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小栗栖綺譚  作者: 奈良松陽二
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いよいよ最終決戦、近世史上最大の謎に満ちた長い夜がついに明けようとしている。

第九章 戦闘



 光秀にとって、その投げつけられたその言葉と目は、これまで生きて来た中で最も屈辱的に感じられた。

 その衝撃に光秀は口を動かすどころか、体も心さえも動きを止められた。


「話はついたんかい? で、どないすんねん? 将軍様」

 鬼子母が頃合いと思って声を掛けた。

「呼ぶなっ! へどが出るわ。俺はならへん。冗談やない」


「源太っ。あたしを・・捨てるの? 」

 光秀との交渉が決裂したと見ると、もはや源太を説き伏せるのは自分だけと思ったのか、これまで黙っていたおつるが源太に駆け寄って情に訴えた。


「一つ聞いてええか? おつるちゃん。俺は君の何や? 」

「・・えっ? 」

「俺が言う事聞いたら、何や? 聞かんかったら、逆に何になんねん? 」

「・・・・それは・・・ 」

 おつるは返答に戸惑った。


「・・・即答してくれへんねんな。もうええわ、わかった」


「腹が決まったけ? 将軍様」

「呼ぶな言うとるやろ」

 

 光秀はいきなり抜刀し、源太目掛けて刀を振り下ろした。


 その瞬間、光秀と源太の間に一陣の風が突き抜けたと思うと、般若の刀が光秀の刀を受け止めていた。

「よう言うたっ! 約束通り、鬼子母衆があんたを守ったるっ! 」

「般若っ? 」

 源太は助けてもらったことより突然現れたことに驚いた。


 光秀の目は、すでに狂気に満ちている。

「なあに、計画に変わりはない。ならばお望み通り、全ての責任を受けてもらうまで。この数を前に、強気でいられたお主らの方がどうかしておる」


「仕方ない。許せや、源太」

 長兵衛も携えた槍を構え、源太にその槍先を向けると同時に、他の者たちも一様に武器を構えて、源太を取り囲む。


「その書簡も奪い返させてもらうぞっ! 」

「渡せぇーっ! 」

 源太目掛けて一斉に襲い掛かった。


 その時にまた一陣の風ではなく、今度はつむじ風が源太を中心にして起こると、新たにまた八人のくノ一が現れ、襲い掛かる刃を全て受け止めていた。


「おのれ、鬼子母衆かっ! 」


 ところが、ふと気づくと、そこにいるはずの肝心の源太の姿がない。


「はぁ? おい、源太をどこにやったっ? 」


 光秀は般若に怒鳴ったが、般若自身も目を丸くしている。

 双方一度、間合いを取り直し、各々が源太を探し出した。

 なんとも端から見ると間抜けな光景だが、双方の目的とする者がいなくなれば、戦う理由がなくなる。

 当事者たちからすればそうなるのも仕方ない。


 この光景を眺める櫓にいる鬼子母と勝兵衛からは、源太がどこに行ったかがはっきりと見えていた。


「あいつ・・・」

 鬼子母が呟いた。


 源太は、自分の姿を探す面々の約10m以上の真上にいた。

 何か糸のような物で吊るされているみたいだ。

 自分の足元の下にある大振りの枝に傀儡が座って、樹の下の様子を伺っているようだ。

 目の前には、大木の葉が生い茂っている、ように見えた。


 ところが、茂みがなんとなく動いている。

 目を凝らして見てみると、何か丸みを帯びた玉のように見える。

 その玉も、葉っぱだけでなく、何か毛みたいのに覆われていた。

 わずかに動いていたが、その玉の上半分くらいの葉っぱがやたらざわざわしたかと思うと、その葉と毛の奥からでっかい目がぎょろっと見えた。


「うわっ! 」

と声を出すと、

「静かにしろい」

と玉から声が聞こえた。


 この声は傀儡の術者の声だ。


「お前、そんなとこにおったんか? 」

 源太は小声で言った。この玉自体が術者のカモフラージュなのだろう。

 それにしても、

「ちっさ・・・」


「失礼な奴め。助けてやろうって人間にも、そんな言い方なのか? 少しは言葉遣いと態度を学べ、なんちゃって将軍」

「それで呼ぶな。お前、本体を俺に見せてよかったんか? 皆、知らんねやろ? 鬼子母もそれでぼやいとったぞ」

「アホめ。お前に見せた所で、なんも怖くないわ」

「俺を助けてくれるんか? お前も俺の首欲しいんと違うんか? 」

「さらにアホゥめ。将軍になろうとせんお前の首なんぞに価値など無いわ。俺は価値のあるものにしか興味がない。とりあえず、ほれ、それだけもらえればいい」


 玉から、これまた小さいがごつごつした手が出てきて、くいくいと催促するように細かく上下させた。

「・・・渡したら、このまま落とすとか、ブスリッとかないよな? 」

「言っただろ。お前の首に興味はない。気が変わらぬ内に渡せ、アホゥ」

「そのアホアホ言うの辞めてくれへんかな」

と言って、源太はすんなり桐の箱ごと術者に渡した。


「アホにアホと言って何が悪い。折角、将軍になれたのに袖にするなんざ、天下一のど阿呆よ」

 そう言いつつ、桐の箱ごと手は玉の中に戻った。


「それ、褒めとるんやな? 」

「なぜ、そう思う? 」

「いや、なんとなく」

「やはり、アホだな」

「ところで、お前があのバケモンみたいな人形動かしとんのか? どないして動かしとんのや。そう言うたら、この糸も」

「術者が術のタネを明かす訳なかろうが、このアホが。知りたきゃ、お前も千年かけて修行しろ」

「千年? お前、そんなに生きてるの? 」

「つくづくアホだな、お前は。俺は人間だ。普通に死ぬわ。先祖伝来磨きに磨いて来た芸だ」

「芸? 芸人なんか? 」

「元はな。傀儡師という芸人だった。芸を磨き過ぎると、逆に気持ち悪がられて、客が寄り付かなくなった。ただ、おかげでこういう仕事にはありつけてる」

「へえ・・・」


 源太は疑うこともなく心底感心しているようだった。


「それに引き換え、お前はどうだ? 今お前が纏ってる価値で、下の連中は右往左往しておるが勘違いするな。それはお前自身の価値ではない。お前にぺったり張り付いているただの箔だ。剝がれりゃ、ただの口と態度の悪いアホな百姓だ」


「言われんでもわかっとるわ」


「・・・傀儡師として、一つ忠告しといてやろう。お前の価値を見つけろ。そしてそれを決して安売りするな。自分の為に有効に、お前の価値が分かる奴の為に使え、但し決して使われるな。俺は物言わぬ木偶を使うが、お前は物も言うし、心もある。言ってることわかるか? 」


「・・・なんとのう。ただ、なんで俺にそんなことを言うてくれんねん? 」


「ああ?・・・ああ、そりゃ、お前、さっき失恋したとこだろ? 慰めてやってんだよ」

「ああ・・・確かにな」

 そういえば、どっちが振ったかわからないが、ついさっき失恋したところだった。

 おつるの事は本当に好きだった。

 だが、おつるは違っていた。彼女は、自分にまとわりついた箔って奴だけを愛していたことがわかった。

 正直、ショックだった。こんな状況じゃなければ、三日三晩家にこもって飯も食わずに泣き暮らしていたかもしれない。

「お前、いい奴だな」


「ドアホゥ。さっき言うたとこだろ。こんなことくらいで気を許すな。俺に使われるぞ。・・・長話も程々にせんとな。お前、どうするつもりだ? 下の連中は、何が何でもお前に将軍に据えたいみたいだぞ。たとえ、口を塞いで、心も体も縛りつけて自由を奪い取ってでもお前の体に金箔を塗りた

くって、御輿に乗っけて担ぎ上げたいみたいだぞ。ま、十七年も慣れねえ百姓して我慢して来たんだ。気持ちくらいはわかってやれや」

「それでも、嫌なもんは嫌やっ! 」


「上等じゃ。ならば、手向かえっ! 」

 玉からズボッと、刀が出て来た。


「たとえ幼馴染と相まみえても、ぶれるな。貫き通せ。まとわりつく箔を剝がしたいならな」

 源太は刀を取った。


「わかった」

「せいぜい頑張れ」


というと源太を吊るしていた糸が「プツンッ」と切れる音がした。


 当然だが、源太はそのまま落ちて行く。

 落ちて行く中、玉から術者が顔を出していたのが見えた。

 ぎょろ目で鼻がやたらデカく頭は禿げ上がったおっさんだった。


(かっこええこと言うとったけど、ちっちゃいおっさんやんけ)

と思いつつ、源太は落ちて行った。




 上で源太と傀儡の術者が話す中、下では、いい加減源太を探すのも面倒になって来た空気が双方に満ちて来た。


「ええいっ! 源太は後じゃ、飯田党を先に片づけよっ! 」

 光秀がしびれを切らして、指図した。少し遅すぎるくらいかもしれない。


 人質として最大の効果があった源太と書簡が二つとも手が離れた上に行方不明なのだ。

 光秀側としては、何の遠慮も無くなったわけだ。

 鬼子母の方も、わからなくても消えたのはこちら側の仕業というくらいの機転があればよかったが、突然のことで般若もそこまで気が回らなかった。


 再び、鬼子母衆と光秀勢との戦闘が始まろうかと言う時、

「般若ぁーっ! 」

という鬼子母の声と共に、なんと門が開かれた。


 鬼子母の声が発せらるのと同時に般若ら鬼子母衆は門に向けて一斉に走り出した。

 すると般若は、走り出しと同時に、脇坂に向かって、

「そこっ! 来いっ! 」

と叫んだ。

 非常に端的であるが、脇坂は般若の意を瞬時に汲み取り、呼びかけに応じて門に向けて、走り出した。


 当然ながら、光秀勢もそれをボケっと見ているはずもない。

 一拍遅れたが、一斉にこれを追って、門に突入した。


「鬼子母、このまま入れるのかっ? 」

 勝兵衛は驚いて聞いた。

「この中に残っとる兵なんぞ、ほとんどおらん。閉めとっても、防ぎきれるもんでもないんやから。全員中に入れた方が早いわ」

「だが、奴ら火をかけるぞっ。館が燃やされても・・・」

「構へん、構へん。どうせ貰いもんの砦や。元の持ち主もおらんようになったんやし。なんの遠慮もあらへんわ」


 門の中に、般若たちは入っても足を止めることなく、屋敷の有る本丸を目指して階段を駆け上がって行く。


 それを追う光秀勢も次々と門を抜けて乱入していく。


 そんな中、後詰として残っていた門前の数名の頭上から突如、

「うわぁーっ! 」

という叫び声がしたので、見上げると、源太が落ちて来ていた。


「げ・・・」

源太が、と言おうとした所、源太より早く傀儡も落ちて来て、源太を抱え、見上げていた数名を踏みつけて着地すると、そのまままた飛び上がり、残っていた後詰の者たちを凄まじい速さで斬り倒して行った。


 傀儡は源太を抱えたまま、残っていた後詰を全滅させた。

「鬼子母っ! 」

 傀儡の術者の声だ。

「もういいから門を閉じろっ」


「うちに指図すな。言われんでもわかっとるわ」

 勝兵衛は門周辺に群がっていた光秀勢を全員斬り伏せて、門を閉め、閂を嵌めた。

 少し、傷が響いてしんどそうに見えるが、そこは歴戦の猛者である。


「こっちはええ。源太とそこで待っとれっ! 」

 こうなると、一番安全なのは、この門前だ。


 後詰を全て叩いて、後の全員を全て砦の中に迎え入れ門を閉じたのだ。

 ここから先は、砦内部での戦闘になる。


 光秀勢はすかさず火も放つだろう。

 素人の大将首となった源太は中に居られると逆に足手まといになる。

 安全なこの場で、不死身の傀儡が護衛についていれば安心だ。


「なんか・・・、嫌やな」

 源太は、刀を手にした時にそれ相応の覚悟を決めたというのに、宛てにされていないことに少し気落ちした。

「まあ、そう言うな。大将とはそういうもんだ。覚悟だけは大事に心に留めておけ」

 傀儡の言葉を聞くと、源太は妙な顔をした。

「何か、本体と話した後だと、余計気持ち悪いわ」

「・・・そういうとこだぞ。早死にしたくなければ、早く直せ」


 気が付くと楼門の上にまだ鬼子母がいた。

「あれ? 」

 あんな言い方したから、とっくに本丸にでも上がって行ったかと思っていたが、勝兵衛までまた櫓に戻って来ている。


「本当に行かんでいいのか? 鬼子母」

 櫓では勝兵衛も鬼子母に尋ねていた。

「巻き込まれたくなかったら、ここにおっとき」

「巻き込まれる? 」


 この小栗栖館、いや兵事であるから、ここは敢て小栗栖砦と言おう。

 この小栗栖砦は、砦と言っても小規模クラスの砦と言える。

 3つも4つも郭があるわけでもない。

 郭は二つ、屋敷のある本丸、部下たちの長屋と武器庫と厩舎のある二の丸である。各郭にも小さいが櫓門がある。

 般若たち鬼子母衆と脇坂を追い、寄せ手は一斉に駆け上がって行った。

 二の丸に入ったが、本当に撃ちかけて来る兵が一人もいない。

「落ち武者狩りで本当に全員出払ったか、アホゥ共めっ! 」

 そう言って、無人と化した砦をどんどんと突き進んだ。

 二の丸に留まる隊と、そのまま本丸まで追いかける隊と二手に分かれた。

 二の丸に留まった隊は建物すべてに火をかけようとするが、厩舎はさすがに馬がいてはもったいない。

 いれば放してから火をかけようと思っていたが、

「なんや、厩舎はあっても馬が一頭もおらへん。ほんまに見掛け倒しの貧乏領主やのう」

 なんて言って、構うことなく火をかけた。


 武器庫に至っては、落ち武者狩りで全部引っ張り出したので、空だった。

 彼らは、長屋も容赦なく火をかけた。


 本丸まで追いかけた本隊も屋敷に乱入するや、手当たり次第に火をかけた。


 本隊で指揮していた光秀は、さすがにここで不審に思った。

「鬼子母衆はどこ行った? 姿を見た者はおるかっ? 」

 追ってきたはずの鬼子母衆の姿が無い。

 それどころか、この砦に人影が一切ない。

 

 屋敷には下働きに来ている者たちも居るはずなのに、

「十兵衛様っ、搦手門が塞がれとりますっ」

「何? 」


 すると、屋敷の井戸に入ろうとするヘロヘロの脇坂を発見した。

 ここまで駆け上がって、相当息が上がっている様子だ。

「いたぞっ! あの若侍だっ! 」

 脇坂は井戸に飛び込んで行った。


「はははっ、もはや無理と思って、井戸に身投げしよったわっ! 」

「武士というなら、腹を斬らんかいっ! 」


 それを見て、光秀は、ある考えに至った。

「奴を追えっ! あれは抜け道に違いないっ! 」

「え? はっ! 」

 井戸に群がると、 

「本当じゃ、底が見える。こいつは抜け道じゃ、追うぞっ! 続けぇっ! 」 

 次々に井戸に入っていく。


(くノ一共も、あそこから逃げたか・・・っ、いや待てっ、しまったっ! )


「これは罠じゃっ! 皆、引けぇっ! 」

 光秀も気づくのがあまりにも遅かった。


〝ドカァーンッ! 〟


 本丸屋敷、二の丸の長屋、武器庫、厩舎、あらゆる建物が突如大爆発を起こした。


 その爆音と衝撃は、館の大手門の外にいた源太ですら、立っていられない程地面を揺り動かした。





 館の大手門上の櫓では勝兵衛もさすがに度肝を抜かれたのか、大きく口が開いたまま絶句していた。


 鬼子母は子供のようにはしゃいで大喜びしていた。

「いやぁーっ! ええねえっ! 火薬の使い方はこうでないとあかん。派手でええわぁっ! 」


 門の外にいた源太は既に腰を抜かしていた。

 さすがの傀儡も絶句して、しゃべらない。


 古今東西、様々な攻城戦においても、自分の城を敵もろとも爆破するようなクレイジーな策など無いに違いない。

 戦略家で幾多に及ぶ攻城戦を経験してきた光秀も、罠とはわかったが、まさか爆破されるとは思ってもいなかっただろう。


 そこに、またどこからともなく般若とのくノ一6人が帰って来た。

 大手門に接している石垣から櫓へ出て来たようだった。


「また、どこからともなく現れよんなぁ、あいつら」

 源太は、傀儡もそうだが、こういう訳の分からん術を使う人間が正直信じられない。

 信用できないという意味ではない。

 英語にするとわかりやすいが、アンビリーバブルなのだ。


「よく見ろ。ありゃ術の類じゃない。抜け道を使ってんだ。だから見ろ」

 傀儡は門を指さすと、同じように脇坂が現れた。

 というより、遠目から見てもへろへろなのが分かる。

「ごくろうさんやったね」

 脇坂は息も絶え絶えで、今にも酸欠起こしそうになっている。

「般若、どうだい? 」

 般若は抜け道の穴に耳を澄ますと、誰にでも聞こえるくらい声がして来た。

「こらぁっ! 待たんかいっ! おらぁっ! 」

 勇ましく叫んでいるが、さっきの爆発の衝撃は、すさまじかったようで声が震えている。

 足音は反響して来ないところを見ると、追手の連中は腰を抜かして動けないようだ。


「来とる。来とる。お手柄やったな。若侍さん。うちらやったら早すぎてこうは行かへんもんね」

「ふえっ? 」

 脇坂は声も出ないようだが、耳栓をしたままで聞こえていないらしい。


 般若は、すかさず抜け穴の脇にあった縄を思いっきり引いた。

 すると、中で、爆発音が鳴り響き、ガラガラガラッというすさまじい轟音と共に悲鳴が聞こえて来た。

 抜け穴を塞いだと同時に、追手も全滅させたのだ。

 要するに思いっきり坂道ダッシュをさせられへろへろになった脇坂は陽動要員に使われたのだ。


「これで、どのくらい減ったやろうな? 」

「ま、多くて三分のニ、少なくとも半分はいったんとちゃいます」

 鬼子母の問いに般若が答えた。

「最低でも半分ねぇ、なんやかんや言うてもまだ多いな」

「次行きますよ」

 般若の一言を聞いて、勝兵衛は思わず、

「まだあるのかっ? 」

 とツッコんでしまった。

 そう言えば、鬼子母衆のくノ一は八人いたのに二人足りなかった。


 まさに今、郭では地獄絵図の様相と化していた。


 本丸、二の丸併せて、般若の見立て通り、死者重傷者含めて半分以上、もしくはそれ以上いた。


 光秀はいち早く気付いたものの、爆発による飛散物により無傷とはいかず、右側頭部と左腕に怪我をし、爆音のせいで耳が効かなくなっていた。

 もうもうと立ち込める煙で視界もさえぎられる中、必死に声を掛けていた。


 長兵衛やおつるも、幸い直撃は免れた。

 とにかく、一旦二の丸にまで退却しようと、門をくぐって階段に人が押し寄せた。

 階段を下りて二の丸に入る門が、行きは開いていたのに閉じられている。


 すると、本丸の櫓門の櫓の腰壁が突如、バタンと外向きに倒れると、中からでかい球状の巨石が三つ落ちてきて、階段を勢いよく転がり落ちて来た。


 塞がれた門によって逃げ場を失っていた彼らは、転がり落ちた巨石の直撃を受けた。

 皮肉にも、その巨石によって門は破壊された。


 光秀は足軽たちをまず先行させたおかげで難を逃れたが、これでまた三十人強失った。


「おのれぇ~っ! 鬼子母めぇ~・・・っ! 」

 余りにも常識外れの仕掛けの数々にただ翻弄され続けている。

 戦上手と言われ、戦術家としての自負もある光秀にとっては、まさに耐えがたい屈辱であろう。


「これでざっと残り五、六十といったとこちゃうかな」

 般若が言った。

 勝兵衛もまた、主君である光秀に付き従って幾戦も戦ってきた人間だが、今密かに戦慄している。


(儂、こっち側にいて正解だったかもしれん。あっちにいたら間違いなくどれかの罠で死んでおっただろうな)

と内心思っていた。


「だいたい、不用意やねん。田舎の弱小領主とか野伏せり上りと思うて、なめとったんと違うか? 言うたらなんやけど、鳶加藤の残党やで。そんなん、館もろうて、何もせんわけないやろ。まぁ、銭も人手もあらへんよって、大した仕掛けはできひんかったけど・・・」


 鬼子母はそう言うが、傍で聞いてた勝兵衛からすれば、

(大した仕掛けじゃないって・・・。十分過ぎるだろ。金と人手があったら、一体どうなっておったのだ? ) 

心底、戦慄するより他なかった。


 そこから、しばらく鬼子母は動かなかった。

 どうやら待っていたようだ。

「ふーん、ここはさすが、明智光秀ってとこやな」

 鬼子母が珍しく感心した。

「何が? 」

 勝兵衛は尋ねた。

「普通はもう退却して、あっこから一斉に下りて来るんやけどね。もう一つの方を選択したようや」

「もう一つ? 」

「罠を警戒して、その場を動かへん。今度は向こうが籠城する形やな」

「向こうの方がまだ数が多いのだぞ。結果的に不利になったのではないか」

「そらまともな砦の状態やったらの話や。今のあの状態ならあと一押しで砦が落ちるっちゅう状況や」

「・・・確かに」

「惜しかったなぁ。下りてきてくれたら、もっとおもろかったのに・・・」

「は? 」

 鬼子母の目線を勝兵衛は追ってみた。


 すると、大手門から二の丸に上がる急な階段に沿って、高い石垣が積まれているが、その石垣の上にくノ一が一人、大きいカケヤを持って立っていて、その足元に妙に突き出た石がある。


(・・・まさか・・・っ! )


 恐らく勝兵衛の思った通りの仕掛けだろう。


 この砦は小高い丘の地勢を生かして作られていて、基本は自然の傾斜を活かしつつ、必要な所は土塁を積んだり濠を掘ったりした、普通の中世から作られてきた砦や城の造りなのだが、さっきの抜け穴周辺とあの一角だけに石垣が不自然に組まれていた。

 立て続けに起こる罠に恐れおののいて大挙して逃げ下りて来る敵兵がこの一角を通った瞬間、あの出っ張った石をカケヤで打ち込むと、積んだ石垣が一斉に崩れ落ちる仕掛けなのだろう。


(なんちゅう罠を考えとるんだ。この女は)


 もう、ここまで来ると恐ろしさを通り越して、アホとしか思えないようになってきた。

 自分の城でやるような策ではない。

 そんな仕掛けを使ったら、二度と使えなくなる。

 というより、もはや既に使えないのだが。




「さて、時間がないから、行こか」

「仕掛けるのか? わざわざ? それならば、わざわざ相手にせんでも、このまま逃げるか、最低でも源太だけでも逃がした方が・・・」

「あんた、忘れとりゃせんか? 」

 鬼子母は低い声で勝兵衛に言った。

 そう言われて、勝兵衛は気付いた。


 信長が来る。


 これは、必要なピースの奪い合いなのだ。改めて整理すると、それは大きく4つある。


 一つは帝から出された書簡。

 ただこれはもう傀儡の術者の手に渡ってしまっている。

 要するに家康が手にした。


 二つ目は源太の身柄である。


 三つ目は光秀の首だ。


 そして、最後の重要なピースが、信長の身柄、もしくは首である。


 双方、それぞれこの四つの内、書簡以外の3つは必ず手に入れなければ、勝利とは言えないのだ。

 鬼子母も光秀もそれをよく分かっている。


 次なる罠を恐れて光秀勢は留まったが、決してそれだけではない。

 光秀もまた、最後のピースである信長の到着に賭けていた。

 まだ自分に対する信頼が信長に残っていれば、いや、蘭丸らによって本能寺の誤解が解けていれば、明らかに裏切ったのが秀吉であることがわかってもらえるはずだ。

 信長は鬼子母勢を背後から圧迫できる。

 よしんば、鬼子母たちを伴って、会うことができる。


(一目会えればいい。そこで儂の潔白は証明できる。そうなれば儂の勝ちだ)


 鬼子母もまた同じである。

 状況は明らかに鬼子母側がわずかにイニシアチブを得ている。

 砦に閉じこもった明智勢に対し、寄せ手となった鬼子母は、砦に到着した信長に先に接見できる。

 要は先に事情の説明と説得が可能なのだ。

 成功すれば、信長勢は寄せ手となって数的不利を克服できる。 


「源太と、そこの傀儡もおいで。門はもう開けときな。信長公を閉めだす訳に行かないからね」

 鬼子母たちも、櫓を下りて、源太と傀儡と合流した。信長が来る以上、あんな所に大事なピースを二つも置いておけるわけがない。


 二の丸に向かって、階段を上がる途中、鬼子母は石垣の上のくノ一に声を掛けた。


「夜叉や。あんたは、まだ、そこに物見も兼ねて待機しとき、信長公の一行が来たら合図しいや。もし、無理にでも入って来たら、あんたで丁重にお出迎えしとき。構へんさかい」


 普通に聞けば、どうってことも無いことかもしれないし、指示としても当然かもしれないが、勝兵衛は、鬼子母があれだけの罠を嬉々として仕掛けて喜んでいるのを知っているだけに、特に後半部分に引っ掛かった。


「まさかと思うが、信長公にあれを落とす気ではあるまいな? 」

「万が一の時やがな。別に信長公に落とせとは言うとらん。敵の侵入を防ぐのなら有効と思うただけや。よしんば・・・」


(信長に落とせば、なお良しってか)

 勝兵衛は、本当に、つくづく敵に回さなくて良かったと思った。


「さて、最後にもう一度念を押しとくで、ええか、源太」

 一行は立ち止まって、鬼子母は源太の顔を見て、念を押した。

「ま、別にお前がどうこうする訳じゃない。実際、やるのは俺たちだ」

 傀儡が言った。

「とりあえず、うちらに任せとけば大丈夫やから」

 般若も源太に声を掛けた。


「ま、俺、ただの百姓やから、なんもできんし、任せた」

 源太もだいぶ緊張しているようだ。

 覚悟を決めたとはいえ、初めての修羅場の真っただ中に身を置くことになる。

 

「じゃ、とりあえず、作戦通りにな。頼むで、若侍」

「脇坂だっ! いい加減覚えろっ! 二の丸で食い止めればいいのだろう。一度捨てて拾った命だ。こんなところで死んでなるかっ! 」


 鬼子母、般若、傀儡、勝兵衛は、源太を守りつつ二の丸を一気に突破して、光秀がいるであろう本丸を目指す。

 鬼子母衆のくノ一6人と脇坂は二の丸の敵を引き付けて、本丸に上げさせないよう奮戦する。

 ちなみに、罠の仕掛けに残ってどこかに潜んでいるくノ一もこれに加わるという作戦だ。


 残る敵数はおそらく、およそ五、六十人ばかり、それをこの十三人プラス一人で撃滅し光秀の首を獲る。


「ええね。ほな行くよ。一気に抜けるで、取るは光秀の首一つやっ! 」

「おおっ! 」

 全員の掛け声と同時に、駆け出して、二の丸に突入した。

 

 敵方もこの来襲は折込み済みで、これを迎え撃つべくほぼ全兵力をこの二の丸に集め、隊列を組み、待ち構えていた。

 指揮はどうやら長兵衛が執っているらしく、

「来よったなっ! アホどもっ! 放てぇーっ! 」

 長兵衛の合図により、後列の弓隊より一斉に矢が放たれる。


 突入する鬼子母一行は足を止めることなく一塊りとなって、怯むこと無く突き進む。


 先頭となって壁になったのは、スピード自慢の鬼子母衆のくノ一たち。

 飛んで来る矢を悉く打ち払い、弓隊が次の矢をつがえる暇も与えることなく、先頭の槍隊に突っ込んで行く。

 槍隊の繰り出す槍先を身軽に紙一重で躱し、そのまますり抜け様に槍隊を切り捨てて行く。


 くノ一たちの後ろに控えていた脇坂が続いて刀隊に突撃していく、鬼子母衆と脇坂が隊列を崩し、道ができた。

 その道目掛けて傀儡と般若が続いて突っ込む。

 後に続く勝兵衛、そのすぐ後ろに源太がぴったり張り付き、最後尾の鬼子母が続いて行く。


「何ちゅう強さや。固めるな! 引き離せ! 」

 長兵衛が指示するが、もはや乱戦状態で、引き離そうにも鬼子母衆と脇坂によって、光秀側の方が拡げられ、守りが薄くなってしまっている。

 その最薄の部分に突っ込まれ、防衛戦突破は時間の問題だ。


 鬼子母サイドからすると、正直これはこれで驚いている。

「百姓のくせに、なかなかの練度だな。正直驚いた」

 勝兵衛が感心してると、後ろから鬼子母がツッコんだ。

「アホォ。こいつら元より足軽やぞ」


(こいつら、一体いつ鍛えてたんやろ? )


 二人の間に居る源太は前後二人の余裕すら感じる会話を聞いて、少し引きつつ、そんなしょうもない疑問が頭に浮かんでいた。


 血飛沫飛び交う修羅場でびびって動けなくなるのではと心配していたが、意外とそんな事をこんな最中で考えられるくらい冷静なのに驚いていた。


 源太の中で思ってもみない感情が湧きたっていた。

 高揚感、いやこの場合、適切なのはハイテンションと言った方がいいかもしれない。

 これは、一体なんなのだろう?


 光秀と同じ卜伝流免許皆伝の腕前で、当時の剣術家たちの中において天下無双とも言われた剣豪、御所に押し入った三好勢を最後まで一人で相手取って奮戦し続けた。

 最後は総出で襖を四方から押し当てられ、動けなくして襖ごと四方八方槍で貫かれ、非業の最後を遂げた将軍、武家の棟梁にふさわしい強さ、様々な苦難に遭いながらも最後の三年のうちに自ら主導で政治を執り行い善政を敷いた三代将軍義満以来の大将軍と言われ、その死は日本中の大名に悼まれた将軍 足利義輝。


 この顔も知らず、今まで存在すら知らなかった父親の武士としての血が、今の源太の血を湧き上らせているのだろうか。


 ついに、般若と傀儡が防衛戦を突破した。

 これを抜ければ本丸への一本道だ。


 勝兵衛が抜け、続いた源太も抜けようとした時、

「源太ぁぁーっ! 」

という声と共に、突如、源太の顔を目掛けて横から槍先が向かって来た。


 不意を突かれた形で、勝兵衛も、後ろについていた鬼子母も死角となって対応できなかった。


(しまっ・・・ )


 一瞬のことであるのに、源太が向かって来る槍の刃先に気付いた瞬間から、彼の目に見えるものが全てスローに見えた。

 その刃先をギリギリで顎先から順に体を右旋回させつつ躱し、その回転に合わせて刀を抜いた勢い

そのままに、逆袈裟に振り抜いた。


 源太の放った刃は、見事、槍を両断した。





 源太の感覚の中における時間が普通に回り出した。


 槍を突きに来ていたのは長兵衛だった。

 彼も今の源太の動きが信じられないみたいで、両断された槍を見つめて呆気に取られていた。

 いや、長兵衛だけではない。

 それを言ってしまえば、勝兵衛も鬼子母も、般若や傀儡すら同様だった。


「長兵衛っ! お前なんでやっ? 」

 源太の問いかけで、ようやく我に返った長兵衛は、改めて、断たれた槍を捨て刀を抜いた。

「源太ぁ~、すまんなぁ。もうお前の生死は問うてられへんねや」


 長兵衛も大分と追い込まれているようだった。


 彼は大きな勘違いをしている。

 確かに、源太はこの戦いにおける勝利の条件となる大事なピースの一つではあるが、それは帝の書簡とある意味セットであり、かつ生きていないと価値がないのだ。

 傀儡の術者が源太に言った通り、源太の首には全く価値がない。

 ただのどこかの百姓の首でしかない。


 鬼子母たちは、それをよく分かっているし、源太を守っているのはどちらかと言えば、亡き飯田源三郎との約束を健気に守ろうとしているだけなのだ。


 明智方にとって、源太の首は信長への言い訳用に多少使えるくらいで、首を獲ってもそれが絶対的な勝利条件とはなり得ない。

 少し冷静に考えればわかることだが、今の長兵衛にそんなゆとりはないのかもしれない。

 彼に別の思惑があれば話も変わるが、先程の源太の想像すらできない動きを見せられ動揺する長兵衛には猶更であろう。


「お前ぇ、何やねんっ? アホボンのケツに竹槍突っ込んだ時と全然違うやんけっ! 」

「アホがっ、演技に決まっとるやろうがっ」

「そうやって俺をずっと騙し取ったんかっ? 」

「人聞きの悪いこと言うなっ! 俺らはずっとお前を陰ながら守っとったんや。それをお前が台無しにしたんやっ! 裏切り者はお前やっ源太っ! ここで死んだ郷の奴らに死んで詫びんかいっ! 」


 長兵衛が、猛然と源太に斬りかかる。


 この二人の対峙中でも、当然周囲の動きが止まっているわけではない。

 源太の足が止まっている以上、般若や傀儡、勝兵衛と鬼子母も止まってしまっている。

 そこに、わらわらと襲い掛かって来ているのだ。

 四人はそれらに対応せざる得ず、源太にまで手が回らないのだ。


 繰り出される長兵衛の剣勢に、源太はただ受けるだけで精一杯で、どんどん押されて行く。


「おらおら、さっきの動きは何やったんやっ? ただのまぐれかっ! 」

 長兵衛は煽るが、さっきの源太の動きは確かにまぐれに近かった。


 一瞬の危機に対して、本能的に出た脊髄反射に近い無意識の反応だった。

 あれが、父から受け継いだ剣豪としての血で生じたものかはわからないが、奇跡のようなもので、滅多やたらと出て来るものでもない。

 長兵衛の勢いはさらに増して、ついに源太の刀が大きく払われ、源太の体が開いて伸びきった。

「もらったぁっ! 」

 長兵衛は迷わず、刀を素早く返して、源太の首目掛けて刀を振った。


 その刹那、長兵衛と源太の間に風が吹き抜けるようにくノ一が割り込んで来た。

 門の仕掛けの為に潜んでいた鬼子母衆のくノ一だ。


 反射的に動いたせいか、長兵衛の渾身の一撃をクイナで受けたが、長兵衛の強力な剣圧に耐えられず、無情にも刀はくノ一の体をそのまま斬り払った。


「あ・・・」


 源太の目の前で、味方が斬られた。

 しかも、自分を庇って。


 くノ一から大量の血が噴き出し、血飛沫が目の前を舞っている。


「迦楼羅ぁーっ! 」

と叫ぶ声がしたと思うと、つむじ風というより竜巻程の勢いの風と共に般若が飛んできたかと思うと、まさに嵐のように長兵衛に向けて激しく剣を奮う。


 今度は、その勢いに長兵衛が押された。


「般若っ! 」

 鬼子母が声を掛けたが、般若は憤怒の相を隠すことなく、

「先に行けっ! 源太っ! 」

「せやけど・・・」

 源太は、自分のせいで斬られたくノ一を捨ててはいけないと思って、躊躇していた。

「行けぇーっ! 犠牲を無駄にするなっ! 覚悟の上ならば、為すべきことをしろっ! 」

 普段の関西弁が完全に消えている。般若が文字通り鬼と化していた。


「いや、般若、あんたがおらんと・・・」

 そんな般若でも構うことなく鬼子母が言って来たが、

「ここにこんだけおったら、本丸には光秀しかおらんっ。しばらく、頑張って繋いどいてっ! 」

「頑張って繋いどいてって、あんた・・・、相手は光秀やで」

「後からすぐに行くさかいっ! こいつの五体バラバラにして、三枚に下ろしたらすぐ行くさかい」

「時間かかりすぎや、ほどほどにな」

 鬼子母が源太を引っ張って、勝兵衛と共に二の丸を抜け本丸へと駆け上がる。


「行かせるっ・・・か」

 長兵衛が追おうとするが、般若の凄まじい速さと繰り出される剣の数に動けない。

 全く止まる気配もなく、長兵衛の体に次々と傷が増え、二人の周りに血の霧ができるほどだった。


(このままではやられるっ! )

 そう長兵衛が思った瞬間。


「長兵衛っ! 」

と叫んで、血の霧を掻き分け、嵐のような剣戟の間に割り込んで来たものがいた。

 二刀の逆手を繰り出し、般若の攻撃を全てはじき返し、長兵衛を引き離した。


「ちぃっ! この女っ! 」

 般若と息を合わせたように言葉が重なった。

 おつるである。


「長兵衛、無事? 」

「・・・おつる・・・」

 般若が二人を見て、改めて舌打ちした。

「おやおや、あんた、源太とくっついとったんちゃうん? さっき袖にされて、もう男を乗り換えたんか? 」

「将軍になるんやったら、まだ遊んでもよかったんやけどな。うち、これでも一途やねんよ。」 

 般若のこめかみに血管が浮き出ている。

「へえぇ~・・・。ほな、毎晩、この館を抜け出しとったんは、そいつと乳繰り合う為やったんやねぇ。お義姉様」

 薄ら笑いを浮かべているが、目は全く笑っていない。

 確かに、兄の虎之介が嫁と公言している為、般若にとっては義理の姉になる。

 姉の不倫、いや不貞行為を思いっきり、皮肉を込めて言った。

 正直、兄が一方的に惚れ込んでいるだけで、おつるは兄を徹底的に嫌っていることは誰の目から見てもわかる。兄を弄んでいるわけじゃないのはわかっている。

 が、般若として許せないのは、源太の立場に目をつけてその気も無いのに彼の純粋な心を弄んだ挙句、親友と思っていた男とくっついて、二人して源太を騙していたことだった。


「源太には黙っといたるから、秘密は今すぐおのれの墓に持って行け」

「なんや、あんた、もしかしてあいつに惚れとんの? それって、嫉妬? ごめんね、あたしだけモテちゃって」


(ブチッ)


という音が般若のこめかみから鳴ったような気がする。


 おつるの煽りに、怒りが最高潮に達したようだ。


「あいびきミンチにしたるっ! 」


 あまりにもキレ過ぎて、うまいことを言ったが、残念ながら、この時代では伝わらないし、言った本人すら知らない言葉を吐き捨ててしまった。




第十章  決着



 本丸は、爆破された屋敷などの残骸が四方に折り重なりながら飛び散りながら、炎を上げ燃え盛っている。

 火は仕掛けのあった本丸の櫓門にも飛び火し、劫火を上げ燃え落ちていた。

 明け方も近づく真夜中の暗い夜空を赤く染めている。

 光秀は、門前、階段の頂上で座ってこれを眺めていた。


(思えば十三日前と同じ時刻でまたこの光景を見るとはな・・・)


「とか何か思うとるんと違うか? しれっと嘘の記憶で思いに浸っとんのちゃうぞ。十三日前やったらお前は朝まで、鳥羽におったんやろ。本能寺には、火が消えた後に見とるはずや」


 鬼子母のツッコみには返すこともせず。

 光秀は一言、

「来たか・・・」

とだけ言った。


 鬼子母と勝兵衛、そして源太が、光秀の眼前にいた。


 たどり着いた大将首を前に、勝兵衛は光秀の得物を見た。

 光秀は、持っていた錫杖の仕込み刀から太刀に持ち替えていた。

「ま、そうであろうな」

 仕込み刀は、通常の太刀より刀身は細く短い上に直刀で、もろくてすぐに刃こぼれや折れたりする、何度も刃を合わせるような戦闘には不向きだ。

 どちらかと言えば、不意討ちの暗殺や護身用などに使うもので、非常用の使い捨て武器みたいなものだ。


(まあ、本気で殺り合うしかないな)


 勝兵衛は多少まだ仕込み刀を持っていることを期待していた。

 正直なところ、そんなところを期待する以外勝機を見出せなかったからだ。


(光秀様は強い)


 歳はほぼ同じくらいだが、剣の腕前は、圧倒的に光秀が上だ。

 卜伝流免許皆伝の腕前であり、いささかも剣技が衰えているとは思えない。

 脇坂が言っていたように、あんなほぼ鈍らの仕込み刀を使って暗闇の中で三人も一撃で斬り捨てていることからもわかる。


 ただ、ここは是が非でも家臣である自分の手で主君に引導を渡さねばならない。

 それこそが、武士たる者のけじめである。


(もはや勝利など考えるな。己の命でもって主君を倒すのみ)


「まだか、勝兵衛。あまり主を待たせるものではないぞ」

 光秀はぬるっと太刀を抜いて、刃先を下ろしたまま立っている。


「お待たせ申した。遅ればせながら、明智家家臣溝尾勝兵衛、思う所あって、主君、惟仁日向守明智十兵衛光秀様のお命を頂戴つかまつる。されば、尋常に勝負されたしっ! 」

 勝兵衛、抜刀し、鞘を捨てる。

 それを見て、鬼子母も、そして相対する光秀も思った。


(元より相打ち狙いか)


「その意気や良しっ! いざ参れっ! 」

 光秀も応えた。


 この闘い、すでに光秀は優位にある。

 当然、光秀はそれを見越して、この場に待ち構えていた。


 闘いの場は、階段上である。立ち位置が上にある光秀の方が有利なのだ。

 上に立てば、剣は常に振り下ろすことになる。

 だが、下の方は受けるにしても斬るにしても常に振り上げねばならない。

 体力的にも下の方が早く疲れるのは必定だ。

 しかも、勝兵衛には源太から受けた傷もある。

 かなり分が悪い。


 下側が絶対的不利というわけでもない。

 上から攻める方は階段である以上踏み込みの足は一段下がることになる。

 振り下ろすとなると、必然的に踏み込んだ足に重心が乗る。

 常に前のめりとなるわけだ。

 下の者からすれば、その足の位置はちょうど刀を横に払う位置に来る。

 振り下ろされ続ける剣を受けつつ、相手が剣を振り上げる一瞬の隙をもって足元を斬り払うことができれば、重心の乗った足を斬られ、前のめりに倒れる。

 そこで、止めの一撃を討てば勝てる。

 理屈はそうなのだが、当然、光秀もそこは百も承知である。

 足払いを警戒して、すぐに上に登って間合いを取ってしまう。

 これを繰り返されることで、どんどん勝兵衛の体力は消耗していく。


 源太はこの闘いを見ていられない。

 勝兵衛が劣勢なのは素人目から見ても明らかだ。

「鬼子母、お前強いんやろっ? 変わってやってくれっ! 」

「アホ言いな。確かに強いけど、それは相手が有象無象の奴らにだけや。般若みたいに若い時ならいざ知らず、光秀相手にできる程、自分の腕を過信してへんわ」


 そう言う鬼子母と勝兵衛はそんなに大きく歳は変わらない。

 ただ、鬼子母も本心で言っているのではない。

 あくまで勝兵衛を立てているのだ。

 手を貸したいのはやまやまだが、彼の武士としての意地と矜持を尊重している。

 そして何より、勝兵衛では光秀を討ち取るには難しいことも承知だった。

 勝機を得るために、傀儡と般若がどうしても必要なのだ。


 般若が来るまで、何としても光秀を繋ぎ止める為にも、勝兵衛にはなんとか粘ってもらわなければならない。


 もう幾たびも剣を交えては、間合いを取ることを繰り返している。

 勝兵衛はすでに肩で息をし、顔は大量の汗をかいている。

 刀を握る力も失いつつあり、刃先が下がって来ていた。

 次の打ち込みが始まれば、剣を振り上げる力も出ない。

 

 それは勝兵衛の敗北、つまりは死を意味する。


「やはりここに来て、源太に喰らった傷が響くの、勝兵衛」

 光秀は、すでに勝機を得たと見ていた。

 

 これを聞いた源太としては、もう見てはいられない。

 自分のつけた傷のせいで勝兵衛が負ける。

 例え、源太の傷が無くとも、勝敗が大きく左右されることはないだろう。

 しかし、源太には当然剣の腕前の良し悪しなどわからない。

 あるのは自責の念と、己の弱さの不甲斐無さだけである。

 守られてばかりで誰一人助けられない。

 目の前にいる勝兵衛も、今にして思えば敵であった百姓たちを守る為に自分を犠牲にして、源太に竹槍を突かせた。

 そのせいで今こうして窮地に追い込まれている。

 おじじもそうだ。自分は知らないうちに全部おじじに守ってもらっていいた。

 そんなおじじを守るどころか、自分がすぐ近くにいたにも拘わらず何もできずに殺された。

 あの迦楼羅というくノ一もそう、自分が弱いかったせいで、それを庇って殺された。


 この一連の事は、全て自分に関係ないところで起こったことで、自分はそれに巻き込まれたと思っていた。

 自分の出生に関わることなのに、まるで他人事のように思っていた。


(覚悟ってなんだ? 俺はただ身に覚えのない事で降りかかった火の粉を払うような気持ちでいただけじゃないのか? )


 いや違う、そうじゃない。


(これは全部、俺が原因で起こっていることなんだ)


 勝兵衛が話していた本能寺の件も正直興味も無く聞き流していた。

 でも違う、違ったのだ。

 巻き込まれたんじゃない、自分が皆を巻き込んだんだ。


 自分が知らなかったばっかりに、勝兵衛も脇坂も死んだ家来たちも鬼子母もアホボンの虎之介も、飯田党の連中も、般若もくノ一たちも皆、自分の存在がここにあったから、今こんなことになっているのではないか。


 そして、それを全て持ち込んだのは、この男だ。

 俺の目の前にいる明智光秀という男だ。


 だとしたら、勝兵衛一人が責任を感じていること自体筋違いだ。


 光秀を討つべき人間は、俺以外いない。

 けじめをつけるべきは俺なのだ。

 たとえ自分の命を捨ててでも、自分の生まれた運命に抗うにはこの男を倒さねばならない。


 覚悟とはそういう意味だ。




「勝兵衛っ、お主の覚悟、しかと受け取ったぁっ! 涅槃で待てっ! 」


 光秀は今まさに止めの一撃を勝兵衛に向けて振り下ろそうとしていた。

 その時、光秀の踏み込んだ右足を斬り払いに来た刃が光った。

 いち早く気付いた光秀は、素早く後ろに飛び退いた。

 斬り払おうとしたのは源太であった。


「源太っ! やめよっ! やめるのだっ! 下がれっ! 儂に構うなっ! 」

 勝兵衛は息も絶え絶えになりながらも必死に叫んだ。

 叫ぶ事しかできないくらい、もう体も動けないのだろう。


「もういいよ、勝兵衛さん。こっからは俺のけじめをつける番だ。おい、糞坊主。涅槃で待てやと? アホ言うな。涅槃で待ってもおのれは来ん! おのれがこれから行くのは無間地獄じゃ! 」


 しばらく呆気に取られた光秀は、つい吹き出してしまった。

 そして、大笑いすると、苦しそうに続けた。


「相変わらず口先だけは大きいのう。百姓の分際でもう将軍気取りか? そう言えば、おのれは、先ほど偉そうに儂に問うたの? 百姓育ちのアホだと思っておるのかと? おお、そうじゃ、思うておるわ」


「違うっ! 違うのだっ! 源太っ! 聞けっ! 」

 息も上がってうまく話せないにも関わらず、勝兵衛は必死に源太に訴えた。

「お前が付けた傷のことで責任を感じておるなら違うのだっ! あれは光秀様が書いた筋書き通りに儂とこの郷の者たちで、お前が突くように誘導したことなのだっ! 」

「そんなんはわかっとりますっ! 俺に罪悪感を持たせて、操り易くする為やったんやろ? おじじを殺したのも、そういうことやろ」

「分かっていても、こうして出て来ておるのか? ほれ、やはりアホじゃ」

 光秀はさらに煽る。

「動機はさておき、お前は未だ我が術中にあるということだ。傀儡は、使われてこそ、役に立つっ! 」

 光秀が、また上段から容赦ない打ち込みを繰り出す。

 おそらく、光秀はまだ本気ではない。

 散々打ち込んで、いたぶる気なのだ。

 そうやって、源太の心を徐々に折って行くつもりだ。

 当然、未熟過ぎる源太は、手を抜かれていても受けることで精一杯だ。


「聞き捨てならねえな」

 源太の耳元近くで声がした。


(傀儡? )


「アホゥめ。あれだけ使われるなって言ってやっただろ。まんまと乗せられやがって。ま、覚悟の何たるかがやっとわかったようだから、それだけは褒めてやる」


 源太の背中に毛と葉で覆われたまるまるとした球が乗っている。

 が、重さは全く感じないから、むしろくっついていると言った方がいい。

 首から肩、背中上部にかけてぴったりくっついているから、重さも感じない源太には声だけでしか傀儡の存在を確認できない。


 当然、光秀からは丸見えだった。

 突然、上から降って来て、源太の背中にピタッとくっついた球体が何なのか分からない。

 まさかこれが、あの忌まわしい傀儡の術者とは思いもしない。


 ただ、この玉がくっついてから、徐々に源太の動きが変わって来たのはわかった。


 鬼子母は背後から見てたから、当然、この球体に気が付いた。

 かつ、彼女もまた裏の世界の人間である。これが傀儡の術者の本体だと直感で分かった。

 さらに言えば、裏の世界で言われてきた伝説の傀儡師の名を思い出していた。


(あれが、そうか・・・)


 源太は、刀を振るいながら、傀儡の術者と話していた。

「手を貸してくれるんか? 」

「ああ、あれだけ傀儡をバカにされた以上、傀儡の何たるかをあいつには教えてやる。但し、般若が来るまでだぞ」

「それやったら、あの傀儡で助けてくれたらええねん」

「残念ながら、次の仕込みの為に今は温存しなきゃいけねえのよ。わかったら、全身の力を抜け、ガチガチだ」

「わかった」

 源太は言われた通り、傀儡に身を任せるように全身の力を抜いた。

 すると、一気に体が軽くなり、心なしか心も落ち着いて来た。

 さっきの奇跡ほどではないものの、光秀から振り下ろされる素早く強力な剣の動きがややスローに見えて来た。

「一応言っておくが、俺はお前を操るつもりはない。あくまで動きを補助したり、補強するだけだ。お前は、それだけで十分だ」


 剣の軌道が見えて来た。これなら、変に受けて刃こぼれさせることも無い。

 受けるだけでもかなり体力を使う。

 受けを最小限にして、ギリギリを避けて、体力の損耗を防ぐ。


(こやつっ? )

 受けることをしなくなって来た。しかも、ギリギリを避けている。


(まずいっ! )


 源太の刀が下に下がってきている。

 疲れて下がっているのではない、受ける必要がないから刀を上げる必要がないからだ。

 源太の上体が徐々に沈んでゆく。

 これは、間違いなく隙を伺って、足を狙いに来る気だ。

 手を抜いて上体を上げて撃ち込んでいると足元ががら空きになる、光秀は手を抜くの止めて体を落として打ち込むスピードを上げた。

 互いの手数がさらに増えて行く、光秀のスピードに源太も付いて来ている。

 光秀の攻撃の間隙を縫って、隙を生じさせるための上体への斬りつけも源太から放たれている。

 ついに、光秀も受けることが増え、隙を作らぬために回転数はさらに上がっていく。


 二人の戦いに、勝兵衛はただただ絶句していた。

 もう勝兵衛では付いて行けない超高度な戦いと化している。


(なんなのだっ? こいつはっ? これまで鍬と鋤しか振って来なかった奴だぞっ? この俺と互角だと? バカなっ! ありえんっ! しかも、儂は常に上を取っている。圧倒的に儂の方が有利なはずなのにぃっ! )


「焦っておるな、光秀の奴め。その調子だ、考えるな、感覚に逆らうことなく動け。お前を今、動かしているのは間違いなくお前の中に流れる五百有余年に及ぶ武家の棟梁の血だ。そして最も近い存在が、天下無双と言われた天才剣士であるお前の父親、足利義輝だ。その父から受け継いだ天賦の才が間違いなくある。大丈夫だ。光秀と義輝、同じ卜伝流免許皆伝でも一対一ならば、その強さには雲泥の差がある。圧倒的にお前の父の方が強い」


「なんやえらい自信持って言うなぁ? 」

「当り前だ。俺は二人とも剣を交えたことがあるが、光秀相手なら俺でも勝てる」

「おれの父親と戦ったことがあるのか? 」

「ああ、大分と昔に殺しに行ったことがある。ところが、俺の術は奴に完全に看破された挙句、自慢の傀儡はバラバラにされ、居場所も見破られ両足を斬り落とされた」

「・・・両足を? 」

 源太は、ああそれであんなに小さく感じたのかと思ったが、ただそれにしたって小さいことに変わりはない。

 逆に両足を失っても、あれだけの術を神出鬼没に繰り出せるこの男に改めて感心を通り越して尊敬すら覚えた。





「母上っ! 」


 どこかしらから声がした。般若の声だ。


(来たかっ! )

 鬼子母と傀儡、両者とも反応した。


「もう大丈夫だろ。心配するな、お前は強い、俺は離れる」

 そう言って、源太の背中から球は離れて行った。


(球が離れよった。なんだかわからぬがこれぞ好機)

 と光秀は思ったが、球が離れても源太の剣に一切の乱れがない。


(くそぉっ)


 徐々に押されも来ている。

 双方互角ならば、年齢では光秀の方が不利なのだ、何せ親子以上に歳が離れているのだ。

 しかも、勝兵衛に続けての連戦だ。

 疲れが出たのか、それとも焦りか、力んだ一撃を源太が交わしたことで上体が浮いてしまい足元に隙が生じた。


(くっ! )

 源太は当然、この隙を逃すはずもない。

 踏み出された光秀の足を目掛け刀を振るう。


 光秀は咄嗟に後ろへ仰け反る様に飛び上がった。

 このまま行けば、尻もちをつくことになるが、そんなことを言ってられない。

 重心が乗った足をいきなり動かそうとしても、思うようには上がるわけもなく、多少ずれても確実に源太の刃は光秀の足を捉えていた。

 苦し紛れだが、光秀は飛びのきつつも腕を伸ばして横一線に刀を払った。

 払った刃は源太の額をかすめたが、源太の剣を止めるには至らず、剣は足を斬り払ったが、


(キーン)

と高い音を鳴らし、足から血を流すことすら無かった。


 光秀はそのまま後ろに飛び退いて尻もちをついた。

 が、刀を向けて、すぐに体勢を整えた。

 源太もすぐに二の太刀を浴びせれば、尻もちをついた光秀に防ぎようがなかったかもしれないが、一の太刀で緊張が切れてしまった。


 おそらく一番驚いたのは光秀本人だったのかもしれない。


(忘れていた・・・ )


 肩で息しつつ、右足の脛をちらっと見た。

 万が一の為に脚絆の下に脛当てを入れていた。

 しかし、そのことを激戦の中で忘れていたのだ。


 ゆっくりと構えを解かず光秀は立ち上がった。

 気づくともう大分と体が重い。

 もう一度、源太とやり合うことはもはや無理かもしれない。

 光秀は、源太の方を目にやった。

 源太もここで緊張が解けてしまったことで、いわゆるゾーンに入っていた状態から抜けたように見える。

 さっきかすった額の傷から血が流れ出て、目に血が入っていたが、瞬きもせず、今の所ふき取る素振りも無い。


(・・・勝ったか・・・)


 今なら源太を楽に斬ることもできる。

 後ろに飛び退いた分、源太までの距離は一間半ほど、二、三歩で間合いに入れる。

 しかし、もう一歩も足が前に出ない。

 あと一振り程の力は残しているが、足がもう動かない。


(いや、相打ち・・・、いや、負けか)


 今の自分なら、疲れ切った勝兵衛でも討ち取れるだろう。

 しかも、まだ無傷で、鬼子母もいる。


 ただ、光秀は構えを解かなかった。

 外見上、まだ戦える姿勢を保ち続けている。

 勝兵衛も鬼子母も、これを警戒して近づこうとしない。

 ただ、このまま眺めているわけでも無かった。


 鬼子母は煙管を咥えると、吹き矢のように何か光秀に向けて放った。

 光秀は、それを刀で払い弾き飛ばしたが、弾き飛ばす際に何かごく少量の粉末が舞ったかのようだが、光秀は気付かなかった。


 最後に残していた一振りの力をここで使い果たしてしまい、刀を持つことしかできずにだらりと下がった。


「般若・・・はじめや」

 鬼子母が呟いた。 


「双方、そこまでっ! 」


という声が突然聞こえて来た。


 光秀は声の方向を見た。

 二の丸からの急な階段を馬にまたがり、洋風の甲冑を身に纏い、マントを翻し、登って来る人物がいる。


「おおおっ・・・ 」


 光秀は目を大きく見開いて、この人物の姿を確かめた。

 そして、その人物の名を大きな声で叫んだ。

「う・・・上様ぁっ! 信長様ぁーっ! 」


「光秀、・・・此度の仕儀、如何なることと相なったか、お前の口から聞きたい、申すことあれば、ありていに申すがよい」

 信長は、馬を止め、馬上から光秀に向けて言った。


「上様っ! この光秀、上様に叛意などありませぬっ! 全ては誤解から生まれた事、今この時をもってしても上様と申し合わせた事に一切違うことなどしておりませぬっ! 裏切りよったのは筑前にござるっ! あのサルめが計画全てを反故にしたのが、全ての・・・」


 そう言いかけて、光秀は言葉を詰まらせた。


 信長はただ何も言わず馬上から光秀を見下ろしている。

 光秀は何か思いつめた顔からゆっくりと膝を落とし持っていた太刀を脇に置くと、一旦、両の手を地につけ、頭を下げた。

 そして、再び頭を上げると、意を決したようにこう続けた。


「・・・私だけだった。私だけが唯一、たった一人だけ、上様との約束を律儀に守り続けた結果がこの始末。そもそも、最も初めに、裏切られたのは、誰あろう上様でございます。この光秀、上様より身に余る程のお引き立てを賜った格別の御恩を一刻たりとも忘れたことなどございませぬ。それを上様もよう存じておられた故、此度の謀を打ち明けて頂けたものと信じ、至上の悦びと誉れと思うておりましたに・・・ 」


 光秀は、両の目から大粒の涙を流し、

「・・・何故、何故、あの折、本能寺において、この光秀めをお信じ下されなかった・・・。これは、そもそも上様が、この光秀を裏切った故に起こった仕儀にござるっ! 私をお信じあれば、斯くも惨めな仕儀に至ることも無かったっ! 上様のこぼされた言葉を蘭丸より聞くことが無ければ、か

ような策など取らずとも、サルめに戦を仕掛けられることも無かった。我が家臣たちの命を無駄に散らすことも無かったっ・・・っ・・・そ、それが口惜しゅうて、口惜しゅうて・・・、せめて、せめて上様に、これだけは申しおかねば、この光秀、死ぬに死に切れませぬっ! 」


 次々とこぼれ出る光秀の内に秘めていた思いの吐露を、信長は頷くことも無く相槌を打つでなく、かと言って怒りに震えるでなく、ただ黙って無表情のまま聞いたまま、泣いて訴える光秀を冷ややかな目で見下ろして、


「・・・であるか」


と一言だけこぼした。




 

 光秀には今、信長しか見えていないのだろう。


 二人の間にいた源太を般若が介抱に行っても、光秀は全く気にする素振りも無く、ただ只管、信長だけを見つめている。

 源太も、般若の介抱でようやく我に返り、額の傷に布切れを当てられながら、血の混じった視界から、この異様な光景を見ていた。


 実際、光秀の視線の先にいるのは馬にまたがった傀儡で、信長の声は傀儡の術者が発しているものだった。

 鬼子母の放った吹き矢には幻術にかかりやすい薬を付着させてあった。

 それを光秀が自分の目の前で弾いたことで粉末が舞い、それを吸い込む、あとは般若の幻術により傀儡を信長に見せていたのだ。


 鬼子母が必勝の手として用意していたのが、これだった。


 事前の段階で般若と傀儡の術者と打ち合わせしてあった。

 だからこそ、般若の登場を待っていたのだが、源太の覚醒が計算外だった。

 結果、この方法を使わずとも体力を使い果たした光秀を討ち取れただろう。

 ただ、鬼子母は敢てこの術を使った。


 手を緩めず確実な策を取ったのか、単に用意していた般若と傀儡に気を使ったからなのか、それとも、光秀の最後に対して信長に会わせてやりたかったのか、恐らく、どれも、なのかもしれないが、一番は光秀の心の内にあるものを知りたかったからなのかもしれない。


 そして、それは術をかけて操る者すら想定していなかった事が光秀の見ている世界に起こっていた。


 信長の余りの素っ気ない返答に、光秀は愕然とした。


「たったそれだけ? この光秀に、この光秀の心中を聞いて、たったそれだけのお言葉だけであろうかっ! 」


 光秀は再び刀を取って、立ち上がった。


「せめて一言、詫びの一つ、労いの言葉一つでも掛けてくれぬのかっ? 」

 光秀は激高した。

「その一言でもあれば、まだ私は上様の為に働きもしようっ! されど、この仕打ちは、もはや我慢ならぬっ! 」


「嘘つきめ」


 どこからか声がした。

 低く重く響く声、聞きなじみのある声が、光秀の足元から聞こえて来た。


 光秀は、ここでようやく信長から視線を外し、自らの足下にある声の出所を確かめた。

 そこには、おじじ、飯田源三郎の首だけがあった。


 源三郎はじっと光秀を見つめ、

「この期に及んで、まだ欺くつもりか、この騙り者め」

と吐き捨てるように言った。

 

「ひっ・・・ ! 」

 光秀は、腰を抜かしたように体勢を崩しながら、後退った。


「お前は、元より、源太を立てようと画策していたではないか。信長より計画を明かされた折からお前の頭の中にははっきりとその計画が浮かんでおっただろう。お前はこの機会が来ることをずっと待っておったのだ」

 源三郎の首は、まるで達磨のように勝手に立ち上がり、光秀から目線を決して離さず攻め続ける。


「細川藤孝殿より聞いた。源太を助け出す際のことをな。源太の存在はまだ、三好や松永勢に知られておらなんだ。だから、主君の三淵藤英様も細川藤孝殿も興福寺にいた弟君、前の公方様救出を優先されたのだ。源太の救出は、お前が勝手に独断で行ったことだと。正直、驚いておられたよ、どこぞの寺で僧にでもなっておられたと思っておられたようでな」


「いや、違うっ! 松永久秀には気取られたのだっ! だからっ! 」

 光秀は恐怖に引きつりながら、弁明した。


「いや、弾正久秀は、息子の仕出かした将軍暗殺の不始末の火消しに、それどころではなかった。要するに敵もおらず、追手などなかった」

「なぜそれを知ってるっ? そんなこと、藤孝は知らぬっ! 」


 光秀がそう言うと、源三郎の首から地面に影のようなものが広がり、その影から続々と血まみれの侍たちが生えてくるように現れて来る。


 その侍たちの先頭にいる若侍が続けた。

「警護についていた奉公衆の家人たちを襲い、お前はどさくさに紛れて源太を拉致したのだ。俺達にはあっちを三好と松永の者と言い」

 背後に、立つ侍が、これに続いた。

「わしらには、あっちが三好・松永勢のように偽装した」

 先頭の侍は、飯田左吉兵衛だろう。

 そして背後の侍は源太を警護していた奉公衆の家人。


「そして、今この郷におるお前の手下と共に、我らを口封じに殺した」


 光秀は、もはや弁明すらできず、ただ恐れていた。

 侍たちは、声を揃えて言う。

「おのれは結局何も変わっておらぬ。狡くて賢しい騙り者よ」

「言うなぁーっ! 違うっ! 」


 源三郎は、高々と笑い出すと、

「どうだ、全てを失う気分は? 名も、家も、地位も、家族も、家臣も、それに加えてお前は信用も信頼も名誉も誉れも、そして野望も、希望も失ったのだっ! どんな気持ちだっ? 儂はお前のそんな顔が見たかったのだぁーっ! いいっ、実にいい顔だっ! 」


 源三郎、左吉兵衛ら侍たちが、光秀を指を差し大声を出して嘲り笑う。


「黙れーっ! 笑うなっ! 笑うなぁーっ! 」

 持っていた刀を振り回すが、いかに斬りつけようとも空を斬るように手ごたえが無い。


 嘲笑される中、信長を再び見た。

「嘘です。こやつらの申す事など、信じるに値しませぬ。所詮は役に立たぬ負け犬どもが、私に嫉妬して、ありもせぬ嘘で私を陥れようとしておるに違いありませぬ。上様・・・、信じてはなりませぬ。この光秀は、この光秀だけは、決して裏切りませぬ」


 そう言って、馬上の信長の足にしがみついた。


「嘘をつけ、この金柑めっ」

 そう言って、信長は足に縋る光秀を蹴り飛ばした。


「はぁっ! う・・・上様ぁーっ! 」


「いつまでそうやって猫を被っとるだぎゃ、おみゃあは! いつも心の中で思っとることを言うてみいやっ! あの時、お蘭から、儂の一言を聞いた時、本当に思ったことを言うたるだぎゃ! 」


 山崎の合戦で命を落とした家臣たちや、味方に付き、最後まで戦ってくれた武将たちが光秀の体に纏わりついて来た。


 縋る者たちが思い思いに光秀に語り掛ける。


「その言葉を聞いて、裏切られたと思った? この為に無駄に命を散らした家臣たちを思うと口惜しい? 違う違う違う違う違う、違うっ! 」


「お前は、本当はあの時、こう思ったのだ」


「ああ、いいんだ。裏切ってもいいんだと、これでなんの躊躇も無く、信長を裏切れると、信長を利用して自分だけが助かると」


「お前は安心し、そして確信した」


「あの折に肩を震わせていたのは、失望の悲しみでも無く、怒りを堪えていたわけでもない」


「込み上げて来る笑いを必死に堪えていたんだろうっ! 」


 信長は、光秀を指さし、

「安心せえっ! おみゃーは生まれついての、筋金入りの謀反人よっ! 」


 信長以下、数十、数百、数千、数万の者が一斉に、光秀を指さし大きな声で嘲り笑った。 


 光秀は耳を塞ぎ、必死に叫び返すが、もはや、その嘲笑の声にかき消されてしまう。

「笑うなっ! 五月蠅いっ! この儂を笑うなぁっ! 黙れっ! 黙れっ黙れっ黙れ黙れ黙れっ! 黙れぇーっ! 」


 光秀は、太刀を振りかぶり、信長目掛けて駆け出すと、勢いもそのままに思いっきり刃を振り下ろした。


「危ないっ! 」

と近くで声がした。


 光秀は気が付くと、振り下ろそうとした先に、背を向けた般若が驚いた顔をして光秀の方に振り返っていた。


 胸の部分がやたら熱い。突如、太刀を握る力すらなくなり、太刀は光秀の手から離れ落ちて行った。

 熱いものが、胸から少しずつ流れ出ているような感じだ。


 そして、鈍い痛みが胸から背中にかけて伝わって来た。


 ふと見ると、刀が自分を貫いている。その刀を持っていたのは源太だった。


 刀は光秀の心臓と肺を貫いている。

 口からも大量の血が吐き出た。


 源太は刀を引き抜こうと力を込めた瞬間、光秀はその手を掴んだ。

「まだだ、まだ抜くな」

 抜けば、恐らく直ちに大量の血を噴き出しながら絶命するだろう。

 口から吐き出る大量の血、鼻からも止めどなく流れ出て来た。

 もはや、まともに話すこともできないが光秀はそれでも話そうとした。


「そうか、やはりそなたが、儂を討ったか・・・。見事だ。見事であったぞ。足利家義様。・・・いや、輝若丸殿」

「それが、俺の本当の名前か? 」

「幼名じゃ。父上様がつけられた。わずか三月で夭折された兄の名をつけられたのだ。だが、その名を知る者は、もうこの世に誰もおらぬようになる」


 光秀の目が、ぼんやりと視界を失いつつある。


「坊さん」

 源太は、源太なりの言い方で、光秀を呼んだ。


「源太、もう一度言うが、お前をアホと思うていた。初めは侮っていたからだ。口を開けば偉そうに侍の文句を言うくせに、いざ、自分が侍の棟梁となると知ると、何も出来ぬと言って、己の言ったことすら果たすこともせずに逃げ出す卑怯者のアホじゃと・・・」


「おう、もう言うな。恥ずかしい。くたばりそうなのに、ようしゃべる糞坊主やな、もう心配いらん。早う逝って、皆に謝って来いや」


 もうそれに答えることもできなくなっていた。

 源太は、刀を力込めて思いっきり引き抜いた。


 血が大量に噴き出し、噴き出した勢いで光秀の体はのけ反るようにして後ろに倒れた。


 大の字に仰向けに倒れた光秀の顔は、恨みや、悔いを残したような顔ではなく、心なしか満足げに微笑んでいるように見えた。


 かのイエズス会宣教師、ルイス・フロイスは、著書「日本史」において、明智光秀の人物像をこう評している。


「その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受け、主君とその恩恵を利することを弁えていた。その寵愛を保持し増大する為の不思議な器用さを身に備えていた。彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目が無く、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。友人には、人を欺く為の七十二の方法を深く体得しかつ学習していたと吹聴し、ついに、その術策と表面だけの繕いにより、信長を瞞着し、惑わせた」


 とはいえ、私的な交流があったわけでもないし、公式な場で公的な会話をした程度だろう。

 直接会話もしたこともないかもしれない。

 案外、織田家中での陰口を鵜呑みにしていただけかもしれない。




第十一章  終幕


 

 夜は明け始めていた。

 空もうっすらと白け、鳥の囀りも聞こえて来た。季節柄、蝉の声もやや聞こえている。


 石垣の上で、待機していた鬼子母衆のくノ一、鬼子母からは夜叉と呼ばれていたが、その夜叉は、見通しも良くなってきた中で、騎馬武者二人がこの館に向かって来ているのを発見した。


 何の躊躇も無く大手門を駆け抜けて来るものだから、一瞬、石垣を崩そうかとも思ったが、近づいて来るのをよく見ると、馬に乗っているのが虎之介と市松だった。

 両名ともよく見ると血まみれで、虎之介に至っては何とも立派な十字槍を肩にかけ、その槍先の柄に何か括り付けていた。


 さすがに夜叉も声をかけた。

「虎之介様っ! 」

 と、虎之介も気づいて、

「おおっ! 夜叉やないかっ! 元気しとったか? そんな高いところで何しとんねん? 」

 と、呑気に返した。

 市松は、すぐに様子がおかしいことに気付いて、

「親方、今そんなんよろしいねん。夜叉っ、これはどういうことやっ? 館が燃えとんのかっ? 何があった? 誰の仕業やっ? 」

と聞くものだから、夜叉は手短かに端的に返事した。


「鬼子母様がっ(やりました) 」


それを聞くと虎之介は、突如、真剣な顔になり、

「なんやとうっ! かか様がぁっ (やられたやとぉっ) ? 」


 そういうなり、鞭を入れて、物凄い速さで駆け上がって行った。

 市松もそれに続いた。


 二の丸まで駆け上がった虎之介は、信じられない光景を目にした。

 建物のがれきは散乱し、至る所でブスブスと煙を立てて、一面何もなくなっている。

 厩舎があると思って馬に乗って来たのに、跡形もない。

 まあ、そんなことはさておいて、さらに、郷の百姓たちがそこかしこに転がっている。

 状況を理解するには、一目で飛び込んでくる情報量が多すぎて、虎之介の頭では到底整理がつかない。


 目線の奥、ちょうど本丸に上がるところで、集団が固まっている。

 馬上のまま近づいて見ると、なんと、あの長兵衛が中心となって郷の百姓たちが昔から可愛がっている鬼子母衆のくノ一たちに刀を向けているではないか。

 しかも、刀を向けている百姓側が圧倒的に多い。

 遅れてやって来た市松は、

「なんやこれっ? 一揆でも起こしよったんかっ? 」

と言った。

 確かに、一見したところでは一番適切な答えではある。


 しかし、そんなことは虎之介にとってどうでもいい。

 問題なのは、かわいいくノ一たちの中で、血を流して寝ているように抱きかかえられている迦楼羅を見つけたことだった。

 市松もそれに気づいて顔色が変わったが、虎之介のそれはもうまさに鬼の形相と言った感じだった。

 毛は逆立ち、血管は浮き出て、全身から煙が立ち込めているかのようだった。


(あかん。こらやばい)


 市松も怒りが湧いて来ていたが、虎之介の様子を見て、一気に冷めてしまった。 


「よくも、わしの嫁五号をっ・・・、かか様にまで・・・」

 市松は、なんとなく夜叉の言うことを正確に解釈していたから、

「いや、親方? かか様はたぶん大丈夫・・・」

「市松ぅっ! これ持っとれ」

 虎之介は槍の先に括り付けていた物を外して、市松に投げ渡すと、

 馬を下りて。槍を構えて、鼓膜が破れるほどの大きな声で叫んだ。


「こおおりゃあああっ! このボケどもがぁーっ! 」


 この声だけで、空気が震え、肌にまでビリビリと響いてきた。


 取り囲んだ明智勢は、一斉に虎之介の方を向いた。

「アホボンッ? 生きとったっ! 」

 ただならぬオーラを纏った虎之介に恐怖したのか、それとも、アホそうだから勝てると侮ってのことかはわからないが、明智勢の残党がほぼ全員一斉に、虎之介目掛けて襲い掛かった。


 十字槍を片手で軽々と構えて、槍先を後ろに回してから、襲い掛かる連中がその間合いに全員入るや否や、一振りで、全員の上半身だけが一瞬で宙に舞い、地に残った下半身から大量の血しぶきが飛び散った。


 虎之介は、上から血の滝を被り、その足元は一瞬で血の海と化した。


 槍というのは、主に突くことに特化した武器である。斬るという用途には不向きだ。

 まして、槍を軽く一振りするだけで、数十人を一度に両断するなどあり得ない。


 そして今度は、長兵衛に狙いを定めて駆け出した。

 長兵衛も、戦慄してる場合ではない。槍を手に取って、迎え撃つしかない。


「わりゃあぁ~っ! よくも、わしのケツにぶっ刺してくれたのぉっ! 」

「この、生きとったかぁーっ! 」

「死ぬとこやったわっ! このくそがぁっ! 」

「ほんなら、もっぺん死にくされっ! 」

 槍を合わすと不利と察して、器用にいなして対応したのはさすがだが、まさに豪槍と言える力技で、虎之介は槍ごと長兵衛をぶった斬った。


 虎之介の槍が長兵衛の槍を両断し、勢いそのままに長兵衛の腕を断ち、腹に至った時、ガキンッと音が鳴って、長兵衛の体は十間近くまで吹っ飛んで行った。

 

 その際に、長兵衛の懐から何かが飛び出した。


「長兵衛ぇーっ!ちょーべぇぇ~っ!・・・このっ、おのれええーっ! 」

 おつるが、ものすごい勢いで、虎之介に向かって行った。


「あれ、おつるちゃん、何しとるの? 」

 おつるを前にすると、急に素に戻ってしまった。

 

 虎之介の雄叫びを聞いた本丸部隊が、光秀の首を持って二の丸に駆け付けた瞬間の光景だった。

「あかんっ! 兄ちゃんっ! そいつはもうっ! 」

 般若が叫んだが、すでに遅かった。


(ズブッ)


 おつるの刀が虎之介の胸に突き刺さった。


 のだが、おつるはうまく甲冑の継ぎ目も考慮して虎之介の心臓目掛けて刃を突き入れたはずだったが、その刃が心臓に届くまで通らない。

 血は出ているから甲冑の間をちゃんと通って刺さっているはずなのに、どれだけ力を入れて突き立てようともそこから先はびくともしない。

 もしかしたら、骨に当たっているのかとも考えたが、感触が違う、もっと弾力性があって、何なら弾き飛ばされそうな程だ。

「いた、いたたたたたっ! いたいっ、いたいっ! いたい・・・って! 言うとんじゃーっ! 」

 虎之介が気張ったようにすると、案の定、刃が弾き飛ばされ、その勢いでおつるまで飛んだ。


 どことなく虎之介の思い込みか、それとも自らの決めたルールかはわからないが、槍の間合いにあっても、槍を振るわず、蹴り一発をおつるにお見舞いしただけで済ませた。


 が、虎之介のほぼ本気の蹴りを食らって、女が無事で済むはずが無く、それだけでも十分な致命傷となった。

 ボキボキと全身の骨が砕ける音がして、二十間先まで飛んで行った。


「いったいのっ、ほんま」


「化け物か・・、あいつは」

 源太も初めて、虎之介の戦いぶりを見て、そんな感想しか出なかった。


 虎之介は不死身に思えるのだが、当然死なないわけではない。彼は特異体質で、筋肉が異常に発達しており、さらに筋繊維が異常に細いことでほとんど筋肉に覆われたその肉体はあらゆる刃物でも通さない。

 刺されたところで、ほとんど皮膚と通しても筋肉で止められる。

 よって、そもそも彼に甲冑自体必要ない。


 鬼子母はため息まじりに言った。

「アホは死なへん言うけど」

「やっぱ、兄ちゃんは敵に回したない」

 虎之介はバケモノ級が揃った飯田家においても、その中から恐れられる程のバケモノだった。


「・・んんんんん~っ?!」

 多少残った奴らを睨みつけ、

「何や、お前ら? まだやるんかっ? 」

と言うと、

「う・・・う・・うわぁぁーっ! 化け物やぁーっ! 」

と叫んで一斉に逃げ出して行った。


 源太は吹っ飛ばされた長兵衛の所に行った。


 決して助ける為じゃなく、見届ける為だった。

 長兵衛は、まだ息があった。そして、残った片方の手で必死に何かを求めていた。

 何を求めているのか? 斬られた腕か、いや違う、腕は反対の方のはるか先に転がっていた。


 その求めている方に目をやると、斬られて吹っ飛ばされる時に懐から飛び出たものだった。

 源太はそれを拾ってみると、それは一本の脇差で、かなり手の込んだ立派な装飾が施されていた。

 柄の部分に、丸に二本の線が引かれた二つ引両という足利家の家紋が入っている。

 その脇差に一通の書が括り付けられていた。

 それをほどいて、書を開けると、そこにはこう書かれていた。

「命名 輝若丸 永禄六年六月十四日生」

 そして、最後に花押がある。

 源太にはわからないが、義輝の花押だろう。

 なぜ、それを長兵衛が持っていたのか、そして今際の際でもこれを求めている。


「・・・えせ・・・。か・・・え・・・せ」


 わずかに動く口で必死に訴えていた。


「これ、なんでお前が持っとんねん? 」

 そう尋ねた。長兵衛は、わずかに残る意識の中で、

「お・・・れが、本・・も・・のや。おま・・えは・・・ただ・・・のみが・・・」


 恐らく続きは、「身代わり」だったのだろうが、長兵衛はそれを言い切ることなく事切れた。


 本当なのだろうか? 

 別に今となっては正直どうでもいい事だが、なんとも心が晴れないでいた。


 そこへ、傀儡が来た。


「お前が紛れもなく足利義輝の子であることの証だからな。光秀がずっと隠していたんだろうよ。将軍推任もこいつを証として見せることで、認められたんだろうな。その後に、光秀がこいつに渡したんだろう。お前が実は本物だとか言ってな。こいつが率先して手を汚したのも、そういうことだったんだろうよ。結局こいつも光秀に使われて踊ってたってことだ」


 あの剣の覚醒を経験した後だから、正直自分の血を疑うことはない。


 ただ、なんとなく長兵衛が不憫に感じて仕方なかった。

「これ、どうする? いらねえんだったら、俺が持って行くがいいか? 」

「構へん。・・・もういらん」


 そう言った源太の声は、少しかすれていた。





「あんた、何しとったんやっ? 」

 鬼子母は早速、虎之介に説教しだした。


「あっ、かか様ぁーっ! んっ、何や、般若、帰っとったんか? あっ、それより、かか様、聞いてくれっ! 首や首っ! あ、おいっ、こら、市松! 早よそれ持って来んかいっ! 」

「へいへい」

 市松が預かった物を持って来る。どうやら誰かの首らしい。


「いや、そらそうと、あんた、信長公に会わんかったか? ・・・て言うか誰の首や、それ? 」

 鬼子母がそう聞いても、虎之介は聞いてなく、自分が話したい事を一気に話し出した。


「いや、それがなぁ、聞いてくれ。散々やったんや。光秀がおったんはええけど、それを逃がしてもうて、ケツは突かれるは、谷に落ちて、こいつらにブスブス刺されるわ、字が読めへんから看板はわからんわでな。あ・・・あれ? 源太? われっこらっ! かか様、こいつ、訳分からへんねん。何か、よお説明できひんけど。とにかく一番槍やってん」


「親方、そら、わからへん。ちゃんと、説明しまひょ」


「えっ? そらっ、あれっ? そうそう、こいつら」

と言って、勝兵衛と脇坂を指さして、

「こいつらと一緒におってな。ほんで、このおっさん、突いたんや。なっ? あれ・・? ・・・うわっ! 光秀やんけっ! 」


「やかましいねんっ! 」

即、鬼子母のツッコみが入ってどつかれる。


「うちの聞いとるのは、その首は誰のやって聞いとんねんっ! 」


「えっ、あっ、これ? これなぁ、光秀の首取り損なったし、ほなら、偶然、なっ? 」

 虎之介が市松に振った。

「信長公の一団にばったり」

「ほんで、偉そうにした、いけすかんおっさんやったから、光秀の代わりに信長にしとこう思って・・・」


「はぁっ? 」

 その場にいた全員が一斉に声が揃った。


「まま・・ま・・まさか、あんた? 」

 鬼子母もこれまでで一番動揺しつつ聞いた。


「信長公の・・・ 」

 般若が続き、


「首を取ったのではあるまいな? 」

 傀儡まで珍しく声を震わせていた。


「・・・え? 取ったで」


「アホォォーッ! 」

 また全員一斉に美しいほど声が揃った上に、やや裏返った所まで合った。


「親方ぁ、そやから言うたやないですか」

 どうやら市松は、一応止めたみたいだったが、やってしまっている以上は同じである。


「そやけど、兄ちゃん、結構な数がおったやろ? 」


 そう最低見ても二百人くらいはいた。

 しかも、完全武装した一団である。

「いや、それがほんまに、二百はおったさかい、えらい骨折れましたなぁ、親方? 」

「気いついたら、俺ら、2人だけになっとったもんなぁ」

 まるで普通に遊びに行って来たくらいの感覚で話す二人に、改めて、飯田党の、いや、この鳶加藤の一家に戦慄する一同である。


「こいつら、どれだけ強いんだ」

 動じることのない傀儡ですら規格外の強さに、びびっていた。


「われらは、かなり運がよかったかもしれませぬ」

「まともにやりあったら、ひとたまりもなかったな」

 狙われた脇坂と勝兵衛も、ここに来て初めて、

(本当にアホでよかったぁ~っ! )

と生き残った喜びを素直に感じた。


「まさか、信長の首獲ってまうなんて」

「なんて言うたらええんやろ。」

 鬼子母と般若も改めて、この想定外のバカ息子の凄さを再認識した。


「アホや。こいつら、ほんまのアホや・・・」

 そんな中で、源太は一番適切な感想を述べたことで、全員はようやく全てが終わったと感じ、安堵も重なって大笑いした。


「んっ、何? 何笑うとんの? なぁ、おかしい? 」

「何が、おかしいですの? 」

 虎之介も市松も状況を全く理解できない。


「はあ・・、おかし。・・さて、これから、どうしようかね。信長も死んで、館も何もかんもきれいさっぱり無うなってもうて、郷の奴らもおらへんようになってもうたなぁ」

と鬼子母が言うと、虎之介以外の他の連中は頭の中で一斉にツッコんだ。


(全部、あんたがやったことだけどなっ! )


「これじゃ、地頭職もクビ。飯田の名も返上やな」

「ええ、そうなん? 」

 かわいそうに虎之介は、自分が全く知らないうちに彼の立場が失われてしまっていたのだ、ただ、最終的な止めを刺したのは虎之介自身なので仕方がない。


「何だったら、俺が口利いてやってもいいぞ」

 傀儡が言い出した。

「俺は、書簡を家康に届けて、事の成り行きを報告しなきゃならん。あんたらみたいな、バカ強い奴らを土産にできたら、報酬も増える」


「ありがたいけど、遠慮しとくわ。もうしばらく、般若と二人でゆっくりするわ。このアホ2人は、明日にでも光秀の首を土産に秀吉に預けることにした。秀吉ならアホでも何とか使うてくれるやろ」

「え? 光秀の首って、ここにおるやん? いやや、わし、信長の首持って行くわ」

「そら、あかん。やめとき」


「そうか。あの加藤段蔵の一族なら、こっちが頼みたいくらいだが、じゃ、その代わり、信長の首は俺が持って帰ろう」

「えっ! いややぁ~っ! 俺の首やぁ~っ! 」

「我儘言うんとちゃうっ! あんたはこっちの首にしいっ! 」


(ガキやな、ホンマに)

 源太は心の中で思った。


「で、あんたらは、どうする? 」

 傀儡は脇坂と勝兵衛に振った。

「わしは、もう秀吉の軍に下ろうと思う。さすがにもう明智の兵としては働けぬ」

「そうか、そらそうやね」

 脇坂の言葉に般若も賛同した。


「うむ、それがよい。お主はそうしてくれ」

「溝尾様は? 」

 脇坂は勝兵衛もてっきりそうするものだと勝手に思っていたが、そうではないようだ。

「儂は、もう正直疲れた。儂は、はじめに主に見切りを付けた者故な、城には戻れん。しかも、この一件を初めから知っていた責任もある。わしは、出家して、この無益な戦の犠牲者の菩提を弔いたい。名も決めておる」

「何て? 」

 源太が聞いた。

 すると、勝兵衛は、すぐに答えた。

「南光坊天海」

「えっ? それって、光秀がっ? 」

 名乗っていた偽の法名である。

「だからこそじゃ、一時は光秀を名乗り、その名の主を殺した、この罪を背負わねばならぬ」

「そうか・・・そういうことなら」


 源太は何も言えない。

 勝兵衛は主を殺したと言っているが、これは恐らく源太に対しての気遣いで言ってくれているのだと思っている。

 明智光秀に最後の引導を渡したのは、紛れもなく自分だ。

 ただ、勝兵衛はその重荷を背負う必要はないと暗に言ってくれているのだろう。


「それより、一応、共に戦った者として、お主、せめて名だけでも聞かせてくれんか? 」

 勝兵衛は傀儡に尋ねた。

「なんじゃ、俺か? 悪いが俺に名は無い」

「無いのか? 」

 それを聞いて、鬼子母が、

「あんた、〝蓑虫〟やろ? 」

と言った。

「ああ、あのっ? 」

 般若は気づいてなかったようだが、その名前は知っていたようだ。


「〝蓑虫〟? 」


「侍の世界はともかく、こっちの裏の世界じゃ誰もが知っとるよ。ただ、誰も本体を見たことが無いから伝説になりかけとったけどな。そら相当な凄腕だよ、失敗したことが無いって聞くしね」


「あ・・・」

 それを聞いて、裏世界の人間でも見ていない本体や失敗したことまで、その蓑虫が話してくれたってことは何か自分に特別な思い入れでもあったのかと思ったが、これ以上の事はさすがに教えてくれなさそうだと思ったので、源太は黙っていた。


「よせよせ、その名を言うな。それは俺じゃなくて、周りが勝手につけた名だ。正直俺は好きじゃねえんだよ」

「じゃ、どう呼んだらいい? 」

と源太が聞いた。

「好きに呼べばいい」

と傀儡は返したが、源太は、

「いや、どう呼ばれたいかを聞いとんねん? 」

 源太がどういう思いでこれを聞いているかを傀儡はわかっていた。

「うるせえな。・・・じゃあ、傀儡師と呼べ。こいつは傀儡、俺は傀儡師だ」

「そうか、わかった。じゃあ、傀儡師、色々ありがとう。俺が今ここにいられるのは、あんたのおかげだ」

「やめろっ! 礼なんか言われる筋合いはない。このアホゥめ。俺の仕事は感謝されるもんじゃねえんだ」

 柄になく照れているのは何となく声で分かった。


「そう言えば、お前、どうする?」

 誰ともなく源太に尋ねた。

 それに対して源太は、

「俺か? そうだ、鬼子母、それで一つ言うことがあった」

「何だい、改まって」

「飯田の名前、返上すんねやろ。それ、俺がもらうわ」

「はあ? いや貰う言うても、そないに簡単な・・・ 」

「俺は元々、飯田源三郎に育てられて、名前かて一字貰っとる。十分すぎるほど条件は揃っとるはずや」

「ま、確かに、このアホよりもよほど筋が通っとる」

「足利将軍よりよほどな」

「はぁっ? いつから。とと様から将軍になっとんねん」

 虎之介にはもうわけがわからなかった。

 日が昇っている。何も無くなった小栗栖の地に陽光が差してきた。


 長い長い夜が、やっと終わったのだ。


 



 岡崎に戻り、即座に戦支度を進めていた家康だが、光秀討伐の戦支度と言いつつ、どちらかと言うと守りを固めているようにも見える。


 そんな中、服部半蔵を介して家康の下に三つの品がもたらされた。


 一つは、帝の書簡、もう一つは信長の首、そして、将軍家の太刀と脇差、義輝の花押の入った命名の書である。


 家康は本多正信を同席させ、半蔵の報告を聞いた。


「なるほど。ひとまずは安心と言う事か」

「信長公の首は如何しましょうかね?」

 正信が尋ねると、

「内々に京の寺にでも持って行け。今となってはあるだけ迷惑なもんじゃ」

「本当に死んだと分かれば、それで十分ですな」

「それで、この儂の一字が入った迷惑な将軍様はどうした? 」

 半蔵は答えた。


「それが、そんな者はそもそもいなかったと・・・」


「いない? いない人間を将軍に立てようとしておったのか? 」

「は、そのように聞いております」

「蓑虫という、その者、半蔵が間違いないと申す故、全て任せたが、誠にそのような話か? 」

「それについては間違いないかと、こちらにこれだけの成果をもたらしたことでも、仕事として申し分ない働きと存じます」

「ふ~ん・・・」

 家康はまだ半信半疑という感じではあるが、そこで正信が、

「殿、ほれ、これ。この輝若丸君は、確か生まれてわずか三月で亡くなれたと、記憶しております。あの光秀ですからな、死んでいなかったとして、どこぞの者を将軍に立てようとした、というのがおよその筋書きであったのでしょうな」

「確かにな。あの光秀じゃからな。儂はうっかり奴の騙りに乗せられるところであったか」


「さて、これで憂いは無くなったところで、これよりどうするかですなぁ」

「どうしたらいい? 正信」

「とりあえず、様子見ですな。織田家の内輪もめを静観しつつ、まずは旧武田領の信濃と甲斐をちょいちょい掠めるのが良いかと」

「うむ」


 ここで、源太の存在は完全に無かった者とされた。


 以降、この件に触れる者もいなくなった。


 そして、秀吉陣営へ光秀の首を土産にして参陣した虎之介と市松は、その働きをもって秀吉の家臣として取り立てられた。

 脇坂も許されこれに加わり、こうしてまずは百二十石取りとなった。

 虎之介にしてみれば以前より増えたし、市松については虎之介と同列になった。

 脇坂は降格だが、彼の場合は仕方ない。


 ここに、加藤虎之介清正、福島市松正則、脇坂甚内安治と、賤ケ岳の七本槍のうち三本が揃った。

 のちの活躍は、知っての通りであろう。


 これも鬼子母の先見の明と言えるのかもしれない。

 誰に何を持って行けば利益が出るのかを心得ていた。

 かわいい息子は、その後に肥後熊本四十万石の大名にまでなった。

 あのアホの虎之介がである。


 鬼子母と般若、そして鬼子母衆の七人は、その虎之介には付いて行かなかった。


 彼女たちは、未だにこの小栗栖にいた。

 耕作者がいなくなった農地にただ一人で残った源太を放っておけなかったのだろう。


 一人で面倒を見るのはさすがに広大過ぎる。

 作業を手伝う内にすっかり百姓が板につき、くノ一はそれぞれ旦那を迎え、それに伴い人が増えて行った。

 源太は広大な土地を持つ大地主となり、江戸期に入って庄屋となり、子々孫々と継いでいくことになる。


 そうこうして、あれから十年の月日が流れた。


 世の中はすっかり秀吉の天下となり、あの頃と比べて少しばかり世の中は良くなったとは感じる。

 百姓出身の秀吉だからかはわからない。


 鬼子母は、元小栗栖館であった小高い丘に座り、また煙草を吸っていた。

 鬼子母の目の前に、野原で遊ぶ子供たちがいる。


 般若が丘を登って来た。

「ああっ! 母上また煙草吸うて、もうやめときいや、歳やねんから。兄ちゃんから手紙来たわ。また大阪に来い言うとるよ。今はまだ「唐入り」の最中やろに」


 般若が鬼子母に手紙を渡そうとすると、男の子が手紙を奪って行った。

「あっ、こらっ! 」

 男の子は鬼子母の膝に座って、手紙を渡す。

「ああい、ありがとなぁ~」

 それはそれは優しい顔で、いや、もうほころびすぎて逆に気持ち悪いくらいだ。

 あの鬼子母も今やすっかりいいおばあちゃんになっていた。


「弁当持って来たんやけど、母上? うちの人は? 」

「わかっとること聞きな。百姓のおるとこなんて一つやがな」


「あんたぁーっ! ごはんやでぇぇーっ! 」


 丘の上から般若が叫んだ声は郷中に響き渡る。


「おーっ・・・! 」


 源太が鍬を持って、ゆっくり身を起こし、汗を払って袖で拭う。


 鳥の囀り、のどかな空気が包み込む。


 源太は思いっきり腰を伸ばして、大きく息を吸い込んだ。



「今日も、ええ天気やぁーっ!・・・京日和やのぉ」





                             了


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