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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第三章 大クスノキ襲撃

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でもいのできること

風の匂いが変わった。


松脂の甘さに、鉄の味が混じる。小鳥の鳴き交わしが途切れ、屋根の上の猫が耳だけ動かして固まった。


「来るな」


小さく呟いて、でもいは屋根と屋根の隙へ身を滑らせた。西側の森から空気が押されてくる。押し出された埃が路地の角で渦を巻く。遅れて、地面の下の石が震えた。地鳴り――二百に迫る足の群れ。合図より早く、匂いが告げていた。


まずは見て、数える。


通りの陰、雨樋、看板の裏。視点を移すたび、黒い粒が増えた。五、十、二十。角を変えるごとに、数は勝手に繰り上がる。森を裂いた叫びが街に届く前に、でもいの中では答えが出ていた。


「最低百五十。最悪二百」


鐘楼の影で立ち止まり、時打ちの角度を確かめる。日が落ちきる前に、こちらの手を先に落とす。


遠目に、屋根の向こうを白い影が滑った。翼をたたみ、また開く。伝書梟だ。


「飛ばしたか」


よし、と息を絞る。


梟が煌都へ届くまで一時間。そこから動員、編成、出立――早くて三時間。街道を馬で飛ばしても、援軍が着くのは六時間がいいところ。夜が深まって、最初の火の手が二度目の火に成長する頃合いだ。


六時間、もたせる。


殴ってはならない。殴れば、こちらの数が足りない。ならば、街に持たせる。街そのものを盾にも武器にもする。


雨樋を伝い、でもいは最初の角へ降りた。


石畳の目地を指で探る。砂利は乾き、溝は浅い。片側から力をかければ、重みは簡単に片寄る。人のいない裏通り、荷馬車の通う坂。角度、車輪、重み。


「ごめんよ」


囁いて、下から支える枕木を一本抜いた。


路地の石畳がわずかに沈む。沈んだ分だけ、上りは難しく、下りは速くなる。先頭が来た時、重みはそこに流れ、流れた重みは後ろを押す。押された後ろは押し返せない。転べ。重なれ。止まれ。


二つ目の仕掛けは、梁だ。


商人宿の裏、細い通りを渡す古い渡り板。片側の継ぎ手に楔を噛ませ、反対側の綱を半分だけ削る。一人二人は渡れる。十人目あたりで、落ちる。落ちた先には水桶と濡れ藁。火が入っても燃え広がらないよう、先に水を打っておく。燃やしたいなら、別の場所へ行け。


走る足音が近づいた。


でもいは屋根の縁へ戻り、影の中で目を細める。先陣は若い。勢いだけで曲がり角を取る。角に身体を預ける癖。足が三歩早い。そこだ。


「そこは滑る」


聞こえなくていい。


角の上から、石の粉を一掬い。目に入る量ではない。靴裏と土の間に薄皮ほど。一番目が滑れば、二番目はぶつかる。三番目は避け、四番目は後ろに怒鳴る。怒鳴った音が、合図よりも隊を崩す。崩れた列は列ではない。


火の匂い。


右手の横町で火打ち石。笑い声。女の名。でもいはそちらへ回った。人影が三つ、扉へ肩を入れている。中から悲鳴。手を伸ばさない。伸ばせば、斬り合いになる。代わりに、上を見る。梁、樋、窓。


樋の先の留め具を、杭で弾いた。


溜まっていた雨水が一気に落ち、三人の肩を打つ。冷たい水の重みでバランスが崩れ、扉に体当たりしていた勢いが逆に返る。内側から閂が下りる音。よし。


「誰だ!」


と一人が叫んだ。


返事はしない。声は人を呼ぶ。人が来れば、戦いになる。でもいは別の屋根へ移り、今度は裏手の路地で俯いた老人の肩を叩いた。


「裏へ。今」


老人は顔を上げ、目だけで驚き、頷いた。手を引かない。引けば、ばれる。代わりに、背中を一度押す。押された背中は、自分で歩く。歩いた足は、覚える。覚えた足は、次の人を引く。


北の門の方で、鐘がようやく鳴り始めた。


遅い。だが、遅さも使える。鐘は敵も聞く。敵は騒ぐ。騒げば、動きが雑になる。雑になれば、こちらの仕掛けはよく効く。


三つ目の仕掛け。


石橋の根本、古い煉瓦。表は固いが、裏は水でやせている。でもいは指の関節で軽く叩き、音の薄いところを探した。二箇所。そこに細い鉄楔を打ち込む。響きが変わり、橋の腹が低く鳴く。落とさない。落とせば、逃げ道が消える。割るだけ。ひびが入った石は、重みを嫌い、足取りを鈍らせる。鈍った足は焦り、焦った足は別の道へ散る。散れば、数は薄くなる。


「右は塞いだ。左へ散れ」


路地の角で、でもいは囁いた。誰にともなく。囁きは誰にも届かなくていい。届かなくても、人は散る。散りたくなるように、道だけ作る。


途中、抱えた子を庇って動けなくなった女がいた。


でもいは背を向け、屋根の上から瓦を一枚落とした。瓦は泥溝に当たり、派手な音を立てる。音に釣られて、男たちがそちらを見た。女はその隙に石壁の隙間へ身を滑らせる。子の足が片方、靴を脱いだ。拾わない。拾えば遅い。あとで拾える人が拾う。今は命だけ動かす。


西の大通りで、先陣がとうとう火を手に入れた。


笑い声が風の向きを変える。火は速く、声は速い。声は火を喜ばせる。でもいは通りへ降りず、屋根伝いに先回りした。火は空気を食う。空気の道を塞げば、火は窒息する。戸袋を閉じる。雨戸を打つ。塞げない所は、濡れ藁を叩き込む。火が回りそうな梁の先に、濡れ縄を巻いて濡れを伝わせる。燃えるのを諦めた火は、別の燃えるものを探す。探させる。そこには誰もいない。


「どこだ! 投げたのは!」


怒鳴り声。足音。でもいは別の屋根へ渡った。瓦の下で指が滑り、爪が割れた。血が滲む。痛みは小さい。小さくて、今は要らない。


ひとつ、叫びが間に合わなかった。


袋を抱えた男が、角を曲がった先で刃に引っかかった。重い音。袋が開き、乾いた穀粒が石の上に散った。足が滑り、二人が転んだ。転び方が悪く、頭が石に当たる。止まる。でもいは目を閉じ、短く息を吐いた。


「……ごめん」


届かない謝罪は、風に紛れて消えた。救えない数は、救える数よりも常に多い。それでも、救える数を減らすわけにはいかない。


四つ目の仕掛けは、音だ。


鐘、叫び、笑いに紛れて、別の音を作る。でもいは細い笛を取り出し、路地と路地の隙に向けて吹いた。低く、長く、曲がり角で反射して、遠くで鳴る音。獣が嫌う高さ。人は気づかない。でも、犬が吠える。犬が吠えれば、家々で戸が動く。戸が動けば、家は目を開ける。目を開けた家は、隠れる場所になる。目のない家は、人を飲み込む。


「そこ、開けるな。閉めて。中で水を」


低く、ただの家人のように言い、通り過ぎる。顔を見られない。見られれば、名がつく。名がつけば、足が鈍る。


南の職人町で、石畳の仕掛けが効いた。


転び、重なり、怒鳴り、押し合う音。でもいは上から砂を落とし、さらに数人を座らせる。座った者は、立ち上がれない。後ろから押されるからだ。立ち上がれない者は、前に行かない。行かない列は、列の形を壊す。


「退けよ!」


「押すな!」


声がぶつかり続けるうち、夜が深くなる。援軍まで、あと五つの鐘。でもいは、まだ走れた。息は浅く、足は重い。だが、手はまだ動く。


五つ目は、落し戸。


古い穀倉の床板の下、空洞になった貯蔵穴。板の端に縄を通し、目立たぬ釘に掛ける。通り抜けようとした二人が板を踏み、板が撓む。釘を抜く。二人は落ち、三人目が跨げず、四人目が怒る。怒りは横へ散る。散った足は、こちらの張った濡れ縄でさらに止まる。止まった時間は、家族が裏へ逃げる時間に変わる。


救えた数を数えない。


数えれば、救えなかった数も数えることになる。数の重みは、足と同じ方向へ自分を引っ張る。今は、前だけでいい。


梟がもう一羽、空を切った。


軌跡は北ではなく東へ。近い領の詰所だろう。良い。分散させろ。援軍は六時間。だが六時間ずっと同じ濃さで押してくるわけではない。最初の一時間で火を抑え、二つ目の鐘で群れを割り、三つ目で幹を折る。四つ目以降は、逃げと追いを混ぜる。混ぜれば、勢いは鈍る。鈍った勢いは、来る者に潰させる。


「今は、ここまでだ」


でもいは屋根の上で膝に手を当て、一度だけ長く息を吐いた。手のひらの血は乾き、爪は割れたままだ。足首がじんわり痛む。痛みは、まだ役に立つ。生きている印だ。動けという合図だ。


遠くで、最初の大きな悲鳴が消えた。


代わりに、別の方向から短い歓声が上がる。救えた。一つだけ。一つを誇らない。一つで満足しない。ただ、一つを捨てない。


「できることだけ、やる」


でもいはそう言って、また走った。名前のない影のままで。誰の礼も受けず、誰の恨みも買わず、ただ街の骨と皮を使って、牙を折るために。


夜は長い。援軍まで、あと四つ半。鐘が鳴るたび、街のどこかで灯りが一つ消え、一つ点く。消えた灯の前では、人がうずくまり、点いた灯の内では、人が息を継ぐ。その差を、少しでも広げる。それが今夜、でもいにできるすべてだった。

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