川風に揺れる決意
川辺の渡し場を囲むように、小さな町が広がっていた。
板葺きの宿屋、煤けた茶屋、そして軒先をはみ出すように並ぶ屋台。
焼いた魚の匂いと香辛料の香りが混ざり合い、旅人の胃袋を刺激する。
荷を背負った巡礼者たちが祈りを捧げる一方で、商人は荷車の傍らで大声を張り上げていた。
「こんな所で足止めだと? 野菜が腐っちまう!」
「香料だって湿気を吸って傷むんだ、どうしてくれる!」
酒場の前では旅芸人が笛を吹き、子どもたちが籠に入れた小魚を売り歩いている。
「一匹銀貨一枚だよ! 焼けばうまいよ!」
その声が喧噪にかき消されそうになりながらも、町に明るさを添えていた。
船頭の家族が住む長屋の軒先では、女たちが桶で洗濯をしながら愚痴をこぼす。
「まったく、また増水だよ。あの川はほんと気まぐれなんだから」
「でも渡し賃がなくなったら、あたしたちの暮らしも立たないんだよね」
マルティナは人いきれに眉をひそめつつ、周囲を眺めた。
「ここまで町ができているのは、やはり川が要害だからね。普通なら橋があってもいいはずなのに」
ルミナは首をかしげる。
「じゃあ、どうして橋がないの?」
すると行商人が荷台の上から笑い声をあげた。
「嬢ちゃん、いい所に気づいたな。理由は二つある。ひとつは軍の考えだ。川を天然の防壁にして、敵に渡らせないためにな」
彼は指で川向こうを指した。
「もうひとつは……あの流れよ。普通の技術じゃ橋はすぐ流される。だから“渡し場”に頼るしかない」
そう言って、にやりと笑みを深める。
「けれど昔、この川に橋をかけた連中がいたらしい。チェスタ人だ。あの連中の技術は、いまじゃ誰も真似できん」
ルミナは思わず目を見開いた。
「……じゃあ、本当に橋があったの?」
「そうさ。だが今は“忘れられた橋”なんて呼ばれて、誰も渡りやしない。古い石が残ってるだけだ」
人の声と荷馬車の軋む音の中、その言葉だけが不思議と重く胸に残った。
荷馬車の幌を押し分けて顔を出すと、そこは人と声と汗の匂いでむせ返るような場所だった。
増水した川は白い泡を立て、舟を激しく揺さぶっている。船頭たちは必死に綱を抑えながら怒鳴り合っていた。
「今日は無理だ! 舟を出せば沈むぞ!」
「そんなこと言ったって、もう待てねえんだ!」
「順番だ、順番を守れ!」
川辺には順番待ちの旅人や巡礼者がぎっしりと並び、苛立った声が絶えない。荷車を抱えた商人は両手を振り上げていた。
「荷が傷むんだ! 早く渡させろ!」
マルティナは荷馬車から降り、眉をひそめた。
「……これはひどいわね」
ルミナも幌を出て、目を丸くする。
「でも……船はあるんだよね? 渡れるんじゃないの?」
その声を聞きつけた船頭が、苛立ち混じりに振り返った。
「嬢ちゃん、見りゃわかるだろ! 舟は人ひとりや荷くらいならまだしも……馬車ごとなんて沈んじまう!」
ルミナは思わず口を押さえた。
「……そんなに危ないの?」
行商人も荷馬車から降り、肩をすくめた。
「そういうことだ。俺も今日はここじゃ動けん。だが嬢ちゃんたちは急ぎなんだろう?」
マルティナは険しい表情で頷いた。
「このままじゃ、煌都の招待に間に合わないわ」
ルミナの胸に焦りが広がる。川向こうには煌都の尖塔が霞んで見えているのに、ここで足止めを食うのか。
風に煽られて髪が乱れ、指で抑えるその仕草にも、焦りと落ち着かない心の揺れがにじみ出ていた。
「……じゃあ、どうすれば」
行商人はしばし口をつぐみ、やがて低く言った。
「一つだけ道がある。“忘れられた橋”さ」
ルミナはごくりと喉を鳴らし、川風に揺れる髪を押さえて勇気を振り絞った。
「……行こう。絶対に間に合わなきゃ」
だが行商人は荷馬車に戻り、肩をすくめながら言った。
「悪いが、俺は荷車ごとじゃ渡れん。ここで舟が落ち着くのを待つさ」
ルミナは唇を噛んだ。乱れた髪の毛先が頬に貼りつき、そのままの彼女の迷いを映し出す。
「……そう、ですよね。ありがとうございました」
マルティナも深く頭を下げる。
「ここまで一緒に乗せていただいて助かりました。どうかご無事で」
行商人は片手をひらひら振り、ぶっきらぼうに言った。
「お前さんらこそ、気をつけろよ。“忘れられた橋”は誰も通っちゃいない。石が落ちてるところもあるらしいからな」
その言葉を背に受けながら、二人は荷馬車から荷を下ろし、背負い直した。
川風が幌を揺らし、布のはためく音が彼女たちを送り出すかのように響いた。




