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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第三章 大クスノキ襲撃

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喪失と誓い

――炎の跡に、風が吹く。


孤児院の廊下は、焦げた木の匂いでいっぱいだった。

窓の外の騒ぎは遠く、ここだけ別の時間みたいに静かだ。

床板はすすけ、壁の白い塗料はところどころ泡を噛んだように膨れている。

ミレイナは、息を潜めるみたいに歩いて、空き部屋の扉を押した。


「……ムギト」


そこに、彼は横たわっていた。

脱ぎ捨てた外套の下に、薄い寝具。

胸元の布が破れて、濃い赤が広がっている。

武器はない。

盾も鎧も、どこにも見当たらない。

ただの手。

割れた拳。腫れた関節。

きっと、ここを守るために、ありったけで殴って、掴んで、押し返して――

それだけで、戦ったんだ。


「ごめんね、ちょっと通るよ」


背後から、リオの声。

彼女は急いで部屋に入ると、子どもたちの肩をひとりずつ抱いて、やさしく促した。


「ここは大人のお仕事。……みんな、向こうの部屋で待っていようね」


「やだ、ムギトに……」


「あとでね。必ずあとで。いまは、向こうで」


リオは笑って、でも目元は赤い。

ためらう小さな手をそっと握って、廊下へと連れ出していく。

足音が遠のく。

扉が閉まる。

部屋の空気が、やわらかく沈んだ。


ミレイナは膝をついて、ムギトの頬に触れた。

汗と血と煤の匂い。

それでも、温かい。

その温度に、喉がぎゅっとなる。


「……ムギト」


彼の唇が、わずかに動いた。

目は開かない。

でも、声は、ちゃんとあった。


「……お前は、無事か……」


「バカ言わないで。喋らないの。傷、開くから」


「……よかった……守れた……」


「守れてない! あたしは……っ」


言い切れない。

掌を握ると、血のぬめりが移った。

その感触が、やけに現実だ。


「ミレイナ……」


「……ここ、ムギトが守ったの?」


「……ああ。……来たやつら、……ここまで、通さなかった」


「素手で、そんなさ……」


「……手は、使える。考えるより、早いからな」


「なにそれ……」


笑おうとして、笑えなかった。

喉の奥が熱い。

視界の端がにじむ。


「……お前は、強い」


「強くなんかないよ……!」


「……なら、いま、強がれ。……そういう顔、似合う」


「似合わない……」


「……いい顔だ」


小さな沈黙。

息の上がり下がりが浅くなって、胸元の布がほんの少しだけ動く。

ミレイナは顔を近づけ、額を彼の頬にすべらせた。

煤がついて、少しざらつく。


「……ありがと」


「やめて。そんなの、いらない」


「……お前が……笑うなら……それでいい」


それが、彼の最後の言葉だった。

息がほどけて、音が消えた。

世界から、輪郭がひとつ抜け落ちる。

部屋の色が、ほんの少しだけ褪せた気がした。


ミレイナは、動けなかった。

ただ、手を握っていた。

冷たくなりはじめた指を、両手で包み込む。

廊下の向こうで、かすかに子どものくぐもった嗚咽がして、リオの子守歌みたいな声が重なる。

この建物ぜんぶが、泣くのをこらえている。


「……ムギト」


呼ぶと、胸が痛い。

でも、呼ばないと、消えてしまいそうで。

何度も、何度でも。


「……なんで、あんたなんだよ」


笑うみたいに泣く。

涙と嗚咽の区別が、もうつかない。

鼻をすすって、掌の血を親指で拭う。

きれいにはならない。

きれいになんて、ならなくていい。


扉がノックもなく開いた。

振り向くと、廊下の光の中に影が立つ。

青いリボン。

白い裾。

抱かれた、小さな体。


「……ルミナ?」


「ミレイナ……」


ルミナはフィンを抱いたまま、しばらく言葉をなくした。

目が、ムギトの胸元へ落ちる。

次の瞬間、彼女の顔から血の気が引いていった。


「……そんな……うそ……」


「帰ってきたんだね。……おかえり」


「おかえりなんて、言わないで……っ」


ルミナの声が割れる。

フィンが細い声でむずかって、彼女はその背をあやしながら、膝をついた。

まるで、何かに縋るみたいに。

ミレイナは、もう我慢できなかった。

彼女の肩に額を寄せて、息を吐く。


「……ムギト、ここ、守ったんだよ。あたしたちの場所、守ったんだよ」


「……ごめんなさい……ミレイナ……」


「謝るの、違うでしょ……でも、いまは、なんか、もう……」


「……わたし……わたし、何も……」


「ルミナ、いまは喋らなくていい」


リオが、子どもたちを連れて戻ってきた。

扉のところで立ち止まり、空気を読むみたいに目を閉じる。

最年長の子が、唇を噛んで、ぽとりと涙を落とした。

その一粒が合図になったように、堰が切れる。


「ムギト……!」


「おにい……!」


「いやだ……!」


泣き声が、いっせいに広がる。

リオも、こらえきれずに目元を拭った。

ミレイナはルミナの肩に額をあずけ、ルミナはフィンを抱きしめたまま、声を上げて泣いた。

泣くのは下手だ。

でも、いまは、下手でもいい。

この部屋にあるもの全部が、いっしょに泣いている。

壁も床も、すすけた窓も、薄い寝具も。

どれも、ここにいる。


どれくらい泣いたのか、わからない。

泣き疲れて、空気のため息みたいな静けさが降りる。

外の喧噪は、まだ遠い。

ここは、まだ、私たちの小さな世界だ。


ミレイナは、そっとムギトの手を置き直した。

指を組ませて、胸の上に戻す。

ぴたりとおさまって、少しだけ安らかに見える。


「……ムギト。あたし、ちゃんとやるから」


「……守ってくれた場所、あたしが歩く。……だから、安心して寝てていいよ」


ルミナが涙で濡れた声で、かすかにうなずく。

リオは子どもたちの背を撫で、落ち着かせる。

すすり泣きが、波みたいに細くなっていく。


「――あたしが守るよ」


ミレイナは立ち上がった。

膝が少し笑う。

でも、立てた。

窓の隙間から、薄い朝の光が差し込み、埃がきらきらと舞う。

炎の夜は終わったのかもしれない。

でも、この痛みは、終わらない。

終わらなくていい。

忘れなければ、歩ける。


リオが静かに頷く。

ルミナはフィンを抱き直し、目を閉じて、深く息をした。

子どもたちが、そろって袖で涙を拭う。

いろんな思いが、ここでいっぺんにはじけて、泣いて、静まって――

それでも、残ったものがある。

手のひらの、あたたかさの記憶。

それが、前へ押す。


ミレイナは振り返らず、扉へ向かった。

歩くたび、床板が小さく鳴る。

その音が、まるでムギトが横で歩いているみたいに、心に寄り添った。



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