サキとサヤカ 無名の酒
夜風が、焦げた屋根の破片を転がしていく。
火はもう消えたが、空気の底にはまだ灰の匂いが残っていた。
遠くで鳴く鳥の声が、ようやく街に“夜”を返していた。
サヤカは、壊れた樽の上に座り、鎧の留め具を外して息をついた。
栗色のポニーテールが湿った風に揺れ、
頬についた煤が、乾いた涙のあとみたいに細い筋を描いている。
「……はぁー……生きてる、って感じだねぇ」
「おう、生き残り二名、確認っと」
背後から、がっしりした声。
赤毛のサキが、大瓶を肩に担いで歩いてきた。
鎧の肩を外し、手ぬぐいで汗を拭いながら笑う。
酒の瓶をどん、と地面に置くと、そのままどっかと腰を下ろした。
「おつかれ、サヤカ。泣くか笑うか、どっちがいい?」
「笑う。泣くのは明日」
「上等」
サキは瓶の口を布で拭き、木の杯にどぼどぼと注ぐ。
赤い液体が、焚き火の灯りを受けてきらりと光った。
ふたりは、ほぼ同時に杯を掲げる。
「――倒した数だけ、飲む」
「おう、約束どおりだ」
カチン、と音を立ててぶつけ合い、ふたりは同時に飲み干した。
酒が喉を滑り落ちる。
腹の底まで落ちていく感覚が、ようやく“戦が終わった”と教えてくれる。
「ねぇサキ、途中で数えるのやめてたでしょ」
「誰が。ちゃんと数えてたさ。……たぶん」
「たぶんて」
「途中で槍が折れたんだよ。数なんてどうでもよくなった」
「いつものやつじゃん」
「おう、いつものだ」
二人は声を合わせて笑った。
笑いながら、サキは鎖帷子の下を引っ張って肩を伸ばす。
サヤカは足を組み、膝に頬杖をついた。
火の粉が、二人の間で小さく弾けた。
その光の中に、一瞬だけ、戦場の残像が見える。
叫び、土、血。
そして――守られた命。
サヤカが静かに言った。
「……孤児院、無事だったって」
「聞いた。兵の連中が言ってた。
“中に踏みとどまった奴がいた”って」
「そう。誰だったんだろ」
「さぁな。名前も出てねぇ」
「軍の人?」
「違ぇらしい。……街の人間だとよ」
サヤカは息を飲んだ。
焚き火の音がやけに大きくなる。
“街の人間”。
戦士じゃない。剣も持たない。
それでも――“踏みとどまった”。
サキが続ける。
「孤児院の子どもたち、全員無事だとさ。
でも中にいた男は……出てこなかった」
「……そっか」
「名前も、顔も、わからねぇ。
でも、そのおかげであの子ら、今夜は眠れる」
ふたりは黙った。
風の音と、酒の匂いだけが夜を流れていく。
火の粉がひとつ、燃え尽きて落ちた。
「なぁサヤカ」
「ん」
「倒した数だけ飲む、って決めたろ。
あたいは今日、そいつの分も飲む」
「そいつの……分?」
「名も知らねえ奴の分。
剣もねぇのに前に出た奴の分」
サキは、ぐいと瓶を傾けた。
口からこぼれた一滴が、火の上に落ちて、音もなく消える。
サヤカは笑って、杯を差し出した。
「じゃ、あたしも。それ、賛成」
「おう。……乾杯だ」
二人は、焚き火の上で杯を合わせた。
音は小さかった。
だけど、その一瞬だけ風が止まり、
夜の空気が二人を包み込んだように感じた。
飲み干す。
胃の奥に熱が広がる。
それが、胸の奥に届く頃、サヤカがぽつりと呟いた。
「名も知らない人のこと、こうして飲むの、初めてだ」
「いいじゃねぇか。
名前がなくたって、やったことは残る」
「そうだね……。
あたしたちも、そんなふうに残るのかな」
「どうだろな。
“リリエンガルデ”って名は残るかもな。
でも中にいたサヤカとサキなんて、
十年もすりゃ誰も覚えちゃいねぇよ」
「……寂しくない?」
「ちっとも」
サキは肩をすくめて笑った。
火の光が頬を照らし、額の小さな傷がきらりと光る。
「名なんざいらねぇ。
誰かが“守られた”って言ってくれりゃ、それで十分だ」
「うん……」
「名のある英雄より、あたいはそっちの方が好きだ」
「……あはは、ほんと、らしいね」
サヤカは笑って、涙を拭いた。
泣いていないはずなのに、指が濡れていた。
酒か涙か、もうわからない。
サキはそれに気づいて、
わざとらしく空を見上げた。
「おい、星、見えねぇな。全部灰だ」
「……そうだね」
「でもいいよな。
星がなくても、風がある」
「風がある」
「笑いもある」
「酒もある」
「それで十分だ」
「うん。……ほんとに」
焚き火が、ひときわ大きく弾けた。
二人の影が地面に揺れる。
サヤカの影は軽く、サキの影は太い。
でも、どちらも真っすぐに伸びている。
少しの沈黙。
そのあと、サヤカが小さく言った。
「ねぇ、サキ」
「ん」
「来年も、こうして飲めるかな」
「飲む。絶対」
「倒した数だけ?」
「守った数だけ」
「……また増えるよ」
「いいじゃねぇか。
胃袋は鍛えりゃ広がる」
「どこまで豪胆なの」
「副長に似たんだよ」
二人で吹き出した。
笑いながら、肩をぶつけ合う。
その笑い声が、遠くの静かな街路に溶けていく。
火は小さくなり、瓶は空に近づく。
けれど、夜はまだ終わらない。
風がまた通り抜けて、灰を少しだけ巻き上げた。
サキが立ち上がり、空になった瓶を抱えて言う。
「そいつの分、また飲みに来ようぜ」
「うん」
「その時まで、ちゃんと笑って生きてろよ」
「あんたもね」
「おうとも」
拳を軽く合わせる。
乾いた音が一度だけ鳴った。
焚き火が沈み、夜が戻る。
風が二人の髪を揺らし、旗の方角から微かな金属音が聞こえた。
リリエンガルデの旗は、夜明けを待ちながら静かに揺れていた。
その旗の下――
誰も知らない“無名の誰か”のために、
二人の女騎士が、酒を分かち合った。
笑って、泣いて、また笑って。
名は残らずとも、
その夜風の匂いだけは、確かに残った。




