、その強い願いと意思で、強引に留まっているからだろう。
その願いを叶えることで、雫ちゃんはこの世の未練を断ち切ろうとしている。
生前に成し得なかった、私たちに最後の挨拶をするという願いを…。
本音を言えば、ずっと現世にしがみついていたいはずだ。
大好きな両親はこの世界にいる。友達だって目の前にいる。
しかもその友達は、死と生の境界を無視して口を利くことができるんだ。
それでも、雫ちゃんはそんな誘惑を退け、乗り越えようとしている。
この世に残した未練を晴らして、彼女は新たな世界へと旅立とうとしているのだ。
無様に現世にしがみついている私より、本当に健気で強い子だ。
──だからこそ、私はその願いを完璧な形で叶えてあげたいと思った。
「待って…雫ちゃん」
「なぁに?」
私はベッドの上を進み、雫ちゃんの前に陣取る。
「私たちと最後の挨拶をするなら、無名さんともお話ができるようにならなくちゃ!」
「無名さんとお話できるの!?」
「うん!」
キラキラと期待の眼差しを向ける雫ちゃんをそのままに、私は、私の中にいる無名さんと向き合った。
「無名さん、お願いがあるんだ」
「待ッテ…クダサイ…」
私の意図を察してか、狼狽したかのように無名さんは声を震わせる。
人として、この命が尽きたあの日から、無名さんとはこの猫の体をずっと共にしてきた。
その影響か、今は彼女の神気がどんな風に流れ、揺蕩い、輝いているのかを感じられるようになった。
きっとこの小さな器の中で、私と無名さんの魂が親密に密着していた恩恵だろう。
無名さんには、もう一人分の祝福を授けられるだけの神気の余裕があった。
「雫ちゃんにも、祝福を授けて上げて。できるんでしょ?無名さん…」
「デ…デスガ、コノ神気ヲ使ッテシマッタラ…」
無名さんは躊躇いながらも、その神気を行使した際の大きな代償を口にする。
「貴方ヲ!コノ世界ニ繋ギ止メラレナクナッテシマウ!」
瞬間、ミミちゃんは「え…?」と声を漏らした。
このやり取りが、雫ちゃんの耳に届かなくて心底安心する。
…ああ…そっか。
この神気で、無名さんは私を守ってくれてたんだね。
でも、私なりに考えたんだ。
長いようで短いような、そんな旅路の末に…ようやく辿り着いたこの結末。
翔楼は、私の幸せを願って身を引いたというのに、それを見届けることもできずに、深い眠りに落ちてしまった。
私が言うのもなんだけれど、悲しくて悔しかっただろう。
しかし、もとより私はこういう性格だ。自分より、他者を優先してしまう。
私にとって、誰かの幸せが自分の幸せに直結するんだ。
だから…再びこの選択をすることを、どうか許してほしい。
きっとここが、私のゴールなんだ。
暗雲が立ち込めた結末を、最高の大団円に変えるために──
──私は、
「ゴメンね…ミミちゃん」
その言葉に、その覚悟に、ミミちゃんはキュッと唇を噛んだ。
彼女も、このときが来るのを覚悟していた身。
瞳の端に一際大きな涙を溜め込んで、ミミちゃんもまた、雫ちゃんの願いのために満面の笑顔を貼り付ける。
「うん!」
本当に、ありがとう。
いい友達をもったと常々思う。
「無名さんも、ゴメンね」
「私ノコトハ…オ気ニ…ナサラズ……」
「…?」
無名さんのぎこちない口調に、少し違和感を覚えた。
けれどすぐに、彼女はいつもの調子に戻る。
「デスガ、本当ニヨロシイノデスカ?」
「うん、大丈夫」
「ワカリマシタ。デハ早速、雫ニ祝福ヲ授ケマショウ」
私は雫ちゃんに、人差し指を立てるように促す。
すると雫ちゃんはキョトンとしながら、なんの躊躇いもなく人差し指を突き出した。
「こう?」
「うん、それでいいよ。じゃあそのまま、じっとしててね」
私はその指をカプッと甘噛み。雫ちゃんはくすぐったそうに身悶えした。
その接触部を通して、無名さんの祝福が注がれる。
ものの数秒、大して時間はかからずに祝福は授け終わり、私の口から雫ちゃんの指が離れる。
以前と異なるのは、ミミちゃんや茶待君のときと違い、祝福を授けられた瞬間、一瞬だけ雫ちゃんの身体が淡く輝いたことだろう。
それを除けば、特に変化は見られない。
「あれ?なんか俺のときと違くね?」
「見エテイル次元ガ違ウカラデショウ。楓ト茶ッ葉ノトキト違ッテ、器ヲ持タナイ魂ニ直接祝福ヲ授ケタノデス。コレハ正常ナ反応デスヨ」
「そうなんだ。……茶っ葉…?」
そんなやりとりを、雫ちゃんは呆然と聞いていた。
「いまの声が無名さん?」
様子を見るに、ちゃんと祝福は授けられたみたいだ。
嬉々として鼻息を荒くした雫ちゃんに、私は──
いや…もう私の意思で身体は動かせないみたいだ。
どうやら、私を現世に繋ぎ止めていた力は消え失せ、身体の主導権は、早々に無名さんに渡ったらしい。
私にできることは、せいぜい相手に言葉を伝えることくらい。
立場は無名さんと完全に逆転したようだ。
同時に感じる死の気配。溺死したときの同様に、命海の理が近づいているのを感じる。
残された猶予は、そんなに残っていない。
「エエ、私ガ無名デスヨ、雫。面ト向カッテ話スノハ、コレガ初メテデスネ」
「うん!」
目をキラキラとさせた雫ちゃんは顔をグイッ近づかせて、食い入るように無名さんに言葉を投げた。
きっと、話したいことが山ほどあったのだろう。
無名さんを前にして、彼女の感情が爆発したのだ。
「私ね、無名さんのお陰で夢ができたんだ!」
「ホウ?ドンナ夢ナノデスカ?」
「うーんとねぇ。次の人生で私、無名さんみたいなドラゴンになりたいの!そして大空を飛び回るんだ!」
「ソウデスカ。貴方ハ他ヨリモ、輝ケル魂ノ持チ主デス。来世…デナレルカドウカハワカリマセンガ、イズレハ華麗デ壮大ナ、天ノ支配者トナルコトデショウ」
まるで二人の会話は親と子…いや、祖母と孫のやりとりのように、夢を熱烈に語る雫ちゃんに、無名さんは穏やかに微笑みかける。
「うん!私、立派なドラゴンになるね!」
次に少女は、ミミちゃんと向き合う。
「ミミちゃん!」
「なぁに?」
ミミちゃんは奥歯を食いしばり、泣くのを堪えながら、笑顔を維持しようと必死だった。
「短い間だったけど、一緒に遊んでくれてありがとう!」
「友達なんだから、お礼なんて要らないよ」
「でもね、あんなに楽しい時間は初めてだったんだ。いつも、見たことのない遊び道具を持ってきてくれるから、私、次はどんなことをして遊ぶんだろ?って、明日が来るのが待ち遠しかったの!だからね──」
感極まったのか、雫ちゃんの大きな瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。それに釣られてミミちゃんも、堪えきれずに涙を流した。
「生まれ変わってもう一度出会えたなら、また私と遊んでくれる?」
「うん!また遊ぼう!約束だよ!」
「うん!約束!」
雫ちゃんは嬉しそうに、これまでにない笑顔を咲かせた。
その笑顔は枯れることなく、再び無名さんの方へと向かう。
正確には、その中にいる私に──
その頃には、淡く煌めく光の波が、雫ちゃんの周囲に浮かび上がり、緩やかに揺蕩っていた。
命海が彼女を迎えに来た。
未練が今、果たされようとしている。
「最後にヒマちゃん!」
「うん!」
「私ね、ヒマちゃんに出会えたのは運命なんじゃないかって思ってるんだ。だってあの日、ヒマちゃんを見つけられていなかったら、こんなに幸せな最後を迎えられなかったはずだもん」
病院という窮屈な函に閉じ込められた、私の人生の半分にも満たなかった人生を、雫ちゃんは鼻高々に『幸福』なものだったと明言した。
私は、大したことなんてしていない。
だけど、こんな頭の出来も悪いなんの取り柄もない私が、雫ちゃんのフィナーレを彩ったのだとしたら、それはきっと私一人で成し得たことじゃないはずだ。
翔楼に始まって、私と無名さん、ミミちゃんに茶待君、そして雫ちゃん。
いろんな思いが巡り巡って、みんなをこの場に引き合わせた。
たしかに、運命なのかもしれない。
ただし、私たちがそれを手繰り寄せたんだ。
「私もそう思うよ。でもそれは、私一人の力じゃないよ」
「うん!ミミちゃんと無名さん!それとお兄さんも!」
気付けば、雫ちゃんの輪の中に入っていた茶待君は、最初は驚きはしたものの、「おう!」と話に乗っかった。
雫ちゃんはニヘッと口元を緩めて応えると、私に視線を戻した。
「無名さんとお話もできた。ヒマちゃんたちに最後の挨拶もできた。私の願い事はぜーーんぶ!叶っちゃった!だからもう、思い残すことはないの…。だから──」
雫ちゃんは手を伸ばし、私を優しく抱擁する。
もう熱は感じないはずなのに、たしかに彼女の温もりを感じた。
「次はヒマちゃんが願い事を叶える番だよ。ううん………■■ちゃん」
「え?」
雫ちゃんの口から囁かれたのは、ヒマワリでも、ヒノノンでも、ましてや日野ッチでもない、紛れもない私の本当の名前。
思えば、雫ちゃんに本当の名前を名乗ったことは一度もない。
いつかは告げるつもりでいたのに、結局それは叶わなかった。
それなのに、彼女はどこで私の名を知ったのか……。
「どうして、私の名前…」
「ふふ、言ったでしょ?これは運命なんだって…。私…ちゃんと守ったよ、秘密にするっていう約束」
雫ちゃんはイタズラっぽく微笑むと、言い残すように言葉を紡ぎ始める。
周囲の光は眩さを増し、同時に彼女の姿は淡い幻影のように薄れつつあった。
最後の瞬間が刻一刻と迫る。
そんな雫ちゃんの表情は涙に沈んでいたけれど、今から消える子とは思えないくらい、たしかな『幸福』に輝いていた。
「病気じゃなかったらって思ったこともあったよ。でもね、病気だったからだ、みんなに出会えた。だから私、充分に幸せだったよ!みんなに出会えて本当に良かった!生まれて来て、本当に良かった……」
最後は絞り出すように、その声は涙で掠れていた。
だけど、どこか満足した様子が、私たちの胸を打った。
そして雫ちゃんは、一呼吸置いた後に、思いも寄らない言葉を口にする。
「翔楼お兄ちゃんなら、きっと屋上に居るはずだよ…」
「え…!?」
予期せぬ置き土産に、私は耳を疑う。
そんな私の様子を、してやったり顔で見つめる雫ちゃん。
…どうして翔楼のことを?って、尋ねたかった。
しかし、迫りくる命海の迎えが、彼女を世界の彼方へと誘おうとする。
猶予はない。
そんな別れの際に私が弾き出した言葉は、至極ありふれたものだった。
「またね。雫ちゃん!」
それは、世界の理を知る私たちだからこその、まだ見ぬ来世への約束だった。
私たちは、死が終わりじゃないってことを知っている。
だからこそ、私たちの別れの言葉は、これがふさわしいと思った。
『さよなら』であり、また再会を果たすための、私たちのいつもの誓約の言葉。
すると、ミミちゃんも茶待君も私に続いた。
「またね!雫ちゃん!」
「またな!嬢ちゃん!」
その言葉に、雫ちゃんは目を丸めて驚いた。
そして彼女もまた、この『さよなら』の果てに『再会』を願って、命海の光へと消え入る最中、満面の笑顔で──
「うん!またね!」
人生という奇跡に終わりを告げ…
彼女はいま、旅立ったのだった。
ーーー
少女がいなくなった虚空を、茶待君はうら悲しいような眼差しで見つめている。
「あの子は、命海ってとこに行ったのか?」
「エエ、ソウデス。ソシテイズレハ、新タナ世界デ生ヲ得ルノデス」
「次も…いい人生だといいね」
雫ちゃんはこの人生を、『幸福』な人生だと言った。
だからこそミミちゃんは、『次は…』とは言わなかった。
言ってしまったら、雫ちゃんの言葉を否定してしまうことになってしまうから。
「竜ニナリタイト言ッテイマシタシ、来世ハ竜生デハナイデスカ?」
「ふふ、そうかも」
ミミちゃんは朗らかに頬を緩める。
そうだね。
来世は竜になりたいと、雫ちゃんは熱心に語っていた。
その願いが叶えられるように、私も切実に祈るとする。
「ん?なんか日野ッチ…光ってね?」
しんみりとした空気の中、茶待君がおもむろに口を開く。
遅れて、私もようやく気づいた。
身体が淡く光っている。
そういえば、私を繋ぎ止めていた神気は、すでに失われてしまっている。
もともと、ひとつの肉体に異なるふたつの魂を押し留めること自体、不可能な話なのだ。
それを無名さんは、神気を使って可能にしていた。
なんていうんだろう。
イメージするなら、フライパンの上でパチパチと弾けるポップコーンに、上から蓋をしていたような…そんな感じ?
フライパン=肉体
ポップコーン=魂
蓋=神気
例えが悪いけど、こんな感じかな?
で…いま蓋がなくなったわけで…。
そうなれば、ポップコーンは弾け飛ぶわけで──、
「──ヘックシュン!」
無名さんのくしゃみと同時に、私の意識は突然の浮遊感に襲われた。
まるでペッと吐き出されたような、そんな躍動感。
世界がグルンと回る。
「うわっ!?」
「え!」
「なに!?」
気づいた時には、私は床に突っ伏していた。
「いたたたた…」
「ヒノノン!?」
恐る恐る顔を上げると、友人たちが驚きの形相で私を見つめていた。
いつもより自分の目線が高い気がする。
まるで、みんなが小さくなったような、あるいは私が大きくなったような……。
朦朧とした意識のまま、私は周囲を確かめる。
瞬間、どこか懐かしさを覚えるような、不思議な感覚に見舞われた。
「名無……さん?」
それは目前にいる、愛着のある可愛らしい四足の猫であったり。
それは眼下にある、可憐な細身をした人の手足であったりと。
要約すると、私はもとの人間の姿に戻っていたのだ。
「あれ?でもどうして!?命海は?」
困惑していると、無名さんが可愛らしい足取りで近寄り、穏やかな物腰で丁寧に告げた。
「安心シテクダサイ。僅カデスガ、神気ハマダ残ッテイマス。デスガ、ズットハ持チマセン。サア立ッテ!貴方ニハ、会イニ行カナイトイケナイ人ガイルノデショウ?雫ガ繋ギ止メタ運命ヲ、無駄ニシテハイケマセン!次ハ、貴方ガ願イヲ叶エル番デス!」
そう言われて思い出す。
雫ちゃんが私に言い残した、予期せぬ嬉しい置き土産を。
そうだ。行かなきゃ!
翔楼が屋上にいるんだ!
「うん!行こう!」
私たちは顔を見合わせ、コクリと頷く。
無名さんはリュックの中に飛び込むと、茶待君がすかさず片手で背負う。
「急ギマショウ。デスガ、私カラアマリ離レナイデ下サイ!」
「わかった!」
無名さんの最後の庇護の下、雫ちゃんが繋いでくれた本当のゴールへと四肢に全霊を注ぎ、私たちは駆け出した。
「日野ッチが四足歩行のままだ!」
「ヒノノン!はしたないよ!二足歩行!二足歩行!」
待ってろよ翔楼!
いま…会いに行くよ!
ーー
屋上の扉を静かに開けると、オレンジ色に焦げた光が、暗がりと入れ替わるように差し込んだ。
太陽は、あと数刻で地平線に口づけをする勢い。
差し迫った時間の中、ぼんやりと順光に霞んだ瞳で、私は慌てて想い人を探した。
すると奥に、両手を手摺にかけて黄昏る、青年の後ろ姿がそこにはあった。
懐かしく、愛おしい、大きな背中…。
私は無意識に、彼の名を口にしていた。
「翔楼…?」
ピクリと肩が震え、彼はゆっくりと振り返る。
そして瞳が私を捉えた瞬間、その表情は驚きと戸惑いで二転三転。
だけど最後には、大事なものを見つけたかのように、爽やかに顔を綻ばせると──、
「まさか、君が迎えに来てくれるなんて…思ってもいなかったよ」
私の名を、愛おしそうに呼ぶのだった。
「未来…」




