彼女のシルシ
「……そんなに強く吸ったら……」
跡になってしまう。そう言って彼女は拒むように僕の頭を掴んだが、その手に力はなく、僕が唇を離したときにはもう彼女の胸元には赤い印が刻まれていた。
「もう、同じところばっかり……」
またしばらく胸元の開いた服が着れないわと嘆きながら彼女は軽く僕の胸を叩いた。
僕と彼女は付き合ってもうすぐ一年が経とうとしている。
最初こそぎこちなかった二人だったが、付き合い出してしばらく経つともう毎週末デートをしたあとはこうして体を重ね合う仲になった。
僕はそのたびに彼女の体にキスのあとを付けていた。彼女の体に自分の跡を付けると、いつも所有欲が満たされた。
一週間経つと印はほとんど消えかかる、そして僕はまた同じところへ印を付ける、毎週その繰り返しだった。何故かは分からないが、跡の付いているうちは彼女は僕のものであり、他の男は手出しできないという半ば信仰のような気持ちを僕は持っていた。 彼女もまた、なんだかんだと言いながら跡を付けられるたびに二人の絆が確かめられるような気がするなどと、まんざらでもなさそうだった。
そんな風に今週末も彼女と一晩過ごし、翌日僕が会社へ出勤すると昼前頃に課長に呼び出された。
「田中君、きみを呼び出したのは他でもない」
「何でしょうか?」
「このたびウチの課から一名、一年ほどニューヨーク支社に出張してもらう事になったんだが」
その役目を僕に任せようと思っている、と課長は続けた。
「来週からという急な話だし、断ることもできるんだ。まぁその場合は中村君にでも行ってもらうことになるが。
……ここだけの話、私個人としては君に期待しているんだよ」
僕にとってもこの話は悪い話ではないという。
課長が言うには、これを機にステップアップできるかも知れないということだった。
「確かに急な話ですし、一晩考えさせてください」
と僕は課長への返答を保留させてもらった。
「嫌よ、一年も離ればなれになるなんて!」
その晩、彼女にその話をすると受話器の向こうからはっきりとした拒絶の言葉が返ってきた。
僕は一瞬迷ったが、今我慢することがゆくゆくは二人の将来のためになるのだと思い直し、彼女にも同じように説いた。それくらい僕は真剣に彼女とのことを考えていたのだ。そんな僕の思いが伝わったのか、最初は否定ばかりしていた彼女もやがて渋々納得することになった。
そして次の週、僕はニューヨークへと飛び立った。
あちらでの仕事は日本に居たときの倍以上の激務であったが、その分やりがいも倍以上だった。毎日忙殺されては向こうで借りた部屋へまっすぐ帰り、そのままベッドに倒れ込み、また次の日出社といった生活が続いてなかなか彼女と連絡を取ることが出来なかった。
そんな日々が一年続いたあと、僕は晴れて帰国することが出来た。
空港へ出迎えてくれた彼女の笑顔は一年前と変わらずに見えた。
荷物は翌日届く予定だったので、僕らはそのまま都内のホテルへ赴き、最上階の展望レストランでグラスを合わせた。
「乾杯」
「おかえりなさい」
久しぶりの日本の食事を味わうと、ようやく帰ってきたんだと実感した。
食事を終えると、そのまま階下にとってあった部屋へ向かった。
シャワーを浴びると僕らはベッドの上で抱きしめ合った。
まるで一年分の埋め合わせをするかのように、僕は彼女を愛した。かつてのように僕は彼女の胸元に口を付け、跡を付けるために強く吸った。一年ぶりの彼女は抵抗することもなく、されるがままにしていた。
だが、十分に吸ったあと口を離して見ると、彼女の肌には少しも跡が付いていなかった。僕はもう一度同じところへ口を運び、こんどはさっきより強めに吸ってみた。
が――またしても跡を付けることは出来なかった。
僕は徐々に焦りを感じはじめ、再び唇を肌に近づけた。
何度試しても、無駄だった。
彼女は僕から逃げるように顔をそらしていた。
「ごめんなさい」
僕はやっきになって彼女に跡を付けようとしていた。
「わたし、一年待てなかった……」
聞きたくなかった。
「あなたとはもう、会えない」
それっきり彼女は何も言わなくなった。
それが僕らの最後の会話だった。
僕はあのとき日本にとどまるべきだった。彼女の体に跡を付け続けるべきだったのだ。
印があるうちは僕と彼女は繋がっていられると、分かっていたはずなのに。一度消えてしまった印は、もう二度と付けられないと知ったとき、彼女は僕のもとから永遠に去っていってしまった。
それともあのときもう一度、印を付けることが出来たなら彼女はまた僕のもとに戻ってきてくれたのだろうか。
そんな考えが脳裏にこびりついて、いつまでもどこまでも僕を苦しめている。




