処刑
石壁は湿り気を帯び、背に張りつく冷たさが骨の芯まで染み込んでいた。
吐息は重くよどみ、汗と鉄の匂いが鼻を刺す。
鎖の輪が擦れるたび、鈍い音が牢に反響し、わたしの鼓動を数える鐘のように響いた。
やがて扉が軋み、兵士が顎をしゃくる。
声はない。だが「立て」という命令は、それだけで十分だった。
わたしは立ち上がる。
足首の鎖が石床を擦り、鈍く硬い音を刻む。
一歩ごとに、処刑場への道が始まっていく。
地上へと続く階段を昇るにつれ、ざわめきが濃くなる。
太鼓が地を震わせ、群衆の笑い声と罵声が空気を満たす。
それらは厚い水の膜を隔てたように遠く、現実味を失っていた。
門が開いた。
灰色の空が広がり、雨粒が頬を打つ。
石畳には血と泥のしみが幾重にも重なり、そこにまた新しい赤が落ちていく。
わたしの足跡は、赤黒い点として途切れ途切れに続いていた。
「逆旗〈さかばた〉だ!」
誰かが叫び、怒号が波紋のように広がる。
石が飛び、ひとつは足元に転がり、もうひとつは額を打った。
熱が走り、血が頬を伝うと、人々は歓声をあげた。
ぼろ切れの布が雨に貼りつき、肌を冷たく覆う。
かつては紋を織り込んだ衣を纏い、人々の前に立った。
だが今は犬に投げる古布にも劣る布きれ。
群衆はそれを見て「逆旗にふさわしい」と笑った。
わたしはただ心の奥で――ああ、そう見えるのだなと呟いた。
そのときだった。
群衆の中に、ふと見えた気がした。
懐かしい影。
かつて共に笑い、戦場で背を預けたはずの姿。
雨粒の幕を越えて、一瞬だけ瞳が合ったように思えた。
思わず足が止まる。
胸の奥が大きく脈打ち、息が乱れる。
――本当にいたのか。
それとも幻なのか。
あの人は……誰だったか。
意識が朦朧とし、名前が思い出せない。
「止まるな、さっさと歩け!」
鎖を引く兵士が罵声を浴びせ、鉄が足首に食い込む。
背を押され、わたしはよろめきながら歩を進めた。
杭が見えた。
積まれた薪が湿り、油の匂いが鼻を刺す。
旗や札が揺れ、「正義」「秩序」の文字が群衆の手で振られている。
だが、そこにわたしの名はなかった。
両脇に兵士が立つ。
ひとりは、かつて戦場で肩を並べた男だった。
槍を握り直し、声を潜める。
「……ほかにはやらせぬ。」
その声に、唇が自然にほころぶ。
誰に向けた微笑みか、自分でもわからない。
感謝か、別れか。
それとも――
その刹那、胸の奥に沈んでいた記憶が光を放つ。
長く忘れていた名が、ようやく浮かび上がった。
「で……···も……···い……」
掠れた声が雨に溶け、空気の中に消える。
槍が肉を裂く音が遠くに響き、群衆の歓声が轟く。
だがそのすべては次第に霞み、静寂だけが残った。
炎が立ち上がり、赤が視界を覆う。
やがて赤は白へと反転し、熱も痛みも消えていく。
代わりに、やさしい光が胸の奥を照らした。
次に見えたのは――あの日の空。
青く澄みわたり、血の匂いもない、まだ幼いわたしが走った草原。
頬を撫でた風、遠くから呼ぶ声、誰かの笑顔。
それは、過去。
旗になる前の、ただの少女だった頃の記憶
いきなり処刑から始まりです。
最初に断っておくと転生したり、過去に戻ったりしません。
次の話から記憶の中の過去の話になります。