ドレヴの選択
バルゴの影が静かに消えた後、夜の別の影がゆっくりと動き出した。
その影の輪郭は丸みを帯び、歩みは重い。背負う荷は斧でも薬でもない――日々の暮らしという重圧だ。
――ドレヴ。
チェスタ人として、街の片隅で細々と生きてきた男。戦うことを喜びとするわけでも、略奪を遊びにするつもりでもない。ただ、腹を満たし、子の寝床に蓄えを少しでも置くために、今日ここに立っている。選択の余地などほとんど残されていなかった。まともな仕事は門前払い。差別の壁はいつも、彼の前に立ちはだかる。だから声をかけられれば、ためらいはあっても首を縦に振るしかなかった。
「金が要るんだ。子供がいるんだよ」
自分に向けた言い訳であり、呪文だった。呪文の回数を増やせば、やがて罪悪感は麻痺するだろう――そう信じたかった。
街の混乱は、俺にとって恰好のカモフラージュだ。炎と叫びが視線を散らし、誰も細部まで見ていない。だから群れの一角に紛れ、命令に従い、指定された家屋を回る。手はもう慣れている。縄を結び、扉をさっとこじ開け、抵抗する者を素早く黙らせる――下手な商人が金を数えるより無駄がない。
それでも胸の奥で小さな火がくすぶる。夜、子供の顔を思い浮かべると、喉の奥が辛くなる。自分の子を食わせるために、他の親の子を奪う――その矛盾は眠りを浅くする。考えれば足がすくむ。だから俺は、考えないふりをする。
孤児院が見えてきた。
屋根の上を這うように流れる煙が、月の光を薄く引き伸ばし、建物を黒い塊に沈めている。外の熱と破片の音に紛れて、地下の方からかすかな震えと嗚咽だけが、壁を通して伝わってくる。
その音を指先の震えと同じように感じ取った。前回の誘拐団の計画にも加わっていたから、孤児院の場所は分かっている。表の門は今、男が塞いでいる。
炎の揺らぎで大きく見える背中――だが、近づくにつれて、その異様さが目に入る。
血だ。
肩から、赤黒い液体が滴り続けている。服は裂け、肉が見えている。右腕は完全に垂れ下がり、動いていない。脇腹の服は血に濡れて黒く染まり、腿からも血が流れ落ちている。
石畳には、血の染みが広がっている。
「――あいつ、ケガしてる……いや、ケガどころじゃねぇ」
俺は立ち止まり、目を細める。
男は柄を杖にして立っている。ただ立っているだけ。だが、その立ち方が尋常ではない。体が揺れている。呼吸が浅く、途切れ途切れ。視界も定まっていないように見える。
「死んでてもおかしくねぇ……なのに、立ってやがる」
胸の内側を掻きむしるような感覚。あいつを押しのければ門は開く。中へ入れば、売り物は手に入る。金だ。子どものための金。
体が震えるのは寒さか罪悪感か――どっちでもいい。選択肢は二つしかない。やめるか、進むか。
前の夜、子の寝顔を思い浮かべながら床に座って誓ったことを思い出す。あの小さな手に、暖かい飯を戻してやる、と。滑稽なほど単純な誓いだが、その単純さが俺の判断を縛る。まともな職は回ってこない。差別の壁は厚い。生活の針は容赦なく落ちる。だから秤はいつも「必要か否か」で振れる。
「本気でやれば、勝てる」
自分に言い聞かせるように笑う。乾いた笑いだ。あの男は、もう限界だ。右腕は動かない。血が流れ続けている。押せば、倒れる。
腕の縄の感触を確かめ、門へ歩を進める。影が炎に溶けては濃くなり、石畳が冷たく足裏を叩く。背中は振り返らない限り見えたまま。振り返れば、そこにあるのは守る者の姿。守る者に背を向けて進むのは、泥棒以上の業だと知りながら、前へ。
門前まで数歩。
男の呼吸が夜気に大きく響く。血が口から滴っているのが見える。肺が潰れているのか、呼吸のたびに血の泡が口端に浮かぶ。
「……もう、立ってるだけで精一杯のはずだ」
俺は呟く。
衝突の計算を反芻する。力で正面からぶつかる必要はない。脇腹を突けば、崩れる。右腕は使えない。左手だけで柄を握っている。そこを狙えば、武器を落とす。
石の隙間を蹴り、反動をつけ、脇腹――傷口を狙う。
その瞬間、門の外で大きな音。瓦礫が崩れたか、誰かがぶつかったか。火花が踊り、路地がざわつく。男が反射で体を翻した――その動きが鈍い。明らかに鈍い。
俺は躊躇なく飛び込む。
脇腹に体をねじ込む――傷口に直接当たる。男が呻く。短く、低く。だが同時に、男の左腕が素早く回り、俺の胴を押し返す力。
「おい、何をすんだ」
低い声。荒れているが、混乱はしていない。
押し返されながらも、俺は驚く。この傷で、まだこれだけの力があるのか。右腕が使えないのに、左腕だけでこの力。
だが、長くは続かない。男の膝が震えている。血が止まらない。視界が霞んでいるはずだ。
俺は再び押し込む。脇腹を突く。男が体勢を崩す。柄が手から滑り落ちそうになる。
「……ミレイナ……子ども……たち……」
男が呟く。声にならない声。血に混じって零れる。
その瞬間、俺は目を逸らす。顔を見たくない。目が合えば、終わる――そんな気がして、すぐに視線を落とす。
俯いたまま力を込める。男の左腕が最後に大きく振るわれ、俺の肩が痺れた――が、次の瞬間、男は膝をついた。
肩から血が滴り、呼吸が止まりそうなほど荒い。巨体がぐらりと傾ぎ、そのまま意識を手放して倒れ込む。
石畳に、血の海が広がる。
俺は立ち尽くす。一瞬だけ、男の顔を見た。目は閉じている。呼吸は――ある。かすかに、胸が上がっている。
「……まだ、生きてる」
安堵か、罪悪感か。どちらでもいい。
逃してなるか。胸の奥がざわつくが、考える暇はない。
「いまだ……!」
足が先に走る。俺は無我夢中で孤児院の扉を抜け、暗い廊下を滑るように進む。階段を降り、地下室の扉を乱暴に開ける。炎の赤が差し込んだ瞬間、怯えた子どもらの悲鳴が一斉に弾けた。
「や、やめぇっ!」
小柄な女が飛び出してくる。腕を広げ、必死に立ちはだかる。
「子ぉには……手ぇ出させへんで!」
もう一人、若い娘が震えながらも前に出る。
「だめだ、連れていかせない!」
容赦はしない。女の肩を力任せに弾き、娘を壁ぎわへ押しやる。
「どいてくれ……!」
二人が床に叩きつけられる音。狭い地下室で、泣き声が四方へ逃げ惑う。俺は手当たり次第に腕を伸ばす。小さな体を掴む――細い。軽い。肩に担ぎ上げる。
小さな体は肩の上で必死に暴れ、爪が首筋を引っかいた。
ドレヴは息を詰め、腕をきつく締める。背中を石壁に叩きつけるようにして衝撃を与えると、その瞬間、抵抗がふっと抜け、肩の重みだけが残った。
「いやぁっ、やめてぇや!」
女の叫びが背を刺す。
「返してぇや!」
振り返らない。低く吐き捨てる。
「……これでいい」
子どもの体温が肩にかかる。階段を駆け上がり、地下を後にする。
だが、終わりではない。背後から追いすがる気配。
「返してぇや! その子は渡さへん!」
女の指が俺の腕に爪を立てる。若い娘も必死にしがみつく。
「離せっ!」
振り払う。二人まとめて壁へ叩きつける。息を詰まらせる音。混乱と悲鳴の中、俺は担いだまま走る。石畳が足を鳴らし、火の粉が目尻で弾ける。
「待ってぇやっ!」
女の声が遠のく。追ってくる気配がふらつく。俺は一瞬だけ振り返る――そして見た。門のそば、血に濡れて倒れる男。石畳が赤く染まり、巨体が横たわる。息はある。だが弱い。
女が膝から崩れかけながら叫ぶ。
「……っ、ムギト!」
迷いが顔を絞めつけるのがわかる。追うか、助けるか。
彼女は決めた。
「……あかん、ひとりじゃ無茶や。うちの旦那、死なせるわけにいかへん」
若い娘が唇を噛み、頷く。震える手で男の傷を押さえる。遠くで子どもの泣き声が夜に溶けていく。俺は背を向けたまま、暗い路地に沈む。
――愛する者を、まず救う。
それでいい。俺は俺の理由で走る。
「金が要るんだ。子供がいるんだよ」
呪文はまだ切れていない。肩の上の小さな重みが、夜の熱よりも重くのしかかる。それでも足は止まらない。火の帯が背後で揺れ、鐘の音が二度、三度。俺は影の深い方へと、さらに速度を上げた。




