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『主人公不在』

作者: Unknown

 福岡県の●●市の、この1Kのアパートに入居したのは3年前のことだ。だがこの部屋には、俺よりも先に、孤独が住み着いていた。

 ネガティブでもない。ポジティブでもない。

 悲しみも楽しみもない。

 何もない。

 心が空っぽな感覚がある。かと言って寂しいわけでもない。

 静かに呼吸だけをしている装置として、「今日」が通り過ぎていく。虚ろに、ぼーっとしているだけだ。

 色が抜け落ちた世界を見ている。例えるなら、絵の具を全て洗い流したキャンバス。“何者でもない自分”が存在している。

「俺の心の空洞を理解してほしい」とは言わない。今は他人の言葉も、音も、光も、闇も、全て遠く感じてしまうから。

 今日、俺は特に悲しくもなく、楽しくもなかった。だが起きていた。ぼーっとしていた。俺は誰とも話さなかった。また、誰かと話したいとも思わなかった。

 カーテンは揺れているのに風は無い。タバコを吸っても味がしない。

 かつて、この部屋に俺以外の誰かが一緒にいたような気がするけど、それが誰だったのか思い出せない。名前や性別さえも思い出せない。

 今日が今日である理由が無かった。今日は、昨日とも明日とも区別が付かない。

 時間の感覚が曖昧だ。今が朝なのか夜なのかも判然としない。


 ◆


 ある日、俺は日記を書こうと思ったが、書くことが無い。俺がパソコンで書いたのは、静止した現在。無意味な行動。無機質な部屋の描写。ただひたすら虚無感が繰り返されているだけだった。そんな日記を書いた。


 ◆ 


 ある日、過去の記憶が少しだけ揺れた。「かつてこの部屋に俺以外の誰かがいたかもしれない」という断片的な記憶が朧気に浮かんだ。でも、「俺以外には誰もいなかったかもしれない」という気もする。

 俺は他者の気配を探るために、部屋の中を探した。だけど、誰もいなかった。

 なんとなく廊下に出た。アパートの玄関の扉についているポストに、手紙が届いていた。誰が送ってくれたものなのかは分からない。茶色の封筒の中には白紙の紙だけが入っていて、文字は書かれていなかった。

 部屋に戻ると、誰かの声を聞いた気がするが、もちろん誰もいない。


 ◆


 ある日、「自分って誰だった?」という疑問に取りつかれていた。何故なら、鏡に映る自分が他人に見えたからだ。冷蔵庫を開けた。冷気が顔に触れたが、寒くは無かった。冷蔵庫の中に青いマグカップがあった。中には飲みかけのコーヒーがあり、表面に油のような膜が浮いている。

 スマホを手に取ってみると、通知は何も来ていない。バッテリーの残量がほとんど0%だ。もうすぐ充電は切れる。しかし、切れても問題ない気がした。


 ◆


 昨日、あるいは明日のことだった。

 曖昧な記憶が滲み始めたのだ。「昨日か明日の記憶」を辿ろうと思い、パソコンで文章にしようと思ったが、文の途中で俺の意識は断絶されてしまった。

「かつてこの部屋に俺と一緒にいたかもしれない誰か」のことを回想をしてみることにした。

 だけど、顔が思い出せない。

 浮かんできた記憶は、現実とも夢とも言えない、名称が無いものだけだった。

 誰かがいたかもしれない。

 俺はまた他人の痕跡を探し始めた。部屋の隅にあるのはピンクのマグカップ。押し入れの中の可愛らしい服。

 ここに俺といたのは女性だったのかもしれない。俺は、


「誰かいますか?」


 と声を出してみた。自分の声は、他人の声のように聞こえた。


 ◆


 ある日、俺は部屋にある壁掛け時計の針が逆に進んでいる事に気付いた。

 ある日、俺のスマホにLINEが来た。だけど、全て文字化けしている。

 差出人の名前は『蜉�螂�』で、本文は『縺ゅ↑縺溘�縺�∪縲√←縺薙↓縺�∪縺吶°��』だった。


『あなたは誰ですか?』


 と返信してみたら、


『遘√�雋エ譁ケ縺ョ諱倶ココ縺ァ縺�』


 と返ってきた。


 ◆


 ある日、彼は自分の名前が思い出せなくなった。

 彼の手の指の本数が、日によって違っていた。3本の日もあれば、7本の日もあった。

 世界は壊れてはいないが、全てがズレていた。

 彼は他人の痕跡を探してみることにした。部屋の隅にあるピンクのマグカップ。押し入れの中の可愛らしい服。それらが消えている事に彼は気付いた。

 だが、彼の所有する椅子の他に、もう一つ椅子があることに気付いた。

 買った覚えはない。けれど、確かに誰かがここに座っていた形跡がある。何故なら座面は少し凹んでいるからだ。

 椅子の背もたれをよく見ると、黒いマジックペンでで『2024・3・?』と書かれている。最後の数字は滲んでいて読めない。

 2024・3という数字は何かのヒントかもしれない。

 彼はそう思った。


 ◆


 ある日、彼がトイレに行って小便を出して、トイレの水を流すと、黒い文字が浮かんで、消えた。


『きみはどこにいますか?』


 という黒い文字だった。

 彼は、


「あなたは誰ですか?」


 と訊ねたが、返事は無い。

 部屋に戻って彼がスマホを見ると、LINEが1通だけ来ていた。

 でも、差出人の名前が無い。

 本文は『あなたはもうすぐ』だけだった。


 ◆


 彼は、自分の名前も、声も、性別も、記憶も、全て鏡の中に置き忘れてきた。

 彼は毎日、鏡を見ることを日課にしていた。

 自分が誰なのか、そして、この部屋に自分と一緒にいたかもしれない誰かのことが気になっていたからだ。

 彼は、その「誰か」に会いたいと思っている。


 ◆


 台所にマグカップが2つある。片方は青。片方はピンク。

 それを見た彼は、自分には“かつて女性の恋人がいたのかもしれない”と思い始めた。

 しかし確証が無い。

 彼女はいつもマグカップで砂糖と牛乳入りの甘い紅茶を飲んでいた気がする。でも彼女の顔が思い出せない。その記憶の声だけが先に響いている。

 でも、彼女が「病院で働いていた」という事だけは覚えていた。

 彼は言った。


「彼女は、病院で看護師をしていた」


 ◆


 彼はある日、机の引き出しを引いてみた。その奥に、彼女のものと思われる髪留めがあった。更には、知らない筆跡で書かれた「彼へ」という手紙があった。封筒を開けて、中身を見たが、紙は白紙で何も書かれていなかった。

 冷蔵庫を開くと、身に覚えのないジャムがあった。彼女が好きだったジャムなのかもしれない。

 ふいに彼は思い出した。


「彼女は、病院ではなく、花屋で働いていた」


 ◆


 ある日、彼が、ここにいたかもしれない誰かの痕跡を部屋の中で探していると、1通のLINEが来た。差出人の欄と本文はそれぞれ文字化けしていた。

 差出人の名前は「蜉�螂�」

 本文は「ァ螂ス縺阪□繧医よ�縺励※繧九ゅ%繧後°繧峨b縺壹▲縺ィ荳邱抵シ�螟」

 やがて彼は、ふいに思い出した。


「彼女は、職業を持っていなかった」


 ◆


 おそらく彼女は、甘い紅茶を愛していた。


 ◆


 ある日、彼はパソコンに文章を書いた。


 あなたは、この文章を読んでいますか? もしも読んでいるならば「彼女」とは君のことだったんじゃないでしょうか? かつてこの部屋によく来ていて、紅茶に砂糖と牛乳を入れて、よく彼に「また、ぼーっとしてる」と笑った。

 そんな君が、いたのかもしれない。

 そんな君が、いなかったのかもしれない。

 この文を読んでいる人なんて、いないのかもしれない。この文を書いている人なんて、いないのかもしれない。


 ◆


 ある日、彼は気付いた。

 外の景色が毎日同じ。天気も、雲の形も。時計は8時19分まで遡ると、それ以上は全く遡らない。


「ねぇ、聞こえる?」


 女性の声が部屋で聞こえる。


「聞こえるよ。あなたは誰?」


 彼の声が部屋で聞こえる。


 ◆


 今日もまた、ぼーっとしながら起きていた。タバコの味はしなかった。だけど彼女の髪の匂いがした。


 ◆


 テレビを点けたけれど、ノイズばかりでチャンネルが変わらない。

 マグカップの中の甘い紅茶を飲んでみたけど、味がしない。

 この部屋に誰かがいた気がする。

 たしか、男の人。

 名前も顔も思い出せない。だけど、寝癖の向きだけは覚えている。

 私は何かを待っている。この部屋でずっと待っている。

 けれど、それが何か分からない。

 部屋のドアを開けると廊下がある。玄関の外に通じるドアに入ると、何故かまたこの部屋に戻ってくる。

 そうやって私は何度も何度もこの部屋に戻ってきた。

 きっと、誰かに逢える気がして。でも誰にも逢わない。笑える。

 ねぇ、私のこと、覚えてる? 私は何も覚えてない。


 ◆


 テーブルの上にマグカップがある。

 紅茶に砂糖と牛乳を入れるのは、私の癖だったと思う。

 それは、たしか……誰かに「甘すぎる」って言われたことがあるから。

 でも誰が言ったのか思い出せない。

 男の人だった気がする。


「また砂糖と牛乳入れてるの?」


 ふいに男の人の声がした。でも、姿は見えない。


 ◆


 今日は夢を見た。部屋の中に人影があって、誰かが私を見つめていた。でも目が合わなかった。その人は何かを言おうとしていたけれど、声が届かなかった。夢か、思い出か、その区別もつかない。


 ◆


 キッチンに行くと、青いマグカップとピンクのマグカップが並んでいる。

 ピンクのマグカップは私の物。

 青いマグカップの所有者について、私は知らない。


 ◆


 ある日、彼が部屋から出ようとドアノブを触ると、そのドアノブが温かい事に気付いた。


「誰かいるの?」


 返事は無かった。


 ◆


 ある日、私は意味もなく、1人で何時間もずっと部屋のドアノブを握っていた。

 さっき、誰かがドアの前に立っていた気がしたから。

 鏡を見るのは私の日課になっている。私の顔はぼやけていて、はっきりとは見えない。

 たまに、1人で部屋にいると、誰かの気配を感じることがある。

 私はその人に会ってみたいと思っている。

 私はこう言った。


「ねぇ、誰かそこにいるんでしょう? 答えて」


 返事は無かった。


「ねぇ、誰か?」


 そう言って、私は部屋から出た。


 ◆


 空けた記憶は無いのに、部屋の扉が勝手に開いた。

 さっきまで閉まっていたはずなのに。

 扉はゆっくりと開いていく。

 今、誰かがこの部屋から出て行った気がする。

 彼は不思議に思った。


 ◆


 テーブルの上に遊園地で撮られた男女の写真がある。私の知らない私が写っている。その隣に、男の人がいる。だけど顔が霞んでいて、よく見えない。でも私は、その輪郭に見覚えがある。その男の人の肩に私の手が触れている。写真の中では、確かに触れている。

 窓の外で、風が吹く音がした。

 その瞬間、ドアがゆっくりと開いた。


 ◆


 やがて彼は、見えない誰かの気配を常に明確に感じるようになっていた。


 彼は、彼女の名前を思い出しそうになっている。


 再び、部屋のドアが勝手に開いた。


 部屋の中に風が吹いた。


 風が「来て」と言っている気がしたから、彼は部屋を出て、廊下を歩き、玄関に通じるドアを開けた。


 その瞬間に、彼は初めて外に出て、その瞬間に意識が断絶された。


 ◆


 優しい風が吹いていた。

 それは、この世の風ではない。

 匂いもなく、熱もなく、ただ優しく柔らかく吹いていた。

 遠くの草が、さわさわと揺れ、その音が世界を満たしていた。


 彼はそんな世界に立っていた。

 何もない野原のような場所に、ただ立っていた。

 空は青くもなく、灰色でもない。色の名が付かない空の色だ。


 彼の前に、自分のそれよりも何センチか小さな足跡があった。

 それは、自分の足跡ではない。


 突然、後ろから彼を呼ぶ女性の声がした。

 彼は咄嗟に振り返る。


 ──いた。


 そこには、彼女が立っていた。

 懐かしいとも悲しいとも思わなかった。

 ただ、「ああ、ここにいたんだな」と思った。


 彼女は彼を見ていた。

 だが、彼女はもう何も言わなかった。

 言葉なんてもう必要なかったからだ。


 2人はゆっくりと歩み寄った。

 まるで、会話を交わすように、少しずつ距離を縮める。

 やがて、2人の影が重なった。


 時間が止まったわけではない。

 もう時間そのものが必要なかった。


 彼は笑顔でこう言った。


「ずっと、ずっと探してたよ」


 彼女は笑顔でこう言った。


「私も。ずっと会いたかった」


 ふたりは並んで草原に座った。風が吹いている。その風は何かを伝えてくれているようだった。

 ──もう探さなくていいんだよ。

 ──もう失わなくていいんだよ。

 と。


 彼と彼女は、ただ静かに並んで、そこにいた。

 もうそれだけで、全てが充分だった。


 そして世界は、そっと瞳を閉じるかのように、静かにフェードアウトしていった。


 ◆


 ふたりは、手を繋いで草原を歩いていた。この丘の向こうへ。ただそれだけを目指して。道には名前が無い。標識も無い。だが、ふたりは全く道には迷わなかった。

 ふたりの間に会話は無かった。

 会話はもう必要なかったからだ。

 手の温度と、歩くリズムだけで、全てが通じ合っている。

 

 丘の上には、小さな家があった。

 黄色い屋根、白い壁、広い窓。中に入ると、キッチン、丸い木のテーブル、そして木の椅子が2つ。

 誰が建てたのかは分からないが、ずっと前からこの家はふたりを待っていた気がした。

 

 カーテンが優しい風に揺れる。


 青いマグカップとピンクのマグカップがテーブルに置かれていた。青いマグカップは彼の物。ピンクのマグカップは彼女の物。

 

 ふたりは椅子に座り、砂糖と牛乳入りの甘い紅茶を飲んで、笑い合う。


 世界は再び、始まろうとしている。










 ~終わり~


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