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未来で神様は猫を被った。  作者: 色採鳥 奇麗
旅立ちの章

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14/17

ゴールを目指して

 ーー*ヒマワリ*ーー


 私は現在、茶待君の抱えるリュックの中に身を(ひそ)めている。というのも、茶待君に連れられてやってきたのは、ここ最近で私とミミちゃんが足繁く通っていた、記憶に新しい施設…。雫ちゃんと初めて出会った、あの病院だったのだから。

 しかし今回は、ホスピタルパークよりもさらに最奥、病院内部へと深く入り込んでいる。

 病院内は人の目が多いこともあって、猫である私は堂々と門を潜ることができない。

 だからこうして忍者のように、私は身を隠しているのだ。


「雫ちゃん、いるかな?」


「シッー!日野ッチ!シッー!」

 

「茶待キョドりすぎ…。逆に怪しいよ」


「仕方ないだろ、俺たちはタブーを犯してるわけなんだから!」


 ワッサワッサとリュックが揺れて、茶待君が焦っているのが伝わってくる。

 正直、酔いそう…。

 そう思っていると、ガラガラバタンと引き戸の開け閉めする音が聞こえて、びっくりするくらい揺れは収まった。

 そして次に聞こえたのは、鼓膜を撫でるような、優しく穏やかな女性の声。


「あら?茶待君…?と、あなたは初めましてね」


 その声は、どこか聞き覚えがあった。

 私は声の正体を確かめるべく、見つからないようチャックの隙間から外界を覗く。

 しかし、視界に飛び込んできたのは一面の壁…。

 すべてを見通すことはできなかったが、死闘の末に声の主の正体を掴むことができた。

 やはり、その人は私の知る女性だった。

 彼女は小中高と、私にもよく親切にしてくれた翔楼の祖母だった。


「積もる話もあるでしょうし、私は席を外すわね」


 私たちに気を使ってか、彼女は部屋を出ていった。

 バタンと、また扉が閉まる音がする。

 そして、茶待君たちは私たち以外に誰もいないことを見計らうと、私はリュックともども柔らかな弾力性のある、クッションのような物の上に下ろされた。


「日野ッチ、もう出てきても大丈夫だ」


 チャックが開き、リュックの中に光が差し込む。

 辺りをキョロキョロと確認すると、私はベッドの上にいることがわかった。

 そしてなにやら、ミミちゃんが今にも泣き出しそうな顔をしていた事に気づく。

 どうしたのだろうと私はリュックの外に飛び出し、彼女の視線の先を見やった。

 瞬間、私の心臓が大きく鼓動した。

 そこには私が探し求めてやまない、念願の彼が居た。


「翔楼…?」


 目に優しい淡い色をした病室の中央、ひとつしかないベッドの上で彼は瞳を閉じたまま、ただ呼吸を繰り返している。

 スタンドに吊るされた点滴のチューブが彼の腕につながり、さらに指先のグリップが生命活動をモニターに反映していた。

 極めつけは、口元を覆う呼吸器が、彼の命を繋ぎ止めているように見えた。 

 数ヶ月前とは、まるで別人のように痩せた翔楼に、私の魂は静かに悲鳴を上げた。

 

「起きて…翔楼」


 翔楼に寄り添い、彼の頬を小さな額で小突く。

 きっと私が一声かければ、喜んで飛び起きるに違いない。だけどそんな期待は、僅かな沈黙によって無残にも打ち砕かれてしまう。

 うんともすんとも言わない翔楼。そんな彼を見下ろす私に、茶待君は重く静かに告げる。


「肺がんなんだ。翔楼はずっと病気だったんだよ」


 瞳に映る衝撃の事実に、私は翔楼の顔を覗き込みながら、ただ疑問を口にした。


「もう…目覚めないの?」


「ああ…。癌が脳にまで転移したせいでな、目覚める可能性はかなり低い」


「………」


 ようやく会えたと思ったのに、肝心の翔楼は口を利くことすらできない。

 ずっと楽しみにしていたんだ。

 ヒマワリとしてじゃなくて、本当の私として翔楼の前に立ち、今度こそ面と向かって話をすることを…。

 話したいことは山のように積もっている。

 無名(ナナシ)さんと出会って世界を知り、猫になった私の冒険譚を自慢してやりたかった。

 ミミちゃんとも話せるようになって一緒に翔楼を探す道すがら、いろんな場所を観光気分で巡ったことや、雫ちゃんっていう小さな女の子と友達になって、楽しい遊びをたくさんしたことも、まだまだいっぱい話したいことがあったんだ。

 それなのに、


……こんなの、あんまりだよ。


 瞳から鼻先へと、大きな水玉が伝って落ちる。

 本当は病院を前にしたときから、嫌な予感に胸がざわついていた。

 だから、悪いことは考えないようにして、なるべく良いことを思い浮かべるようにした。

 ここには、楽しい思い出もたくさんある。

 最近顔を合わせられなかった雫ちゃんにも、もしかしたら会えるかもしれない。

 そんなことを考えて、見たくないものから目を背けようとした。

 だけど結局、悪い予感は当たってしまった。

 無名(ナナシ)さんの推測した通り、翔楼は病気だった。 


「やっぱり翔楼は、私のためにいなくなったんだね」


「ああ、病気で余命が幾許もないことを知った翔楼は、自身が日野ッチの人生の重荷になることを恐れたんだ。あれは翔楼なりに、日野ッチを想っての行動だったんだ」


 翔楼のことは、私が一番よく知っている。

 こんな真実を目の当たりにすれば、嫌でもその答えに辿り着く。

 私のため?

 私に気を使う必要なんてなかったんだ。

 病気だからこそ、その短い時間を自分のために大事に使ってほしかった。

 本当のことを話してくれていたら、私は最後の瞬間まで翔楼の傍に寄り添っていた。

 辛い時も、苦しい時も、どんな時だって翔楼の手を握って、その心が挫けないように励まし続けた。

 それなのに、なんで一人で背負い込んじゃうような真似をしちゃったのさ。

 一番痛い思いをしてるのは翔楼だったんじゃないか。

 辛いのも、苦しいのも、怖い思いをしているのも全部、翔楼だったんじゃないか。

 なのになんで……なんで…なんで、なんで!

 

「なんで言わなかったんだよ、馬鹿野郎ぉ」


 胸が張り裂けそうな感覚に、私の涙腺は決壊した。


「死んじゃダメだよ、翔楼。やっと会えたのに、まだちゃんと話せてないのに、こんな終わり方…私はイヤだよぉ」


 泣き縋る私に掛ける言葉が見つからず、茶待君とミミちゃんはベッドの横で顔を俯せていた。

 そんな中、私と視界を共有していた無名(ナナシ)さんが、怪訝な声を上げる。


「?…待ッテクダサイ、彼ノ魂──」


 しかしその声は、茶待君とミミちゃん、ましてや私でもない幼い声の持ち主によって、不意に遮られてしまう。


「ヒマちゃん…泣いてるの?」


 その場に居る全員が、声がした方へと視線を向ける。

 そして少女の姿を目の当たりにした途端、ミミちゃんは目を見開いて驚いた。

 

「雫ちゃん!」


 ニカッと屈託のない笑みを浮かべる少女。

 雫ちゃんの登場に、私の重く沈みきっていた精神状態は小さく浮上した。

 だけど、雫ちゃんが次に発した意味深な言葉に、私たちは困惑を強いられる。


「わー、やっぱり!二人なら、ちゃんと私のことが見えるって思ってたんだ!」


「え?それって、どういう…」


 意味?と続けて口にしようとしたけれど、ガタリと音を立てて後ずさった茶待君によって、私はそれを断念した。

 さらには尻込みしながら、茶待君は妙なことを口にする。

 

「なぁこの子、どこから入ってきた?」


 そんなの、扉から以外にどこがあるというのだろう。

 そう思いながら、私とミミちゃんは翔楼の祖母が出ていって以来、開いた覚えのない扉を恐る恐る見やった。

 そんな私たちをよそに、雫ちゃんは驚いた様子で、またも不可解な言動をとる。


「え!?お兄さんも私のことが見えるの!すごーい!」


 まるで自分がそこに存在していないかのような口ぶりに、誰もが怪訝な表情を浮かべる。

 虫の知らせにも似た直感が、私の中でサイレンの如く鳴り響いた。


「雫…。貴方ハモウ、生キテハイナイノデスネ…」


「え?」


 無名(ナナシ)さんの言葉が、容赦なく私の胸に突き刺さる。

 すでに目の前のことでいっぱいいっぱい。

 それなのに、雫ちゃんが死んでいるなんて事実は、今の私には到底受け入れ(がた)かった。


「そんなの、嘘!だって雫ちゃんは…!」 

 

「……………」


「ひょっとして無名(ナナシ)さんとお喋りしてるの?残念…今の私なら無名(ナナシ)さんとお話できると思ったのになぁ」


 私たちとは真逆の温かい温度感を放ちながら、雫ちゃんは可愛らしく唇を尖らせた。

 出会った当初、雫ちゃんは不思議と私の言葉を理解することができた。けれど、無名さんの声はまったく聞くことができなかった。

 でも、今の口ぶりは違う。

 まるで今の自分なら、無名(ナナシ)さんの声を聞くことができる。そんな風に期待をしていたようだった。


「私ね、皆に『ありがとう』と『さよなら』を言いに来たんだ」


 おもむろにそう言った雫ちゃん。

 それに対して、ミミちゃんは嬉々とした表情を浮かべる。


「雫ちゃん、もしかして退院できるの!」

 

 ミミちゃんと同じく、私も彼女が退院するんだと期待した。

 しかし、雫ちゃんはふるふると首を横に振る。

 そうして容赦のない現実が、私たちに突きつけられた。


「…この間ね、私の体調が急に悪くなったの。その時にね、私…死んじゃったんだ…」


 瞬間、雫ちゃんの輪郭が蜃気楼のように揺らめいた。


「…………え…?」


 ミミちゃんも私も、思考が止まり、言葉を失う。


「だから、これは『さよなら』で『お別れ』なの」


 そう言って、しょんぼりと肩を竦めた雫ちゃん。

 その事実を耳にした途端、私の胸は悲しみの許容量を大きく超えてしまった。


「なんで…なんで…」


 翔楼の病気に立て続き、雫ちゃんの死。

 親しい者たちの不幸が、私の心を深い水底へと突き落とす。

 もう…これ以上、耐えられそうにない…。

 

「なんで私の大好きな人たちが、こんな目に遭わなきゃいけないの…?ここまで辿り着いて、ようやく真実を前にしたと思ったら、翔楼は目を覚まさないし、雫ちゃんも死んじゃって、こんな結末…私はイヤだよ。なんでみんな私の前からいなくなっちゃうの?私、なにか悪いことしたかな?」


 ああ、そうだ。

 きっと、ぜんぶ私のせい。

 私の行く先々(さきざき)で、大好きな人が不幸に見舞われる。

 そうだ──

 

「私が皆の前に現れたことが、そもそもの間違いだったんだ。きっと私がみんなにとっての、厄病神だったんだ」


 一度そう思うと、そんな暗い考えに飲み込まれてしまう。


「それは違うよ!」


 だけど、目の前の小さな女の子は、悲観的になった私の心に煌々とした言葉を差し込んでくれた。


「ヒマちゃんは、厄病神なんかじゃないよ。だって私が死ぬことは、きっとずっと前から決まってたことなんだもん。だから、ヒマちゃんと出会わなくても、きっと私は死んじゃってたよ。でもね!ヒマちゃんと出会って、私は勇気をもらえたんだ!死ぬのは凄く寂しかったけど、私…これっぽっちも怖くなかったよ!」


 眩しい、そう思えた。

 夢ややりたいことも山程あっただろうに、雫ちゃんは来世に期待して、己の運命に立ち向かった。

 死ぬのが怖くなかったというのも、きっと強がりなんかじゃない。

 なにせ彼女は前向きで、あらゆる逆境を跳ね除ける明るい性格の持ち主だってことを、私たちはちゃんと知っているから。


「だから、誰かが不幸になったからって、そのぜんぶを自分のせいにしちゃダメ!」


「そうだよヒノノン!翔楼君が病気になったのだって、ヒノノンのせいじゃない!誰のせいでもないんだよ」


「雫ちゃん、ミミちゃん…」


 雫ちゃんに続いて、目頭を腫らしたミミちゃんまでもが、私を優しく気遣ってくれる。

 二人の思いやりによって、罪悪感に苛まれていた心が温かく澄んでいくようだった。


「だから、そんな悲しいこと言わないで。ヒマちゃんがいなかったら、きっと私、死んじゃったときに凄く怖い思いをしたと思うの。でもヒマちゃんのお陰で希望を持てたんだ。だからヒマちゃんは厄病神なんかじゃないよ。ヒマちゃんはね、幸福を運ぶ猫ちゃんなんだから!」


 無垢な少女の言葉に、私は不覚にもまた泣いてしまった。幸福を運ぶ猫、そう言ってもらえたのが凄く嬉しかったのだ。

 改めて、深呼吸をして冷静な自分を取り戻す。

 少々、自分でもネガティブ思考に陥っていたように思う。

 立て続けに重なった親しい人の悲劇に、正気を保っていられなかったんだ。

 覚悟を決めて来たつもりなのに、本当に私はダメダメだなぁ。

 でも大丈夫、もう落ち着いた。


「ありがとう、二人とも」


 涙を拭い、二人に感謝すると、二人は安堵したように頬を緩めた。

 本当に、ご心配をおかけしました。

 しかし──


「あの…じゃあ俺って幽霊まで見えるようになったの?」


 これまで空気と化していた、なんとも頼りない唯一の男性は、空気も読まずに私たちの間に割って入る。

 その顔は冷水に漬かった後のように青白く、情けなさよりも心配の方が先に立つ。

 そんなへっぴり腰の茶待君を見て、雫ちゃんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。


「オバケだぞー!」


「わー!やだー!乗っ取られるー!」


 面白いおもちゃを見つけた。そう言わんばかりに、雫ちゃんは楽しそうに茶待君ににじり寄った。

 右往左往と追い込まれ、たじたじになった茶待君。

 もしかしたら、彼はこういうオカルト系が苦手なのかもしれない。

 ファンタジーは好きなのに変なの…。

 あれ?でも茶待君って、廃病院とかにも足を運んでたよね?

 嫌よ嫌よも好きの内って言うし、本当は好きなのかな?


「くっ…こうなったら!」


 逃げるのを諦め、腹を括った茶待君は攻勢に回った。

 その結果、


「あれっ?…なんか掴めた」


 雫ちゃんを難なく抱き上げて、その動きを完封して見せた。


「なんで触れるのーー!」


 手足をパタパタと慌ただしくさせた雫ちゃん。

 死者に触れられる生者を前に、彼女の可愛らしい瞳はまんまるになった。

 これには私もミミちゃんも、驚きで口があんぐり。


「オヤ?気ヅイテイナカッタノデスカ?私ノ祝福ハ、魂ヲ高次ノ存在ヘト引キ上ゲル(チカラ)。死者ガ干渉デキルトイウコトハ、逆ニ干渉スルコトダッテデキルノデスヨ」


「はぇ~、無名(ナナシ)さんの力って凄いんだねー」


 その恩恵の凄さに一同は感銘を受けていると、雫ちゃんはキョトンと首を傾げた。


「お兄さんも無名(ナナシ)さんとお話できるの?」


「ん?ああ、まぁな」


「えー!?すごーい!」


 話の最中に、そっと床に下ろされた雫ちゃんは、目を輝かせながらピョンピョンと飛び跳ねた。

 そのリアクションに、何故か得意気な茶待君。

 貴方はついさっき、対話できるようになったばかりでしょうが。

 なに鼻を高くさせとんねん。 

 と、そんなやりとりにワハハと満面の笑みを見せてくれた雫ちゃんは、唐突にシュンと肩を落とした。


「じゃあ、『お別れ』をするね」


 物寂しげな瞳の奥に、覚悟の決まった彼女の強い意志を感じる。

 同時に、言いようもないはかなさが、私の胸に深く沁みてきた。

 彼女が現世に残っていられるのは、光輝な魂故に、その強い願いと意思で、強引に留まっているからだろう。

 その願いを叶えることで、雫ちゃんはこの世の未練を断ち切ろうとしている。

 生前に成し得なかった、私たちに最後の挨拶をするという願いを…。

 本音を言えば、ずっと現世にしがみついていたいはずだ。

 大好きな両親はこの世界にいる。友達だって目の前にいる。

 しかもその友達は、死と生の境界を無視して口を利くことができるんだ。

 それでも、雫ちゃんはそんな誘惑を退け、乗り越えようとしている。

 この世に残した未練を晴らして、彼女は新たな世界へと旅立とうとしているのだ。

 無様(ぶざま)に現世にしがみついている私より、本当に健気で強い子だ。

 

──だからこそ、私はその願いを完璧な形で叶えてあげたいと思った。


「待って…雫ちゃん」


「なぁに?」


 私はベッドの上を進み、雫ちゃんの前に陣取る。


「私たちと最後の挨拶をするなら、無名(ナナシ)さんともお話ができるようにならなくちゃ!」


無名(ナナシ)さんとお話できるの!?」


「うん!」


 キラキラと期待の眼差しを向ける雫ちゃんをそのままに、私は、私の中にいる無名(ナナシ)さんと向き合った。


無名(ナナシ)さん、お願いがあるんだ」


「待ッテ…クダサイ…」


 私の意図を察してか、狼狽したかのように無名(ナナシ)さんは声を震わせる。

 人として、この命が尽きたあの日から、無名(ナナシ)さんとはこの猫の体(肉体)をずっと共にしてきた。

 その影響か、今は彼女の神気がどんな風に流れ、揺蕩い、輝いているのかを感じられるようになった。

 きっとこの小さな器の中で、私と無名(ナナシ)さんの魂が親密に密着していた恩恵だろう。

 無名(ナナシ)さんには、もう一人分の祝福を授けられるだけの神気の余裕があった。


「雫ちゃんにも、祝福を授けて上げて。できるんでしょ?無名(ナナシ)さん…」


「デ…デスガ、コノ神気ヲ使ッテシマッタラ…」


 無名(ナナシ)さんは躊躇いながらも、その神気を行使した際の大きな代償を口にする。

 

「貴方ヲ!コノ世界ニ繋ギ止メラレナクナッテシマウ!」


 瞬間、ミミちゃんは「え…?」と声を漏らした。

 このやり取りが、雫ちゃんの耳に届かなくて心底安心する。

 …ああ…そっか。

 この神気で、無名(ナナシ)さんは私を守ってくれてたんだね。

 でも、私なりに考えたんだ。

 長いようで短いような、そんな旅路の末に…ようやく辿り着いたこの結末。

 翔楼は、私の幸せを願って身を引いたというのに、それを見届けることもできずに、深い眠りに落ちてしまった。

 私が言うのもなんだけれど、悲しくて悔しかっただろう。

 しかし、もとより私はこういう性格だ。自分より、他者を優先してしまう。

 私にとって、誰かの幸せが自分の幸せに直結するんだ。

 だから…再びこの選択をすることを、どうか許してほしい。

 きっとここが、私のゴールなんだ。

 暗雲が立ち込めた結末を、最高の大団円に変えるために──


──私は、


「ゴメンね…ミミちゃん」


 その言葉に、その覚悟に、ミミちゃんはキュッと唇を噛んだ。

 彼女も、このときが来るのを覚悟していた身。

 瞳の端に一際大きな涙を溜め込んで、ミミちゃんもまた、雫ちゃんの願いのために満面の笑顔を貼り付ける。


「うん!」


 本当に、ありがとう。

 いい友達をもったと常々思う。


無名(ナナシ)さんも、ゴメンね」


「私ノコトハ…オ気ニ…ナサラズ……」


「…?」


 無名(ナナシ)さんのぎこちない口調に、少し違和感を覚えた。

 けれどすぐに、彼女はいつもの調子に戻る。

 

「デスガ、本当ニヨロシイノデスカ?」


「うん、大丈夫」


「ワカリマシタ。デハ早速、雫ニ祝福ヲ授ケマショウ」


 私は雫ちゃんに、人差し指を立てるように促す。

 すると雫ちゃんはキョトンとしながら、なんの躊躇いもなく人差し指を突き出した。


「こう?」


「うん、それでいいよ。じゃあそのまま、じっとしててね」


 私はその指をカプッと甘噛み。雫ちゃんはくすぐったそうに身悶えした。

 その接触部を通して、無名さんの祝福が注がれる。

 ものの数秒、大して時間はかからずに祝福は授け終わり、私の口から雫ちゃんの指が離れる。

 以前と異なるのは、ミミちゃんや茶待君のときと違い、祝福を授けられた瞬間、一瞬だけ雫ちゃんの身体が淡く輝いたことだろう。

 それを除けば、特に変化は見られない。


「あれ?なんか俺のときと違くね?」


「見エテイル次元ガ違ウカラデショウ。楓ト茶ッ葉(チャッパ)ノトキト違ッテ、器ヲ持タナイ魂ニ直接祝福ヲ授ケタノデス。コレハ正常ナ反応デスヨ」


「そうなんだ。……茶っ葉…?」


 そんなやりとりを、雫ちゃんは呆然と聞いていた。


「いまの声が無名(ナナシ)さん?」


 様子を見るに、ちゃんと祝福は授けられたみたいだ。

 嬉々として鼻息を荒くした雫ちゃんに、私は──

 いや…もう私の意思で身体は動かせないみたいだ。

 どうやら、私を現世に繋ぎ止めていた力は消え失せ、身体の主導権は、早々に無名(ナナシ)さんに渡ったらしい。

 私にできることは、せいぜい相手に言葉を伝えることくらい。

 立場は無名(ナナシ)さんと完全に逆転したようだ。

 同時に感じる死の気配。溺死したときの同様に、命海()の理が近づいているのを感じる。

 残された猶予は、そんなに残っていない。


「エエ、私ガ無名(ナナシ)デスヨ、雫。面ト向カッテ話スノハ、コレガ初メテデスネ」


「うん!」


 目をキラキラとさせた雫ちゃんは顔をグイッ近づかせて、食い入るように無名(ナナシ)さんに言葉を投げた。

 きっと、話したいことが山ほどあったのだろう。

 無名(ナナシ)さんを前にして、彼女の感情が爆発したのだ。


「私ね、無名(ナナシ)さんのお陰で夢ができたんだ!」


「ホウ?ドンナ夢ナノデスカ?」


「うーんとねぇ。次の人生で私、無名(ナナシ)さんみたいなドラゴンになりたいの!そして大空を飛び回るんだ!」


「ソウデスカ。貴方ハ他ヨリモ、輝ケル魂ノ持チ主デス。来世…デナレルカドウカハワカリマセンガ、イズレハ華麗デ壮大ナ、天ノ支配者トナルコトデショウ」


 まるで二人の会話は親と子…いや、祖母と孫のやりとりのように、夢を熱烈に語る雫ちゃんに、無名(ナナシ)さんは穏やかに微笑みかける。


「うん!私、立派なドラゴンになるね!」


 次に少女は、ミミちゃんと向き合う。


「ミミちゃん!」


「なぁに?」


 ミミちゃんは奥歯を食いしばり、泣くのを堪えながら、笑顔を維持しようと必死だった。


「短い間だったけど、一緒に遊んでくれてありがとう!」


「友達なんだから、お礼なんて要らないよ」


「でもね、あんなに楽しい時間は初めてだったんだ。いつも、見たことのない遊び道具を持ってきてくれるから、私、次はどんなことをして遊ぶんだろ?って、明日が来るのが待ち遠しかったの!だからね──」


 感極まったのか、雫ちゃんの大きな瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。それに釣られてミミちゃんも、堪えきれずに涙を流した。


「生まれ変わってもう一度出会えたなら、また私と遊んでくれる?」


「うん!また遊ぼう!約束だよ!」


「うん!約束!」


 雫ちゃんは嬉しそうに、これまでにない笑顔を咲かせた。

 その笑顔は枯れることなく、再び無名(ナナシ)さんの方へと向かう。

 正確には、その中にいる私に──

 その頃には、淡く煌めく光の波が、雫ちゃんの周囲に浮かび上がり、緩やかに揺蕩っていた。

 命海が彼女を迎えに来た。

 未練が今、果たされようとしている。


「最後にヒマちゃん!」


「うん!」

 

「私ね、ヒマちゃんに出会えたのは運命なんじゃないかって思ってるんだ。だってあの日、ヒマちゃんを見つけられていなかったら、こんなに幸せな最後を迎えられなかったはずだもん」


 病院という窮屈な函に閉じ込められた、私の人生の半分にも満たなかった人生を、雫ちゃんは鼻高々に『幸福』なものだったと明言した。

 私は、大したことなんてしていない。

 だけど、こんな頭の出来も悪いなんの取り柄もない私が、雫ちゃんのフィナーレを彩ったのだとしたら、それはきっと私一人で成し得たことじゃないはずだ。

 翔楼に始まって、私と無名さん、ミミちゃんに茶待君、そして雫ちゃん。

 いろんな思いが巡り巡って、みんなをこの場に引き合わせた。

 たしかに、運命なのかもしれない。

 ただし、私たちがそれを手繰り寄せたんだ。


「私もそう思うよ。でもそれは、私一人の力じゃないよ」


「うん!ミミちゃんと無名(ナナシ)さん!それとお兄さんも!」


 気付けば、雫ちゃんの輪の中に入っていた茶待君は、最初は驚きはしたものの、「おう!」と話に乗っかった。

 雫ちゃんはニヘッと口元を緩めて応えると、私に視線を戻した。

 

無名(ナナシ)さんとお話もできた。ヒマちゃんたちに最後の挨拶もできた。私の願い事はぜーーんぶ!叶っちゃった!だからもう、思い残すことはないの…。だから──」


 雫ちゃんは手を伸ばし、私を優しく抱擁する。

 もう熱は感じないはずなのに、たしかに彼女の温もりを感じた。


「次はヒマちゃんが願い事を叶える番だよ。ううん………■■ちゃん」


「え?」


 雫ちゃんの口から囁かれたのは、ヒマワリでも、ヒノノンでも、ましてや日野ッチでもない、紛れもない私の本当の名前。

 思えば、雫ちゃんに本当の名前を名乗ったことは一度もない。

 いつかは告げるつもりでいたのに、結局それは叶わなかった。

 それなのに、彼女はどこで私の名を知ったのか……。


「どうして、私の名前…」

 

「ふふ、言ったでしょ?これは運命なんだって…。私…ちゃんと守ったよ、秘密にするっていう約束」


 雫ちゃんはイタズラっぽく微笑むと、言い残すように言葉を紡ぎ始める。

 周囲の光は眩さを増し、同時に彼女の姿は淡い幻影のように薄れつつあった。

 最後の瞬間が刻一刻と迫る。

 そんな雫ちゃんの表情は涙に沈んでいたけれど、今から消える子とは思えないくらい、たしかな『幸福』に輝いていた。

 

「病気じゃなかったらって思ったこともあったよ。でもね、病気だったからだ、みんなに出会えた。だから私、充分に幸せだったよ!みんなに出会えて本当に良かった!生まれて来て、本当に良かった……」


 最後は絞り出すように、その声は涙で掠れていた。

 だけど、どこか満足した様子が、私たちの胸を打った。

 そして雫ちゃんは、一呼吸置いた後に、思いも寄らない言葉を口にする。


「翔楼お兄ちゃんなら、きっと屋上に居るはずだよ…」


「え…!?」


 予期せぬ置き土産に、私は耳を疑う。

 そんな私の様子を、してやったり顔で見つめる雫ちゃん。

 …どうして翔楼のことを?って、尋ねたかった。

 しかし、迫りくる命海の迎えが、彼女を世界の彼方へと誘おうとする。

 猶予はない。

 そんな別れの(きわ)に私が弾き出した言葉は、至極ありふれたものだった。

 

「またね。雫ちゃん!」


 それは、世界の理を知る私たちだからこその、まだ見ぬ来世への約束だった。

 私たちは、死が終わりじゃないってことを知っている。

 だからこそ、私たちの別れの言葉は、これがふさわしいと思った。

 『さよなら』であり、また再会を果たすための、私たちのいつもの誓約の言葉。

 すると、ミミちゃんも茶待君も私に続いた。


「またね!雫ちゃん!」


「またな!嬢ちゃん!」


 その言葉に、雫ちゃんは目を丸めて驚いた。

 そして彼女もまた、この『さよなら』の果てに『再会』を願って、命海の光へと消え入る最中、満面の笑顔で──

 

「うん!またね!」 

 

 人生という奇跡に終わり(さよなら)を告げ…

 彼女はいま、旅立ったのだった。


 ーーー


 少女がいなくなった虚空を、茶待君はうら悲しいような眼差しで見つめている。

 

「あの子は、命海ってとこに行ったのか?」


「エエ、ソウデス。ソシテイズレハ、新タナ世界デ生ヲ得ルノデス」


「次も…いい人生だといいね」


 雫ちゃんはこの人生を、『幸福』な人生だと言った。

 だからこそミミちゃんは、『次は…』とは言わなかった。

 言ってしまったら、雫ちゃんの言葉を否定してしまうことになってしまうから。

 

(ドラゴン)ニナリタイト言ッテイマシタシ、来世ハ竜生(リュウセイ)デハナイデスカ?」


「ふふ、そうかも」


 ミミちゃんは朗らかに頬を緩める。

 そうだね。

 来世は竜になりたいと、雫ちゃんは熱心に語っていた。

 その願いが叶えられるように、私も切実に祈るとする。


「ん?なんか日野ッチ…光ってね?」


 しんみりとした空気の中、茶待君がおもむろに口を開く。

 遅れて、私もようやく気づいた。

 身体が淡く光っている。

 そういえば、私を繋ぎ止めていた神気は、すでに失われてしまっている。

 もともと、ひとつの肉体に異なるふたつの魂を押し留めること自体、不可能な話なのだ。

 それを無名(ナナシ)さんは、神気を使って可能にしていた。

 なんていうんだろう。

 イメージするなら、フライパンの上でパチパチと弾けるポップコーンに、上から蓋をしていたような…そんな感じ?

 フライパン=肉体

 ポップコーン=魂

 蓋=神気

 例えが悪いけど、こんな感じかな?

 で…いま蓋がなくなったわけで…。

 そうなれば、ポップコーンは弾け飛ぶわけで──、


「──ヘックシュン!」


 無名さんのくしゃみと同時に、私の意識は突然の浮遊感に襲われた。

 まるでペッと吐き出されたような、そんな躍動感。

 世界がグルンと回る。

 

「うわっ!?」


「え!」


「なに!?」


 気づいた時には、私は床に突っ伏していた。


「いたたたた…」


「ヒノノン!?」


 恐る恐る顔を上げると、友人たちが驚きの形相で私を見つめていた。

 いつもより自分の目線が高い気がする。

 まるで、みんなが小さくなったような、あるいは私が大きくなったような……。

 朦朧とした意識のまま、私は周囲を確かめる。

 瞬間、どこか懐かしさを覚えるような、不思議な感覚に見舞われた。


名無(ナナシ)……さん?」


 それは目前にいる、愛着のある可愛らしい四足の猫であったり。

 それは眼下にある、可憐な細身をした人の手足であったりと。

 要約すると、私はもとの人間の姿に戻っていたのだ。

 

「あれ?でもどうして!?命海は?」


 困惑していると、無名さんが可愛らしい足取りで近寄り、穏やかな物腰で丁寧に告げた。


「安心シテクダサイ。僅カデスガ、神気ハマダ残ッテイマス。デスガ、ズットハ持チマセン。サア立ッテ!貴方ニハ、会イニ行カナイトイケナイ人ガイルノデショウ?雫ガ繋ギ止メタ運命ヲ、無駄ニシテハイケマセン!次ハ、貴方ガ願イヲ叶エル番デス!」


 そう言われて思い出す。

 雫ちゃんが私に言い残した、予期せぬ嬉しい置き土産を。

 そうだ。行かなきゃ!

 翔楼が屋上にいるんだ!


「うん!行こう!」


 私たちは顔を見合わせ、コクリと頷く。

 無名さんはリュックの中に飛び込むと、茶待君がすかさず片手で背負う。


「急ギマショウ。デスガ、私カラアマリ離レナイデ下サイ!」


「わかった!」


 無名(ナナシ)さんの最後の庇護の下、雫ちゃんが繋いでくれた本当のゴールへと四肢に全霊を注ぎ、私たちは駆け出した。


「日野ッチが四足歩行のままだ!」


「ヒノノン!はしたないよ!二足歩行!二足歩行!」


 待ってろよ翔楼!

 いま…会いに行くよ!


 ーー


 屋上の扉を静かに開けると、オレンジ色に焦げた光が、暗がりと入れ替わるように差し込んだ。

 太陽は、あと数刻で地平線に口づけをする勢い。

 差し迫った時間の中、ぼんやりと順光に霞んだ瞳で、私は慌てて想い人を探した。

 すると奥に、両手を手摺(てすり)にかけて黄昏(たそがれ)る、青年の後ろ姿がそこにはあった。

 懐かしく、愛おしい、大きな背中…。

 私は無意識に、彼の名を口にしていた。


「翔楼…?」


 ピクリと肩が震え、彼はゆっくりと振り返る。 

 そして瞳が私を捉えた瞬間、その表情は驚きと戸惑いで二転三転。

 だけど最後には、大事なものを見つけたかのように、爽やかに顔を(ほころ)ばせると──、


「まさか、君が迎えに来てくれるなんて…思ってもいなかったよ」


 私の名を、愛おしそうに呼ぶのだった。


「未来…」

 

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