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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第三章 大クスノキ襲撃

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バルゴの最期

森の縁をすべる風が、焼けた油の匂いと血の金属臭を薄めていく。

夜はまだ深いのに、街のほうだけが白んで見えた。炎の名残は、人の影の輪郭を鋭くする。


セリーネは、黒い外套の端を軽く摘んで、泥の跳ねを払った。

指先に、微かな香りが移る。

碧織へきしょく商盟」調合の、甘く乾いた白花しらはなの香。

今夜のために、愉悦を一滴だけ落としておいた。

愉悦は、罪を甘やかす。

だから、毒と相性がいい。


小径の先で、誰かが荒く息をしている。

気配は薄い。だが、足音は誤魔化せない。

薬に焼かれた肺は、正直だ。


「……そこか」


囁くように、セリーネは止まる。

ふくろうの低い鳴きが、頭上で輪を描いた。


瓦礫に腰を下ろした男が、肩で息をしていた。

黒手団の斥候、バルゴ。

迷いのない目で人をさらい、正確な足取りで血路を拓く男。

そして今は、膝の位置さえ定められない、抜け落ちた器。

筋肉の綱はまだ硬いのに、かなめだけが緩んでいる。


「……どこの犬だ。……帝国か、商会か」


バルゴが顔を上げる。

瞳孔は収束せず、灯の反射が滲んでいる。

斧の柄は折れて、布で荒く巻かれていた。

彼も、今夜を戦場の端で見ていたのだ。

誰が守り、誰が流され、誰が沈んだか。

彼の目は、全部知っている目だ。

だから、遅れて怖くなる。


「犬じゃないわ。香りよ」


セリーネは笑わない。

笑いは余計な情報を渡す。

彼女はただ、歩幅を均一に近づけた。

足音は、柔らかい。

音は、武器になる前に鍵になる。


「香り、ね……。黒手くろてに近づく女は、いつも香る」


「あなたたちが、臭うからよ。血と麻袋の匂い。……香りは上書きできる」


「上書き、ね」


バルゴは唇の端で笑い、すぐに咳き込んだ。

肺の奥で、焦げた何かが剥がれる音がした。

セリーネは、外套の内側に手を入れる。

そこには、細長い硝子瓶が三本――

同じ白花のラベル。

だが、中身は少しずつ違う。

ひとつはただの香。

ひとつは眠り。

ひとつは、罪を止めるための毒。


「追手は出ないのか」


バルゴが問う。

問うというより、独り言に近い。

自分の足取りが、いまどの地図の上にあるかを確かめたがっている。


「追手は、間に合わない。あなたの仕事が、いつも正確だったから」


「褒めるな。……気味が悪い」


「じゃあ、事実」


セリーネは、距離を測る。

風上。

二歩。

指先で栓を回すと、白花の香りが静かに立った。

ほんの少し、杏のような核の匂いが混ざる。

彼女だけが知っている、毒の合図だ。


「女。名は」


「名は、あなたには不要よ」


「そうか。……俺の名は、もう誰かに裏から書き換えられた」


「そんなこと、どうでもいい」


「どうでも、いい、か」


バルゴは、疲労の笑い方をした。

あごの筋がほどけ、牙の見えない笑い。

彼はいつも、鳥の飛ぶ高さから戦場を見てきた。

今も、彼の視線は真っ直ぐだ。

ただ、届く先だけが曇っている。


「香りで殺すのか」


「香りで赦すの」


「赦す?」


セリーネは、微かに首を振った。

朝露が、髪の先で震えた。


「違うわね。……訂正する」


彼女は一歩、踏み出す。

足首が泥に沈む音。

瓶の口が、風を切る音。

白花が、夜の傷に触れてひろがる。


「赦しなんて言葉、あんたには似合わない」


言葉が落ちた瞬間、香は重さを持った。

甘さの奥に、苦い芯。

酸いの裏に、痺れ。

空気の温度が、半歩だけ低くなる。

バルゴの喉が動いた。

反射は、正直だ。


「……ほう。なるほど」


彼は顔を上げ、セリーネの瞳を見た。

そこに、怒りはない。

慈悲もない。

ただ、始末。

罪の締め括り。

彼は、知っている目だと思った。

何度も、同じ目を見てきた。

市場の裏路地で。

橋の下で。

井戸の影で。

誰かが誰かの命の端を結ぶとき、人は、この目をする。


「やり方が、綺麗だ」


「香りは、跡が残らない」


「残るさ。鼻の底に、いつまでも」


「それなら、あなたが勝手に覚えていけばいい」


彼の指が、折れた柄の上を撫でる。

掌の皮が硬い。

綱のような掌。

その掌は、子どもをつかむために使われ、女の口を塞ぐために使われ、仲間の背中を押すために使われた。

良いことも、悪いことも、同じ熱で。

そういう手は、死んでも熱が抜けにくい。


「……質問をひとつ。鳥を見たか」


セリーネは、肩を小さくすくめた。

頭上で、梟がもう一度輪を描く。


「宛先は?」


「知らない。彼が行くべきところへ、行くわ」


「誰に、報せる」


「誰かが、あなたの終点を必要としてる」


「詩人かよ」


「いいえ。商い」


言葉は、乾いていた。

彼女にとって世界は、「取引」と「残滓」でできている。

どちらも、香りが消してくれる。

だから、怖くない。


バルゴの喉が、二度鳴った。

指先が、わずかに震える。

香は、血を早くし、そして遅くする。

最初は軽く、あとから重い。

彼は、深く息を吸った。

深すぎる吸気は、毒のほうへ重心を傾ける。

それでも、男は、敢えて吸った。

最後に選ぶものが、自分の息であってほしかったのだ。


「……女。最後に、教えろ。お前の匂いに、名前はあるか」


「あるわ。……でも、今夜は秘密」


「秘密か」


彼は目を細めた。

何かを遠くに見ようとして、見えないまま、視界を緩める目だ。

戦場の端で、何度もやった目だ。

たぶん、今も、街の灯りを見ている。

旗印の乙女――まだ自分の名で呼ばれたい少女――が、群衆に押し上げられている光景を。

彼には関係のない眩しさ。

彼のためには灯らない灯り。


「……赦し、ね。……俺には似合わない」


「ええ」


「けどさ。赦しは、似合うやつを殺す」


セリーネは短く瞬きした。

予想していなかった言葉は、香りに似ている。

遅れて胸に残る。


「似合うやつ?」


「子どもだよ。……すぐに大人にされる子どもだ」


喉の奥の音が、止まった。

彼の背筋が、わずかに伸び、すぐに戻る。

最後の背伸び。

人は、死ぬ直前、少しだけ自分を取り戻す。

それは、善でも悪でもない。

ただの反射。


セリーネは、二本目の瓶に指を触れ、触れただけで離した。

眠りは要らない。

彼は、眠れないまま終わるほうを選んだ。

自分の足音で、自分の終点に着く。

彼の仕事は、いつも正確。

最期も、同じだ。


「時間よ」


「わかってる」


バルゴは、折れた柄を膝から落とした。

木の音が、濡れた土に吸い込まれる。

彼は掌を見つめ、ゆっくりと握ったり開いたりした。

掌は、まだ熱かった。

熱があるあいだは、人は人だ。


「名前を」


彼は、もう一度だけ言った。

セリーネは、首を横に振る。

彼女の名前は、香りの中に隠しておくのが似合う。

名は、匂いより騒がしい。

仕事の邪魔になる。


「じゃあ――仕事だ」


彼は、息を吐いた。

細く、長く。

夜が、彼の肺を通って、少しだけ軽くなる。

毒は、正しく働く。

足先から、手首へ。

胸郭へ。

視界の中央が白くなり、縁が暗くなる。

そこに、梟が一度だけ横切った。

羽音は、静か。

宛先は、やはり、知らない。


「……綺麗だな」


「香りは、そう作られている」


「違うさ」


彼は、頬の筋肉で笑おうとした。

うまくいかない。

かわりに、目だけが笑った。

戦場に出る前、空を見上げて息を一つ吐く、あの目。

それで、十分だった。


「お前の、手際が」


セリーネは、返さなかった。

褒め言葉は、香りの邪魔。

静けさが、二人の間に降りる。

音は、遠い。

街のほうから聞こえる歓声が、薄く一枚、夜の上に乗っている。


バルゴの肩が、一度だけ上下した。

呼気は、細く、途切れた。

掌の熱は、指先から抜け、硬さだけが残る。

彼の目は、開いたまま遠くを見て、そこに何も置かず、止まった。


セリーネは、外套の袖で、彼の瞼に影を落とした。

閉じはしない。

閉じるのは、別の役目。

彼女の仕事は、香りを調え、後始末の匂いを消すまで。

瓶の口を軽く振ると、白花がもう一度だけ広がり、血と焦げを薄く上書きした。


「……終い」


小さく言って、彼女は足跡を一つずつ拾いながら後退した。

泥の跳ねは外套の裏で止める。

風向きは変わった。

香りは、森の奥へ流れる。

あとは、梟の仕事。


頭上で、梟が翼を大きくひと掻きし、街のほうへ弧を描いた。

宛先は、不明。

だが、必ず届く。

誰かの耳、誰かの帳簿、誰かの祈り。

報せとは、そういうものだ。


セリーネは、瓶を外套の内に戻し、最後に一度だけ街を見た。

遠い灯りの中で、歓声が波打つ。

“旗印の乙女”。

“ヴェントリア”。

誰かが誰かを持ち上げ、名が形を奪っていく。

香りは、名を消せない。

けれど、匂いを上書きすることはできる。

今夜、それで十分だ。


「赦し、ね」


彼女は、誰にも聞こえない声で、もう一度だけ言葉を転がした。

甘さは、残さない。

残るのは、仕事の手触りだけ。

セリーネは、影のほうへ歩き出した。

足音は、柔らかい。

朝が来れば、誰かがここを見つける。

香りは、もうない。

ただ、静けさだけが、仕事の跡に残った。



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