鉄と氷の覇権国家
ユーラゼニア大陸の北東部に、灰色の山脈と白銀の荒野に覆われた大国がある。
その名は――ノルディア・ゼルヴァ帝国。
高山と寒冷地域が大半を占め、人が住める平地は限られている。
痩せた土壌と厳しい冬が、農耕にはほとんど適さず、帝国の民は常に飢えと寒さに耐えねばならなかった。
だが、この地の大地は別の恵みを秘めていた。地の底から掘り出される鉄鉱、銅、錫、さらには鋼を鍛えるための稀少鉱石。
帝国はこれらを余すところなく用い、武具・兵器・農具に至るまであらゆる加工技術を飛躍的に進歩させてきた。
「帝国製」と銘打たれる品は高価であるが、必ず長持ちし、他国の物よりも精巧で壊れにくい。
そのため、農村の領主たちや商人たちはこぞって帝国の技術を求めた。
こうして帝国は、飢餓と不毛の大地を逆手に取り、鉄と鋼を糧とする覇権国家へと変貌したのである。
しかし、いかに鉄を武器としようとも、食糧不足という現実は消えない。
その解決策として帝国が選んだのは――移民による侵略であった。
帝国は「技術交流」「農具提供」「職人派遣」を名目に、各地の領主と条約を結んだ。
そこには必ず条件が付されていた。
「技術者を受け入れるのであれば、その家族や同郷の民も合わせて受け入れること」。
これを人々は「共生連環政策」と呼んだ。
最初にやって来るのは熟練の職人だ。鍛冶屋や石工、革職人、医術師までが含まれることもある。
彼らは高度な知識と技術を持ち、現地に豊かさをもたらす。
だがその背後には、家族、農夫、商人、労働者……時には孤児や流浪人までが含まれた。
ひとたび受け入れられた移民は土地に根を下ろし、言葉や規律、価値観を広めていく。
やがて文化や慣習は帝国式に染まり、気づけば町や村の自治は弱まり、帝国の影響下に落ちていく。
この巧妙な政策の仲介役を担ったのが――貧窮人材商会であった。
表向きは孤児を救済し、職を与え、貧者を救う慈善団体。
だがその実態は、帝国の移民政策を広域に推し進める巨大な人材移送組織である。
領主たちはわずかな「個人的な見返り」で「商会が保証する」という安心感を買い、帝国の人材受け入れを容易に認めてしまう。
善意と救済の仮面の裏に潜むのは、帝国の冷たい意志――それでも人々は、その恩恵の甘さに抗うことができなかった。
帝都ゼルヴァ。
雪と氷に閉ざされた北方にあって、なお黒々とした石造りの城塞がそびえる都市。
その中心にある軍施設は、寒気と緊張が支配する場所であった。
回廊には鉄靴の響きが絶えず、書記官たちが命令書を抱えて走り抜ける。
焚かれる火は暖を与えるためではなく、墨と蝋を溶かすためのもの。
そこに人の温もりはなく、ただ命令と命令が交差するだけの場所だった。
その一室に、若き軍政尚書――レギウスがいた。
齢三十にして帝国軍の行政を統べる地位に就いた青年。
整った顔立ちに冷たい眼差しを宿し、女たちをうっとりさせる美貌を持ちながら、
その眼は人を駒としてしか見ない鋭さを帯びていた。
彼の机上には二通の手紙が置かれていた。
ひとつは貧窮人材商会宛。
そこには「大クスノキの町を救った少女ルミナ」を称え、
旗印の乙女の再来として盛大な宴を開き、迎え入れるよう記されていた。
商会にとっては名誉ある命。
その裏で、ルミナを連邦王国から引き離し、商会の保護下に置かせる狙いが潜んでいた。
もうひとつは黒手ギルド宛。
そこには大クスノキを今一度攻撃せよとの指示が書かれていた。
手段は問わず、報酬は約束する――ただし帝国の名を出してはならぬ。
「このことは帝国のあずかり知らぬことである」
との一文が、冷ややかに添えられていた。
レギウスの筆致は迷いなく、さらさらと流れるように紙を走った。
彼にとってこれは盤上の一手にすぎない。
駒を並べ、打ち捨て、また新たな駒を置く。
それは呼吸のように自然な行為であり、そこに善悪の判断など存在しなかった。
「駒は多いほうが良い。だが、古びた駒を取っておく必要はない。
腐る前に新しいものと入れ替える、それが盤を澱ませない秘訣だ。」
彼は静かに笑い、二通の封を閉じた。
自分もまた駒の一つに過ぎぬと知りながら、それを恐れはしない。
盤の上で駒が砕けることこそ、この世界の理。
ならばせめて、最後まで最も美しく動く駒でありたい――そう思っていた。
窓から射し込む冬の光が、机上の封蝋を照らした。
ひとつは煌びやかな商会の宴へ。
ひとつは血と火の黒手へ。
この二通の手紙が放たれた時、盤上の駒たちは否応なく動き出す。
そして――その矛先は、遠く大クスノキの町へと向かっていた。




