炎に照らされた影
夜の街路は湿った闇に沈んでいた。
瓦屋根の上に身を潜め、影の少年は眼下の孤児院を見下ろしていた。
(やっぱり……同胞が動いたか)
昼間から怪しい影を見ていた。
人攫いに手を染める連中――かつては同じチェスタ人だった者たち。
彼らの悪事を止められずにきたことが、少年の胸を長く苛んでいた。
正面から抗えば斬り捨てられる。だから彼は考えた。
自分にできるのは、幻を見せて怯ませることだけだと。
大きな音で住民たちを起こし行動させることでしか救えない。
たいそうなことをしているが、所詮は他人任せでしかない。
自分を差別する奴らを自分の同胞の手から守る?
矛盾も甚だしい。だが自分にできるのは、知恵と技術で状況を変化させることだけだった。
路地に樽を並べ、鉄板を立てかけ、小玉に油を染み込ませた羽毛を忍ばせる。
一見すればがらくたにしか見えない。
だが仕組みは整っていた。
火が走れば羽根は炎をまとう。樽は倒れ、鉄がぶつかり、煙が光を裂く。
それは「罠」ではなく「幻影」を生む舞台装置だった。
(これ以上、子どもたちが泣くのは見たくない……)
胸の内で誰にも届かない誓いを繰り返す。
彼の望みはただ一つ、普通に生きること。
だが差別と貧困がそれを許さず、同胞の悪行がそれを奪っていく。
だからせめて、間違いを繰り返させないために。
下を見ると、黒い影が孤児院の門へ集まっていく。
「中には女ひとりと子どもばかりだ」
その声に、影の少年の拳が震えた。
そして――少女の声が響いた。
「な、なにをしてるの!」
細い腕で棒切れを握りしめる姿。
恐怖に震えているはずなのに、退かない。
昼間、子どもを抱いていた少女――ルミナだった。
(無茶だ……でも……)
彼女の必死な姿に、影の少年の胸はざわついた。
少女は善戦していたが、次第に追い詰められていく。
このままでは先は見えている……。
気づけば、指先が火打石を弾いていた。
――パチン。
乾いた音が夜を裂き、仕掛けが連鎖を始める。
「ボウッ!」
たいまつが一斉に燃え上がり、羽毛が炎をまとって宙を舞う。
赤と橙の光が夜空を満たし、まるで火の鳥が羽ばたくかのよう。
仕込んだ小玉が破裂し、
パンッ! パンッ!
と雷鳴のように連鎖する。
樽が倒れ、鉄板が鳴り、
ガランッ! ガシャーン!
と路地全体が揺れる。
その刹那、炎が屋根の上を照らし、伏せていた影の少年の髪が――赤銅色に光った。
燃え立つ炎に縁取られ、その一瞬だけ彼もまた、火の幻に包まれた。
その中心に――ルミナが立っていた。
必死に棒を構えていただけの姿は、炎に抱かれ、
汗と涙に濡れた頬は光の粒子を散らして、黄金色に輝いていた。
群衆の目には、それが神々しい光をまとった乙女に映った。
敵は恐れおののき、住人は息を呑む。
「旗印の乙女の……再来だ……!」
誰かの呟きが波紋のように広がり、
その夜、虚像は現実を飲み込んだ。
影の少年は屋根の上で息を呑み、拳を握りしめた。
彼が望んだのは同胞の悪行を止めること。
彼の仕掛けはただの現実的な連鎖に過ぎない。
だが――少女はそれを受け止め、伝説の乙女へと昇華してしまった。
(……俺なんて、いなくてもいいのかもしれねぇな)
自嘲しながらも、胸の奥にほんのわずかな安堵が広がる。
守りたかったものは守られたのだ。
炎に照らされた夜の誓いは、こうして虚像を纏い、伝説の幕を開けた。




