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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第一章 少女と少年
6/9

茜と群青の間

夕暮れの大クスノキの影が長くのび、石畳は茜と群青のまだらに染まっていた。

通りでは屋台の灯がひとつ、ふたつと点りはじめ、呼び声が少しだけ低くなる。昼の喧噪と夜の静けさのあいだにある、毎日の境目。


「おかえり、ルミナ!」


「見て見て、今日の夕焼け、木の枝が燃えてるみたい!」


「ほんとだ、きれいだね。…ほら、走ると転ぶよ」


ルミナは笑いながら、駆け寄ってきた子の頭を軽く撫でた。

髪はゆるくまとめたハーフアップ。耳を出すように上げた髪が光を受けてきらめき、残した毛先は肩に流れてふわりと揺れる。

腕には、小さな包みがいくつか。パン屋でもらった端パン、果物屋のおばあちゃんが「形が悪いから」と渡してくれた林檎、広場の青年が「余り物だ」と照れくさそうに押しつけた干し肉。


「ねえルミナねえ、今日のおかずは?」


「内緒。でもヒントは……甘い匂い」


「やった!」


「ぼくニンジンはやだ!」


「好き嫌い言わないの。食べてみたら案外おいしいから」


水汲み場の角を曲がると、孤児院の土壁が見えた。門のところで小さな喧嘩が起きている。


「返してよ!それ、先に見つけたのぼくだもん!」

「嘘つけー、ぼくが拾ったんだ!」


「はいはい、二人ともストップ。順番に話して」


ルミナが間に入ると、肩に垂れた髪がさらりと揺れる。二人は肩で息をしながらも交互に言い分をぶつける。片方の手には、錆びた小さな鈴。


「じゃあ、こうしよう。今日は半分こ。鈴は一日交代ね。先に鳴らしたほうから」


「ずるい!」

「ずるくない!」


「ずるくない。ほら、鳴らしてみて。…うん、いい音。明日は交代。それでいい?」


渋々、といった顔がやがてほどけ、二人は「じゃあ今日はぼくね」「明日はぼく」と頷いて走り去った。


「……また場を丸く収めたのね」


背後から落ち着いた声。ルミナが振り向くと、孤児院の責任者マルティナが門柱に寄りかかるように立っていた。

ルミナの髪が風に揺れ、こめかみに落ちた髪を指で直す仕草に、彼女らしい柔らかさがにじむ。


「マルティナ。遅くなってごめんなさい。ほら、こんなに貰えた」


「見せてごらん」


包みを受け取って覗き込み、マルティナは小さく目を見開いた。


「林檎に干し肉、端パンも……ずいぶん集めたのね」


「うん。ほら、あの小さい子、最近よく食べるから。いっぱいあったほうが嬉しいかなって」


「あなたは本当に、そういうところが上手」


マルティナは包みを抱え直し、門の内側へ歩く。


「とりあえず台所へ。手を洗って、食器もね」


土間を抜けると、炊事場から湯気が立ち上っている。大鍋の中でスープが小さく揺れ、香草の匂いが鼻をくすぐる。


「ただいまー!」

「ルミナねえ!」


小さな足音が一斉に集まってくる。誰かがルミナの腰に抱きつき、別の子が袖を引っ張る。髪が子どもの手に引かれて少し乱れ、ルミナは笑いながら手で整えた。


「ねえねえ、今日ね、字の練習、うまくできた!」

「ボール蹴ったら、ニワトリに当たっちゃってさ!」

「ごめんなさいは言えた?」

「うん……たぶん」

「たぶんじゃないでしょ」


笑い声が広がる。


「みんな、手を洗って席につくの。はい、急いで」


マルティナの声は柔らかいが、よく通る。子どもたちは「はーい!」と返事をして、洗い桶へ向かった。


「ねえマルティナ、今日ね、広場でクスノキセンセがまた青空教室してて」


「また?」


「うん、『事実は一つでも、多面的に見れば真実は無限大!』だって」


ルミナが真似て手を広げると、マルティナはふっと笑って首を横に振った。


「相変わらずね、あの人は。…でも、子どもたちが笑うなら、悪いことばかりでもないわ」


「そうだよね」


ルミナは水瓶の栓をひねり、両手をこすり合わせる。爪の間についた小さな土を落としながら、横目でマルティナを見た。


「……どうしたの?」


「ん? なんでもない。…ちょっとだけ、空が重たいなって」


「空は毎日機嫌を変えるものよ」


「だよね。気のせい、気のせい」


湯気の向こうで、鍋の縁に並んだ木の匙がカタ、と鳴った。

マルティナは鍋を見て、子どもたちの席順を目で数え、それからルミナに向き直る。


「ルミナ、少し話してもいい?」


「うん?」


「あなたは本当に、よく働いてくれる。助かってるわ」


「え、うん。…へへ」


「でもね」


マルティナは、言葉を一拍だけ置いた。


「さっきの鈴の件。あなた、うまく半分にしたわ。喧嘩は収まった。今夜は平和に眠れる。それは立派な『優しさ』」


「でしょ?」


「ええ。でも、たとえば明日、あの子たちのどちらかがまた『自分のものだ』と言ったら? 同じように半分にするの?」


「うーん……どうだろ。…その時また考える?」


「その時また、ね」


マルティナは小さく笑った。


「私はこれまで、たくさんの子を見てきたの。優しい子も、強情な子も、嘘をつく子も、嘘を許せない子も」


「ふむふむ」


「ある子はね、自分のパンをいつも半分にして他の子にあげていたわ。みんな彼を好きになった。けれど冬が来たとき、その子が先に倒れた。身体がもたなかったの」


ルミナは目を瞬かせた。


「でも、誰かが助かったんだよね」


「そう。…そして別の子は、規則を守らない子を厳しく叱った。『順番を守るのがみんなのため』って。彼は正しかった。でも彼は嫌われた」


「それは……かわいそう」


「どちらも間違いじゃない。どちらも正しい面がある。けれど、『優しさ』と『正しさ』は、いつも同じ方向を向くとは限らないの」


「ふうん、そうなんだ」


マルティナは湯気の向こうからルミナの顔をじっと見た。

その視線に、生活を切り盛りしてきた人の深い皺と、消えない疲れと、それでも揺るがない強さが宿る。


「あなたは優しい。だから多くの人に好かれる。だけど、いつか『正しさ』のほうを選ばなければならないときが来る。…優しさに背を向ける形になるかもしれない」


「背を向ける?」


「ええ。『今、目の前の誰かを笑顔にすること』と、『明日、この場所を守ること』は、同じじゃないことがあるの」


「むずかしいね」


「むずかしいわ」


「じゃあ、どうすればいいの?」


「答えはいつもひとつじゃないの」


マルティナは肩をすくめた。


「だから、考えるの。選ぶたびに」


「ふうん」


ルミナは頷いた。けれど、その頷きは軽い。


「ねえ、それよりさ、これ、どう料理する? 林檎は焼く? 煮る?」


「…あなたは変わらないわね」


「えへへ」


そのとき、裏庭から泣き声が聞こえた。


「うわあああん!」


ルミナとマルティナは顔を見合わせる。


「行ってきて」


「うん!」


裏口を開けると、細い子が膝を抱えて座り込んでいた。


「どうしたの、どこ打った?」


「……転んだ。…あと、みんなが、ぼくの靴、笑った」


小さな靴のつま先には穴があき、指がちょこんとのぞいている。


「それは痛かったね」


ルミナはしゃがみ、指をそっと引っ込めてやった。

柔らかな毛先が子どもの顔にかかり、彼女はそっと払いながら微笑んだ。


「でも、笑うのはよくない。言ってやろうか」


「いい……」


「どうして?」


「言ったら、もっと笑う」


「そっか」


マルティナも外に出てきて、少し離れたところにしゃがみ込む。


「靴は直せるわ。明日、市場の端にいる修繕屋に頼みましょう。…それと、笑った子には話をする」


「やだ」


「やよ」


「やだ」


「やよ。『笑っていいものと、いけないものがある』って教えるのも、大人の仕事なの」


ルミナが目だけでマルティナを見る。母性的な優しさの奥に、迷いのない線が一本通っている。


「ルミナ」


「なに?」


「あなたがもしその場にいたら、どうした?」


「うーん……とりあえず、その場で靴に布を巻くかな。笑った子には『かっこいいよ』って言う。…それから、走る競争しようって誘う!」


「ふふ。あなたらしい」


マルティナは頷き、それから子に視線を戻した。


「ほら、立てる?」


小さな手が伸び、二人がかりで立ち上がらせる。


「今夜は指を温めておきましょう。…走るのは明日ね」


戻る途中、ルミナがぽつりと言う。


「ねえ、さっきの話。…優しさと正しさ、いつも同じじゃないってやつ」


「うん」


「わたし、やっぱり、今は難しいや」


「それでいいのよ」


「いいの?」


「ええ。難しいことを簡単に分かった気になるほうが、怖いから」


「ふうん」


玄関に差し込んだ光が、急に弱くなる。雲が一枚、また一枚、空の色を深くしていく。


「今日は早めに戸締まりしよう」


マルティナが何気なく言う。


「どうして?」


「なんとなく」


「なんとなくは、マルティナっぽくない」


「そうね。…でも、なんとなくよ」


食卓に皿が並び、スープがよそわれ、端パンがほどよい大きさに割られていく。


「いただきます!」


小さな声が重なり、湯気が上がる。林檎は薄く切られ、蜂蜜を少し垂らされて甘い香りを放った。


「ルミナねえ、明日も市場行く?」


「行くよ。…でも、朝早すぎない時間にね」


「なんで?」


「わたしが眠いから!」


笑いが起きる。


配膳を一段落させたマルティナが、ふとルミナの横に腰かけた。


「さっきの続き」


「うん?」


「『優しさ』は、目の前にいる誰かの涙を拭う力。『正しさ』は、そもそも涙を流さなくていいように、場所を整える力。…そんなふうに私は考えているの」


「へえ」


「でもね、どちらも一人では足りないの。優しさに正しさが追いつかないと、優しさはすり減ってしまう。正しさに優しさが追いつかないと、正しさは人の心から離れてしまう」


「むずかしい」


「むずかしい」


「…じゃあ、どっちもやる?」


「できるなら、ね」


「できるよ」


ルミナはにっと笑って、スープを一口。

さらさらと髪が肩で揺れ、湯気の光を受けてやわらかくきらめいた。


「わたし、できる気がする」


「その自信、嫌いじゃないわ」


マルティナも笑う。けれど、その目の奥にだけ、ほんの少し違う色が混じる。

経験からくる色。無理も、崩れも、再生も見てきた人だけが宿す、淡い影。


「マルティナ、どうしたの?」


「なんでもないわ。…ルミナ、食べ終わったら裏口の戸を確認して。あと、灯を一つ増やしましょう」


「はーい」


子どもたちの笑い声が、土壁にやわらかく反射する。器が触れ合う音、パンの割ける音、木匙が鍋に当たる控えめな音。

いつもと同じ音。いつもと同じ、あたたかい夜。


「ねえねえ、明日ね、クスノキセンセの話、また聞きたい!」

「事実は一つでもー!」

「真実は無限大ー!」


声が重なり、誰かが間違え、別の誰かが笑って訂正する。


「ルミナ」


マルティナがもう一度だけ、低く呼んだ。


「なに?」


「覚えておきなさい。…優しさと正しさは、同じではないこともある」


「ふうん。そうなんだ」


ルミナは肩をすくめ、空になった器を重ねた。

ハーフアップにした髪が、肩口でさらりと音を立てる。


「でも、とりあえず今は——おかわり!」


笑いが、もう一度、弾けた。

その笑いのすぐ上で、灯の炎がわずかに揺れた。

風があるわけではない。けれど、どこかで空気が入れ替わったような、そんな揺れ。

マルティナは、その小さな揺れに目をやり、ほんの短い祈りを胸の奥で結ぶ。


——どうか、今夜が、いつも通りに終わりますように。


——どうか、この子の優しさが、必要以上に試されませんように。


外では、まだ祭りの名残のようなざわめきが遠くで続いていた。

大クスノキの梢は、夕闇にとける前の最後の光を受け止め、町をそっと覆っている。

誰もが、明日も同じ日が来ると信じていた。

ルミナも、子どもたちも。

そしてマルティナでさえ、半分はそう願っていた。


「今日はごちそうさまでした。みんな、また明日ね」


「もう帰るの?」


「うん。今夜はここまで。また手伝いに来るから」


子どもたちが次々に袖を掴み、名残惜しそうに声をあげる。


「またあした!」

「おやすみ!」


ルミナは笑って手を振り返した。


「暗いから気をつけて帰りなさい」


マルティナの声には、母のような温かさと、責任者としての厳しさが同時に滲んでいた。


「うん、大丈夫!」


そう言ってルミナは外套を羽織った。

結い上げた髪が肩にさらりと流れ、残した毛先が夜風を受けてやわらかく揺れる。

灯火の明かりに照らされるその姿は、幼い少女というより、孤児院の子どもたちを支える「お姉さん」に見えた。


そしてルミナは、孤児院の戸口から夜の街へと歩き出した。

今回はルミナの髪型を意識して描いてみました。日常の仕草や雰囲気が少しでも伝われば嬉しいです。

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