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歓声のあとに ―忘れられた旗印―  作者: 草花みおん
第二章 旗印の乙女、再び

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日常に戻って

旗印の乙女――。

町を救ったその名は一時、大クスノキの町のあちこちで囁かれていた。

だが時の流れは速く、人々の生活はすぐに日常へと戻っていった。


ルミナもまた同じだった。

孤児院で子どもたちと食卓を囲み、洗濯や掃除に追われる日々。

町角で声をかけられることはあっても、それは英雄への讃えではなく、親しみを込めた「おかえり」「元気そうね」という言葉だった。


――その安心の裏で。

着慣れた服は、あの騒動で裂け、ほつれ、もう限界を迎えていた。


「ルミナ、袖口がもうボロボロよ」


マルティナが呆れたように笑いながら、彼女の腕を取った。


「この前のことで破けたりほどけたりしてるでしょ。背も伸びたし、ちょうどいい機会だわ」


「え、でも……」


「いいから。普段着を新調するの。あなたの生活のためにね」


そう言って孤児院に仕立屋を呼んだ。

窓からのぞく子どもたちの笑い声に囲まれながら、ルミナはくすぐったそうに寸法を測られる。

数日後、包みが届けられた。


中から現れたのは、灰青のチュニックに生成りのエプロン、紺のスカートと厚手のレギンス。

動きやすく、町歩きにも孤児院の手伝いにもぴったりの一着だった。


袖を通すと、生地がすっと体に馴染み、思わず笑みがこぼれる。


「似合うわね」


マルティナの言葉に、ルミナは頬を赤らめた。

甘栗色の髪をいつものようにまとめ、小さな鈴のついたリボンで結びなおす。

ちりん、と澄んだ音が鳴り、子どもたちが小さく拍手をした。


それは英雄の衣装ではなく、日常を生きるための服。

その温かさが、彼女を少しだけ軽くしてくれた。


――その夕暮れ。


裏庭に出たルミナは、大クスノキの影が長く伸びるのを見つめていた。

普段着に袖を通した自分は、確かに「旗印」ではなく、ただのひとりの少女に戻っているはずだった。

それでも胸の奥には、言葉にならないざわめきが残っていた。


「……みんなはもう普通に戻ったのに。私だけが、まだ“旗印”のまま止まってる気がする」


そう呟いたとき、小さな声が背後から届いた。


「……ルミナおねえちゃん」


振り向けば、孤児院の門のところにフィンが立っていた。

まだ年端もいかぬ少年。けれど、その瞳だけはまっすぐに輝いていた。


「フィン? どうしたの、こんな時間に」


ルミナが声をかけても、少年はすぐには答えなかった。

靴の先で砂利を蹴り、唇を噛んで、ぐっと拳を握りしめている。

その小さな体が、勇気を振り絞ろうと震えていた。


やがて、彼は一歩近づき、胸いっぱいの声を絞り出した。


「……この前、助けてくれてありがとう。だから……ぼく、おねえちゃんとけっこんしてあげる!」


「前も言ってくれたね。ありがとう」


「おねえちゃんと結婚して、おねえちゃんを守るんだ」


フィンの声は小さくしかし真っ直ぐに夕暮れの空へ飛んだ。

まだ息が荒く、胸の前で両手をぎゅっと重ねているその姿は、言葉の重さに見合わないほど幼い。

けれど瞳だけは決して揺らがなかった──子どもが持てる限りの誠実さで固まっている。


ルミナは一瞬、言葉の軽さを笑い飛ばしてしまおうかと頭をよぎらせた。

だがフィンの口元に残る震え、握りしめた小さな拳、そして真剣そのものの眼差しを見て、その考えは消えた。

彼の「守る」は冗談ではなく、助けられた恩を返したいという小さな胸の決意だった。


彼女は膝を折り、優しくその頭を撫でる。

指先に伝わる髪の柔らかさが、ふっと何かをほどく。


「ありがとう。でもね、今はお姉ちゃんが守る番。フィンは元気に大きくなることが一番のお礼だよ」


フィンは唇を噛みしめて、小さくうなずく。

その返事が「うん、わかった」という確かな約束へと変わる瞬間、夕陽はさらに赤く沈み、二人の影が長く伸びた。


その言葉に、ルミナはつい笑みをこぼした。

彼の頭を優しく撫でると、フィンは得意げに胸を張り、くるりと背を向けて駆け出していく。


小さな足音が裏庭に弾み、夕焼けに染まった背中が遠ざかる。

ルミナは微笑みながらその姿を見送り、胸の中にほんのりと温かさを抱いた。

それは黄昏の空と同じ、やさしい色合いの余韻だった。

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