祈りの意味
荷馬車が丘の背を越えると、道の勾配はゆるみ、森の影がゆっくりと流れ込んできた。幌の縁から差し込む木漏れ日は、砂埃と一緒に宙でほどけ、ルミナの髪に白い粉雪のように乗った。風がふっと向きを変えるたび、黒髪が肩に触れ、かすかな麦の匂いと油の匂いが混ざる。遠くで鳥が短く鳴き、車輪は土を踏みしめながら、一定のリズムで軋んだ。
ルミナは髪を指で押さえながら、遠ざかる町並みをふと振り返った。
巡礼の人々が大クスノキに集まっていることは、ずっと知っていた。広場で供物を売る商人の話も聞いたし、祈りに向かう家族の姿も何度も目にしてきた。孤児院の子どもたちが覗きに行って帰ってきては「歌がすごかった」とか「供物がいっぱいあった」と話すのを耳にしたこともある。
けれど、それはどこか遠いものだった。日常の景色の一部にすぎず、自分にとって特別な意味を持つことはなかった。旗印の乙女と大クスノキが並んで語られても、それは昔話の中にある「伝説」でしかない――そう思っていた。
だからこそ、いま目の前で巡礼の列とすれ違うことに、不意を打たれたような気持ちになった。
道の向こうから白い列が現れた。幌の影を抜け、目を細める。白布をまとい、胸に大クスノキの印を刺繍した男女が、静かな歩調でこちらへ近づいてくる。年寄りの肩には小さな祈りの袋、若い者の背には素朴な供物の籠。先頭の老人は木の杖をとん、と土に落とし、その合図に合わせるように、後ろの列が低い息で歌を重ねた。囁くような旋律は風に分解され、葉のざわめきと溶け合う。
旗が一本、列の中央で立っていた。白い布に墨で描かれた大クスノキの紋。枝が広がる線は太く、幹の根元は黒く塗りつぶされている。布の端は擦れてほつれ、陽を受けるたび、細い光が糸の間を走った。
「……あれが、巡礼の人たち」
ルミナは荷台の縁に手をかけたまま、思わずつぶやいた。髪が頬にかかり、くすぐったさに指で耳へと払う。黒い束がさらりと流れて、幌の明るい口へ滑っていった。
マルティナが頷く。
「年に何度も、大クスノキを目指して歩く人がいるの。病が治りますように、とか、新しい命が無事に生まれますように、とか。大きな願いも、小さな願いも、みんな同じように袋に入れて、あの道を歩くんだわ」
荷車の前で手綱をさばく行商人は、少し速度を落として道の端へ寄せた。巡礼の列と荷馬車は、音もなく互いに道を譲り合う。誰かが小さく頭を下げ、別の誰かが肩の籠を持ち直す。幌の陰でルミナと目が合った若い女性は、にこりともせず、けれど確かな礼節を持って視線を返し、また大クスノキの方角へまっすぐ目を戻した。
祈りの歌が、すぐ間近を通り過ぎる。意味の分からない古い言葉が、一定の拍を保ちながら連なって、やがて言葉ではなく音だけになる。土の匂い、布の擦れる音、籠の中で乾いた木の実が触れ合う軽い響き。すべてが重なって、列は一つの生き物みたいにうごめいていた。
彼らの目は、遠くの一点だけを見ている。こちらを見ないのではなく、見る必要がないのだとすぐに分かった。祈りは、誰に向けられているのかが最初から決まっている。道端の旅人に向けるものではない。幌の陰にいるルミナでも、荷台の上の樽でもない。もっとずっと向こう、大クスノキの立つ場所。その根元に溜まる影と光の境目に、彼らの祈りは置かれ続けている。
「こんなにも……強く、大クスノキに心を寄せているんだ」
胸に迫るその実感に、ルミナは無意識に胸の前で両手を組んだ。呼吸を整えるための癖。下唇が少しだけ、内側に噛まれている。ほんのわずかな痛みが、思考を縁取り、意識の枠を固定する。顔を上げると、幌の切れ目から見える浅い空が、葉の縁で四角に切り取られていた。
巡礼の列が通り過ぎ、歌が遠くなる。幌の下に静けさが戻り、車輪のきしみがまた耳に触れる高さへ浮上した。
「ねえ、ルミナ」
マルティナの声が、柔らかく落ちる。ルミナは手の力を弱め、指をほどいた。黒髪が揺れて、肩の上で小さく波を作る。
「何?」
「……あなただって、毎日祈ってたでしょ?」
ルミナは瞬きをして、目を伏せた。井戸の前、朝の冷たい空気。汲む前に、いつも一呼吸して、胸の前でそっと手を合わせる自分。――今日も無事でありますように。子どもたちが、怪我をしませんように。パンが焦げませんように。ささやかな願いがいくつも重なって、言葉にならないまま息に混ざっていた光景が、今さらのように戻ってくる。
マルティナは続ける。
「それはね、特別なことじゃないの。私たちが大クスノキに祈るのも同じ。今日一日健やかでありますように。子どもたちが、あの木のようにすくすく育ちますように。誰にだってある、当たり前の祈りなのよ」
「……うん」
それしか言えなかった。分かっている。祈りは日々をつなぐための糸で、ほかの何ものにも変えがたい手触りを持っている。けれど――。
旗印の乙女。大クスノキ。
その二つが結ばれるとき、祈りは日常の外へ投げ出される。祈りは広場の片隅や井戸の脇に置かれる小石のように、誰にも気づかれないから良いのだ。誰かがそれを拾い上げ、磨いて旗竿の先に結び付けた瞬間、それは別のものになる。視線を集めるものに、なる。祈りにとって、それは本当に「良いこと」なのだろうか。
行商人が、前を見たまま短く息を吐いた。
「巡礼の列は、年ごとに増えたり減ったりするもんだが……今年は多いほうだな。大クスノキの話題は、まだまだ人の心を引っ張る」
声は乾いていて、感想というより在庫の数を確認するみたいな調子だった。ルミナはその事務的な響きに、ほっとする自分を見つける。世界を商品として扱う目線は、ときに、身を守る壁になる。
「商売にも、効くの?」とマルティナが半ば冗談でたずねると、行商人は肩を竦めた。
「そりゃね。巡礼は腹も減るし、喉も渇く。祈りは腹を満たしてはくれない。供物も、誰かがどこかで作ってる。祈る人と、作る人。その間にいる俺みたいなのが、いる。世の中ってのは、だいたいそういう仕掛けだ」
味気ない言い方なのに、不思議と冷たくはない。幌の下で、ルミナの髪が桂皮みたいに香る気がして、彼女は自分の思い込みに苦笑した。
「ねえ」
ルミナは言った。自分でも驚くくらい、声が細い。
「旗印の乙女って、どうして大クスノキと一緒にされるんだろう」
問いは誰に向けたでもなく、幌の骨の影と影の間にゆっくり浮かんでいった。マルティナはしばらく黙っていたが、やがて短く答えた。
「……人は、意味をつなぎたいのよ。つなぎ合わせると、世界がすこしだけ分かる気がするから」
行商人は鼻を鳴らした。
「分からないことを分かった気になれるのが、物語ってやつだ」
反論したかったわけではない。けれどその言葉は、ルミナの胸のどこかを鋭く掠め、痛みと一緒に「自分がその物語の一部になってしまう」未来を浮かび上がらせた。誰かが望む“旗印の乙女”。誰かが信じる“大クスノキの乙女”。その輪郭に、いつの間にか自分の影がすっぽり収まってしまう――そんな未来。
髪が、風に揺れた。
胸の前で指を重ね、ほんのわずか力をこめる。下唇をかすかに噛む。空を見る。幌の四角い切れ目に、葉の端がひと筋、光っていた。呼吸が一拍、深く落ちる。次の拍で、胸の奥のざわめきが少しだけ退いていく。
「……やっぱり、違う」
言葉は自分の奥底から、ほとんど音にならずに出てきた。誰にも聞こえない。聞かせるつもりもない。ただ、はっきりとここに置いておくべきだと分かっている言葉。
「私は、断る」
幌の外で、風が麦の穂を渡っていった。車輪が小さな石を踏み、乾いた音が跳ねる。巡礼の列の旗は、もう森の向こうへ消えていた。
マルティナが気づいたように、こちらを見た。
「ルミナ?」
ルミナは小さく首を振って笑う。
「大丈夫。……ちょっと、息を整えただけ」
本当のことも、嘘も、同じ形をして口から出る。マルティナはそれ以上たずねず、ただ彼女の肩に手を置いた。手のひらの温度が、じんわりと広がる。幼い子にするみたいに、安心させるためだけの触れ方だった。
行商人は前を向いたまま、わざとらしく大げさに咳払いをした。
「――さて、丘を下りたら茶屋がある。団子が評判だ。巡礼の連中は甘いものが好きでね、よく売れる。あんたたちも、少し休むかい?」
マルティナが笑った。
「ええ、少しだけ。……ね、ルミナ」
「うん」
返事は短くても、芯に届く。髪が肩からほどけ、背中へ滑ってゆく。幌の口から入った風が、汗の細い筋を乾かしていく。指先に残るかすかな香りは、香水でも神話でもない。ただ今日ここを通った風の匂いだった。
荷馬車は、また同じ速度で進み始めた。日差しが強くなり、葉の影が濃くなる。遠く、川の気配がする。煌都へ向かう道は一本で、戻る道はいくつもある。けれど、今はただ、前へ。
祈りは手の中に留めておく。旗にはしない。
それが、今日の決意。胸の奥に、静かに針で留めた印。誰にも見えないが、確かにそこにある印。風がまた、向きを変える。黒い髪が、陽に細くきらめいた。
やがて森を抜けると、目の前には大きな川が迫っていた。




