バルゴの獲物
街の通りは炎に照らされ、瓦礫と血で覆われていた。
悲鳴も怒号も、耳に届けばただの雑踏のざわめきに過ぎない。その混乱の闇を縫うように、一つの影が音もなく身を滑らせていた。
――バルゴ。
黒手団の斥候にして、誘拐を生業とする男。仲間たちが薬に狂って突き進む中、彼だけは冷静に壁と路地を選び、足跡を消しながら進んでいた。
「騒がしいのはいい……こっちの動きは目立たねぇ」
口元に薄い笑みを浮かべ、瓦礫に潜む。彼が狙うのは金になる「獲物」ただひとつ。
ルミナ。
顔立ちの整った孤児院にいた娘。何度か目にしたことはあった。気丈に振る舞い、子どもたちに慕われる姿。だがバルゴにとっては、それ以上でも以下でもない。
「売れば、良い値がつく……」
混乱に沈む街なら、誘拐など容易い。兵も人も、皆ザイラスや薬に狂った連中に釘付けだ。その陰を縫えば、狙った獲物を奪うのは簡単――そう信じて、バルゴは孤児院へ向かっていた。
建物の影を渡り、倒れた柵を飛び越え、視線を浴びることなく進む。血に濡れた兵士が呻いても、斬り合いの音が耳を打っても、彼の目は揺れない。ただ子どもの泣き声だけが、彼の耳に獲物の位置を告げる合図だった。
「いるはずだ……あの娘と、ガキどもが」
舌なめずりをして、闇に身を潜める。やがて孤児院の屋根が視界に現れた。
だが、その瞬間、扉の隙間から巨躯の影がわずかに見えた。
――中に男がいる。守るために残った番犬。
「……ほう、厄介なもんがついてやがるな」
バルゴはすぐに計算を切り替えた。正面突破は無駄だ。ならば、番犬を消耗させる。背後に控えていた荒くれ者に視線を投げる。
「見えただろ? 中にデカブツがいる。お前ら行け。潰せりゃ上等、時間稼ぎでも構わねえ」
仲間たちは雄叫びを上げて飛び込んでいった。バルゴはその背を見送り、口の端を上げる。
「さて……番犬がどれほど持つか、見ものだな」
バルゴは屋根の陰に身を潜め、冷静に観察を始めた。
扉が蹴破られる。
番犬――ムギトが外へ飛び出す。古い柄を両手に構え、狭い路地に身を沈めた。
「いい動きだ」
バルゴは呟く。路地は狭い。同時に入れるのは二、三人。その幅を利用すれば、人数差を潰せる。番犬はそれを理解している。
最初の荒くれ者が刃を振り下ろす。
番犬は柄で受け止め、そのまま押し返して顎を砕く。歯が石畳に散る。
「受け→押し返し→制圧。無駄がない」
バルゴは分析する。感情に流されていない。計算された動き。
二人目が横から刺突。
番犬は退かず、肩で受ける。刃が肉を裂き、血が飛ぶ。だが彼は呻かず、相手の腕を掴んで石壁へ叩きつける。骨が砕ける音。
「血は出たな」
バルゴの目が細まる。最初の傷。これで番犬の体力は削れ始める。
三人目が薬で爛れた目で突進。真正面から殴り合い。番犬は拳を固め、叩き込む。だが相手は倒れず、笑ったまま腕を振るう。
「薬で痛覚が麻痺してやがる。厄介だが……それでいい」
バルゴは冷静に見る。薬で狂った連中は止まらない。止まらない敵と戦えば、番犬は消耗する。
番犬は歯を食いしばり、さらに一歩踏み出す。体格で勝る相手を押し返すことはできない。だから退かない。自分が盾になる。
背後から、女のすすり泣きと子どもの息遣いが聞こえる。
「ああ、そうか」
バルゴは理解する。番犬は背後を守っている。だから退けない。動けない。
「守る背中ほど、裂きやすい」
バルゴは小石を拾い、別の路地へ投げる。硬い音が響く。足音が寄る。雑音が増える。
番犬の耳が動く。音に反応している。だが視線は前に固定されたまま。
「守る対象が多いほど、感覚は割れる」
バルゴは影を滑り、音を消して移動する。ひさし、崩れた貨箱、倒れた柵。番犬の死角を縫う。
襲撃者の刃が再び迫る。
番犬は全身で受け止める。脇腹に刃が食い込む。肉が裂け、息が詰まる。視界が白む。だが叫ばない。ただ腕を振り抜く。
「痛みを殺してる。だが、血は出続ける」
バルゴは冷徹に観察する。傷が増えるたび、番犬の動きは鈍くなる。それが見える。
四人目、五人目が同時に襲いかかる。
番犬は柄を横に振り、一人の膝を砕く。もう一人の顔面へ肘を叩き込む。血が噴き出す。
その瞬間、背後から棍棒が肩甲骨を打つ。
骨が砕ける音。番犬の右腕が垂れる。柄が手から滑り落ちそうになる。左手だけで握り直す。
「右腕が潰れたな」
バルゴの口角が上がる。これで攻撃力は半減する。
六人目が斧を振りかぶる。
番犬は懐へ潜り込む。斧が肩を掠め、肉が削げる。だが止まらない。腹へ拳を叩き込み、膝を顔面に打ち上げる。
七人目が背後から襲う。
番犬は振り返りざま、柄で喉を打つ。だが力が入らない。右腕が使えない。柄が浅く当たり、相手は怯むだけ。
刃が腿に突き刺さる。
番犬の膝が折れそうになる。石畳に片膝をつく。血が溢れ、地面に染みを広げる。
「もうすぐだな」
バルゴは影で待つ。番犬が倒れる瞬間を。
だが――
番犬は立ち上がった。
左手だけで柄を握り、地面を支えに立ち上がる。右腕は垂れ下がったまま。肩から血が滴る。脇腹の傷は深く、腿からは止まらない出血。
それでも、立つ。
「……まだ立つか」
バルゴの目が細まる。予想外だ。この傷で立つのは、常識外れ。
八人目が槍を突き出す。
番犬は避けられない。槍が腹を貫く。鈍い衝撃。
だが、倒れない。
槍の柄を左手で掴み、相手ごと引き寄せる。頭突きを叩き込む。鼻が砕け、相手が槍を手放す。
槍が腹に刺さったまま、番犬は前へ進む。
「化け物か……」
バルゴは初めて、表情を変えた。驚愕。この男は、もう人間ではない。意志だけで動いている。
九人目、十人目が怯む。逃げ出す者もいる。
「使えねぇ……」
バルゴは舌打ちする。だが、番犬ももう限界だ。目は焦点を結んでいない。体は血まみれ。呼吸は途切れ途切れ。
大柄な男が突進する。
番犬は柄を地に突いて間合いを掴み、胸から体重でぶつかる。一瞬、意識が白む――だが足が先に戻る。巨躯を肩越しに叩き伏せる。
「……信じられねぇ」
バルゴは呟く。この男は、もう死んでいてもおかしくない。なのに、まだ立っている。
路地が静かになる。
番犬は扉へと半歩返り、窓の隙間の小さな顔に会釈を投げる。背で安心を作る。中では女が震え声で礼を言う。番犬は言葉を返さず、血を拭う。
「……厄介な番犬だ」
バルゴは計算を変える。正面では無理だ。いくら消耗させても、この男は倒れない。
ならば――
「数を増やす。音で満たす。そして、隙を待つ」
バルゴは別の連中に目配せを送る。足音が寄る。さきほどより多い。
番犬の目が細まる。炎に照らされた瞳が硬く光る。握った柄から血が滴る。
「……まだ来るのか」
番犬が呟く。
「ああ、来させるんだよ」
バルゴは影で笑う。
「壁は削るものだ。正面で足を縫い止め、裏で心を揺らし、穴から中身を引き抜く」
複数の足音が近づく。番犬は血に濡れた顔を上げ、迫りくる影を見据える。
もう、動けないはずだ。立っているのが精一杯のはずだ。
だが、この男は倒れない。
「待ってろよ。お嬢さん」
バルゴは静かに呟く。
番犬の足が次に止まる――その時が合図だ。
そこから、本当の仕事が始まる。




