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小栗栖綺譚  作者: 奈良松陽二
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本能寺の変の真相がついに明かされる、驚愕の第2編

第七章   真相・本能寺



 谷に落ちてしまった虎之介一行はと言うと、結局道を案内する石碑の字が読めず、市松たち第三隊がこの地に来たであろう道を通って行くということで、暗い中を進んでいたが、案の定と言うか、途中で道を誤ったらしく、迷っていた。


 やむを得ず、いつか街道に出るだろうと適当に進んでいたのだが、時刻は丑の刻も過ぎ、やや雲も出て月が隠れてしまう。


 本人たちは気づいていないが、彼らが行きたい方向とは逆に進んでいた。

 近くで川のせせらぎが聞こえてきている。おそらく山科川だろう。

 川を渡るともう山科である。つまり、大分と北へ来てしまった。


 ようやく街道に出られた。が、とにかく、暗くて何も周囲が見えない。

「もうええ、とりあえず火をつけえ。これじゃ、なんも分からん」

 戻って、逆襲する気満々だったので、敵に気付かれないよう明かりをつけずに来たが、結果的には余計迷っただけで何の為にもならない配慮だった。


 火をつけるにも一苦労で、時間を余計食ってしまったが、やっと辺りの景色を確認できたが、

「・・・どこやここ? 」

 どう見ても特に見覚えが無い。

 もう少し遠くまで見えたら、なんとなくわかりそうなものだが、明かりの届く範囲内だけでは全く見当もつかない。


「なんか川の音がしまんな」


( なるほど山科川の近くか・・・ )

とまではわかったが、それ以外の情報がない。

 

 すると、手下の一人がまた、街道沿いに立つ四角い影を指さした。

「見とくなはれっ! あっこにまた道案内の看板がありまっせ」

 形も文字もさっきの石碑と同じようだった。


「親方、さっきのことも考えたら、ここはやっぱり、あの看板に従うのが一番早いと思いまっせ」

「う~ん、せやけど。まぁ、わかった。とりあえず、この中で何か読める者おらへんのか? 」

と虎之介もそこは素直に聞いた。


 すると、手下の一人が手を挙げた。

「俺、少し読めまっせ」

「嘘っ? ほんまかっ? 」

 市松の顔が少し綻んだ。

 ただ虎之介は憮然として、

「ほな、なんでさっき、それ言わへんかってん」

 すると、手下は、

「いや、わし見ての通りやから、夜になると目が効かんのですわ。せやけど、そこを明るうしてもうたら読めまっせ」

 手下は片目で眼帯を付けていた。


「おう、ほやったか。かまへん、かまへん。明るく照らしたるさかい、ちゃんと読め」

 虎之介は丁寧に松明を石碑に掲げた。


 石碑には「右上醍醐村 左小栗栖郷」と書いてある。


「いや、そやかて、全部は無理でっせ」

「親方。この際、断片的でもわかったほうが・・」

「お、おおっ、そやの。おい、こらっ! ええか、行くぞ」

刀を指し棒代わりに使い、文字を差して行く。


「これはっ? 」

「それは・・。ちょっと、わかりまへん」


「ほんなら、え~・・、これはっ? 」

「ん~・・・。わかりません」


「何っ?・・・ほな、これは? 」

「あ~・・・、上」


「ほな、これ? 」

「右」


「はい、右目。0.6です」

「はい、じゃぁ、反対の目。・・って! 視力検査かぁっ! 」


 虎之介は刀を叩きつけた。





 源太の意識が戻って来た。

 どうやらもう自分は小栗栖館の中で寝かされているようだ。

「さっ、まずは、怪我人をこちらへ」

と声がする。さっきのくノ一だろうか。


 視覚も戻り、意識も完全に取り戻して、身を起こせるようなると、やはり館の中だった。


「あ、目ぇ覚めたんか」

と般若が声を掛けた。


 ふと横を見ると、すっかり治療を終えた光秀、いや、その身代わりの溝尾勝兵衛が座って、茶を飲んでいた。


「ああ、長兵衛とおつるは? 」

 あの二人の姿がない。


 いや、とにかく聞きたいことは、それだけではない。

「まぁ、待ちいな。今、順を追って話すよって」

 般若も、はやる源太を落ち着かせた。


「かたじけない。わしが手負いなばかりに」

 勝兵衛は改めて、姿勢を正して、般若に向かって礼を言った。


「礼を言うんは、まだ早いんとちゃうか? 」

 そこへ鬼子母がやって来た。


「うちらは、まだ身の振りを決めたわけやない。今のところ、中立なだけや」

 入って来ると、上座にどっかりと座って、煙草を吸いだした。


 溝尾勝兵衛は、明智家の重臣である。恐らく禄高も位も飯田なんかよりも上であるにもかかわらず、鬼子母のこの横柄な態度は、まさに、鬼子母が口にした通り、味方だと思うなという意思表示である。


 勝兵衛もまたそれを心得ているから、姿勢を崩さない。

 要するに、まだ人質と言う立場だとちゃんと自覚している。


「鬼子母。一体どういうことや? 」

 一人、自分の立場を全く心得ていない源太は、領主の実母に対して、極めて不躾な言い方で尋ねた。

 本当なら、これを聞いてキレるはずの鬼子母は、軽く流した。


「やかましいな。焦らんでも今から言うたる。よお聞きや。まず、あんたの話は後回しや。それだけこの1件は話が込み入っとる。溝尾殿、まずあんたに聞きたい。此度の本能寺の変、信長公襲撃の裏を聞きたいんや」


 この質問に対して、勝兵衛も覚悟していたのか、特に動揺することもなく、


「書簡の中身を読んだであろう。あの通りよ」


とだけ答えた。


「確かに、あの光秀が、なんで、こんな大それたことをやってのけたかは説明のつくものやった。ただ、その後が引っ掛かんねん。書簡の中身は、帝が出した「信長征討の密勅」。ただ、これだけのものがあったら、光秀には立派な大義名分があったいうことになる。腑に落ちんのは、ここや。

何故、これだけのものがありながら、山崎で、誰も光秀の味方につかへんかった? 」

 

 現代に至っても、光秀の謎の一つがこれである。


 確かに本能寺の後、安土城に入った光秀は、そこで数日も留まり、朝廷の使者を待った。

 これは、この「信長征討の勅」が欲しかったからだった。

 これで大義名分が整い、近畿一円の諸将らにも味方になる様に声を掛けたが、結果、ほとんどに袖にされ、挙句、娘の舅で盟友とも言える細川藤孝にも振られている。


 これは、当時の帝の権威というのが、思うほど強くはなかったからという説がある。


 それ以上に、光秀にとっての敗因は、大きく三つ挙げられている。

 一つは、信長の首級を挙げられなかったこと。遺体すら発見できなかったと言われている。


 二つ目は、戦略面だった。

 光秀の予測では、まず初めに攻めて来るのは北陸方面を担当していた柴田勝家と思っていた。

 だから初めは、自分も安土城にあり、兵力の大部分を近江の主要部分に配置して、朽木や京極な

ど、近江諸将もいの一番に味方につけた。

 つまり、決戦地はあくまで北陸道から南下する柴田軍を迎え撃つ前提にしていた。

 ここで、日程の前半部分を費やしている。


 三つ目は秀吉の中国大返しである。

 これは二つ目に関連しているのだが、近江中心に組んだ陣容を全部組み直して真反対の西側に全てを配置しなおさなければならなかった。

 しかも、その時間もほとんど無かった。

 さらに、近江も空にはできない。

 もしかしたら挟み撃ちになるかもしれない。

 ある程度の防衛線は確保しなければならなかった。

 結果、思うほどの兵を集めることもできず、山崎の合戦となってしまった。


 要するに、全てが後手後手であった。

 どう見ても、行き当たりばったり感が否めない。


 光秀と言う人物を賞する場合、どの資料においても、この本能寺の変以降の光秀の行動とは合致しない。

 それだけ、頭脳明晰で、軍略家としても優れ、用意周到で、策略家でもあった。

 にもかかわらず、この始末なのだ。


 これが、未だに謎となっている本能寺の変の動機説に大きく影響している。


 ついこの間まで、有力であった光秀の単独による怨恨説、または織田というブラック企業によって精神が病んでしまったノイローゼ説まであるが、これらによって、ほぼ衝動的に謀反を起こしたというのが、これまでの光秀との矛盾を解消しえたのかもしれない。


 昨今は、怨恨説はほぼ後世の創作、または捏造とされ、主な説として四国説などが有力だ。

 他に黒幕説などもかなり信憑性がありそうに支持されている。


 しかし、こちらはこちらで、信憑性もあり、動機としても納得できるのだが、逆に今度は事前と事後との光秀の矛盾と言う所が解決できない気がする。


 この事件の裏を、この溝尾勝兵衛は知っているというのか。

 

「誘導尋問か? 鬼子母とあろう方が、そんなまどろっこしい質問している時間は無いぞ。書簡の中身はそれだけではなかろう。むしろ、他の書面の方がよほど、重要で且つ、この事件の全容がわかる物であったはずじゃ」


「なるほどねぇ。確かにあんたは全部知っとったわけだね。重臣として奴に信用されとったわけだ」


「いかにも」


「ところが、あんたは、こともあろうに、この源太にあたしらを頼れと言うたらしいな? しかも、今こうしてここに大人しく座っとる。主が苦労して取って来た大事な書簡もうちらが持っているのを咎めもせん」


「いかにも」


「こら信用された重臣としてあるまじき態度と違うか? 」


「いかにも」


「うちが誘導尋問したなるのもわかってもらえるんちゃうか? 要するに、あんたはこの期に及んで主を裏切るつもりなんやな? 」


「・・・いかにもじゃ。ただこれだけは、拙者の名誉の為に申し上げる。先に裏切ったのは、何を隠そう主である明智日向守様の方だ」


 勝兵衛は語気を強め、堂々と言い切った。


「ほう・・・。ほな聞かせてもらおうか」

 鬼子母は身を整え、姿勢を正しつつ、やや前のめりになった。


「よかろう。この一件、全ての辻褄を合わせるのは容易な事。つまり、誰もが信じて疑わぬ当然の大前提から全てを覆せば良い」


「誰もが信じて疑わない、当然の大前提?」


 源太にとっては、特に興味もない話だが、鬼子母も前のめりになって聞こうとしている。

 水を差すのも悪いので、とりあえず話を聞くことにした。





 勝兵衛は、事の始まりから話し始めた。


 1582( 天正十)年四月、光秀は武田滅亡の際に、信長と共に甲斐に入り、武田家滅亡と残党狩りも終え、論功行賞を行い、後の戦後処理は信長嫡男の信忠に任せ、信長と同行して家康の接待で富士山を遊覧しながら、安土へ帰った。


 そして今度は、武田征伐の勲功をたたえる為に家康を安土に招待する。

 光秀はその饗応役を信長から命じられ、所領の坂本に戻った矢先にまた安土へと向かった。


 饗応役と言っても、ほぼすべての事は事前に信長が決めてしまっていて、特に何もすることがない。


 しかし、打ち合わせと称して、安土城の天主へ信長に呼ばれた。


 天主上層からの眺めは、何とも言えない気分にさせる。

 信長はとにかくここからの眺めが好きで、何もない時は日長ずっとここで南蛮酒を飲んでは、悦に浸っていた。


 光秀が階段を上がって、挨拶している時もそうだった。


 信長は、毎度のように唐突に本題から入った。


「家康を殺す」


 せめて顔を見て言って欲しいのだが、景色を眺めながら、ぼそっとでもなく割とはっきりと言ったから、聞き間違えることはない。


 しかし、あまりのことに光秀は、

「は? 」

と問い直してしまった。


 普段の信長なら、このやり取りだけでも、イラっとするが、今回は内容が内容だけに、いつものざっくりではなく、割と細かく事情を話し出した。

 

 家康を殺す理由は、大きく二つ。


 武田が滅んだ以上、東に脅威は無い。

 同盟関係を維持する必要もないし、一応臣下の礼を取ってるものの、織田軍団の各方面軍に組み込むのも難しい。

 第一、今や、三河、遠江、駿河の三国を領有する大大名で、扱いにも困る。


 もう一つは、以前に武田と通じている咎で妻と嫡男がそれぞれ始末されている件で、これは信長がやらせたわけでなく、あくまで家康の命で処分した話だが、実際はこれを恨んでいるらしい。


 さらに、その後においても武田とは繋がっていた節があるというのだ。


「いや、されどその武田も・・・」

と光秀が口にしたところで、信長が、

「最後まで聞けっ、金柑っ! 」

と怒鳴りつけた。


 話には続きがある。


 確かに武田は滅んだ。

 しかしながら、早くから織田や徳川に下った武田遺臣の中で、とんでもない計画を画策している者がいるという。

 しかも、朝廷や本願寺の強硬派、旧幕府関係者、そして、毛利を頼って、今鞆の浦にいる前将軍義昭も噛んでいるという。


「噂では、そこに堺の会合衆も噛んでおるとのことよ」

「堺まででござるか・・・」

「あやつらは、当然直接手を下さん。誰か実力ある奴を旗頭に立てるつもりよ。・・・光秀、そなたならば、誰を立てる? 謙信入道もくたばった。毛利もサルが押さえておる」


 光秀は思案するまでもなく即答した。

「徳川殿しか、おりますまい」


「であろう」


「しかし、殺すと言っても、一筋縄には行きますまい。折角、武田を滅ぼし、東に脅威が無くなった今、徳川殿を亡き者にすれば、領地は間違いなく荒れましょう。滝川殿だけでは抑えられぬでしょう」

「領国の者どもが文句を言えぬ程の証が必要、ということであるな」

「それを探れ、ということですか? 」

「・・・一筋縄にはいかぬな。義昭はともかく、あの公家どもが易々と尻尾を見せるとは思えぬ」


「それもでしょうし、徳川殿とて、そうでしょう。此度の安土への来訪においては、それこそ家臣数名をお連れの少数、到底、行動を起こすには無理がござりましょう」

「であろうのう・・・。あの小狸が、全く信用のおけぬ連中の口車に易々と乗るはずがない」

「とは申せ、徳川殿も近いうちにご自身の身が危ういことは薄々感じておるでしょうな」


「さすがに聡いの、光秀。ならば如何する? そなたが家康ならば、どうする? 」


 瞬時に光秀は今の織田家の状況を考えた。


 関東、北陸、中国方面へとそれぞれ兵を出している。

 畿内に残った主力と呼べる兵力は少ない。


 家康が兵を起こすとしても、織田領の尾張、美濃を抜けて、安土を落として、近江を抜けて京に入る。


(普通に考えても無理だな )


 ではどうする? 


 家康は今、嫡男の信康を失い、嫡子は側室から生まれたまだ生後間もない赤子。

 今、家康が死ねば、徳川は事実上滅びることとなろう、にも拘らず近臣のみを連れて、のこのこ殺されに来るか?

 いや、実際に来ると言うのだ。


 効果的に事態をひっくり返す方法となると、


(いや、あるっ! たった一つだけ、全てを可能にする大逆転の一手が)


 光秀の脳裏に浮かんだ方法は、余りにも荒唐無稽過ぎる。


 正直、誰得? とも思えるものだが、これなら、誰もが納得する。

 改めてもう一度、畿内の兵力を考えてみた。


(やはりだっ・・・、あったっ! )


 四国への出兵の為に、三男信孝を総大将、副将に丹羽長秀を据えた四国方面軍が今、出港予定の堺で集結中だ。


 安土での饗応の後、信長は京に入る。


 家康は、一旦堺見物に行き、その後、信孝と長秀を伴い京に上がって、再度信長に挨拶してから、家康は領国に帰り、信孝・長秀は堺に戻り出航する。


 段々と家康の目論見が見えて来た。


 これなら、全てうまくいく。

 しかし、これは信長には言えなかった。

 言えば、下手をするとこの場で斬られかねない程、あり得ないことである。


 光秀の脳裏に浮かんだことを察しているのかは分からないが、 

「そこでよ、光秀」

と信長は不敵な笑みを浮かべつつ、

「実は、サルが泣き言を言うて来よってな」

と書状を取り出し、光秀の前に放り投げた。

 光秀は拾って、書状にざっと目を通した。


 内容は、中国への援軍要請と信長に来て欲しいとの事だ。


 光秀は、訝しく思った。


(矛盾しているような・・・)


と思うのも、戦況が苦しいから援軍を寄こして欲しいというのはいいが、問題は信長に来て欲しいという所だ。

 信長が来ると言うことは、もう決着が着くということを意味する。

 最後の〆の大戦で、最終的な戦後の論功行賞の手続きも兼ねて呼ぶものだが、まだ、備中高松城で水攻め中のはずである。

 さらに、苦戦していて援軍が欲しいという状況なのに最終決戦というのはおかしい。


 仮に苦戦していて、士気高揚の為に信長に陣中見舞いをして欲しいということとしても、いつ背後を毛利勢に付かれるかもしれないところに、信長を迎えるのはあまりにも常識外れだ。


「もしや、既に毛利と話がついているという事でしょうか? 」


 信長は、それを聞くとかなり喜んだ。

「これに乗って、網を広げて、罠にかける」


 信長は光秀に、援軍として出兵するように言った。

「当然、これは表向きのことよ。わしは、サルの要請を受けて京に入った後、中国へ向かうことにする。そのことは、岐阜にも伝えた」


 これを聞いて光秀は、信長も自分と同じ考えだと悟った。


「よいか、六月二日ぞ。この日、家康は堺からこの京に入る。そなたは丹波から軍を率いて、夜が明ける前に京に入れ、サルにも二日に決する旨は伝えておる。それに応じて、すぐに陣を払い、京に戻る手筈はすでに整えておろう」


「念の為、鳥羽あたりにも布陣しておいた方がよろしいですな。あとは岐阜と三河の動きに対応するためにも、近江を厚めにしておくことが肝要ですな」


 信長は、嬉々としているようだ。


( なんと豪胆なことだろう)


と、光秀は思った。

 罠とはいえ、前日まではわずかな手勢のみである。

 ここで、早めに動かれては、身の危険もあろう。

 それでも、まるで子供がいたずらを計画しているような、今のこの無邪気さはなんなのだろう。


 打ち合わせを終えると、光秀は早々に饗応役を解かれ、坂本経由で京に入り、有力公家衆の屋敷を回って、丹波に入った。

 安土城での家康の接待は何事もなく終わり、家康は供回りと、武田遺臣の穴山梅雪と共に、かねてから希望していた堺見物に向かった。


 それを見届け、信長は、嫡男の信忠と共に京に入った。




 

 宿所はいつもの本能寺。

 信忠は、妙覚寺に入った。


 この時、信長の供回りは約百余り、信忠は五百余りを引き連れ、それぞれの宿所に入っている。

 また、京には信長の馬廻衆約千余りがおり、これは各々分宿する形となっていた。

 ちなみに、京都所司代村井貞勝は、本能寺のすぐそばに居を構え、位置的には妙覚寺との間にある。


 信長が多忙の中で、どうしても京に入らねばならない事情があった。


 それが、朝廷との間の懸案事項であった主に三つの問題である。

 一つは、今上帝である正親町天皇から誠仁親王への譲位問題。

 二つ目は、帝・朝廷の専権事項であった暦についての介入問題。


 そして、特に今回において最優先事項が、世に言う「三職推任」問題である。


 この問題については、三月に京都所司代村井貞勝を通じて話が出て、五月にも安土城に朝廷から勸修寺晴豊が来て、改めて朝廷として信長に対し、三職、つまり、太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかの職に推任したいというものだったが、信長は未だ回答を保留したままだった。


 前の二つの問題についても、信長は譲歩することなく、朝廷に迫っていた。

 朝廷としては、帝の譲位や暦のことなど朝廷内部の専権事項に口を挟まれたくない。

 できれば、適当な官職に就いてもらってコントロールしたいという思惑があるのだろう。

 いや、それ以上に、もしかしたら、朝廷そのものを解体し、帝の権威すら危ぶむことを考えているかもしれない、という危機感すらあったのかもしれない。


 近年の説において、信長にそんな気は毛頭なく、むしろ権威を尊重していたと見ている。

 確かに、そうかもしれない。

 ただ、本人はそうでも、相手方はそう考えていないかもしれない。


 その証拠に、六月一日、改めて勅使として勸修寺晴豊を本能寺に迎えたが、結局、ここでものらりくらりと返事を保留している。


 そのあとは、のんびり自慢の茶器など名品をずらりと出しながら茶会を催し、一日が過ぎた。


 光秀はというと、丹波亀山城に入ると、すぐに出陣の準備にかかり、自身は愛宕神社に詣でた。

 そこで連歌会に出席し、世に有名な上の句を披露するわけだが、あれは後世に改竄された疑いがあるという。


「ときは今 あめが下しる 五月かな」


というもので、これはこう読み取れるとされている。


「時は今( 土岐は今 ) 天が下しる 五月かな」


 要するに、今、この時に土岐氏の支流である自分が、天下をとる五月かな、という解釈となる。


 しかし、実は「あめがしたしる」ではなく「あめがしたなる」だったと主張する人も出ている。

 こうなると、解釈上はただの梅雨の句である。

 

 また、同じく愛宕神社で吉が出るまで何度もおみくじを引いたという話もある。

 これも後世による創作というのが主流らしい。


 しかし、この中での光秀の心情であれば、それもアリな話かもしれない。


 彼は、まさに高揚していた。


 城に入るなり、出陣の触れを出した後、重臣のみを呼び、一室にこもって密談をした。

 内容は当然、この信長の家康暗殺計画である。

 さらに、この城への途上で京に寄り、様々なルートを使って入手した証拠まで手に入れていた。


 家康を討つ大義名分と共に、この計画のすべてを話した。

 これを聞いて、最も興奮したのは斎藤利三だった。

「誠ですかっ? ならば、四国征伐もその為に信長公が労した策の一つであったとっ? 」


 このことで、斎藤利三がなぜ興奮しているのかというと、近年、主流となりつつある動機の一つとして四国説がある。


 これを長々と説明する気はないので手短にいうと、四国については長曾我部の切り取り次第というお墨付きを与えることで長曾我部は信長に臣従することに同意した。

 この交渉を光秀が請け負っていた。

 とはいえ、実際に動いていたのは、長曾我部家に繋がりを持っていた家臣の斎藤利三であった。

 このままなら、万々歳だったのが、突然、信長の気が変わった。


 最近になって、敵対していた三好が臣従してきたので、いい恰好がしたかったのか、讃岐と阿波の北半分を安堵してやると決めてしまった。


 言ってしまったら後に引けないので、長曾我部に以前の約束は反故にして、土佐一国だけを安堵してやると言って来い、と無茶ぶりされたのである。


 せっかく仲介してきたのに、いきなりはしごを外された格好となり、光秀、ひいては利三に至っては、メンツ丸つぶれで、正直、そんな手の平返しは言いたくないだろう。

 でも言わねばならない。


 言われた長曾我部は、案の定、それはそれは烈火のごとく怒った。


 結果、話をまとめきれなかった光秀は役を下ろされ、長曾我部は成敗となり、四国征討が決まったということだ。

 一説では、後になって長曾我部が折れて土佐一国で我慢するとなったが、それは手遅れだったらしい。

 とにかく、その四国征伐が六月二日に出港予定だったことから、どうしても、出港前に信長を討つ必要があったというのが四国説である。


 とはいえ、ここでは関係がない。


 利三は今にも泣きそうな顔して感動している。

 光秀は、

「ああ、その通りだ」

と言ったから、とうとう利三は大きな声で涙を滝のように流して泣いた。

 当然、嘘だ。

 そう言うだけで利三はこれまでの不満を水に流し、信長の為に粉骨砕身働くだろう。 


 光秀にとって、四国の事でメンツが潰されたことは、確かに腹立たしく思っていた。

 しかし、今この事態において、そんなことなど最早どうでもいい事なのだ。


 光秀が高揚しているのは、今、この自分だけが全てキャスティグボードを握っている。

 盤上におけるあらゆる駒を自由にできる権利を得ている。

 歴史を大きく変えるであろう局面において、そのハンドルを自分だけが握っている。

 あの天下の織田信長の生殺与奪の権を持っているのだと思うと興奮が収まらない。

 その高揚と興奮は、重臣たちにもわかったくらい、普段の光秀にはあり得ない程だった。

 

 となれば、家臣たちも今までにない主のテンションに触発されて、一気に盛り上がった。

 一部では「天下じゃ、天下じゃ」と曲解して盛り上がりもしたが、光秀は、いちいちそれを諫めることも訂正することも無かった。


 当然、その中に、勝兵衛もいた。


 

 


 光秀は予定通り、一日の夜に、丹波亀山城を出発。総勢一万三千。

 重臣たち以外の家臣には建前通り中国の援軍と伝え、進軍させて、途中、山陰道から老ノ坂に入ると総員に向けて発したのが、有名なセリフであった。


「敵は本能寺にあり」


である。


 しかし、重臣は当然ながら、家臣や一兵卒に至るまで、信長を討ちに行くという認識はない。


 当然である。

 元よりそんな計画ではない。

 本能寺にいる主君信長を助け、逆臣徳川家康を討つという計画だからだ。


 ということで、このセリフは、切り取りで、本当は

「(討つべき)敵は本能寺にあり、(信長公をお救いあそばすのだ)」

となる。


 とにかく、兵はそれを聞いても一人も抜けることなく、夜半には桂川西岸に着いた。


「夜明け前に京に入れ」

という信長の指示通りに動いている。


 しかし、信長はなぜ夜明け前には京に入れと指示したのか。


 その理由は、時間を少し戻して、光秀が丹波を発した頃、場所は本能寺にあった。


 茶会を終え、客人たちは帰って行った。残っているのは九州・博多商人で島井宗室くらいで、彼はここに泊まることになっていた。

 本能寺には、供回り以外、信長とそして今日一日一緒に同席していた信忠だけになった。


 かなり久しぶりの親子二人きりの時間となったが、これは当然偶然ではないし、まして、今から親子同士でノスタルジックに浸る時間でもない。


 信長は敢てこの時を作った。


 信忠もどうやらそれを察しているのか、今日一日ずっと顔がこわばって見えた。


 特に、勅使との面会を終えてからは、より顔が険しくなっていた。

 若干、汗もかいている。

 季節的に暑さのせいかもしれないが、それだけでもないのは、顔色を見てもわかる。


 信忠は、ようやく口を開いた。


「・・・父上。なぜですか? 」


 何が? とは信長は返さない。まだ黙っていた。


「なぜ、推任をお受けになられなかったのですか? 」

 信忠は、かなり語気を強めて尋ねた。


(なるほど、そういうことか・・・)


 信長はそれで全てを察したようだった。


 そう、家康が画策した計画の実行者は、なんと嫡男・信忠だった。

 普通に考えればあり得ないことである。


 信忠ならば、黙っていても父から権力・財力共々すべてが受け継がれるわけだから、何も得することなどないはずである。

 まして、周りからもその優秀さを称えられ、父親からも信頼されている。

 廃嫡などの理由から父に刃向かって討つ話は戦国期において珍しくもない。

 ただ、そんなこともないのに、なぜ信忠が、と、そう思うのは無理からぬことだった。


 ただ、信長の思う所として、その動機の一端は、信忠が言った三職推任の件に関わることのようだ。

「なぜ? 」

と信長は敢て尋ねない。


ただ、

「いつからだ? 」

とは尋ねた。


「武田攻めの折からです」

と信忠は答えた。


(やはりな・・・)


 信長は、それで自分の予想通りだったと理解した。


 いわゆる二代目の重圧であった。それをうまく利用されたのだ。

 信忠の感じている重圧が如何ほどか、信長にさえわからない。

 ただ、本人にすれば、余りにも巨大で強大であるだろうし、日本中の憎悪を一身に受ける恐怖すら感じていたかもしれない。

 ある意味、先例のある地位を継承するならば覚悟もできるし、自分が引き継いでどうこれをまた次へと引き継いで行けば良いかはわかる。

 それぐらいなら問題なくやれる能力があるのだ。


 しかし、この父である信長は、その先例すら打ち破り、前例にない高みにまで登ろうとしている。

 三職推任など前代未聞の提案であるにも関わらず、これを一顧だにせず無視し、あまつさえ、触れることさえ憚られる帝の専権事項にまで手を突っ込んでいる。


 信長一代ならいい。

 天下を平らげ、納得行くところまで勝手に上り詰めればいい。

 しかし、自分はそれを継承しなけばならないのだ。

 その想像もつかない高みに付き合わなければならない。

 信長が仮に到達し、そこで息絶えれば、後に待つ地獄を自分一人が一身に負わねばならないのだ。


 もはや、これは信忠たった一人が味わう恐怖であろう。


(今日、推任を受けてさえくれれば、実行する気はなかった)

 信忠は、ただただ悔やんでいた。父を放逐、最悪の場合、手にかけねばならないことにである。


 信長以外、信忠も家康も光秀も、結局は常識人であった。


 この当時の常識から外れようとは思っていない。

 極めて真面目で律儀であったのだ。

 この時代における日本の慣習や規律、道徳、伝統、格式などからはみ出すことなど考えもしない。

 当然、それが日本中の民を須らく統治するのに最も早く、的確で、適切で、簡単であるからだ。


 信長については定かではない。

 本当に常識をも覆すほどの破壊者なのか、あまりにも途中でいなくなってしまったので、彼の思う世界がどうであったのかは正直わからない。

 意外と普通だったのかもしれないし、逆に相当ぶっ飛んでたのかもしれない。

 後世の我々にしても、なんとなく後者であってほしいと願うし、期待もしてしまう。


 では、同じ時代を生きる者としてはどうか?


 わからないし、予想もつかない中、それは願うことができるだろうか? 

 期待できるのだろうか?


 否っ!


 恐怖でしかない。


 特に既得権益を持つ者たちからすれば、早々に排除すべき人間でしかないだろう。


 この者たちの思いを一身に受け、その思いを背負う宿命にある常識人は、父に引導を渡すことで、背負う荷を少しでも軽くしたかったのだ。


(気持ちは察するが、まだ、止まるわけにはいかないのだ)


とは言わないが、信長は信忠に言った。


「明日、家康に腹を斬らせる。全てそれで終わりにする。よいか、責任は全て家康一人に負ってもらう」

つまり、信忠は不問とするというのだ。


 信忠にはこれまで通り織田家を背負ってもらうというのだ。


「よいな」

 信長は念を押した。


 これは信長が最愛の息子だからこその、最大の譲歩であり恩情であり、そして最後通告であった。

 

 信忠は、黙ってただ平伏し、本能寺を出た。





 本能寺を出た信忠は、その足で村井貞勝の屋敷に入った。


「計画が露見した。すぐに掛かる」

と言って、妙覚寺に帰った。


 受けた村井貞勝は、その言葉を聞いてどういう気持ちだっただろう。


 それはもう引くに引けない状況になったということだ。

 何せ、三職推任を進めたのは貞勝だったからだ。

 計画については、信忠から受けていたが、当初は信忠もできるなら最悪の手段を使う前に、事を収めたいという思いが強かった。

 そこで、朝廷側の意向を引き出し、信長がそこで納得してもらえれば、事は丸く収まると思って進めたことだった。


 しかし、事態は最悪の結果となった。

 事が露見すれば、信忠はともかく自分は間違いなくおしまいだ。

 こうなった以上、後には引けない。

 ただ、信忠は肝心な事を貞勝に言っていない。

 信長は家康一人に罪を負わせ、他は不問にする、と言っていたのである。


 信長という人物をして、裏切りには容赦がないと言うイメージが定着しているが、そうではない。

 何度か裏切られてもこれを許している。

 それでもダメな場合に苛烈なまでの処置をしている。


 当然、貞勝もそれを知っている。

 現段階では信長に良かれと思ってやったことで、しかも跡継ぎの信忠に言われてやったことだ。


 それを聞けば、間違いなく家康を切り捨てて、信忠に計画中止の説得をしていただろう。


 ただ、不幸にも貞勝はそれを聞いていない。

 彼は急いで、京にいる馬廻衆に招集をかけた。


 妙覚寺に帰った信忠は、供回りにも同様に言った。

 その中に、信長の弟である長益(後の有楽斎)もいたが、彼には計画の事も何も伝えていなかった。

 そもそも信忠にとって、あてにできない叔父とされていたようだ。

 これが後年において、謎を深めることになるのかもしれない。


 叔父・有楽斎が一切知らない中、準備は粛々と進められた。

 

 妙覚寺勢五百、馬廻衆千余り、総勢千五百。

 対する本能寺にはわずか百余り。勝敗は決まったようなものだった。


 計画の全容としては、こうだった。


 家康は、まず自分の手を絶対に汚さない策を取った。

 誰かに汚れ仕事を請け負ってもらうのが一番だ。

 かつ、絶対に自分が安全圏にある方がいい。

 しかも、汚れ役にはそれなりに感謝され、後々、重用してもらうのが望ましい。


 自分の領地に対して緩衝地帯となる地域の領主。

 事が起こった後も、できれば騒乱とならない人間。

 もはや、候補は一人だけである。安土と三河の間、美濃、尾張を領する織田家の惣領、信忠である。

 愛する妻と最愛の嫡子信康を失った後に家康は、この計画を遂行する機会をずっと待っていた。

 事の原因となった武田ももはや風前の灯である。

 早くから、武田との交渉役に当たっていた穴山梅雪を味方に引き入れ、北条との同盟を結び、極秘裏に朝廷ともつながり、これをネットワークにして本願寺派、毛利らとも連絡を取り合った。


 武田攻めも最終局面となり、総仕上げの総大将として信忠が任命された。

 これを機に、信忠説得に動いた。

 説得は難航したが、信忠の心を動かしたのは、恵林寺の事件であった。


 武田の残党が立て籠もり、これをかくまったとのことで、残党含めて寺の僧侶、寺領の民もまとめて堂に閉じ込め焼き殺した。

 この際、この寺の住職は朝廷にも深くゆかりのある快川紹喜上人もいた。

 この時、燃え盛る炎の中で、快川和尚の言った言葉が有名で、


「心頭滅却すれば火もまた涼し」

というのである。


 これは、信忠の命じたこととされてもいるが、当時、論功行賞に来ていた信長の命によるものともある。


 が、いずれにしても、信忠の本意によるものではなかった。


 信長の、ここぞという時の非情さはこれまでも間近で見てきたが、積もり積もったものがあったのだろう。

 また、これまでの説得の中でも心のどこかにそういう行為に何かしらの嫌悪感を孕んでいたのかもしれない。


 とにかく、ここから信忠は変わった。


 村井貞勝に朝廷工作を進めつつ、穴山梅雪ら武田旧臣などを通じ、家康との間で、クーデター計画を具体的に進めた。

 三男信孝が四国征伐の総大将となることで、信忠自ら信孝を説得し味方につけた。

 副将の丹羽長秀も結果として有無も言わさず味方に引き入れた。


 安土での饗応の後、家康は堺に行き信孝と合流し、2日の際は四国方面軍を引き連れ上京する。

 信忠は、信孝軍が到着前に、信長を拘束しておく。

 軍による完全包囲の中、信忠、信孝、長秀、家康の4人でもって、信長に隠居してすべての指揮権を信忠に相続させることを迫る。

 聞き届けられねば、やむなく信長を討つ。


 その後に事変に気付いた織田家諸将の対策として、目下の脅威は中国に進軍中の明智光秀だが、これは山陰道を通るならば、先に味方に引き入れた細川藤孝が説得役を買ってくれた。


 次に、北陸の柴田勝家については、若狭と佐和山を領する丹羽長秀が防壁となり、勝家を説得する任に当たる。 


 こうすれば、特に荒れることなくスムーズに継承が進み、信忠は父に代わって征夷大将軍となって天下に号令がかけられる。


 家康にとっては勲功第一として、地位が約束され安泰ということになる。


(とまあ、そういう絵描きであろうなぁ。されど、そうはいかん、この光秀が全ての絵を塗り替えてやろう)


 光秀は、桂川渡川を全軍に触れ、斎藤利三を先発させ、本能寺に急行させた。


 信忠が、予定を早めて先手を打たれては元も子もない。

 向こうがおよそ千五百、こちらは一万三千。


 数の上では勝っているが、信長の身柄を押さえられると、不利になる。

 下手をすれば、信長は殺され、自分に謀反の罪を被せてくることも考えられる。


(この戦、信長の身柄を押さえた方が勝つ)


 とにかく、向こうより先に本能寺を押さえることだ。





 午前3時前、妙覚寺に集結した総勢千五百が本能寺に向かう。


 信長は当然、就寝中である。


 当時の妙覚寺と本能寺との距離は約1.2km。出発から到着まで時間にすれば15分から20分程度だろう。


 部隊が本能寺の裏表を包囲し終えるにしても、30分位で十分だろう。


 門番にしても、信忠配下の者や馬廻衆が、警固につくからと言われれば、疑う余地など何一つ無く信用するだろう。


 こうして、午前4時前には、何の問題もなく本能寺の包囲を完了した。


 ここから、信長を確保する為、表門、裏門からそれぞれ突入する。


 信長の寝所は本殿奥の建物で、裏門の方が近い。よって裏門から侵入した部隊が信長確保の実行部隊となる。

 とすれば、表門側で騒ぎを起こし、そちらに注意を向けさせた後で、裏門部隊が入るという手筈にした。

 しかし、ここで彼らにとって想定外の事態が起こる。


 先発した光秀配下の斎藤利三隊が到着、まず表門の包囲隊とぶつかった。

 続いて、裏門に回した利三隊も裏門主力と戦闘になる。


 とにかく、驚いたのは信忠勢もさることながら、本能寺にいた信長の供回り衆だろう。

 全く知らないうちに、寺のすぐ外でいきなり誰かと誰かが戦闘状態になっている。


 ここで、信忠勢は、クーデターでしかも少数で襲うこともあり、正規な兵装でもなかった。

 

 まして敵味方の区別もあまり想定していなかったので、上り旗も多く掲げなかった。


 対して明智勢は当然完全武装で上り旗も多く掲げていたので、〝はた〟から見れば、まるで明智勢が攻めて来たように見えるのは無理からぬことだった。


 光秀にとって、これが後に大きく関わってくることになる。


 表門の戦況は利三隊が優勢で、門はすぐに押さえることができた。

 利三隊は門の守りを固めつつ、本能寺になだれこんだ。

 裏門ではまだ戦闘は押したり引いたりと続いている。


 すぐ近くの村井貞勝邸で待機していた別動隊が妙覚寺に向けて急報を走らせた。


 急報を受けた信忠は、一気に青ざめた。


「なぜ明智がここに来るっ? これは罠かっ! 」

「如何いたしましょうか? 」

 村井貞勝も急転直下の事態に気が動転している。


 この急な来襲を予測できていなかったのは仕方がないにしても、普段は機能していた京の辻々に設置していた木戸が、全員招集したために、無人となり、察知できなかったのが問題だった。


 敵は明智の軍というのは間違いない。

 数も二千程度というからには、後続もすぐに来る。

 中国への増援軍の数は一万三千と聞いていたからだ。

 その数なら本能寺ではなく、直接この妙覚寺にも来る。

 いや、より分散させて京中を包囲することも可能だ。


「これはもはやお逃げあそばすのが、良策と心得まする」

 貞勝は信忠に進言した。


 もはやクーデターは失敗したと思っていい。


 信忠は貞勝の進言に首を振った。


「もはや逃げ場はない。事ここに至っては、せめて父と刺し違える覚悟で一戦交えるのみ。なんにしても、この寺では迎え撃つにも不利じゃ。場所を変える。二条御所に移るぞ。本能寺の者どもにも一旦、兵を引いて二条御所へ参るよう伝えよっ! 」


 そう言うと、引き留める貞勝を振り払い全員で、誠仁親王のいる二条御所に移った。

 ちょうど、移った直後に光秀本隊が到着。

 一気に二条御所を包囲した。


 その頃、本能寺では、さらに想定外の事態が起こっていた。


 境内に入った利三隊だが、中の守備に当たっていた信長の供回り衆は完全に勘違いをしており、寺を守りたくても中から襲われ、やむなくこれを迎え撃つから誤解はさらにふかまってしまっている。

 利三は必死に誤解を解くべく、信長への接見を訴えるが、蘭丸含め近習たちも信長に対して明智光秀の謀反と報告してしまっていて、通してもらえない。


 混乱状態が続く中、客人や女子供は逃がすべしとして、博多の豪商島井宗室や女子供が外へと逃がされた。


 これにより、明智光秀謀反が世間的に流布される結果になることをまだ誰も気づいていなかった。

 

 最悪な事態は、まだ続く。

 誰がつけたかわからないが、寺に火がつけられた。


 利三は焦った、それはそれは、焦った。


 信長を救いに来たのに、これでは襲いに来たと同じになってしまう。

 

 下手をすると、最悪の事態になる。

 最悪の事態とは、当然、信長の自刃である。


「もはや、一刻の猶予もならん。四の五の言うておれん。・・・明智日向守家臣斎藤内蔵助、火急の要件にて押して通る。邪魔する者あらば、斬って捨てるもやむなしっ! 左様心得られよっ! 」


と叫んで、奥の間まで、言葉の通り突進して行った。


 二条御所においては、誠仁親王以下御所にいた者たちは、行ったん停戦した上で御所から退避いただいていた。

 その際に、何の事情も聞かされていない織田長益(有楽斎)も、これに紛れて逃げていた。


 戦闘再開となっても、明智方からは何度も降伏勧告が出されていたが信忠側はこれを黙殺していた。

 この本隊を指揮していたのは、重臣明智秀満で、光秀からはくれぐれも信忠は死なせるなと厳命されていた。

 これは、光秀というより信長からの命でもあった。


 しかし、その思いもむなしく御所に火がかけられた。

 信忠は自刃。後を追って村井貞勝以下近臣も自刃した。

 

 そんな中、光秀は、鳥羽に別動隊を率いて布陣していた。

 信孝率いる四国方面軍を迎え撃つためである。

 京での戦況はまだ届かないが、信長・信忠父子の身柄を確保次第、本隊はこの鳥羽にて合流するよう言ってある。


 夜が明けようとしている。

 日が昇り、完全明るくなった頃に、戦況が伝わった。

 報告を聞いた光秀は、ただ、


「あいわかった」


と一言だけ言った。






 夜半に起こったこれらの事は、昼過ぎには堺にいる家康の耳にも入った。

 同時に信孝、丹羽長秀の下にも届いた。


 入った知らせは同様に、「明智光秀謀反、本能寺急襲さる」というもので、信長・信忠の生死までは伝えられていない。


 事情を知らぬ者からすればそれを鵜吞みにもするかもしれないが、この三名にとってはそれは全く違うものとして理解した。


「失敗した」


ということなのだ。


 話は少し変わるが、かねてより疑問に思っていたことだが、この一報によって家康は逃走し、世に有名な「神君伊賀越え」をするのだが、これはこれとして。


 問題なのは、信孝率いる四国方面軍である。


 本能寺の変後、畿内の唯一の勢力で、兵数も光秀と同じく一万三千を有し、かつ総大将は、それこそ信長の三男、神戸信孝であり、副将は二番家老の丹羽長秀である。


 普通に考えれば、当然軍容を立て直し、光秀征討と合わせ、織田父子の安否を確かめるべく、すぐさま京に向けて進発すべきであろう。


 ところが、この一報を聞いて軍は四散してしまったという。

 やむなく現地に留まり、防御を固め、秀吉の到着を待って合流した。


 一説によれば、信孝、長秀ともに岸和田で接待を受けていたため、一報が届いた際不在してたことにより混乱を収められずに四散したともいうが、にわかに信じられない話と思っている。


 もう一度言うが、この一報においては、光秀の謀反により本能寺が襲撃されたとはあるが、肝心の信長の生死については不明となっている。

 にもかかわらず、大将不在とあっても、ここまで混乱して兵を動かせない程四散するものだろうか。


 しかし、もしも信忠によるクーデターに加わっていたとしたらどうだろうか。


 信忠の生死が定かでなくとも、少なくとも計画が失敗に終わったことは察しが付く、その上で重要なのはむしろ信長の生死である。

 これが不明ということとなると、全く話は変わってくる。

 光秀の謀反は、あくまで表向き、計画は信長に露見しており、策によって失敗したと考えるのが、当事者としては妥当だろう。


 その証拠に、計画の首謀者である家康は、知らせを聞くなり一目散に逃げ出している。


 およそこういうことならば、兵が四散するのにも納得がいく。


 しかも、この二人は、光秀と繋がっているという理由で家康の堺での接待役をしていた信長の甥で、信孝にとってはいとこにあたる津田信澄を殺害している。

 津田信澄は信忠とは同年代にあたるいとこであるし、家康の接待役ということからも、光秀が舅であるだけで殺害されたのはなんとも解せない話だ。

 

 家康も伊賀越えの途中で、同行していた穴山梅雪ははぐれてしまい落ち武者狩りか山賊か野盗かはわからないが命を落としている。

 これも、どこまで信用できるかわからない。


 とはいえ光秀は、この時忙殺されていた。

 というのも、すっかり謀反人扱いをされてしまっていたからだ。

 これは単純に本能寺において生じた誤解によるものではなかった。

 いくら弁明しようと文を出しても、すべて覆されてしまう。

 何者かが意図的に光秀を謀反人に仕立て上げているのだ。


 何者とは言え、誰かは分かっている。

 光秀は自分こそが唯一盤上の支配者だと思っていたが違う。

 もう一人、全てを知っている男がいた。

 その男は、遠く中国からかねてよりの計画通りに急速で戻って来ている。


 そう、羽柴筑前守秀吉、信長からサルと言われた男である。


 農民上がりのくせに、その要領の良さと機転の早さと稀代の人たらしで出世し、今や中国方面軍の総大将であり、自分と同様に信長から今回の計画を明かされたことからも信長からの信用は厚い。


 この男は何を思ってか、中国大返しの忙しい最中にも拘わらず、光秀の送る書状の全く逆の事を相手に送って来ている。

 ひどい話だと、光秀の名をかたって、謀反の大義を熱く語った書状まで送りつけてもいた。


 生死を知りもしないのに、光秀より先に「信長公は生きていて、今は膳所にいる」とかを書いてばらまいている。


 これでは、光秀が後に、信長様は生きていると書いても信用してもらえない。


 秀吉の狙いはわかっている。

 このまま、光秀を謀反人に仕立て上げ、信長もろとも殺して、自分が天

下に躍り出ようとしているのだ。

 そう言うことに長けた軍師が向こうにいる。あのサルにいらぬ入れ知恵をしているのは、どうせ黒田官兵衛あたりだろうと察しは付いている。

 

 とすれば、こちらも手をこまねいてる場合ではない。

 このままだと、秀吉の策に嵌って、勝てぬ戦に誘い出され、謀反人として後世に名を残し死んでいくことになる。

 情勢は不利だ。

 古くからの盟友である娘の舅である細川藤孝も、要請にこたえることもなくダンマリを決め込んでいる。

 但しこれは、信忠の計画に賛同していたから、光秀の要請には乗れないという事情があったからだったが、光秀もそこまでは知らない。


 光秀は、迫る決戦に至るまでに、第二、第三、第四のシナリオを作ることに忙殺された。

 


 勝兵衛の話を訊いて、鬼子母はどことなく納得したような感じだった。

「なるほどねぇ・・・、つまり、この書簡の中身こそ、その第二、第三、第四の筋書きってことさね」

「それらを活かすのに必要不可欠なのは、当然信長公ではあるが、主は秀吉も知らぬ、もう一つの切り札を用意した。いや、これはもうだいぶ前から用意していたものなのだが、それをようやく使う時が来た」


「なるほど、それが・・・」

と言って、鬼子母は源太の方を見た。


 事情を聞いても、やはり全く理解できなかった源太は鬼子母や般若の視線が自分に向けられることにただ視線をそらして下を向くことしかできない。


(もう嫌や。我慢できへん)


「もう、そんな話はどうでもええっ! 俺が知りたいのは、おじじが誰に、なんで殺されたんかってことだけや。もうええ加減に教えてくれっ! 」


 そう言うと、鬼子母も般若も勝兵衛すら、きょとんとした顔をした。

 まるで、お前まだそんなこと気付かないの? と言わんばかりだ。


「あれ? 俺がおかしいんか? いやいや、そんなことあらへんっ! 」


 般若が改めて尋ねた。

「ほんまにおじじから何も聞いてへんの? 」


「だから、何がっ? 」

 鬼子母まで、不思議そうにまじまじと源太を見て、

「ほんまに何も知らんと育てられたみたいやな」


「だからぁっ」




第八章  奉戴



 虎之介と市松たちは、街道の石碑の前で、字と格闘していた。


「ほな、これは? 」

 眼帯の男は、目を凝らして、

「右」


「視力検査ちゃうって言うとるやろっ! いつまでボケとんねんっ! 」

そう言われても右は右なので、 

「右は右でんがなっ! 」

と眼帯の男も少しイラついて答えた。


市松も男に気を使って、

「いや、親方。それは、右でっせ」

とフォローしたのだが、もう完全にネタを引っ張っていると思い込んでいる虎之介は信じてくれない。


「ほな、右の下は、何て書いてあんねん? 」

「小さい」

とこれも素直に男は答えたのだが、

「ほれ見ぃっ! 字が小さいからわかりませんとかいう、またボケかますやないか! 」


 さすがに小さいくらいは読める市松はいい加減進展しない状況もあって間に入った。

「いや、それ、ほんまに小さいでっせ。」

「なんでやねんっ? 右と変わらへん大きさやんけっ! 」

「字の大きい小さい言うてんとちゃいますねん。字が小さい言うてますねん」


 市松もボキャブラリーが乏しい。

 もっと言いようはあった。


「・・?・・・いや、それ一緒やろっ! 」

と、当然そうなる。


「そやから、ちゃいますねんてっ、字が小さいっちゅう字や言うとるんです! 」

「わけわからん」

「何でわからへんかなぁ・・・、このアホは」

 ついに市松も、イラついて吐き捨てた。


「何やとぉっ! 今、お前何ちゅうた? こらっ! アホ言うたな? アホ言うたやろっ? なぁっ? 」

 アホなのは自覚してるが、自分と変わらんアホにアホと言われると無性に腹が立つ。

 しかし、市松は市松で、その気持ちがわかる分、自分の方がまだましと思っているから、同列に見られていることに腹が立つ。


「アホにアホ言うて、何が悪いんじゃっ! 」

と言い返す。

「おんんどりゃっ! 言いおったなぁっ! 聞いたかっ? 聞いたやろ? こいつ、俺にアホ言いおった。なぁっ? 」


 この手の話の場合、何故か周囲に同意を求める傾向があるのは何故だろう。

 周囲は周囲で、おそらく目くそ鼻くそ同士のいがみ合いとしか思っていないだろう。


 言い合いが続く中、突然、小栗栖の集落あたりだろうか、夜空に一筋の光が一直線に上昇していく、これに遅れて「ヒューッ」という音がしたかと思うと、光が弾けて、


「ドンッ」


という音がした。


 さすがにこれで言い合いは止まり、何かわからず虎之介も市松も互いに目を合わせた。


 するとそれほど遠くもないが、北へと続く街道から馬の足音と嘶きがした。


 おそらく松明だろう光の列が見えて来た。

 光の列から見るにゆうに百人程の行列である。


 先頭集団の真ん中に馬上にある人物の影が見えて来た。

 その一団も、先ほどの花火が見えたようで、馬を引いてる者が花火の方向を指さし、

「上様、あれは何かの合図でしょうか。方角からして小栗栖からですが」

 声からするとまだ若い。


「ふん、あの金柑頭め。しくじった挙句に何か企んでおる」

 馬上の人物は、遠目から、しかもシルエットの状態であっても、ただならぬオーラを纏っているのがわかる。


 ゆっくりと彼らのいる方へ近づいて来る。

 こういうオーラには人一倍勘のいい虎之介は、なんとなくこのまま通してはならない気がした。

 向こうも虎之介たちの松明には気が付いていたが、人影からしてもごく少数なので特に気にしていなかったようだが、虎之介の放つ異様な気を感じ取ったか、急に警戒しだした。


「そこにおるのは、何奴かっ? 」

虎之介はこれに応じた。


「待たんかいっ、こらぁっ! 小栗栖に向うんやったら、この俺に何の挨拶も無しかっ? 俺はこの地を預かる、飯田一党統領、飯田虎之介清正っ、人は俺の事を恐れて、こう呼ぶ・・。鬼の虎之介・・・略し・・て・?・・“鬼・・と・・ら”? 」


 はじめは気合を入れて、相手をビビらすくらいの気迫を込めて名乗ったが、相手がどんどん近づくにつれて馬上の人物のオーラに気圧されてしまった。


 馬上の人物は、松明の光に照らされ、その姿もはっきりと見えるようになったが、全くの平装で、刀も下げていない。

 普通に見れば、それほどのオーラが放たれることはないのに、この人物からは常に高圧的で危険なオーラがあふれ出ている。


(こいつ、相当やばい)


 虎之介はの野生の勘は、危険を察知している。ふと市松を見た。

 市松も汗をかいている。それどころか、どうやら動けないみたいだ。

 ほかの連中はどうかと目をやると、さっきまでいた所にいない。

 さらに振り返ると、相当後ろに下がって、なぜか平伏までしている。


( ま、これなら気圧されるのもしゃあない)


 馬上の男は、飯田党の棟梁と聞くと、

「何? 飯田の小倅か? ちょうどよい。案内せぇ。お主の母、鬼子母に会いたい」

と馬上から、虎之介を見下すように言った。


「ああ? 」

 虎之介は少しこの男の物言いにカチンと来ていた。





「信長が生きている? 」


 館の中では、変わらず鬼子母と般若、源太と勝兵衛の話が続いていたが、謎の花火の意味についてはわからないが、信長がこの地に向かっているということを勝兵衛が言い出した。


「ちょ、ちょっと待ちいな。本能寺で死んだんと違うんか? 」


 鬼子母は驚いている。


「何を驚くことがある。誰も死んだとは言っておらんだろうが」

「いや、さっきの話ぶりから言うたら助けられへんかったような言い方するし」

 般若も混乱している。


「助けられなかったのは間違いない。だから、そのように話した。だが死んだとは言っておらん。第一、死体は見つかってないのは知っての通り」


「いや、そらそやけど。説明不足や。第一、それならそれで、矛盾が生じる。生きとったのなら、何も合戦に及ぶ必要もなかったんと違うんか? すぐにでも公表すれば良かったんや」


「そうじゃの。それができればどれほど良かったであろうな。望むらくは、あと1日、いや2日でも秀吉の到着が遅れておれば・・・」


「どういうことや? 」

 状況がわからない。鬼子母は詳しい事を尋ねた。



 六月二日朝、第一報を聞いた光秀は少ない手勢を引き連れ、京に急行した。

 京に到着したころになると、日がだいぶ上っていた。

 現場となった、本能寺に至っては、全焼しており、至る所でまだ火がくすぶっていた。


 夏の暑い中、現場の温度はさらに暑いというのに生存者や遺体の回収作業をしている。

 二条御所も同じような状況だった。


「信忠公の亡骸は見つかったのだな? 」

「申し訳ありませぬ。どうにも止めることができませんでした」


 指揮していた秀満を責めても、戦の場ではよくあることで、正直避けがたい事なのも光秀は良く分かっている。


「それよりも、問題なのは上様の方だ。遺体すら見つからぬとは」

「寝所付近もくまなく探すよう申しておりますが、何分、その辺りは、まだ火が残っておりますので・・・」

「うむ、それはそれで捜索を続けよ。暑い中じゃ、無理はさせるな。して内蔵助は? 」

「それが、南蛮寺から使いが参り、仔細は言えぬがすぐに斎藤殿だけで来て欲しいと・・・」

「南蛮寺から・・・? 」


 その後、利三が戻ってくるなり、光秀にも来て欲しいと言って、彼らは再び南蛮寺へ赴いた。

 南蛮寺とは、6年ほど前に建てられた、キリスト教イエズス会の教会である。


 本能寺とは、ほぼ目と鼻の先にあった。


 礼拝堂を過ぎ、奥の宣教師たちの宿舎と思えるところに通された。

 対応した司祭のオルガンティノは、光秀とも面識がある。だが、正直、光秀に対しては快く思っていない。


 光秀はかなり保守的な人間であった。

 伝統や格式を重んじ、よって神道や仏教に造詣が深く、新興宗教的な色が濃い、一向宗やキリスト教などにはかなり懐疑的であったのは間違いない。

 特にキリスト教については異国の宗教で、正直日本の風土や国民性には馴染まないと思っていた。

 正直、主の信長が許しているから、仕方なく従っている。

 そんなわけで、お互いの顔を知っているのも、信長同席の公式の場で面識があるだけで、個人的に付き合いはまるっきりない。

 にもかかわらず、名指しでこの南蛮寺に呼び出されたのだ。

 司祭は、普段自分が使っているベッドルームに彼らを通した。


 部屋の前に、見覚えのある黒い大男がいた。


 いくつか怪我をしているのか、火傷も特に手足の皮膚がところどころ爛れている。


 この男は名前を「弥助」という。


 元は、このオルガンティノの従者をしていたアフリカ系黒人である。

 彼を見た信長が、その異様な肌の色と、恐ろしく引き締まった筋肉質な体と大きさにすっかり惚れ込んでしまって、オルガンティノから譲り受け家来とした男だ。


 信長としては、物珍しさもさることながら、実用主義者なので、この体は使えると見込んで家来にし、家来にふさわしい待遇を普通にさせてるだけだが、当の弥助にすれば、近年何故か表現を避けているように思うのだが、ぶっちゃけたところ奴隷であったのが、信長の家来となって恐ろしいほど待遇が変わったのであるから、信長への感謝と忠誠心には並々ならぬものがあったろう。


 その男が傷だらけになりながらも、この部屋の前にいる。

 もしやと感じつつ、中に入った。


 すると、ベッドの傍らに見知った人物がもう一人立っていた。

 振り返った一人と目が合った。

 目が充血して腫れている。

 さんざん泣いていたようだ。


 森蘭丸だ。

 信長の小姓をしている。


 となればベッドに横たわる人物は間違いない。


 信長であった。

 ただ、まだ眠っている。


「・・・ご無事であられたか」

 光秀は、最悪の事態を避けることができたことに正直安堵した。


「いえ、無事というわけではありませぬ」

 蘭丸が答えた。


 その後の説明がつらいのか、黙り込んでしまいそうだったので、事情を代わりに利三が説明した。


 南蛮寺と本能寺との間に抜け穴があった。

 本能寺の改修時期と南蛮寺の建て替え時期が同じで、その際に作られたものだという。

 あの時、その存在を知っていたのは信長と南蛮寺でもごく限られた者だけだが、そのごく限られた者の一人が弥助だった。


 あの騒乱の中、弥助は燃え盛る炎の中、蘭丸たちに声を掛け、信長を救出し、抜け穴を使って難を逃れた。

 弥助は、南蛮寺で信長をオルガンティノと蘭丸たちに託し、自分はすぐに二条御所へ向かい、今度は信忠側として戦っていたらしい。


 事情を聞いた光秀は、オルガンティノに弥助の手当てを十分にするようにお願いした。

 勲一等の大手柄である。

 しかし、当のオルガンティノは目を丸くしてキョトンとしていた。

 光秀の言葉が意外だったのだろう。

 未だに光秀の謀反と言う疑いがあったのか、それとも、光秀を保守的な日本人として異人を嫌悪していると思っていたのにそんなことを言ったからか、はたまた、奴隷風情の体を気遣っていることからなのかはわからない。

 光秀もいちいちこの司祭の反応に構っていられない。


「ところで一体誰が火をかけた? 此度の策について上様からは何も聞いておらんかったのか? 」


 光秀は明らかに蘭丸に聞いている。

 蘭丸は黙っていた。

また利光が代わりに答えようとしたが、その利光も言い難そうにしていた。


「それが・・・、その・・・策は聞いていたそうですが、火をかけたのも信長公本人だそうです」


(はぁっ? )


 光秀は、混乱した。


「間違いないのか? 」

「間違いありません。私の目の前でなさいましたから」

 今まで黙っていた蘭丸がようやく口を開いた。


(バカなっ! )


 光秀はそう言おうと思ったが、口が動かなかった。


「中からは明智殿の旗印しか見えず、戦っておる相手が、信忠公の者とはわからぬ状況であった故、すべて明智殿の軍勢と報告したのです。すると、上様は是非に及ばずと申された後、小さな声で、ぼそっとおっしゃったのです」


「これは余自らが招いたことであったか」


 この言葉で、少なくとも策を事前に聞いていた者たちも策が頓挫し、光秀が謀反を起こしたという結論に至った。


 利光が必死に訴えても聞かなかったのはそのせいだ。

 信長は、おそらく信忠に「家康一人に罪を負わせる」という一言を伝えるだけで、彼は思い留まると思っていたのであろう。

 仮に彼が思い留まらずとも、家臣たちが説得すると思って疑わなかった。

 信忠の並々ならぬ覚悟を見誤っていたのだ。


 そして、今の状況からすれば、計画に便乗した光秀が裏切ったと判断したのだろう。

 彼を信用して自らが「墓穴を掘った、この思いを吐露した言葉だった。


 光秀は、しばらく黙っていた。

 その沈黙の間、徐々にだが細かく体が震え出していた。

 何かがこみあげて来る何かを必死に堪えている様にも見えた。


 信長は、火元近くにいた事で大量の煙を吸い込み、一酸化炭素中毒に陥ったのだろう。

 弥助たちが救出した際には既に意識はなく、未だに目を覚まさず昏睡状態だった。





「主はやむなく、極秘裏に南蛮寺より信長公を坂本城へと移された。ただ、その後、羽柴筑前の計略を受け、山崎での戦が始まった頃に、ようやく坂本より信長公が目覚められたとの知らせを受け、同時に信長公が城を出たという報を聞いた」


 勝兵衛は話を終えると、鬼子母に向かって、頭を下げた。


「虫の良い話と思うかもしれぬ。そんな義理は無いのもようわかっておる。だが・・・頼む。主を止めてくれ。あの南蛮寺での事があってから、主は人が変わられた。あの方の中で何かが弾け飛んだのだ。今の殿には己しか見えておらぬ。我ら家臣のことなど、使い捨ての駒とも思っておらぬ。・・・

頼むっ、殿を殺してくれ。謀反人の誹りもあえて受ける。そうでなくば、この為に命を捨てて闘った家臣が浮かばれぬ」


 そう言うと、勝兵衛は肩を震わせ、かすかに嗚咽しているのが聞こえる。


 頭を伏せているから分からないが、恐らく泣いている。

 鬼子母は、特にそれを見ても動じることなく、煙草を吹かせていた。


「なるほどな。それがあんたが主を裏切った理由っちゅうことけ。ま、涙ながらに訴えられても、うちらの気は変わらんけどね」


「頼む」

 勝兵衛から絞り出すような声が再び出た。


「母上・・・」

 般若は鬼子母を窘める様な言い方をした。


「悪いけどな。あんたのお願いを聞く前から光秀はここで討ち取る話はできとるんや」

「・・・落武者狩りのことか? 秀吉からの命か? 」

 勝兵衛は顔を上げた。やはり泣いていたのだろう、顔が涙と鼻水まみれだ。


「いや、秀吉と違うな。ま、誰かはともかく、元の依頼は、もっと前、この飯田の名前を引き継ぐときからや」

「何? では飯田殿が? 」

「絶っての願いでな。飯田の名を譲る条件に他二つほど併せて突きつけられたわ、飲まなしゃあないやろ」


「他の二つとは? 」

「前の主君の三渕様は死んでもうたから、代わりに弟の細川藤孝と話をさせて欲しいっていうのと、・・・この源太を守れ、てことや」


「・・・俺を? ・・・おじじが、そんなことを? 」


 ようやく自分の話題が出たので、源太が関心を持った。

「なんや、あのじじいが飯田の元御領主様だったことは知っとったんやな」

「そらさすがに知っとる。もう侍にはなりとないから辞めたって言うとった」

「なるほど、確かにそら本音やったかもしれへんね。あんた、あのじじいに感謝しいや。これまで生きてこれたのはじじいとの約束があったからだよ」

「え? そうなんか? 」

「当り前や。もう少し他の連中みたいに、百姓なら領主が気に入ろうと気に入るまいと関わらずうまく媚びを売りことを覚えな。まったく、侍崩れが百姓を育てるとろくな奴にはならないね。百姓の矜持なんかは心の中だけにしときな。・・・ま、育て方なのか、もしくは血筋って奴なのかもしれないけど」


「・・・血筋? 」



 と、その瞬間、突然夜空に一発の花火が上がった。

 それを見た般若は顔色を変えた。

「母上? 」

「もう、お出ましかいな。気の早い。・・般若っ! 」

「はい」

 般若は、すぐに姿を消した。




 現在「明智藪」と言われる場所で起こった光秀(実は勝兵衛)一行と源太に起こった一連の集団パニックにより、逃走した脇坂たちを追い掛けた飯田党とそれに付き従った百姓たちは、その後どうなったかというと、脇坂達が逃亡中に偽装したトラップに引っ掛かり、分散していた。


 そのまま街道にまで出たグループが、光秀の家臣と思える死体を発見した。

 そこで飯田党の面々が急に我に返ったようで、

「あれ? 誰の首を獲るんだっけ? 」

「あ、光秀置いて来たっ! 」

とようやく致命的なミスに気が付いた。


「おい、引き返すぞっ! バラバラになった奴らも呼び戻せっ! 」

と全員に号令した丁度その時に、例の花火が上がった。


 方向からすると、そこからは南の集落の方から上がっている。


「なんやあれ? 」


と飯田党の連中は言った。元々は忍びの一族であるから、火薬の使い道や何かの合図に使うのは知っていたが、今回において連絡や伝達方法に花火を使うとは聞いていなかった。


 花火の合図は飯田党すらわからない以上、誰にもわからないはずだった。

 しかし、その花火を見た百姓たちのリアクションはそれとは違っていた。


 百姓の誰かが呟いた。

「〝奉戴〟や」


 字にしてもその言葉の意味するところはわからない。まして、音だけでは何のことかさっぱり分からない。


「ほうたい? 」


 飯田の郎党は聞き返したが、百姓たちは、次々に、

「奉戴やっ! 奉戴の合図やっ! 」

と言い出した。


「おいっ、こらっ! 何やっ? ほうたいって何の事やっ? 」


 郎党が百姓の一人の胸倉を掴んで問い質すと、

( ブスッ)

という鈍い音と共に左胸部に激痛がする。


 郎党が患部に目をやると、自分の差していた脇差が左胸に突き刺さっていた、しかも心臓の位置に、再び百姓の顔を見た。


「長かったぁ~っ! やっとやぁ~っ」

 百姓の満面の笑みを見て、郎党の息は絶えた。


 その場にいた飯田党の郎党たちは次々に百姓たちに襲われ、全て持ってる武器を奪われた上、首・心臓など急所を一撃され殺された。


 バラバラになった各所で、花火と同時に百姓たちは飯田党の者たちを襲い、同様に殺害して行った。


 そして、武器に加え武具など装備品すべて奪うと、一斉に火をつけた松明を掲げ、一同、各々、口々に、

「奉戴やぁ~っ! 奉戴やぁ~っ! 」

と叫びながら小栗栖館へ向かって走り出した。


 小栗栖館の前に、光秀と脇坂がたどり着いていた。

 二人は、そこで例の花火を見た。

「なんだ? 」

 脇坂は花火の意味を解さなかったが、光秀は違った。花火を見るなり、

「うむ、頃合いや良し」

と一言だけである。 


 背後に、あの長兵衛とおつるが松明片手に来て、光秀を前に膝をついた。

 光秀が二人に気付くと、

「大きいなったな、あの折の童が」

と声をかけた。


これに応えるように、長兵衛が、

「お久しうござる。俺が奉戴の合図を上げました」

と言うと、光秀は、

「うむ。ごくろう」

と労った。


 これを聞いていた脇坂は、意味が分からない。

 ただ、この片膝ついて光秀に控えている男の顔は覚えている。

 あの時、先頭で勝兵衛に竹槍を突きつけていた百姓だ。


 時を待たずしてわらわらと、松明を掲げた百姓たちが館前の光秀の前に集結した。

 ざっと、二百人程はいる。

 全員が光秀に膝をついた。

 これを受け、光秀は

「皆、ようここまで耐えてくれた。今宵、今これよりをもって、我らの悲願が叶う時がついに参ったっ! 」


 そう光秀が声を掛けると、一同は一斉に、

「おおおおーっ! 」

と大声で返す。


「念願の帝より勅書を賜ったっ! 今より奉戴の儀を執り行うにあたり、まずは前祝に、勅諚を奪い取りし逆賊飯田一党を血祭りに上げ、天下ご政道復活の狼煙とせんっ! 」

「おおおおーっ! 」

 百姓たちの士気は最高潮に達している。


 脇坂は、ただこの異様な空気に付いて行けず、気が付くと光秀とも、この一団とも距離を取っていた。ポツンとただ一人離れた所で、それを茫然と眺めるしかなかった。


 光秀は一人、館の大手門前に歩を進め、固く締められた門に向かって、大声で叫んだ。


「飯田の一党、門を開けそうらぇっ! この惟任日向守光秀っ!帝より拝領せし書簡を頂戴しに参ったっ! 」





 大手門は櫓門となっており、上部の櫓から、般若が姿を現した。


「そろそろ、本音を明かされては如何か? 光秀殿」

「お前、先程のっ! 」

 脇坂が言った。


 光秀は「ほぉ・・」と感心したように薄笑いを浮かべると、

「自らお出でとは都合がよい。源太と勝兵衛も中におるのであろう?引き渡してもらいたい」

「それは、お断り申し上げる」

「なんと? 如何なる意図かおありか? 」

 光秀の問いかけに応じるように、鬼子母と勝兵衛も般若の隣に姿を見せた。


「言い方が気に入らへんな。忘れてもうたら困る。あんたの欲しいものは今のところ、全部うちが持っとるいうことを」

 脇坂が、勝兵衛の姿を見て、

「溝尾様っ! ご無事であられたかっ! ようござったっ! ・・・されど、何故そのような所に・・・? 」

「脇坂っ! 黙っておれっ! この若造がっ! 」

と光秀は脇坂を怒鳴りつけた。脇坂も何も言わずに小さくなるしかない。


 光秀は改めて、鬼子母に向かい、

「全部とは吹きおったな、鬼子母よ。よく、わかっておる。そうでなくばすでに館は火の海じゃ」

 長兵衛、おつる以下百姓たちは、光秀の背後からわらわらと広がり、陣形を作った。


「さて、ざっと二百ってとこやな。イキっとるみたいやけど、数に物を言わせる程おおは無いなぁ。忘れてかもしれへんけど、ここ一応砦やねんけど、その数で落とせると思うとんの? せやけど、こいつらだけ、ここに来とる言うことは、うちらの家来たちは大方やられてもうたと思うた方がええって事か」


「その通り、むしろイキってるのは、お前の方ではないのか、鬼子母よ」


「ところで、うちのアホはどないした? 」


「はぁ? 」

 光秀もいい加減噛み合わない会話に少しイラついて来た。


 すかさず、控えていた長兵衛が、嬉々として答えた。

「あのアホなら、わしがケツの穴に竹槍突っ込んで崖に突き落としてやったわ」

 これを聞いても鬼子母は全く動じず、

「ああ、ほうか・・・」

と答えて、


「あのアホ、またどっかで遊んどるな」


と安否を気遣う素振りも無い。逆に長兵衛が、鬼子母のリアクションに動じてしまい。

「せやから、俺がっ・・・」


「ああ、もうええっ、もうええっ! あんなアホのことはどうでもええねん」

と話を切られてしまった。


 なんとなく鬼子母のペースに乗せられてしまっている。

「下らぬ問答する気はないっ! 渡すのかっ? 渡さぬのかっ? はっきりと返答せぇっ! 」

 光秀が、いつになく激高した。

「おやおや、どないしたんや? さっきまで余裕やったのに、今度はいきなり怒り出したで? 情緒が不安定やな。・・・わかるで、今が瀬戸際やもんな? もう少ししたら、こわーい人が来るもんな。早いとこせんと、命が無いのはあんたやろうしなぁ・・・」


 鬼子母は実にいやらしく光秀を煽る。


「ぐ・・・、やはりそこまで知ったか・・・」


  光秀の矛先は当然、鬼子母の横にいた勝兵衛に向いた。

  勝兵衛が全て話したこと以外、知り得ぬことなのはわかっている。


「おのれぇ~っ! 勝兵衛ぇ~っ・・・。主を裏切り、敵に売るかっ! 」

 勝兵衛は動じることなく、光秀に返す。


「それは筋違いにござる」


「ああ~っ? 」


「先に裏切ったのは、殿にござれば、拙者は家臣として筋を通したまで」

「何を言うかっ? 」


 二人の会話を聞いて、黙っていた脇坂は、何か思う所があったのか、口を開いた。

「溝尾様、それはどういうことでござろうか? 」

「脇坂っ、黙れぇーっ! 」

 光秀は再び一喝したが、今度ばかりは脇坂は黙らなかった。


「いいや、お教え下されっ、溝尾様っ! もはや、この事態は既に拙者は埒外に置かれております。一体、何がどうなっておるのですっ! 」


「よかろう、脇坂、聞け。」

「勝兵衛っ! 」

 光秀は話を止めようとしても、止めようもない。


「そこに折られるお方はな。ここに至って、明智日向守光秀を殺すつもりじゃったのよ」

 脇坂は、それを聞いても意味が分からない。光秀が光秀を殺す? 


「秀吉の策謀で、もはや謀反人のそしりは避けられぬと判断された」

「いや、されど、信長公がお目覚めになった故、それで汚名が晴れると・・・」

「いや、それとて、もはや叶わぬ。このまま、敗軍の将として、信長公を表に出しても、あの筑前は、信長公もろとも殺すであろう」

「・・・それはっ・・・」

 脇坂も、これには返せなかった。

 脇坂自身、そうなることは予想していた。


「脇坂、そなた、荒木村重を知っていよう? この方はあやつと同じことをしようとしておる。坂本や丹波におる自身の家族、我ら家臣、全て見捨てて、その命を生贄にして、自分一人が助かる方法を見つけられたのだ」


「・・・自分一人・・・? 」


「明智光秀は、この小栗栖で、落武者狩りに遭い、あえない最後を遂げるという筋書きよ」


「・・・まさか・・・、いや、やはり・・・」

 脇坂には、ずっと心に引っ掛かっていた疑念があったが、それを聞いてやっと腑に落ちた。

「やはり思う所があるのだな? 」


「話を聞いて、やっと疑念が晴れ申した。あの折、受けた刀の力が、始めにそなたの受けた刀の力と違う事に気付いていた。しかも、倒された者の刀傷にも・・。あの術に紛れ、同士を斬ったのは、そこのくノ一ではない。ここにおられる殿であった。そうとなれば・・・」


 脇坂は、自分も殺される対象だったことに、ようやく気付いて戦慄した。

 それと同時に、本能的に距離を取っていたことに自ら驚きつつ、刀を抜いて、その剣先を光秀に向けた。

 光秀も、これに対して何も弁明する気も無いように、一切動揺していない。


「勝兵衛よ。わしは村重のような愚か者ではない。一緒にするな。儂の策はもっと高尚であり、高潔なのだ。本来あるべき世に正す為のやむを得ぬ犠牲なのだ。済まぬが、光秀と行動を共にした者には生きていてもらっては困るのだ。わかるであろう? 脇坂よ? 」


 鬼子母がそこに割って入った。

「高尚にして高潔ぅ? 本来あるべき世に正すやってぇ? 笑かすな」

 余裕ぶってた鬼子母が、珍しく言葉に怒気を孕んでいる。


「そこの若侍さんよ。こいつの言う、その高尚で高潔な目的を言うたろか。こいつが今、何よりも欲しいこの桐の箱の中身がなんなんか」

 鬼子母は一通の畳んだ書状を脇坂目掛けて投げた。


 脇坂はそれを受け取り、広げようとするが、当然、一同は奪おうと動いた時に鬼子母がすかさず言った。

「おっと、動いても無駄やで。当然、そいつはただの写し。本物はここ」

と手に持った書状を掲げた。

「ちっ! 」

 光秀は舌打ちする。


 脇坂は書状を広げた。

 書状は二通ある。


「これは、「信長征討の勅書」・・・??この宛名は?この足利家義というのは?あと、これは征夷大将軍の任命書。ここにも足利家義とあるっ? これは一体? 」


「問題は、その人物が誰かって言う事よりなぁ。その名前の一字に使われとるのが誰かっちゅうことや」

「名前の一字? ・・・ 家・・義。家?・・・まさかっ? 」


「そのまさかや。こいつはな、秀吉に追い込まれ、肝心の信長公にも裏切られた末に、元々討つはずの敵にお土産片手に泣きつきよったんや。家康かてアホやない。折角の計画を台無しにして、今更泣きついて来られても、こいつは今や天下の大謀反人やからな。そんな奴庇った所で一文の徳にもならへん。そこでや、こいつはその大謀反人を殺して、新たな自分と一緒に格別な土産を二つも用意しよったんや」


「格別な土産・・・?それが、この将軍家義。家康を新将軍の後見役に・・・あと一つは・・・? そうかっ! 信長公かっ! 」


「御名答や」


「ただな、あの狸は、疑り深い。口約束では信用せんのや。確かな証が欲しい。しかも、望むなら、こいつに頼る前に自分の手でもらいたい。そうやろ? 」


 鬼子母は突然、誰もいない虚空に向けて声を放った。


 すると、樹の枝に突然、傀儡が現れた。


「おや、まぁ、お気づきか? 」


「あんたの依頼主の話や。今ごろは、伊賀を抜けて、所領の岡崎に戻った頃やろ?」


 般若が続けた。

「徳川家康殿、それがそなたの依頼主で、この陰謀の黒幕。考えてみれば、事件当日は堺、その後は、伊賀。自分の息がかかった所ばかりを通れば、そりゃ安全やわ。あんたも伊賀者やろ」


「いかにも」

 傀儡からではなく、また違う所から声だけがしている。


「悪いな、光秀殿。どうにも疑り深くて慎重過ぎる主人でな。わざわざ、こんな小栗栖なんぞを通ったのも、ここで討ち取られる筋書きを書いたのも、勧修寺晴豊が預かっていたその書状を貰う為と足利家義という人物に会う為だったからだろ? だったら、全部揃ってから頂くのが一番手っ取り早い」


 光秀は、苦虫を嚙み潰したような顔になってきた。


「あんたが生き残るには俺らを全員出し抜いて、これらを全部手に入れて岡崎まで行くか、それとも信長だけを戴いて近江から北陸に入って柴田に助けを乞うかしかない。まあ、柴田を頼っても、あんたの身の安全は保障されないのはわかっているだろうがね」


「下衆めっ・・・」


 光秀は、この姿も現さない無名の術者に完全に弄ばれている。

 光秀もそれを自覚しているが故に腹立たしくて仕方がない。

 いや、ともすれば、この卑しい男の依頼主に弄ばれてもいるのだ。

 だが、今の厳しい現状から一気に逆転するには、もはや頼るべきは家康しかいない。

 柴田勝家は、光秀から見れば親分風だけ吹かせるが、中身は脳筋の、いかにも古臭い戦国武将で、この男があのサル相手に勝てるわけがない。


 今やサルと対抗できるのは、間違いなく家康しかいない。

 ここに至るまでの陰謀合戦においても、家康だけは全くの無傷だ。

 当然、家康だけの策ではない。

 おそらくその背後に、サルの所の官兵衛に匹敵するほどの策謀家がいるに違いない。


 だとすれば、光秀が供給する信長と新将軍擁立というカードを、かなり有効に使ってサルと渡り合い、勝ち筋を掴めるに違いない。


 もはや、天下は見えている。

 自分の見立てでは、おそらくサルかタヌキのいずれかになる。


 タヌキの天下となれば、両者の拮抗する実力の中で絶対的な力をもたらした自分の手柄だ。

 一番の功労者である以上、それなりの地位は保障される。


(儂は、今持てる全てを生贄に差し出したのだ。報われねばならぬ )





「どうあっても出さぬと言うのであれば、力押しするまでのことよ」

 少なくとも信長がここに到着するまでに、全てを終わらせねばならない。

 時間が無いのだ。

 光秀は百姓たちに合図を送った。

 が、背後の百姓たちが、何かに気付いて動揺している。


(なんだ? )

と後ろを振り向くと、百姓たち間から、源太が割って出て来た。


「げ・・・源太っ? 」

 驚きすぎて、光秀と長兵衛とおつる、いや、なんなら脇坂に勝兵衛に鬼子母と般若、ほぼ、その場にいた全員の声が同時にハモった。


「おお、源太。無事やったか? 」

 長兵衛は動揺を隠そうと普通に話しかけてるつもりでも声が上ずっている。

 おつるにしても、まさか後ろから来るとは思っていなかったので、絶句していた。

 そして、それはその場にいる全員同じだった。


「源太っ! アホかお前っ! なんでそんなとこから出て来んねんっ? 」

 鬼子母が珍しく動揺している。

「あんたは、館におっとけって言うたやろっ! 」

 続けて般若も怒った。

 一番、光秀に渡したくない男が、なんとご丁寧に敵陣地から登場したのだ。

 双方驚くのも無理はない。


「いや、そない言われても、みんな、訳も言わんと、話途中で外に出て行ってもおて、俺だけなんも知らんから仲間外れにされとんのかなって心配になってもうて、裏から出て、ぐるっと回って来て表に出たら、みんな集まっとるやんか」


「お前、虎之介かっ? アホなんかっ? 危機感持たんかいっ! 」

 一切の事情を聞かされていない、少々平和ボケしてるこの青年には難しいのかもしれない。

 しかも、源太が手に持っているのは、

「あんた、もしかして、その手に持っとんの・・・」

 鬼子母は頭を抱えている。


「いや、大事な物やから持っとけって言うし」

「持って来なやっ・・・」

 般若も勝兵衛も頭を抱えた。


(アホが・・・。あんたは知らんでええねん。その方が幸せなんや)


 鬼子母は思ったが、もうこの場に来た以上は仕方がない。


(あとは、あんた自身が選んだらええ)


「般若、しゃあないから、あのアホの道を作ったれ」

と小声で般若に指示した。

 般若はそれに頷き、門へ降りた。


「源太」

 意表を突かれたが、光秀にとっては願ってもない。

 しかも、書簡まで持って来たのだ。

 もはや、館の連中などどうでもいい。

「坊さん? 」

 そう源太の中では、まだ天海という坊主だった。


 当然、鬼子母は訂正する。

「そら、あんたの知っとる天海っちゅう坊主やないで。そいつが、ほんまもんの明智光秀や」

「なんやて? 」

「源太。・・・そんなに答えが欲しいんやったら、ここで教えたる。・・・あんた、そこの娘っ子と一緒に村を抜けようとは思わへんかったか? 」

「なんや、藪から棒に? ・・・俺は、何回もそうしようと言うたけど、引き止められたんや」

「誰に? 」

 鬼子母は尋ねた。

「長兵衛にも、おじじにも、おつるにも・・・」

「誰もあんたを、村から出さへんようにしとったのよ。それだけやない、あんたをわざと侍嫌いにさせたのも、出て行って侍になろうなんて思わさへん為や。おじじから聞いてへんか? 両親の話、殺したのは? 」

「三好とか言う奴らやって、あと松永なんとかって奴、だからそれがどないしたんやっ? 」


 それを聞いて、脇坂が突然ひきつけを起こしたような奇声を上げた。


「ま・・・まさか・・・?  足利家義という人物は・・・? 」


「そうや、源太。あんたや」


「はぁーっ? 」

「第十三代将軍足利義輝公が京を追われ、流浪の際に身の回りの世話をしていた下女に産ませた子があんたや」

「は? 」


「十七年前に起こった永禄の変で、父親の将軍義輝公が三好と松永に殺されて、そん時にほぼ全員殺されたんや。どこで聞きつけたか知らんけどあんたの存在もバレて危なかったところを、当時、将軍奉公衆の一人で細川藤孝の家臣やった、そこの明智光秀と、それに従ったおじじの息子、飯田佐吉兵衛が命がけで救い出して、この小栗栖に連れて来られて、密かに育てられたんや」


「いや、ちょ・・、ちょーっ待ってくれや。いきなり、そんな話されても、俺」


 源太は、まだ担がれていると内心思っていた。


 それもそうだ。百姓と思って生きてきて、いきなり将軍家の生き残りと言われても、信じろという方が無理がある。


「そうか、源太という名も、それで納得がいく」


 脇坂も、さらに追い打ちをかけるようなことを言って来た。


 彼からしても、勝兵衛がやたらと源太を気にかけたり、無礼すぎる言動にも怒らずに対応していたのにも、ここでようやく納得がいった。

「いや、源太はおじじが源三郎だから、その一字をもらっただけで・・・ 」


(どこまで担ぐつもりやねん? )


と正直思う。

 一体、何のつもりなのか、と怒ろうかとしたところで、いきなり、郷の百姓たち、さらに長兵衛、おつる、そして、光秀までが源太に向かって片膝をついた。


「なっ? 」

(いくらなんでもやりすぎやろっ! )


「見ての通りや。この郷は、十七年前に飯田のじじい以外、百姓は全員逃散してもうたんや。そらそうや、領主の飯田家はじじい以外全員討ち死にしてもうたんや。あんたを敵から逃がす為の囮になってな。こいつらは、その後にあんたを守る為にそこの光秀が連れて来た連中や」


「な・・・なんやて。全て、俺の?どういうことや? 長兵衛っ? おつる? 嘘やろ? なぁっ、なぁてっ? 」


「元将軍家足軽衆、明智十兵衛光秀麾下中村長兵衛他百有余名、御前にうち揃いましてございます」

 これに従い、全員が、

「御前にっ! 」

と声を揃えた。


「そんな・・・。いきなり、将軍って・・。」





「どや、びっくりしたか? そやけど、あんた、うちの身にもなってみい。自分の所の領民が全員、あんたを護衛する為の輩やったなんて、思うてもみんで。ま、うちらの経歴から考えても、普通の所やない思うたけどな。信長様も薄々は知っとったんかもしれんなぁ」


 鬼子母はそう言ったが、信長も知らなかった。


「ちなみに、俺の名誉の為に言っておくが、飯田殿を殺したのは、俺じゃないからな」

 傀儡の術者が言った。


「当然、うちらでもない」


「え? じゃ、誰が・・・」

「飯田殿は、あんたを将軍にする気は毛程も無かったんやろう。あんたを守って欲しいとうちらにお願いしたんも、要は将軍に据えようとしてるこいつらから守って欲しいってことやったんやろな」


「飯田がっ? ・・・そのようなことを・・・ ? 」


 光秀も、これには驚いた。天海として、源太と一緒に会った時も、協力的で隠語、つまり合言葉としていた暗号で、計画を実行することにも同意をしていたのにも関わず、なぜ? 


「それは、いつだ? いつ飯田がお前にっ? 」


「なんや、意外そうやな? 飯田の名前を引き継ぐ時や。いくつか、条件出されてな。その一つにな」

「条件? 」

「じじいの内心なんか、十七年放ったらかしとったあんたはわからんやろう。ずっとに一緒におったこいつらは別やろうけどな」


 こいつらとは当然、郷の偽装百姓の面々である。

「まさか?・・・・いや」


 源太は、もう一度、おじじが殺された時のことを思い出していた。

 あの時は、余りの事に冷静に見れなかったが、衝撃的な記憶なだけに、今でも鮮明に状況を覚えている。

 死体はまだ暖かく、あの場にいたのは、源太と長兵衛と傷を負った勝兵衛、遅れておつるがやって来た。

 

 それ以外は誰もいなかった。


 今、思い出すと、おじじの傍らに鞘に納まった刀が落ちていた。

 あの家に刀があることも知らなかった。

 そう言えば床板が外れていた。ということは、刀はあそこにしまってあったんだろう。ということは、刀を取り出さなければいけない状態だったんだ。


 だとすると敵だろうし、その敵に斬られるとしたら、刀を抜いているか、そうでなくても握っていてもおかしくない。体にも切り傷が無かった。

 ということは、一太刀で首を切り落とされたということだ。

 あおむけに倒れた体から首が後ろに向けてまっすぐ飛んでいた。

 ということは、ほぼ正面から斬られたってことか? 


 敵を正面にして、刀も抜かず、持つこともせずに、元侍のおじじが・・・ 。


 長兵衛の言っていたことを思い出した。

「あかん。裏もあかへんぞ。早う、中に入らんと、こんな所、誰かに見られたら大変やぞっ! 」

「裏口が開いとる。さっき見たときは締まってたのに・・」

 裏口に回っていたのは、長兵衛だけ。自分は必死に表の戸を叩いて、おじじを呼んでいた。


(長兵衛はその時、同じようにしていたか? 裏の戸を叩く音や声を聴いたか? いや、聞こえていない。聞こえていなかった)


「待てやっ! おじじが死んでんぞっ。お前ら、なんでそんなに平気でいられるんやっ! 」


 長兵衛たちに投げかけた言葉が頭の中で繰り返される。

 確証ではない。しかし、源太の中で、これ以上にない答えが導かれた。

 誰に聞くまでもなかった。

 自分のすぐそばでおじじは殺されていた。


「お前・・・か?おじじを殺したんは? 長兵衛・・・? 」


 長兵衛は、その問いかけに、答えない。


 傀儡の術者が、沈黙に割って入った。

「そこの長兵衛という奴、他にもやっとるぞ。お前が勝兵衛たちと会ったときに、数名、大岩神社の参道を案内して行かせたろ。あいつらも、こいつに殺されとった。他にも、お前の使った間道の存在を飯田に教えたのもこいつだ。それとなく虎之介に待ち伏せの策を吹き込んだのも、この長兵衛だ」


「なんで? なんでやっ? 答えろやっ、長兵衛っ! 」

 黙っていた長兵衛が、ようやく口を開いたが、その顔は源太が知っている長兵衛とは違っていた。


「源太、いや、源太様。おじじの件は仕方なかった。この計画の為に俺たちは、そう、全部、全部貴方様の為にしたこと。言うなれば、おじじを殺したのも、貴方の為っ! おじじ、いや、飯田殿は、お前がいつの日か、将軍になる日を夢見て、ここまで守り抜いた我らを欺き、裏切った。郷の者は

皆、この日のために、今まで、堪えてきたっ! それを責められる謂れは無いっ! 」

 この言葉に源太はつい黙ってしまった。


 光秀はここぞとばかりに追い打ちをかけた。

「そうじゃ、これまで流れた血は、全てお前のためと申してもおかしくない。それを何と心得るっ! おぬしは恩知らずかっ! 」


(恩? 恩って何や? 郷の奴らかて、別に恩を売られるほどのことはされた覚えはない。もうだいぶ昔のように思えるけど、昨日かて、斬られそうになってる俺を庇ったんはおじじだけやったやないか・・・、長兵衛やおつるに言われるんやとしたら、まだ分かる。せやけど、一番わからんのは、

何よりこの坊主や)


 源太は、ふうーっと一息吐いてから、光秀に向かって問うた。


「なんで、坊主と名乗って、俺に近づいた? あの尋問につき合わさせたり、光秀を救ってくれとお願いしたんは、どういうつもりやったんや? 」


 急に振られて、光秀は口ごもった。

 訊かれた内容が弁明しづらかったからだ。


 すると、傀儡が笑って、

「お前に南光坊天海が徳の高い高僧と信用させる為だ。光秀という人物が死んでも、人間的にも優れた天海は生きてる。全てはお前が将軍となった後に自分の言うことだけが正しいと信じ込ませるためさ」


「なぁ~んも、政治のわからん俺を担ぎ上げて、何するつもりや? 」

 急に源太は、まるで吹っ切れたように改めて光秀に問うた。

「は? 」

 光秀は、源太のあまりにも軽い質問に少しうろたえた。

「将軍の権威を借りて、好き放題したいから、松永なんたら言う奴は俺の親を殺したんやろ? 俺のおじさんになる義昭いう頭の悪いおっさんも、信長がやりたい放題したい為に将軍にさせたんやろ? 」


「いや、それは・・」


「綺麗事言うても、要は俺もそういうことになるんと違うんか? 」

 これについても、何も言い返せない。


 この若者は、根っからの百姓である。態度どうこうは度外視しても、百姓としての矜持がある。その矜持をもって、侍という存在を認めていない。

 そんな若者に、侍の頂点である将軍になれと言っても、彼にとっては何の魅力も感じられないだろう。

 将軍になれるという破格な現実に対して、冷めた感情で受け止めているからこそ、その本質がよくわかるのだ。

 絶大な権力を手に入れても、それを正しく使える知識も能力も無ければ、悪意の他者にうまく使われるだけということを。

 まして、侍を捨ててまで百姓として育ててくれた源三郎を心から尊敬している。その源三郎が、こいつらの言う事を聞くなと言っているのだ。

 光秀は、この若者を感情論と理屈で説得する以外の術を持っていなかった。





 人は〝利〟で簡単に転ぶ。特にこの戦国時代となれば猶更だ。


 およそ〝利〟と言っても、経済的、金銭的利益だけを差すのではない。

 そこには、道徳的利益もあれば、心理的利益もある。

 金だけではなく、地位、名誉、人からの評価、羨望、名声、自分が他者より優位にあるという優越感は人にとって最大の利益である。


 これを利用して、互いの利益を持たせることで、交渉というものは成り立つものだ。

 主君と家臣の関係についてもそうである。

 戦国の世を渡り歩き、ここまでの地位に上り詰めた光秀だからこそ、これが人と人との間を結びつける唯一の絆と思って来た。

 愛だの情だのは所詮は上辺だけの建前だ。

 たとえ親と子であろうとも、人は〝利〟のみで繋がっていると信じていた。


 親子が、この利を巡って殺し合う様を何度見てきたことか知れない。

 人間は、人生において、この〝利〟のみを求めて生きている。

 誰もこの欲望には敵わない。


 この若者の叔父である義昭もそうだ。


 興福寺で義尋と名乗り、徳の高い僧侶だった。

 権力の世界から離れて、仏道に帰依して、仏の道を只管精進していた聖人のような男だった。

 ところが、いざ権力の座がちらつきだすと、人が変わったように、その力を欲し、貪り、食い散らかし、そして、追い出された。


 光秀が思う、〝人〟とはまさにそれだった。


 信長然り、家康然り、秀吉然り、そして自分もまた然りだ。

 貪欲に、正直に、〝利〟を求めて、人を使い、押しのけ、踏みつけ、そして殺して来た。

 

 思うにこの若者は、どうだろうか。

 自分の思う人ではない。

 これ以上に無い〝利〟に飛びつかない。

 自分がまやかしと思って、吐いて捨てて来た愛と情の元で、確かな生きる矜持を持っている。


(なんなのだ? この若造はっ? )

 光秀はただ混乱していた。


「ところで、信長様が来るんやろ? 」

 源太は、混乱する光秀を無視して、質問を続けた。

「は・・・はい。・・・?」

 思考が巡り巡って混乱する光秀は、ただ返すしかない。

「来たらどうすんねん? 」

(もしかして、少し心が動いているのか? )

 光秀はそう思った。信長に会うという気持ちがある、とそう感じた。


 ここが押しどころだ。 

「ここは我が陣地、引き連れておる手勢もほぼ我が兵。であれば信長様といえども我が手中。岡崎までご同行あそばすならば良し。そうでなくば、この飯田党と同様、そもそも今となっては亡き命、首だけ持って行くまでの事」


 それを聞くと源太はいやらしい薄笑いを浮かべた。


「へぇ~。実はもう一つ、筋書きがあるんとちゃうの? 」


「は? 」


「この書状だけで見たら、全部、俺が首謀者みたいやんか? 考えようによっては、何も知らんことを良いことに、俺一人に責任押し付けて、信長を説得するのも有りなん違うか? そもそも亡きに等しい百姓将軍の命やからな、持って行く首が信長か俺だけの違いなんちゃうの? 」


(ドキッ! )


「な・・何を・・、そのようなこと・・・」

 光秀の顔がひきつった。


(しまったっ! 見透かされたっ! )


「・・・なぁ、おっさん」


(おっ・・・おっさんっ? )


 今の今まで、おっさんとは言われたことも無い。


「俺の事、百姓育ちアホや思うとるやろ」


 源太の目が今までにないくらい冷たく、まるで見下されているように感じた。



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