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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第三章 大クスノキ襲撃

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バルゴの獲物

街の通りは炎に照らされ、瓦礫と血で覆われていた。


悲鳴も怒号も、耳に届けばただの雑踏のざわめきに過ぎない。その混乱の闇を縫うように、一つの影が音もなく身を滑らせていた。


――バルゴ。


黒手団の斥候にして、誘拐を生業とする男。仲間たちが薬に狂って突き進む中、彼だけは冷静に壁と路地を選び、足跡を消しながら進んでいた。


「騒がしいのはいい……こっちの動きは目立たねぇ」


口元に薄い笑みを浮かべ、瓦礫に潜む。彼が狙うのは金になる「獲物」ただひとつ。


ルミナ。


顔立ちの整った孤児院にいた娘。何度か目にしたことはあった。気丈に振る舞い、子どもたちに慕われる姿。だがバルゴにとっては、それ以上でも以下でもない。


「売れば、良い値がつく……」


混乱に沈む街なら、誘拐など容易い。兵も人も、皆ザイラスや薬に狂った連中に釘付けだ。その陰を縫えば、狙った獲物を奪うのは簡単――そう信じて、バルゴは孤児院へ向かっていた。


建物の影を渡り、倒れた柵を飛び越え、視線を浴びることなく進む。血に濡れた兵士が呻いても、斬り合いの音が耳を打っても、彼の目は揺れない。ただ子どもの泣き声だけが、彼の耳に獲物の位置を告げる合図だった。


「いるはずだ……あの娘と、ガキどもが」


舌なめずりをして、闇に身を潜める。やがて孤児院の屋根が視界に現れた。


だが、その瞬間、扉の隙間から巨躯の影がわずかに見えた。


――中に男がいる。守るために残った番犬。


「……ほう、厄介なもんがついてやがるな」


バルゴはすぐに計算を切り替えた。正面突破は無駄だ。ならば、番犬を消耗させる。背後に控えていた荒くれ者に視線を投げる。


「見えただろ? 中にデカブツがいる。お前ら行け。潰せりゃ上等、時間稼ぎでも構わねえ」


仲間たちは雄叫びを上げて飛び込んでいった。バルゴはその背を見送り、口の端を上げる。


「さて……番犬がどれほど持つか、見ものだな」


バルゴは屋根の陰に身を潜め、冷静に観察を始めた。




扉が蹴破られる。


番犬――ムギトが外へ飛び出す。古い柄を両手に構え、狭い路地に身を沈めた。


「いい動きだ」


バルゴは呟く。路地は狭い。同時に入れるのは二、三人。その幅を利用すれば、人数差を潰せる。番犬はそれを理解している。


最初の荒くれ者が刃を振り下ろす。


番犬は柄で受け止め、そのまま押し返して顎を砕く。歯が石畳に散る。


「受け→押し返し→制圧。無駄がない」


バルゴは分析する。感情に流されていない。計算された動き。


二人目が横から刺突。


番犬は退かず、肩で受ける。刃が肉を裂き、血が飛ぶ。だが彼は呻かず、相手の腕を掴んで石壁へ叩きつける。骨が砕ける音。


「血は出たな」


バルゴの目が細まる。最初の傷。これで番犬の体力は削れ始める。


三人目が薬で爛れた目で突進。真正面から殴り合い。番犬は拳を固め、叩き込む。だが相手は倒れず、笑ったまま腕を振るう。


「薬で痛覚が麻痺してやがる。厄介だが……それでいい」


バルゴは冷静に見る。薬で狂った連中は止まらない。止まらない敵と戦えば、番犬は消耗する。




番犬は歯を食いしばり、さらに一歩踏み出す。体格で勝る相手を押し返すことはできない。だから退かない。自分が盾になる。


背後から、女のすすり泣きと子どもの息遣いが聞こえる。


「ああ、そうか」


バルゴは理解する。番犬は背後を守っている。だから退けない。動けない。


「守る背中ほど、裂きやすい」


バルゴは小石を拾い、別の路地へ投げる。硬い音が響く。足音が寄る。雑音が増える。


番犬の耳が動く。音に反応している。だが視線は前に固定されたまま。


「守る対象が多いほど、感覚は割れる」


バルゴは影を滑り、音を消して移動する。ひさし、崩れた貨箱、倒れた柵。番犬の死角を縫う。




襲撃者の刃が再び迫る。


番犬は全身で受け止める。脇腹に刃が食い込む。肉が裂け、息が詰まる。視界が白む。だが叫ばない。ただ腕を振り抜く。


「痛みを殺してる。だが、血は出続ける」


バルゴは冷徹に観察する。傷が増えるたび、番犬の動きは鈍くなる。それが見える。


四人目、五人目が同時に襲いかかる。


番犬は柄を横に振り、一人の膝を砕く。もう一人の顔面へ肘を叩き込む。血が噴き出す。


その瞬間、背後から棍棒が肩甲骨を打つ。


骨が砕ける音。番犬の右腕が垂れる。柄が手から滑り落ちそうになる。左手だけで握り直す。


「右腕が潰れたな」


バルゴの口角が上がる。これで攻撃力は半減する。




六人目が斧を振りかぶる。


番犬は懐へ潜り込む。斧が肩を掠め、肉が削げる。だが止まらない。腹へ拳を叩き込み、膝を顔面に打ち上げる。


七人目が背後から襲う。


番犬は振り返りざま、柄で喉を打つ。だが力が入らない。右腕が使えない。柄が浅く当たり、相手は怯むだけ。


刃が腿に突き刺さる。


番犬の膝が折れそうになる。石畳に片膝をつく。血が溢れ、地面に染みを広げる。


「もうすぐだな」


バルゴは影で待つ。番犬が倒れる瞬間を。




だが――


番犬は立ち上がった。


左手だけで柄を握り、地面を支えに立ち上がる。右腕は垂れ下がったまま。肩から血が滴る。脇腹の傷は深く、腿からは止まらない出血。


それでも、立つ。


「……まだ立つか」


バルゴの目が細まる。予想外だ。この傷で立つのは、常識外れ。


八人目が槍を突き出す。


番犬は避けられない。槍が腹を貫く。鈍い衝撃。


だが、倒れない。


槍の柄を左手で掴み、相手ごと引き寄せる。頭突きを叩き込む。鼻が砕け、相手が槍を手放す。


槍が腹に刺さったまま、番犬は前へ進む。


「化け物か……」


バルゴは初めて、表情を変えた。驚愕。この男は、もう人間ではない。意志だけで動いている。


九人目、十人目が怯む。逃げ出す者もいる。


「使えねぇ……」


バルゴは舌打ちする。だが、番犬ももう限界だ。目は焦点を結んでいない。体は血まみれ。呼吸は途切れ途切れ。


大柄な男が突進する。


番犬は柄を地に突いて間合いを掴み、胸から体重でぶつかる。一瞬、意識が白む――だが足が先に戻る。巨躯を肩越しに叩き伏せる。


「……信じられねぇ」


バルゴは呟く。この男は、もう死んでいてもおかしくない。なのに、まだ立っている。


路地が静かになる。


番犬は扉へと半歩返り、窓の隙間の小さな顔に会釈を投げる。背で安心を作る。中では女が震え声で礼を言う。番犬は言葉を返さず、血を拭う。


「……厄介な番犬だ」


バルゴは計算を変える。正面では無理だ。いくら消耗させても、この男は倒れない。


ならば――


「数を増やす。音で満たす。そして、隙を待つ」


バルゴは別の連中に目配せを送る。足音が寄る。さきほどより多い。


番犬の目が細まる。炎に照らされた瞳が硬く光る。握った柄から血が滴る。


「……まだ来るのか」


番犬が呟く。


「ああ、来させるんだよ」


バルゴは影で笑う。


「壁は削るものだ。正面で足を縫い止め、裏で心を揺らし、穴から中身を引き抜く」


複数の足音が近づく。番犬は血に濡れた顔を上げ、迫りくる影を見据える。


もう、動けないはずだ。立っているのが精一杯のはずだ。


だが、この男は倒れない。


「待ってろよ。お嬢さん」


バルゴは静かに呟く。


番犬の足が次に止まる――その時が合図だ。


そこから、本当の仕事が始まる。

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