忘れられた橋
ルミナは髪を押さえながら、川下へと視線を向けた。
濁流は轟々と音を立て、陽に照らされて銀色の鱗のように波立っている。
その奥に、まだ見ぬ古い橋がある。
「……行こう」
声は小さかったが、確かな決意を帯びていた。
マルティナは静かに頷き、二人は並んで歩き出す。
背後では渡し場の喧噪がまだ続いていたが、足取りは騒ぎから離れるにつれて軽くなっていった。
やがて人の声は風に溶け、聞こえるのは川の轟きと草を揺らす音だけになる。
二人は忘れられた橋を目指し、川下の小道を進んだ。
川に沿って歩くうち、やがて石造りの大きな橋が姿を現した。
黒ずんだ石を幾重にも積み上げたその橋は、川の轟音を押し返すように堂々と立っている。
欄干の脇には槍を携えた兵士たちが並び、鋭い視線で行き交う人々を睨んでいた。
橋を渡るのは軍旗を掲げた兵士の列や荷駄を積んだ馬ばかり。
赤黒い鎧と整然とした足並みが、ここが“軍専用の橋”であることを示している。
町人たちは羨望と不安の入り混じった眼差しで橋を見上げるが、一歩でも近づけば槍の穂先が進路を阻んだ。
橋のたもとで頭を下げる農夫の背中には、大きな編みかご。
中には朝採りのキャベツやレタス、大根、香りの強いニンニクや生姜がぎっしりと詰め込まれていた。
農夫は必死に訴える。
「これは煌都の“水晶亭”に届ける注文なんです! 今夜の膳に並べなきゃ、信用が地に落ちちまう!」
だが兵士は冷ややかに槍を交差させた。
「ここは軍専用だ。庶民の用などで通せん」
農夫はなおも踏み出そうとするが、槍の穂先が地面に突き刺さり動きを封じる。
「……頼む! 今回だけおねがいだ!」
「命令だ。下がれ」
農夫の肩が大きく落ち、かごの中の葉野菜がかさりと鳴った。
その時、兵士がぼそりと呟く。
「……渡りたきゃ川下へ行け。“忘れられた橋”がまだ残ってる」
ルミナは小さく息をのみ、まっすぐ兵士を見返した。
「……なら、そちらへ行きます」
農夫は目を瞬かせ、ルミナとマルティナを見た。
「……あんたらも渡るのか?」
ルミナは小さく頷く。
「ええ。もしよければ、一緒に行きませんか?」
「助かる……一人じゃ心細かったんだ」
三人は肩を並べ、忘れられた橋を目指して歩き出した。
川風がかごを揺らし、野菜の香りが強く漂った。
川下へ進むにつれ、兵士の怒声も軍旗の影も遠ざかり、代わりに鬱蒼とした森と湿った空気が広がった。
やがて道は獣道のように狭まり、人の気配は消えた。
木々の切れ間から、苔むした石造りの巨大な橋が姿を現す。
黒ずんだ石はひび割れ、欄干の一部は崩れ川に沈んでいた。
だが柱の曲線や石の組み合わせは精巧で、かつては軍の橋を凌ぐ技術で築かれたことが一目で分かる。
「……すごい」
ルミナは息を呑む。
「こんなに立派なのに、どうして“忘れられた橋”なんて?」
農夫は答えた。
「昔、チェスタ人が造ったもんだ。だから嫌う人も多い。領主も“軍の橋”ができてから閉ざしてしまった」
マルティナは眉を寄せ、川を見下ろす。
「でも、渡れるのかしら。水量が増しているわ……」
濁流は轟々と渦を巻き、橋は生き物の背骨のように不気味に横たわっていた。
ルミナは胸の前で手を組む。
「……でも、進むしかない」
三人の視線が重なった。
苔に覆われながらも、橋の基盤はしっかりしていた。
石の継ぎ目も巧みに噛み合い、修繕すれば今も使えることが素人目にも分かる。
「……もったいない」
ルミナはつぶやく。
「直せばまだ使えるのに」
農夫は苦い笑みを浮かべる。
「そうだな。だが“チェスタ人の橋”ってだけで、誰も触ろうとしない」
その時、川風が吹き抜け、農夫がよろめいた。
かごが傾き、野菜が次々と川へ転がり落ちていく。
濁流に呑まれた緑の影は泡に消えた。
「……あぁっ!」
農夫は膝をつき、腕を伸ばすも届かない。
ルミナは駆け寄り、かごを押さえた。
「大丈夫!?」
マルティナも必死に支える。
「気をつけて! 足を取られたら、次はあなたごと流されるわ!」
農夫は震える声で唇を噛む。
「……水晶亭の注文が……」
悔しげな言葉が橋に重苦しく響いた。
その時、ルミナの指先が苔むした石に触れる。
ざらりとした感触の下に、硬い凹凸――文字が刻まれていた。
「……これ……」
苔をぬぐうと、見慣れぬ線と曲線が浮かび上がる。
マルティナは目を細めた。
「見たことのない文字……連邦王国のものじゃないわ」
農夫は低く言った。
「それが……チェスタ人の印さ。誰も読めやしない。けど、これがある限り誰もこの橋を触らないんだ」
ルミナは無意識に指でなぞった。
石に刻まれた冷たさが掌に伝わり、まるで過去からの声が導いているようだった。
三人は息を合わせ、ついに橋を渡りきった。
土の感触が足裏に伝わり、誰もが胸を撫で下ろす。
農夫は腰を下ろし、半分に減った野菜を見て肩を落とした。
それでも歩みを進めると、森の影は薄れ、広大な畑が広がった。
丘を越えた先に見えたのは、高くそびえる石造りの城壁。
旗がはためき、陽光を受けて鮮やかに輝いている。
その名は――煌都グランディオス。
連邦王国十の領を束ねる中心にして、富と権力が渦巻く都。
遠くに見えるその姿は、まるで巨大な獣が口を開け、訪れる者を待ち構えているかのようだった




