茜と群青の間
夕暮れの大クスノキの影が長くのび、石畳は茜と群青のまだらに染まっていた。
通りでは屋台の灯がひとつ、ふたつと点りはじめ、呼び声が少しだけ低くなる。昼の喧噪と夜の静けさのあいだにある、毎日の境目。
「おかえり、ルミナ!」
「見て見て、今日の夕焼け、木の枝が燃えてるみたい!」
「ほんとだ、きれいだね。…ほら、走ると転ぶよ」
ルミナは笑いながら、駆け寄ってきた子の頭を軽く撫でた。
髪はゆるくまとめたハーフアップ。耳を出すように上げた髪が光を受けてきらめき、残した毛先は肩に流れてふわりと揺れる。
腕には、小さな包みがいくつか。パン屋でもらった端パン、果物屋のおばあちゃんが「形が悪いから」と渡してくれた林檎、広場の青年が「余り物だ」と照れくさそうに押しつけた干し肉。
「ねえルミナねえ、今日のおかずは?」
「内緒。でもヒントは……甘い匂い」
「やった!」
「ぼくニンジンはやだ!」
「好き嫌い言わないの。食べてみたら案外おいしいから」
水汲み場の角を曲がると、孤児院の土壁が見えた。門のところで小さな喧嘩が起きている。
「返してよ!それ、先に見つけたのぼくだもん!」
「嘘つけー、ぼくが拾ったんだ!」
「はいはい、二人ともストップ。順番に話して」
ルミナが間に入ると、肩に垂れた髪がさらりと揺れる。二人は肩で息をしながらも交互に言い分をぶつける。片方の手には、錆びた小さな鈴。
「じゃあ、こうしよう。今日は半分こ。鈴は一日交代ね。先に鳴らしたほうから」
「ずるい!」
「ずるくない!」
「ずるくない。ほら、鳴らしてみて。…うん、いい音。明日は交代。それでいい?」
渋々、といった顔がやがてほどけ、二人は「じゃあ今日はぼくね」「明日はぼく」と頷いて走り去った。
「……また場を丸く収めたのね」
背後から落ち着いた声。ルミナが振り向くと、孤児院の責任者マルティナが門柱に寄りかかるように立っていた。
ルミナの髪が風に揺れ、こめかみに落ちた髪を指で直す仕草に、彼女らしい柔らかさがにじむ。
「マルティナ。遅くなってごめんなさい。ほら、こんなに貰えた」
「見せてごらん」
包みを受け取って覗き込み、マルティナは小さく目を見開いた。
「林檎に干し肉、端パンも……ずいぶん集めたのね」
「うん。ほら、あの小さい子、最近よく食べるから。いっぱいあったほうが嬉しいかなって」
「あなたは本当に、そういうところが上手」
マルティナは包みを抱え直し、門の内側へ歩く。
「とりあえず台所へ。手を洗って、食器もね」
土間を抜けると、炊事場から湯気が立ち上っている。大鍋の中でスープが小さく揺れ、香草の匂いが鼻をくすぐる。
「ただいまー!」
「ルミナねえ!」
小さな足音が一斉に集まってくる。誰かがルミナの腰に抱きつき、別の子が袖を引っ張る。髪が子どもの手に引かれて少し乱れ、ルミナは笑いながら手で整えた。
「ねえねえ、今日ね、字の練習、うまくできた!」
「ボール蹴ったら、ニワトリに当たっちゃってさ!」
「ごめんなさいは言えた?」
「うん……たぶん」
「たぶんじゃないでしょ」
笑い声が広がる。
「みんな、手を洗って席につくの。はい、急いで」
マルティナの声は柔らかいが、よく通る。子どもたちは「はーい!」と返事をして、洗い桶へ向かった。
「ねえマルティナ、今日ね、広場でクスノキセンセがまた青空教室してて」
「また?」
「うん、『事実は一つでも、多面的に見れば真実は無限大!』だって」
ルミナが真似て手を広げると、マルティナはふっと笑って首を横に振った。
「相変わらずね、あの人は。…でも、子どもたちが笑うなら、悪いことばかりでもないわ」
「そうだよね」
ルミナは水瓶の栓をひねり、両手をこすり合わせる。爪の間についた小さな土を落としながら、横目でマルティナを見た。
「……どうしたの?」
「ん? なんでもない。…ちょっとだけ、空が重たいなって」
「空は毎日機嫌を変えるものよ」
「だよね。気のせい、気のせい」
湯気の向こうで、鍋の縁に並んだ木の匙がカタ、と鳴った。
マルティナは鍋を見て、子どもたちの席順を目で数え、それからルミナに向き直る。
「ルミナ、少し話してもいい?」
「うん?」
「あなたは本当に、よく働いてくれる。助かってるわ」
「え、うん。…へへ」
「でもね」
マルティナは、言葉を一拍だけ置いた。
「さっきの鈴の件。あなた、うまく半分にしたわ。喧嘩は収まった。今夜は平和に眠れる。それは立派な『優しさ』」
「でしょ?」
「ええ。でも、たとえば明日、あの子たちのどちらかがまた『自分のものだ』と言ったら? 同じように半分にするの?」
「うーん……どうだろ。…その時また考える?」
「その時また、ね」
マルティナは小さく笑った。
「私はこれまで、たくさんの子を見てきたの。優しい子も、強情な子も、嘘をつく子も、嘘を許せない子も」
「ふむふむ」
「ある子はね、自分のパンをいつも半分にして他の子にあげていたわ。みんな彼を好きになった。けれど冬が来たとき、その子が先に倒れた。身体がもたなかったの」
ルミナは目を瞬かせた。
「でも、誰かが助かったんだよね」
「そう。…そして別の子は、規則を守らない子を厳しく叱った。『順番を守るのがみんなのため』って。彼は正しかった。でも彼は嫌われた」
「それは……かわいそう」
「どちらも間違いじゃない。どちらも正しい面がある。けれど、『優しさ』と『正しさ』は、いつも同じ方向を向くとは限らないの」
「ふうん、そうなんだ」
マルティナは湯気の向こうからルミナの顔をじっと見た。
その視線に、生活を切り盛りしてきた人の深い皺と、消えない疲れと、それでも揺るがない強さが宿る。
「あなたは優しい。だから多くの人に好かれる。だけど、いつか『正しさ』のほうを選ばなければならないときが来る。…優しさに背を向ける形になるかもしれない」
「背を向ける?」
「ええ。『今、目の前の誰かを笑顔にすること』と、『明日、この場所を守ること』は、同じじゃないことがあるの」
「むずかしいね」
「むずかしいわ」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「答えはいつもひとつじゃないの」
マルティナは肩をすくめた。
「だから、考えるの。選ぶたびに」
「ふうん」
ルミナは頷いた。けれど、その頷きは軽い。
「ねえ、それよりさ、これ、どう料理する? 林檎は焼く? 煮る?」
「…あなたは変わらないわね」
「えへへ」
そのとき、裏庭から泣き声が聞こえた。
「うわあああん!」
ルミナとマルティナは顔を見合わせる。
「行ってきて」
「うん!」
裏口を開けると、細い子が膝を抱えて座り込んでいた。
「どうしたの、どこ打った?」
「……転んだ。…あと、みんなが、ぼくの靴、笑った」
小さな靴のつま先には穴があき、指がちょこんとのぞいている。
「それは痛かったね」
ルミナはしゃがみ、指をそっと引っ込めてやった。
柔らかな毛先が子どもの顔にかかり、彼女はそっと払いながら微笑んだ。
「でも、笑うのはよくない。言ってやろうか」
「いい……」
「どうして?」
「言ったら、もっと笑う」
「そっか」
マルティナも外に出てきて、少し離れたところにしゃがみ込む。
「靴は直せるわ。明日、市場の端にいる修繕屋に頼みましょう。…それと、笑った子には話をする」
「やだ」
「やよ」
「やだ」
「やよ。『笑っていいものと、いけないものがある』って教えるのも、大人の仕事なの」
ルミナが目だけでマルティナを見る。母性的な優しさの奥に、迷いのない線が一本通っている。
「ルミナ」
「なに?」
「あなたがもしその場にいたら、どうした?」
「うーん……とりあえず、その場で靴に布を巻くかな。笑った子には『かっこいいよ』って言う。…それから、走る競争しようって誘う!」
「ふふ。あなたらしい」
マルティナは頷き、それから子に視線を戻した。
「ほら、立てる?」
小さな手が伸び、二人がかりで立ち上がらせる。
「今夜は指を温めておきましょう。…走るのは明日ね」
戻る途中、ルミナがぽつりと言う。
「ねえ、さっきの話。…優しさと正しさ、いつも同じじゃないってやつ」
「うん」
「わたし、やっぱり、今は難しいや」
「それでいいのよ」
「いいの?」
「ええ。難しいことを簡単に分かった気になるほうが、怖いから」
「ふうん」
玄関に差し込んだ光が、急に弱くなる。雲が一枚、また一枚、空の色を深くしていく。
「今日は早めに戸締まりしよう」
マルティナが何気なく言う。
「どうして?」
「なんとなく」
「なんとなくは、マルティナっぽくない」
「そうね。…でも、なんとなくよ」
食卓に皿が並び、スープがよそわれ、端パンがほどよい大きさに割られていく。
「いただきます!」
小さな声が重なり、湯気が上がる。林檎は薄く切られ、蜂蜜を少し垂らされて甘い香りを放った。
「ルミナねえ、明日も市場行く?」
「行くよ。…でも、朝早すぎない時間にね」
「なんで?」
「わたしが眠いから!」
笑いが起きる。
配膳を一段落させたマルティナが、ふとルミナの横に腰かけた。
「さっきの続き」
「うん?」
「『優しさ』は、目の前にいる誰かの涙を拭う力。『正しさ』は、そもそも涙を流さなくていいように、場所を整える力。…そんなふうに私は考えているの」
「へえ」
「でもね、どちらも一人では足りないの。優しさに正しさが追いつかないと、優しさはすり減ってしまう。正しさに優しさが追いつかないと、正しさは人の心から離れてしまう」
「むずかしい」
「むずかしい」
「…じゃあ、どっちもやる?」
「できるなら、ね」
「できるよ」
ルミナはにっと笑って、スープを一口。
さらさらと髪が肩で揺れ、湯気の光を受けてやわらかくきらめいた。
「わたし、できる気がする」
「その自信、嫌いじゃないわ」
マルティナも笑う。けれど、その目の奥にだけ、ほんの少し違う色が混じる。
経験からくる色。無理も、崩れも、再生も見てきた人だけが宿す、淡い影。
「マルティナ、どうしたの?」
「なんでもないわ。…ルミナ、食べ終わったら裏口の戸を確認して。あと、灯を一つ増やしましょう」
「はーい」
子どもたちの笑い声が、土壁にやわらかく反射する。器が触れ合う音、パンの割ける音、木匙が鍋に当たる控えめな音。
いつもと同じ音。いつもと同じ、あたたかい夜。
「ねえねえ、明日ね、クスノキセンセの話、また聞きたい!」
「事実は一つでもー!」
「真実は無限大ー!」
声が重なり、誰かが間違え、別の誰かが笑って訂正する。
「ルミナ」
マルティナがもう一度だけ、低く呼んだ。
「なに?」
「覚えておきなさい。…優しさと正しさは、同じではないこともある」
「ふうん。そうなんだ」
ルミナは肩をすくめ、空になった器を重ねた。
ハーフアップにした髪が、肩口でさらりと音を立てる。
「でも、とりあえず今は——おかわり!」
笑いが、もう一度、弾けた。
その笑いのすぐ上で、灯の炎がわずかに揺れた。
風があるわけではない。けれど、どこかで空気が入れ替わったような、そんな揺れ。
マルティナは、その小さな揺れに目をやり、ほんの短い祈りを胸の奥で結ぶ。
——どうか、今夜が、いつも通りに終わりますように。
——どうか、この子の優しさが、必要以上に試されませんように。
外では、まだ祭りの名残のようなざわめきが遠くで続いていた。
大クスノキの梢は、夕闇にとける前の最後の光を受け止め、町をそっと覆っている。
誰もが、明日も同じ日が来ると信じていた。
ルミナも、子どもたちも。
そしてマルティナでさえ、半分はそう願っていた。
「今日はごちそうさまでした。みんな、また明日ね」
「もう帰るの?」
「うん。今夜はここまで。また手伝いに来るから」
子どもたちが次々に袖を掴み、名残惜しそうに声をあげる。
「またあした!」
「おやすみ!」
ルミナは笑って手を振り返した。
「暗いから気をつけて帰りなさい」
マルティナの声には、母のような温かさと、責任者としての厳しさが同時に滲んでいた。
「うん、大丈夫!」
そう言ってルミナは外套を羽織った。
結い上げた髪が肩にさらりと流れ、残した毛先が夜風を受けてやわらかく揺れる。
灯火の明かりに照らされるその姿は、幼い少女というより、孤児院の子どもたちを支える「お姉さん」に見えた。
そしてルミナは、孤児院の戸口から夜の街へと歩き出した。
今回はルミナの髪型を意識して描いてみました。日常の仕草や雰囲気が少しでも伝われば嬉しいです。