日常に戻って
旗印の乙女――。
町を救ったその名は一時、大クスノキの町のあちこちで囁かれていた。
だが時の流れは速く、人々の生活はすぐに日常へと戻っていった。
ルミナもまた同じだった。
孤児院で子どもたちと食卓を囲み、洗濯や掃除に追われる日々。
町角で声をかけられることはあっても、それは英雄への讃えではなく、親しみを込めた「おかえり」「元気そうね」という言葉だった。
――その安心の裏で。
着慣れた服は、あの騒動で裂け、ほつれ、もう限界を迎えていた。
「ルミナ、袖口がもうボロボロよ」
マルティナが呆れたように笑いながら、彼女の腕を取った。
「この前のことで破けたりほどけたりしてるでしょ。背も伸びたし、ちょうどいい機会だわ」
「え、でも……」
「いいから。普段着を新調するの。あなたの生活のためにね」
そう言って孤児院に仕立屋を呼んだ。
窓からのぞく子どもたちの笑い声に囲まれながら、ルミナはくすぐったそうに寸法を測られる。
数日後、包みが届けられた。
中から現れたのは、灰青のチュニックに生成りのエプロン、紺のスカートと厚手のレギンス。
動きやすく、町歩きにも孤児院の手伝いにもぴったりの一着だった。
袖を通すと、生地がすっと体に馴染み、思わず笑みがこぼれる。
「似合うわね」
マルティナの言葉に、ルミナは頬を赤らめた。
甘栗色の髪をいつものようにまとめ、小さな鈴のついたリボンで結びなおす。
ちりん、と澄んだ音が鳴り、子どもたちが小さく拍手をした。
それは英雄の衣装ではなく、日常を生きるための服。
その温かさが、彼女を少しだけ軽くしてくれた。
――その夕暮れ。
裏庭に出たルミナは、大クスノキの影が長く伸びるのを見つめていた。
普段着に袖を通した自分は、確かに「旗印」ではなく、ただのひとりの少女に戻っているはずだった。
それでも胸の奥には、言葉にならないざわめきが残っていた。
「……みんなはもう普通に戻ったのに。私だけが、まだ“旗印”のまま止まってる気がする」
そう呟いたとき、小さな声が背後から届いた。
「……ルミナおねえちゃん」
振り向けば、孤児院の門のところにフィンが立っていた。
まだ年端もいかぬ少年。けれど、その瞳だけはまっすぐに輝いていた。
「フィン? どうしたの、こんな時間に」
ルミナが声をかけても、少年はすぐには答えなかった。
靴の先で砂利を蹴り、唇を噛んで、ぐっと拳を握りしめている。
その小さな体が、勇気を振り絞ろうと震えていた。
やがて、彼は一歩近づき、胸いっぱいの声を絞り出した。
「……この前、助けてくれてありがとう。だから……ぼく、おねえちゃんとけっこんしてあげる!」
「前も言ってくれたね。ありがとう」
「おねえちゃんと結婚して、おねえちゃんを守るんだ」
フィンの声は小さくしかし真っ直ぐに夕暮れの空へ飛んだ。
まだ息が荒く、胸の前で両手をぎゅっと重ねているその姿は、言葉の重さに見合わないほど幼い。
けれど瞳だけは決して揺らがなかった──子どもが持てる限りの誠実さで固まっている。
ルミナは一瞬、言葉の軽さを笑い飛ばしてしまおうかと頭をよぎらせた。
だがフィンの口元に残る震え、握りしめた小さな拳、そして真剣そのものの眼差しを見て、その考えは消えた。
彼の「守る」は冗談ではなく、助けられた恩を返したいという小さな胸の決意だった。
彼女は膝を折り、優しくその頭を撫でる。
指先に伝わる髪の柔らかさが、ふっと何かをほどく。
「ありがとう。でもね、今はお姉ちゃんが守る番。フィンは元気に大きくなることが一番のお礼だよ」
フィンは唇を噛みしめて、小さくうなずく。
その返事が「うん、わかった」という確かな約束へと変わる瞬間、夕陽はさらに赤く沈み、二人の影が長く伸びた。
その言葉に、ルミナはつい笑みをこぼした。
彼の頭を優しく撫でると、フィンは得意げに胸を張り、くるりと背を向けて駆け出していく。
小さな足音が裏庭に弾み、夕焼けに染まった背中が遠ざかる。
ルミナは微笑みながらその姿を見送り、胸の中にほんのりと温かさを抱いた。
それは黄昏の空と同じ、やさしい色合いの余韻だった。




