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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第一章 少女と少年

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赤銅の影、黄金の乙女

「今は引け!」


屋根の上に伏せていた少年の耳に、その怒声が届いた。

刃を振るっていた男たちは舌打ちを残し、闇へと消えていく。


「覚えてろ」「次は逃がさねえ」


脅し文句だけが路地に漂い、やがて静寂が戻った。


(……効いた)


火打石を弾いた指先が、まだ震えている。

幻を生み出すための仕掛けは、すべて計算通りに動いた。

だが安堵の前に、彼の胸に広がるのは鈍い痛みだった。

恐怖で腰を抜かす子どもの声も、すすり泣く母親の嗚咽も、まだ耳に焼き付いて離れない。


仕掛けがすべて燃え尽きていないことを確かめ、少年は布で残った火をひとつひとつ潰していった。

火事にしてしまえば、幻は災厄になる。

守りたかったものが、かえって燃え尽きてしまうのは耐えられない。

それは彼にとって当然の行為だった。

誰に褒められるでもなく、ただ当たり前のように火を始末していく。


しかし――路地に集まった人々には、違う光景が映っていた。

ルミナの周囲に灯っていた炎は、まるで彼女の意志に応えるように静かに萎み、自然と消えていったのだ。

誰の目にも、あれは奇跡以外の何物でもなかった。


「旗印の乙女の再来だ……!」


誰かが震える声で呟いた。

その言葉が合図となり、群衆は一斉に同じ物語を信じ始める。


「神が娘を遣わしたのだ」

「炎を鎮めた……乙女が、我らを救ったのだ」


恐怖に震えていた住人の目に、希望の火が灯っていく。

倒れ込んだ母親は涙を流しながら子を抱き締め、老人は杖を握って震えつつ空に祈りを捧げる。

幼い子どもでさえ、涙に濡れた目を輝かせて「炎の乙女」と口にしていた。


炎を制御し、光と影を纏う乙女。

神秘をまとった少女の姿は、恐怖の夜を一瞬にして伝説へと変えてしまった。


(ちがう……彼女は、ただ退かなかっただけだ)


少年は屋根の上で拳を握りしめた。

黄金に見えた光は、油を含ませた羽根が燃え散っただけ。

神々しい縁取りに見えたのは、汗が炎に照らされた反射。

そして炎が静まったのは、自分が手際よく消火したからにすぎない。


だが、人々はそうは見ない。

彼らは「奇跡」という物語を選び取った。

人は恐怖に押しつぶされかけたとき、理屈よりも救いを欲する。

それが真実かどうかは関係ない。


――その先にどんな未来が待つか、少年は理解していたのだろうか。

それとも気づいていながら、あえて影に退いたのだろうか。


東の空に、わずかに淡い光が差し始めていた。

夜風が炎の残り香を散らし、煙は薄れ、星々は白んだ空に溶けていく。

闇は確実に後退し、夜は終わりを告げようとしていた。

その移ろいは、まるで新しい時代の兆しを暗示しているかのようだった。


下を見れば、少女――ルミナが震える膝を押さえながら、必死に子どもたちへ笑みを向けていた。

その笑みはぎこちなく、今にも崩れそうだった。

だが確かに、彼女は笑おうとしていた。


(……強い)


少年の胸の奥が痛む。

幻はただの仕掛け。

だが、それを意味に変え、奇跡に仕立て上げたのは少女の存在と群衆の心だった。


ルミナ自身も、消えた炎を見つめながら混乱していた。

「なぜ……?」

声にはならない疑問が瞳に宿っていた。

自分の意志が炎を鎮めたのか、それとも偶然か。

理性は「そんなはずはない」と叫んでいたが、群衆の熱気はそれを許さなかった。

称賛と畏怖の視線が、重くのしかかってくる。


(私は……いったい……)


ルミナの心に芽生えた疑念は、やがて彼女自身を縛る鎖となっていく。

だがその時はまだ、誰もそれに気づいてはいなかった。


その刹那、消えかけの炎が屋根を照らし、少年の髪が――赤銅色にきらめいた。

それは一瞬の残光にすぎなかったが、彼の存在を浮かび上がらせるには十分だった。

その輝きは、群衆の誰も目にしなかった。

彼はすぐに姿勢を低くし、闇に身を沈めた。

光に照らされてはいけない。

影に生きると決めたからこそ。


屋根を伝い、街の縁へ向かう。

背後で誰かが歌い始める。


「炎の乙女を見た」


その節は細く、弱々しかった。

けれど、次の瞬間には別の声が重なり、やがて幾人もの口が同じ言葉を繰り返す。

歌は路地を越え、家々へ、街全体へと広がっていく。

それは夜が明けるのと同じ速さで、虚像という名の光を街に満たしていった。


少年は足を止めず、闇に紛れた。

光は彼女が受け継ぎ、影は自分が背負う。

そう決めたのは、誰でもない――彼自身だった。

ルミナの目には、あの炎が自然に鎮まったのはただの「奇跡」にしか映らなかった。

でも真相はちょっと違う。

屋根の上で、影の少年が黙々と火を潰していただけ。

彼にとっては当たり前の行為が、みんなの目には神秘に見えた。

だからこそ「旗印の乙女」という虚像が芽吹いてしまったんだ。

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