孤児院での不安
孤児院の夕暮れは、いつもより静かに始まった。
ルミナとマルティナが荷を背負い、子どもたちの頭を順繰りに撫でてから門を出たのは、ほんの数刻前のことだ。見送ったとき、空はまだ薄い藍だった。この日が、こんなふうに陰を曳くとは、誰も思っていなかった。
最初の異変は、風の運ぶ音だった。
遠くの通りで人の声が崩れ、鉄と革の触れ合う硬い音が混じる。やがて、近い。戸板越しに、振動が壁の土へ染み込んでくる。
「……地下へ」
ムギトが低く言い、扉を開け放つと、子どもたちを順に階段へ促した。小さな靴音が、石段の腹に吸い込まれていく。
ミレイナは入口の鍵を二度確かめ、それから自分も降りた。
「ほんまに、大丈夫やんな……?」
震える声で呟く。
リオは最後尾で、振り返って庭を一度だけ見た。洗い桶、ロープ、夕日に乾きかけの布。すべてが"いつもどおり"の顔をしているのに、空気だけが違っていた。
地下の食糧庫は、土壁に棚を打ち付けた狭い部屋だ。干した豆、塩漬けの肉、乾パン、灯り用の油。鼻先をつく埃の匂いに混じって、土の湿り気がひやりとまとわりつく。子どもたちは大きい樽の陰に身を寄せ合い、目を丸くした。
「ここで、できるだけ静かに」
ムギトが指で口元に縦線を引く。
「誰か来たら、俺が前へ出る。おまえたちは動くな」
ミレイナは首を左右に振りかけ、言葉を飲み込んだ。"やめて"と言いたいのに、喉に鉤がかかったみたいに声が出ない。両手は震えている。握りしめた指の間に、粉の白が溜まった。
「大丈夫。きっと大丈夫だから」
リオが、静かな声で言った。
「深呼吸。吸って、止めて、吐いて。一緒に。せーの……」
みんなの胸が、小さく上がって、小さく下がる。最年少のクルミが鼻で泣き、肩をすくめた。リオは自分の怖さを押し込めるように、引きつった笑顔を作る。
「ゲームしよう。音を食べる怪物がいるの。音を出したら、パクッてされちゃうやつ」
「……やだ」
クルミが首を振る。隣のタロは唇を噛んだまま、目を閉じる。薄闇の中で、子どもたちの息遣いは細く、糸のように長く伸びて、すぐ切れた。
上で、何かが倒れた。
重いもの。棚か、桶か、あるいは扉そのものか。音は一つで終わらず、間を置いて二つ三つと続いた。遠い怒声が、土を伝って低くなる。
「しー……」
ミレイナが両手を広げ、子どもたちを包むように示す。
ムギトは階段の手前、柱の影に立った。手にした棒は、薪割りの古い柄だ。刃はない。それでも握りは決まっている。何度も練習した動きの名残が、手首に残っている。
「リオ、灯りを少しだけ暗く」
「うん」
油皿の芯を指で押し下げる。灯りは心細い橙に縮こまり、樽の影を長くした。影の向こうで、子どもが一人、くしゃみをこらえて鼻に指を当てる。リオはそれを自分の身体でさえぎり、ミレイナと目を合わせた。頷き。喉が鳴る。唾が重い。
上で、笑い声がした。
複数。足の運びは雑で、床板が悲鳴を上げる。誰かが戸を蹴り、誰かが窓枠を叩く。この家の形を知らない足音。知らない掌。彼らは探す。金目の物。食べ物。人の気配。
「来るか」
ムギトがほんのささやきで言った。
「来ても、俺が止める。下へは来させない」
「やめ――」
ミレイナの口が開いて、閉じた。リオは子どもたちの肩をぽんぽんと叩いた。
「怪物、下に降りてこれないように、みんなで魔法をかけよう。目を閉じて、耳を閉じて、息を……小さく」
「まほう……」
クルミが真似をして目をぎゅっと閉じる。タロは耳を押さえ、膝と膝を強くくっつけた。その様子に、ミレイナの震えが少しだけ止まる。
外で大きな音がした。
石を引きずる音。何かが倒れる音。孤児院の庭の、井戸の滑車の音――いや、違う。壁際の薪棚が崩れたか。土がざらざら下に落ちる気配が、土壁そのものを震わせる。
「いまは、待つ」
ムギトは棒を握り直した。手の甲の筋が浮き、白くなる。額の汗が一筋、鼻梁を滑った。
「リオ、お前は下がってろ」
「ううん。ここにいる。みんなと一緒」
リオの声は思ったより強かった。自分がそれに驚く。足が震えているのに、口は震えない。まるで誰かの真似をしているみたいだ、と心のどこかが思う。――ルミナ。胸の中心が、きゅっと締まる。
「ルミナ……助けて」
口に出さなかった。出してしまえば、みんなの心がそちらへ引かれる。叫びは黙ったまま、胸の奥で跳ねた。
上の足音が、一度だけ階段の上で止まった。
鼻で嗅ぐような沈黙。ムギトの肩が、目に見えて固くなる。思わず、リオは子どもたちの方へ腕を広げた。
「しーっ」
ミレイナの指が唇に触れる。油皿の芯が、かすかに鳴る。誰かの喉が鳴り、すぐに抑えられた。
階段板が、一枚、きしんだ――かに思えた瞬間、その音は引っ込み、代わりに外の怒号が近くなった。足音は階段を離れ、玄関へ戻る。別の家、別の扉。孤児院の壁にぶつけた乱暴と同じ乱暴が、通りじゅうを転がっていく。
「行った……?」
子どもの誰かが、息だけで問うた。リオは頷いた。頷きながら、胸の中の鼓動がまだ耳の後ろを叩いていることに気づく。時間が、進まない。砂が落ちるたびに、砂粒が上へ戻るみたいだ。"待つ"ということが、こんなにも長いのだと、初めて知った。
「もう少し。もう少しだけ」
ムギトが言う。
「俺はここにいる。おまえたちは、息を小さく。いいな」
「……うん」
ミレイナも小さく返す。瞳は濡れている。けれど、泣かない。泣いてしまえば、誰かの手がほどける。ほどけた手の隙間から、音がこぼれる。
外で、また大きな音がした。
今度は近い家の窓ガラスだろう。割れる音に、笑いが混じる。それから、走る気配。叫ぶ声。孤児院の前を、足音が二つ、三つ、五つと通り過ぎ、角で散った。
「いまじゃない」
リオは心の中で言った。いま出れば、巻き込まれる。いまは、息を飲むだけでいい。飲んだ息を、胸の奥に沈める。沈めた息が、ゆっくり溶けていくのを待つ。
子どもたちの背中は、樽の木目に貼りついていた。
温度が移る。木の冷たさが子の熱を吸い、子の熱が木の冷たさに負ける。それでも、離れない。離れたくない。木は動かない。動かないものに預けるのが、今は一番の味方だ。
「ルミナ……」
ミレイナの喉から、音にならない名前が零れた。でも、口は開かなかった。その代わりに、リオが小さな声で囁く。
「大丈夫。ルミナは戻ってくる。だから、いまは――」
「しずかに」
ムギトの声が、そっと被さった。厳しくはない。けれど、底が固い。その声に、子どもたちの肩の力がほんの少し抜ける。
時間は、やっと一歩だけ進んだ。
外の足音が減る。遠くで別の怒号が上がる。この家は、いまは通り過ぎられていく側だ。次は、分からない。だから、次が来る前に、息を整える。
「水を、ひとくちずつ」
ミレイナが皮袋を回す。子どもたちは、順に、舌を濡らす程度に飲んだ。リオは最後に皮袋を受け取り、空を確かめる。半分残った。足りる。もっと減らすべきかもしれない。けれど、いまはこれでいい。
地下の空気は、長く息を潜めた家の呼吸みたいに重かった。
それでも、呼吸はできた。"待つしかない"という重さを背負いながら、なお、ほんの少しずつ息が通っていた。
外で、また大きな音がする。今度は遠く。ムギトは棒の先を床に軽く触れさせ、目を閉じた。耳で、街の形をたどる。右が荒い。左は鈍い。前は流れる。後ろは戻る。いま、この家は"間"にいる。
「しーっ」
リオはもう一度、指を立てた。不安を漏らす小さな肩を、片腕で抱える。自分の震えが、囲んだ肩に伝わらないように、奥歯で震えを噛みしめた。
時間は遅い。
けれど、遅いことにも終わりはある。鐘が鳴れば、ひとつ分だけ夜が動く。夜が動けば、次の決めごとを選べる。いまは、選ばない。ここで、息を、小さく。小さく。
そして、過ぎ去らせる。過ぎ去るまで、声を持たないまま。声なき祈りを胸の奥に押し込み、ただ、耐える。




