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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第二章 旗印の乙女、再び

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旗印の出立

◯宴の会場・転じる刻


燭台の炎が一斉に揺れた。さっきまで甘い音楽と杯の触れ合いで満たされていた大広間は、いつしか人々の息づかいだけが濃く響く場所へと変わっていた。香の匂いはまだ漂うのに、どこか鉄の気配が混じる。白と金のドレスの裾が、微かな緊張で震えた。


ルミナは胸に手を当て、まっすぐ前を見据えた。

「……行かなきゃ」


その一言は、鈴の音のように小さく、それでいて広間の中心に落ちる鉛のように重かった。周囲の視線がわずかに集まり、紅のドレスのマルティナが息を飲む。紅は燃えるように美しいが、今は小刻みに揺れて、心の不安をそのまま映している。


高座の男が、乾いた笑いを弾かせた。

「どうやっていくんだ? お飾りの乙女サマが、あの遠路を?」

声は甲高く、会場の隅々にまで届く。鼻にかかった嘲りが、杯の残り香を台無しにした。


軽やかに扇を扱う女は、いつもの整った微笑みを保てず、手首の角度を何度も無意味に正した。扇の骨が震え、目許の化粧だけが取り繕う冷静を演じている。

「ちょ、ちょっと、落ち着きませんこと? 皆さま、今は——」


「旗印の乙女殿」

重い扉を指す方向から、低くよく通る声が割って入った。

「僭越ながら、私が送らせてもらおう」


ルミナは思わず振り返る。

「えっ……いいんですか」

問いと驚きが同時にこぼれ、白金の胸元で鈴の飾りが小さく鳴る。彼女の髪がふわりと肩へ落ち、迷いの余韻をさらさらと零した。


大きな頷きが一つ。

その頷きは、疑いも躊躇も呑み込んだ意思の形そのものだった。

「——行く」


視線を切り替えるや、乾いた号令が矢継ぎ早に放たれる。

「リリエンガルデ、私が率いて先行する。中継ポイントへの連絡を怠るな。街道を開け、関所は通行優先、障害は即時報告」

「はっ!」と応ずる声が、広間奥から幾つも重なり、床石の下で馬蹄が踏み鳴らされる幻聴のような振動が走った。


「ナナシ、残りの部隊をまとめ、本隊として後続せよ。荷駄の再編は最短で済ませろ。遅れる者は切り離し、追いつかせる」

「了解。人員配分は私に一任を」

言葉は短く、要点だけが素早く結ばれていく。ここに軍人は三人しかいない——だが、足りる。威令は、鈍った宴の空気を容易く斬り割いた。


その間にも男は鼻を鳴らし、椅子を軋ませる。頬は赤く膨張し、モノクルの向こうの目が血走る。

「勝手に仕切るな! ここはわしの——わしの場だぞ!」

叫びは空転し、誰も振り向かない。指揮の言葉が、場の重力を別の場所に移してしまったからだ。


扇の女は席の脇に身を寄せ、足元で裾を踏み、慌てて直す。視線が泳ぎ、誰かの肩に助けを求めるように触れかけて、引っ込める。

「ど、どうなさいますの、叔父様——」

声は空気を掻くだけで、何も掴めない。


「……おもしろうなってきおった」

擦れた外套を肩で払う学者風の男が、杯を傾けて笑う。「物語はこうでなくっちゃ」

無責任な一言が、火花のように宙で弾けた。誰かが舌打ちを飲み込む。


「クラリッサ」

呼ばれた影が、音もなく前に出る。

「マルティナ殿を連れて出ろ。——保護せよ。やつの手の届かぬ場所まで」

「承知」

剣は抜かれない。抜かれないまま、空気の刃だけが入れ替わる。クラリッサは紅のドレスへ自分の外套をそっと掛けると、肩口で布を整え、腰の位置に手を添えた。

「こちらへ。足元にお気をつけて」


「お願い」

マルティナがルミナの手をつかむ。細い指が、紅の上で白くなるほど力を込めた。瞳の縁が濡れて光り、唇が震える。

「——子どもたちを、守って」

紅の裾がふるえ、肩がひとつ上下する。彼女の紅は、今は祈りの色だ。


ルミナは、結ばれた指をほどく代わりに、両手で包むように握り返した。

「必ず」

ひとこと。髪が耳にかかり、彼女はそれを後ろへ払う。ささやかな仕草なのに、覚悟の音がする。白と金がほんの少しだけ、強く見えた。


クラリッサがマルティナを背に庇い、視線だけで広間の危険な流れを断つ。男の伸ばしかけた手は、無言の冷気に触れて引き攣れた。彼女はあえて同じ出口へ向かった。——ルミナたちと同じ導線。分断させないために、そして誰の目にも保護の動線を刻みつけるために。


「——道を開けろ」

短い言葉が、群衆の背筋に電を走らせる。裾が引かれ、椅子が引きずられ、人の波が自然と二つに割れた。かつては祝盃の川だったものが、いまや撤収の街道になる。


ルミナは一歩を踏み出す。裾の白が床石を撫で、金の刺繍が燭火を拾って微かに瞬く。二歩目で呼吸が定まり、三歩目で彼女の瞳の色が深くなる。——行く先を見て、もう振り返らない者の目。


「伝令を出せ。中継一から四まで同時。街道の見張りに告げろ、隊列が通る。妨げあらば即座に破砕。一般の避難は右側通行に統一、左を我々が使う」

「はっ」

壁際の青年兵たちが走る。足音が床石にまとわりつき、火の粉のように散った。


「補給は?」とナナシ。

「最低限でいい、先行は速度優先。水袋と圧縮糧食のみ、残りはお前が拾え。後発は二列縦隊、間隔狭め。遅滞を許すな」

応酬は的確で、短い。言葉は命令であり、次の景色の輪郭でもある。


紅の影が、白金の背に短く呼びかけた。

「……ルミナ」

振り向かない。その代わり、ルミナは指先で髪を軽く押さえ、乱れを整えてみせた。

それが返事。

彼女の髪は、いまや足取りに合わせてゆるやかに揺れる。あの震えは、もうない。


「行け」

低い声が背を押す。

扉の前で、男が最後の足掻きを見せる。

「待て! わしの許可なく——」

言葉は、冷たい視線一つで折られた。誰も剣に触れていないのに、刃は既に抜かれているのだと、彼自身が最も早く理解した。


扇の女は口を開く。何か取り繕う名辞を探すように、目が忙しく動く。だが言葉は出てこない。練り上げられた礼節の文句は、戦の足音の前では紙より薄い。

「……あの、ええと……」


「物語は、こうでなくっちゃ」

学者はまた笑った。いたずらっぽく目を細め、杖の先で床をつつく。

「虚像は舞台に置いていけ。これから先は、本物の時間じゃ」


扉口でクラリッサが振り返りもせず言う。

「——通る」

その一言だけで、右にいた者は右へ、左の列は左へ、音もなく割れた。

庇われる紅が、同じ出口へ。白金と紅が一筋の光になって伸びる。誰も、もう割って入れない。


ルミナは扉の前で一瞬だけ立ち止まり、深く息を吸った。白金の胸元が静かに上下する。目を閉じない。瞳は開いたまま、夜の冷気を見据える。

その横顔に、燭火が最後のきらめきを置いていく。


扉が開く。

冷たい夜気が、香と熱をまとめてさらっていく。広間の奥に取り残された音楽の残骸が、ひゅうと風に吸い込まれた。


白と金が一歩、紅が一歩、そして黒い外套が風を裂く。

号鐘が遠くで鳴った気がした——いや、鳴ったのだ。

誰かが駆け込み、何かを叫ぼうとして、息を呑む。


廊下の先、闇の底で、見たことのない火光が一瞬だけ閃いた。

次の瞬間、石畳の下から鈍い衝撃が這い上がり——


扉の蝶番が、低く悲鳴を上げた。



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