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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第三章 大クスノキ襲撃

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荘厳なる沈黙

帝都ゼルヴァ。


大理石の柱が並び、黄金の装飾がきらめく広間。銀の燭台に掲げられた炎は高い天井に反射し、歴代皇帝の肖像画が冷ややかに見下ろしている。荘厳にして重厚――ここは帝国の意志そのものを刻む場であった。


報告を前に、軍政尚書レギウスはごく自然な仕草で細工箱を開き、小瓶を取り出した。瓶は親指ほどの大きさで、透き通った硝子に金の装飾が施されている。栓を抜くと、甘く重い香りが立ち上った。


手首に一滴、そして空気へひと吹き。


琥珀と没薬、そして名も知らぬ東方の花。調香師が三年かけて仕上げた一点もの。帝国では誰もが香水をまとうが、これほどの香りを纏えるのは、ごく限られた者だけだ。市井で売られる量産品とは、深みが違う。層が違う。時間とともに香りが変化し、纏う者の体温で新たな表情を見せる。


副官は喉の渇きを覚えながら報告書を掲げた。自分の纏う香水――銀貨三枚で買った市販品――が、急に安っぽく感じられる。同じ「香水」という言葉でも、まるで別の世界の産物だ。


レギウスは小瓶を丁寧に細工箱へ戻し、指先で蓋を撫でる。その所作ひとつにすら、余裕と格式が滲んでいた。


「報告を」


短く促す声に、副官は姿勢を正した。


「――大クスノキの騒乱は拡大の一途。市街の一部は炎に包まれ、避難も混乱しております。領兵の抵抗はあるものの、襲撃者の数に押され、被害は増大しているとのこと」


レギウスは目を細め、羽根ペンを手に取る。


「続けろ」


「はっ。この機に帝国が鎮圧に乗り出せば、連邦王国に大きな貸しを作ることも可能かと――」


羽根ペンが止まり、室内の空気が凍りつく。


副官の背に冷たいものが走る。言葉を続けるべきか、黙るべきか。だが、もう遅い。


「……他国に口出しするものではない」


低く抑えた声が荘厳な広間に響いた。


「それは侵略の口実と取られかねん。帝国は正義を重んじる。不当な干渉など、あってはならぬ」


正論。まったくもって正論。だが副官の胸に違和感が広がる。


(この御方ならば、むしろこの機を利用するはず……)


レギウスは帝国一の策士と言われる男だ。敵対勢力を巧みに操り、表向きは紳士的でありながら、裏では容赦なく利を貪る。そんな男が、こうも簡単に「干渉しない」と言うだろうか。


視線を上げたレギウスの瞳が、鋼のごとき光を宿す。


「私を浅いと疑うか」


副官は息を呑んだ。


「い、いえ、滅相もございません」


「ならば、よく聞け」


レギウスは羽根ペンを置き、指を組んだ。


「静観もまた策だ。混乱が続けば、いずれ向こうから請いを寄越す。その時こそ、我らは大義を掲げ、堂々と進めばよい。救援という名の下に、恩を売り、影響力を増す。焦る必要はない」


副官は頷いた。なるほど、そういうことか。


「ドミナント将軍が出たがるだろうが、今回は必要ない。いや、国境警備でもさせておき、必要があればいつでも出られるようにしてもらおうか。準備だけは怠るな」


「畏まりました」


「それから――」


レギウスは再び小瓶に手を伸ばし、もう一度だけ手首に香りを足した。


「連邦王国内の情報は、引き続き収集を。特に、煌都グランディオスの動向。エルディアス伯がどう動くか、な」


「はっ」


高級な香水の残り香が空気に満ち、副官の肺を重く圧した。胃がきしみ、内臓ごと握りつぶされるような感覚に、もはや耐えられない。呼吸をするたびに、その香りが鼻腔を刺激し、自分の立場を思い知らされる。


「……失礼いたします」


退出の礼をとり、扉が閉ざされる。荘厳な広間に再び静寂が訪れると、レギウスは小さく息を吐いた。


(……言葉を費やしすぎたな)


再び羽根ペンを取り、書簡へと視線を戻す。インクに浸し、滑らかな筆致で文字を刻む。宛先は、連邦王国内に潜む密偵。指示は簡潔に。動くべき時が来れば、自ずと分かる。


窓の外、帝都の夜景が広がっている。無数の灯が煌めき、帝国の栄華を物語る。だがレギウスの目は、遠く西――連邦王国の方角を見据えていた。


大クスノキの炎は、まだ始まりに過ぎない。




一方、長い回廊を歩く副官は、並ぶ甲冑像に見下ろされながら呻いた。


(胃が持たん……お願いだ、誰かこの部署と代わってくれ……)


自分の纏う安い香水の匂いが、急に鼻についた。銀貨三枚。それでも庶民にとっては贅沢品だ。だが、あの広間で嗅いだ香りと比べれば、まるで水で薄めた安酒のようだ。


足を速め、副官は外の空気を求めた。帝国の夜風は冷たく、肺を洗うように吹き抜ける。


だが、胸の奥のざわめきは、消えなかった

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